臨死体験の全て―死後の世界の真実に迫る!体外離脱、三途の川、天国の謎

臨死体験~死後の世界の証明か?光、三途の川、天国、地獄の謎を解明

臨死体験は、近年専門的な研究もなされるようになり、死後の世界を語る上で、外すことのできないテーマとなってきている。実際に、この分野に関する研究は、死後の世界の実態だけでなく、現世での生き方についても、私たちに多くの示唆を与えるものとなっている。しかし、一方で、この体験が意味すること、その解釈については、誤った見方が広まっているのも事実だ。

例えば、臨死体験をした多くの人が、「死に対する恐れが無くなった」と言う。また、臨死中に良い体験をした多くの人が、自分が死後にそのような世界に行くと考える。もしもこのような見方が、真実に立脚したものであれば問題はないが、もしそうでないとすれば、それらの人々は、死後の世界に対する見方について、現世での人生の生き方について、取り返しのつかない誤解をすることになる。

そこで、当サイトでは、この記事を通して、臨死体験に関する基礎的な情報から始め、誤った解釈に対する指摘や、他のサイトでほとんど見ることの無い新たな視点と知識を含む、包括的な情報を提供していきたい

※なお、本記事はかなり情報量が多いので、本を読むくらいの気持ちで、ゆっくり読み進めていただきたい。

臨死体験に関する基礎知識

臨死体験に関する基礎知識

臨死体験とは何か?一般的な定義

臨死の定義とは、「死に瀕(ひん)して、生と死の境をさまようこと。また、いったん死んだとみなされたのちに再び生き返ること。」(デジタル大辞泉)であり、臨死体験とは、その時に体験する不思議なイメージ体験全体を表している。※他にも「近似死体験」という呼び方もあり、英語では「Near Death Experience」と表現される。

病気や事故で死にかけた後、奇跡的に回復する患者の中には、このような体験をする人々が一定数いる。体験の内容にはある程度共通点があり、よくあるのが、「魂が体から抜け出た」「花畑の中を歩いた」「三途の川を見た」などだ。

臨死体験研究の歴史

臨死体験は、現代に始まったわけではなく、古今東西知られている体験だ。実際に、世界の複数の地域の古代文書には、現代の体験報告と同じような体験記録が収められている。

臨死体験に関する本格的な研究が始まったのは、1970年代のアメリカからであり、キュプラー・ロス、レイモンド・ムーディーの二人は、その草分け的存在だ。彼らの研究をきっかけに、臨死体験に関する関心が高まり、多方面の学者から学問的な研究対象と見做されるようになった。その結果、国際的な研究団体が組織され、1990年には、ワシントンのジョージタウン大学で、臨死体験研究の第一回国際会議が開かれたほどだ。

日本では、1991年に、立花隆が制作した大型ドキュメンタリー番組『臨死体験』が、NHKスペシャルで放送されたことをきっかけに、臨死体験に対する関心が高まるようになった。

脳内現象ではないのか?

臨死体験に関してよく議論される点は、その体験が死後の世界を暗示したものではなく、死の直前で生じる「脳内現象」ではないか?というものだ。しかし、臨死体験が、単なる脳内現象ではないことは、以下の事例で、簡単に論証できる。

脳神経外科の世界的権威―エベン・アレグサンダーの臨死体験

臨死体験:エベン・アレクサンダ―

プルーフ・オブ・ヘヴン–脳神経外科医が見た死後の世界」の著者であるエベン・アレグサンダーは、脳神経外科の世界的権威だが、元々は死後の世界を全く信じていなかった。ところがある時、自身が臨死体験をしたことがきっかけとなり、死後の世界の実在を強く主張し出した。

エベン医師の話でとても興味深い点は、脳の大部分が機能停止状態になっていることが観測されていたのにも関わらず、死後の世界を見たことだ。科学の世界では、臨死体験が「脳の幻覚」として扱われていたが、脳が幻覚を見るためには、脳が動いていることが前提条件なのだ。ところが、エベン医師が臨死体験をした時は、彼の脳は完全に止まっていたのだ。

更に驚くべきことに、彼は今まで一度も会ったこと無い実の妹に、臨死体験で出会った。後で彼女の顔を調べてみると、確かに本人と一致したのだ。もしこれが、単にエベン医師の脳内現象だったのであれば、決してあり得なかった出来事なのだ。

エベン・アレクサンダーの証言動画

天国は、ほんとうにある―コルトン君の臨死体験

コルトン君―天国は本当にある

映画:天国は本当にある―コルトン君役の子供

3歳の少年コルトン君の臨死体験を紹介した「天国は、ほんとうにある―天国へ旅して帰ってきた小さな男の子の驚くべき物語」では、彼が体外離脱して天国へ行き、イエスと共に時間を過ごした様子が描かれている。

著者であり、コルトン君の父親でもあるトッド・バーポは、コルトン君の体外離脱体験について、本の中で、次のように述べている。

コルトンは、病院で自分の体から「出た」こと、天使と話したこと、イエスの膝の上に座ったことを話してくれたのである。これは、コルトンの作り話なんかじゃない、そう信じた理由があった。コルトンは、あのとき、別の部屋にいたソーニャ(コルトンの母親)と私が、それぞれなにをしていたかを知っていたのだ。

「パパは、ひとりぼっちでちっちゃい部屋にいて、祈ってた。ママはね、ちがう部屋でね、祈ってね、電話してた。」あの小さな部屋の中で、神と向かい合い、「精神メルトダウン」を起こす私の姿を、ソーニャでさえ見てはいなかったのに。(トッド・バーポ著『天国は、ほんとうにある』、107P)

仮に、コルトン君が体験したものが単に脳内現象だったのであれば、別の部屋で両親が何をしているかを知ることはできなかったはずだ。彼がそのことを知り得た理由は、彼の意識が肉体から離脱して、別の部屋を観察できる状態になっていたからだと見て、間違いは無いだろう。

天国は本当にある!コルトン少年の臨死体験(証言動画

臨死体験で共通する一般的なパターン

体外離脱

臨死体験の内容は、体験者によってバラツキがあり、体験が浅いものから深いもの、またその種類も様々だ。とはいえ、多くの体験を調べていくと、そこにはある程度共通するパターンと流れが存在する。

臨死体験の主要な8つの要素―ケネス・リング

今回は、臨死体験における一般的な要素体験をまとめたものとして、国際臨死体験研究会の会長―ケネス・リング氏によるデータを紹介したい。彼は、1977年に研究を始め、医療機関の協力を得て、死にかかったが蘇生したことがある120人を探し出し、その全員にインタビューをした。すると、そのうち49人(48%)の人が臨死体験をしていることがわかった。

次のリストは、その時のインタビューの内容から、8の要素体験と、それらの体験率を示したものだ。(数字は、全調査対象者に対するパーセンテージとなっている)

  1. 安らぎに満ちた気持ち良さ・・60%
  2. 体外離脱・・37%
  3. 暗闇(トンネルなど)の中に入る・・23%
  4. 光を見る・・16%
  5. 光の世界に入る・・10%
  6. 人生回顧・・12%
  7. 何らかの超越的存在との出会い・・20%
  8. 死んだ親族、知人との出会い・・8%

以上が、臨死体験の主要な要素体験のパターンだ。次に、上記で取り上げた主要な要素に関する説明と、体験者の証言を取り上げたい。

1)安らぎに満ちた気持ち良さ

多くの臨死体験者は、自分が死んだ直後に「それまでに感じていた肉体の苦痛が去り、安らぎと満ち足りた感覚を味わった」と証言している。例えば、ベトナムで負傷して臨死体験をした男性は、その感覚について、次のように語った。

「非常にほっとしました。痛みは全くありませんでしたし、あんなにゆったりした気分になったのは初めてでした。すっかりくつろいで、いい気分でした」(『かいまみた死後の世界』)

また、死後直後のタイミングで、医者が同室にいる親族や友人に「『ご臨終です』などの『死の宣告』を語っているのを聞いた」と証言する人も多い。

2)体外離脱体験

多くの臨死体験者が、死後、自分の意識が、肉体から離脱したことを理解する。自分の霊の意識が空中に浮いて、上から自分の肉体を見下ろしている場合もある。これらの証言は、人間の生命の意識が、肉体とは別に存在することを明確に示す事例だと言えるだろう。彼らの多くは、体外離脱をした時の体の感覚が非常にはっきりしているので、それが夢では無い、ということに気づくのだ。

ハワード・ストーム氏は、そのユニークな臨死体験で有名な米国人だ。彼は、自身の著書「臨死―そして与えられた二度目の人生」の中で、体外離脱した時に感じた感覚を、次のように詳細に描写している。

「私は立っていた。・・何かがおかしい。・・やがてこれは夢ではないということがわかってきた。私がこれまでの人生で感じた時よりもずっと感覚が研ぎ澄まされ、より生きている感じがしていたからだ。全ての感覚が非常にはっきりとしており、私自身や、周りにある全ての物も生きているようだった。むっとするような尿や汗、シーツについた漂白剤、エナメル塗料などの臭いが混ざって鼻の中が一杯になった。

・・今生まれたかのように、全ての感覚がこれほど冴えているとは、何と奇妙なことだ!様々な思いが頭の中を駆け巡った。・・シーツに覆われた物体がベッドの上にあった。・・その物体が私であることは考えられなかった。なぜなら私はここに立って、それを見下ろしているのだから。」(臨死―第二章 死への降下)

意識を司る霊体と、肉体のメカニズムは、現代の科学では全く解明できてはいないが、聖書はその真理について、今から数千年前に書かれた創世記2章で、既に次のように述べていた。

「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)

3)暗闇(トンネルなど)の中に入る

体外離脱のあと、多くの臨死体験者は、「暗いトンネル」を通過する体験をしている。人によっては、トンネルではなく、単に暗い空間を通過したと言う人もいる。

福井県の塚本るみ子さんは、流産の手術で臨死体験をした時の経験を、次のように語っている。

少し朦朧(もうろう)としてきたとき、突然暗いトンネルの中へ入ったようになり、上へ上へとどんどん登っていきました。(立花隆『臨死 上』104p)

また、落雷を受けて臨死体験をした米国南部の自動車商の証言も紹介する。

「しばらく体の上に浮かんでいたのですが、やがてトンネルに吸い込まれてゆくのを感じました。まわりの様子は何も見えなかったけれど、すごい速さで進んで行くのがわかりました。私は間違いなく、トンネルの中にいたんです。出口の光がどんどん大きくなってくるのが見えたので、わかったんですが」(『臨死からの帰還』)

4)光の世界に入る―お花畑や田園など

暗いトンネルを通過した後に、光に満ちた明るい世界に降り立った、と証言する臨死体験者は多い。彼らはそこで、美しいお花畑や田園、牧場、柵や木々などを見る。九歳の時に高熱を出して臨死体験をしたある人は、次のように語っている。

「私は、誰かに助けられてトンネルを昇って行きました。出口に着くと、目の前にきれいな風景が広がっていました。見渡す限り花いっぱいの野原で、右手にはきれいな道が延び、木々は根元から幹の中程まで白く塗られていました。それから白い柵が見えました。何とも言えずきれいな眺めでした。右手を見ると、遠くに牧場があって、これまで見たこともないような見事な馬が何頭もいるんです。」(『臨死からの帰還』)

また、先ほど紹介した塚本るみ子さんは、トンネル通過後に見た世界を、次のように描写している。

「暗い先の方に紫色が見え、その次は言葉ではとても表現できない美しい、鮮明なピンク色、ブルー色が見えました。あたり一面がピンク、そして同じくブルー。とても静かでシーンとしており、私の心は大変やすらいでいて、気持ちが良く、何て素晴らしい所だろう、ずっとここに居たい、と思いました。」

ただし、体験者の中には、光のある美しい世界ではなく、索漠とした空虚な場所や、霧の中にいた、と証言する人もいる。結核性の高熱で臨死体験をしたある日本人男性は次のように語った。

「あたりはすごく荒れ果てたような感じのところで・・だあれもいないんですね。・・そしてぼくの前には、大きな川があった。・・・・色のない、すごい川でした。・・真っ暗いような感じでしたが、・・まあ虚無とでもいったらいいか、ものすごい空虚なところが、ずっと広がっていた

5)超越的存在・光の生命体との出会い

多くの臨死体験者が、トンネル通過後に降り立つ光の世界で、「慈愛に満ちた光・超越的な存在」に出会ったと証言している。

この超越的存在から放たれる光と溢れるほどの愛は、人が普通、現世で体験できないような深い性質のものだ。そのため、この体験がキッカケとなり、霊的な感性に目覚め、生還後の生涯を、隣人愛を中心に生きるようになる人も多い。

光の生命体は、ほとんどの場合、自分が誰なのかを名乗らない。だから、この光の存在が誰なのかについては、各人の宗教的なバックグラウンドを元にした「解釈」が入り込むケースが多く、仏教徒は仏と、キリスト教徒はキリストと、イスラム教徒はアラーと解釈する。

とはいえ、超越的存在自ら名乗るケースもまれにあるので、そのような場合は、憶測が入り込む余地はない。筆者が知る幾つかのケースにおいては、その超越的存在が自らを「イエス・キリスト」だと自己証言しており、以下のハワード氏の場合も、同様である。

「私はその光から目を離すことができなかった。それは私が今まで見たどんなものよりも、激しく、美しかったからだ。・・イエスの愛は人類愛の全てを足しても、それを超えるほどの愛であり、その愛は完全に私を包み込んでいた。私は、彼が善であり、力であり、知識であり、愛であり、言葉を失うほど素晴らしいお方で、人間が想像できる以上の愛なるお方であると知った。―ハワード・ストーム『臨死』

しかし、光の超越的存在だからと言って、無条件に信じることは危険だ。ある米国人の男性の臨死体験では、そこで現れた光の存在が、キリストやブッダやクリシュナに変化した。しかし、仏教や聖書などの聖典に精通した人間にとっては、キリストと仏陀の教えとの間に決して相容れることの無い明白な違いがあることは一目瞭然だ。

つまり、ここで現れた光の存在は、その男性を欺いたと結論できるのだ。

6)人生回顧―生涯を振り返る

臨死体験で光の超越的存在と出会った時、同時に人生回顧の体験をする場合も多い。そのときは、全生涯で行ったあらゆる出来事が、光の存在の目の前で、詳細に展開される。

回顧の際は、自分が過去に行った事だけでなく、その時の気持ちも鮮明に思い起こされ、また自分の行動によって相手がどんな気持ちになったのかもはっきりと理解することができる。

人生回顧の体験を通して、光の生命体が最も伝えたいことは、愛を持って人に接することの重要性だ。自己達成のために社会的に築いた業績などは一切無視され、地上で行ったどんな行動も、ただそれが神への愛や隣人愛に沿って行われたかのみが評価される。

「私がイエスと天使たちと共にいた時、彼らが私の人生の記録を見たいかどうか尋ねてきたので、私はよくわからないまま同意した。彼らが見せてくれた場面は、私が忘れていた出来事が多かった。全く知らずに、自分が人に与えた影響を見せられたのだ。その時には気づかなかったのだが、その時関わった相手に、私が与えた影響や感情を、彼らは私に教えたのだった。・・

天使たちは、私たち家族の性格が形成されるのに、愛がどれほど重要かということを私に示した。また、本来あるべき形とは違う形で、愛が表現されていた時、どんなに天使たちが悲しんでいたのかを、私に教えてくれた。・・

ところが天使たちとイエスは、私の陸上競技での勝敗成績には全く興味を示さなかった。私たちがいかに互いを励まし合ったり、傷つけ合ったりしたかという人間関係だけを重視していた。」(ハワード・ストーム『臨死』、第五章 人生の回顧)

7)死者との出会い(親族、知人、見知らぬ人)

臨死体験者の中には、体験中に見た世界の中で、他の死者と出会ったと証言する人もいる。またその中には、既に亡くなった親族や友人が含まれるケースもある。

「まわりには霧がたちこめていて、はるかかなたに亡くなった祖母の顔だけがはっきり見えるのです。わたしは祖母の方へ行こうとしました。すると祖母の声がはっきり聞こえてきました。『まだ、こちらに来ちゃダメだ。向こうに帰りなさい』みたいなことを、大声で叫んでいたのです」(NHK『臨死体験』)

「天国はほんとうにある」の体験者コルトン君は、天国で、母親のお腹の中で亡くなっていた姉や、彼の曽祖父(ひいおじいさん)に出会った。コルトン君は、現世において、二人とは一切の面識が無かったが、姉と曽祖父の特徴を完全に言い当てることができたようだ。

最後に、死後の世界で出会ったとされる「親族」には、時々その正体が疑わしいものも含まれる。例として、ある日本人の臨死体験の事例を紹介する。

「水の中に立っていた。…水は濁っていて中が見えない。何かいて、履いてるズボンの裾を引っ張ってくる。…何年も前に亡くなった祖父だった。・・水の中で仰向けで片腕だけ伸ばして、私のズボンの裾を引っ張っていた。薄っぺらくて、作り物みたいに見えたが、間違いなく祖父だった。・・あの水の中にいた祖父は地獄に落ちたのか?・・でも、あの声は、祖父ではなかった

8)生死の選択をする―三途の川など(バリア体験)

最後に、多くの臨死体験者が、何らかの方法で、生か死かの選択を迫られ、この世へと生還してくる。光の生命体から、地上へ戻って新たな生き方をするよう促されたり、亡くなった親族から生還を促されたりする。

また、あの世とこの世の境として、日本人の場合は、「三途の川」のような場所が出て来ることが多いが、そこで何を見るかは、育った国によって異なるようだ。例えば、砂漠地帯のアラビアなどでは『燃える砂漠』、海に囲まれたポリネシアでは『荒れた海』、切り立った崖が多いスコットランドでは『断崖絶壁』が、あの世との境界になる場合が多いようだ。(京都大学こころの未来研究センター教授:カール・ベッカー氏)

※ただし、臨死体験者が見る「川」と、仏教の「三途の川」の間には、重要な違いがある。仏教経典における「三途の川」では、鬼が出てきて、死者の服を脱がせることになっている。しかし、臨死体験者の証言では、日本でも外国でも、鬼に出会ったとか、服を脱がされたとかいう報告は一切ない。

三途の川の一例として、ある日本人の体験を紹介する。

「目の前に川があり、向こう岸では戦友が笑顔で手をふっている。 よく聞くあのシチュエーションです。 祖父も例外なく、川を渡ろうとしました。 その瞬間、背後から  「川を渡ってはだめだ!」という声が聞こえたそうです。 振り返ると、そこにはもう一人の戦友が厳しい顔をして立っていました。「危なかった、これが俗に言う三途の川か・・助かった」

別の例として、サーフィンをしながら世界中を旅していた時に、毒クラゲに刺されて臨死体験をしたイアン・マコーミックを紹介したい。

彼は臨死体験で光輝くイエスに出会った後、「今見たこの場所に残りたいか?それとも戻りたいか?」と尋ねられた。イアンは、「残りたいです。」と答えたが、イエスは彼の母親の写真を、イアンに見せた。悲しむ母親を残して地上を去るのは自分勝手だと感じたイアンは、生還することを決意した。そして、生還の際に、イエスから与えられた使命とは、「人々にイエスの名と愛を伝えること」だった。

ほとんどの臨死体験者は、生死の境界となるバリアの手前で生還している。もっとも、もしその境界を越えていれば、そのままあの世へと旅立っていただろうから、臨死体験の報告を聞くことはできなかっただろう。

しかし、極稀にだが、境界の向こう側の世界を体験して、戻ってくることが許されるケースがある。その体験報告については、追ってご紹介する。

その他:永遠―時間の感覚がない

ハワード氏、ギルデ医師による時間の感覚の証言

臨死体験中に、時間の感覚を感じなかった、と証言する人は多い。先ほど紹介したハワード氏も、著書の中で、次のように語っている。

歩きながら、時間がどれだけ経ったかということもわからなかった。時間の感覚が無くなっていたのだ。私は教師なので、自分が話す時、時間を推測することがいつもできたので、これは全く不思議だったが、ただ長い時間を歩いたということだけは確かだった。(臨死―第二章 死への降下)

立花隆氏は、「臨死体験 上」の中で、臨死体験をしたギルデ医師に、体験中の時間の感覚についてインタビューした。すると、ギルデ医師は次のように答えた。

体験中は時間の感覚というのが全然ありません。長時間でもなく、短時間でもない。要するに時間というものがないんです。永遠というか、永遠に今が続いているというか。とにかく時間という次元がないんです。時間という概念が消えてなくなってしまっている。ですから、時間というのは、人間が作ったものなのではないかという気がしました。

永遠に関する聖書の証言

数千年前の古代文書「聖書」は、霊の領域で永遠の世界が存在することを、遥か昔から次のように語っている。

「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」(ダニエル12:2-3)

「アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。」(創世記21:33)

臨死体験の真実―良い体験は天国を保証するか?

前の章「臨死体験で共通するパターン」で取り上げたように、報告される体験は、光・超越的存在との出会いや、お花畑などの良い体験が多い。そして、このような体験者を持つ人々の多くは、その体験が、死後の命において、天国のような場所へ行くことを保証するものだと考えるが、果たして本当にそう考えて良いのだろうか?

実は、そのような良い体験が、天国を行くことの保証とならないことを示す、三つの事例が存在する。

1)患者は悪い体験を忘れている

実は多くの臨死体験のデータには落とし穴がある。それは、調査対象者の多くが、蘇生後に多くの時間を経た後で、インタビューを受けている、という点だ。なぜ、それが落とし穴となるのか?心臓血管専門医のモーリス医師による証言から、そのことを説明したい。

モーリス・ローリングス医師の経験―地獄体験だけを忘れた男性

モーリス・ローリングス医師

モーリス・ローリングス医師 Photo by Maurice Rawlings nous révèle les visions de l’enfer

モーリス・ローリングス医師は、ドイツ・フランクフルトにある第九十七総合病院の心臓病学のチーフであり、アメリカ国防総省の統合参謀本部における医師に昇格され、数々の将軍や、大統領となる前のドワィト・アイゼンハワーらの担当医ともなった経験を持つ。

彼は元々、ある患者の蘇生現場に立ち会うまでは、死後経験(臨死体験)などというものは、そのほとんどが空想か憶測の類だろうと、タカをくくっていた。ところが、ある日、彼の考えを覆すことが起きたのだった。

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それは、1977年のある日の夕方だったが、私は一人の患者に蘇生術を施していた。・・・この患者は48歳の白人男性で、地方の郵便局員であった。・・患者は、心搏と呼吸をとりもどすたびに、「わたしは、地獄にいる!」と悲鳴をあげた。恐がり、助けて!と懇願した。私は恐怖に駆られた。・・私が、この本を書く気になった動機の一つは、この事件で与えられた恐怖からであった。

患者はそれから、まことに奇妙な訴えを発したのである。―「とめないでくれ!」と嘆願したのだ。・・私がこの患者以前に蘇生術を施してきた患者のほとんどは、意識が回復するや否や、最初に口にする言葉が、「その手をわたしの胸から外して!」という嘆願だったのである。・・だがこの患者は私に、胸部圧縮を「とめないで!」と叫んだのである。そのとき私は患者の顔に、正真正銘の恐怖を認めた

・・患者はようやくのことで、わたしに聞いてきた。「わたし、どうすれば地獄へいかないでいられるでしょうか?」私は答えてやった。・・イエス・キリストにお祈りするということだと思います。・・私は彼に、蘇生術を続けながら、私が言うからその通りに復唱しなさい、と言った「主イエスよ、お願いいたします。わたくしの罪をお赦し下さい・・」

患者の容態はようやく落ち着いてきた。・・二日後、私は紙と鉛筆をもってこの患者とインタビューした。私は患者の枕頭で、どうか地獄で実際に何を見たのか教えてくれと頼んだ。

なんの地獄です?地獄なんて覚えていませんよ」と患者は言った。・・患者は、この不快な出来事のひとかけらも想起できないのであった。おそらく、その経験があまりに恐ろしく、あまりに苦しいものであるため、彼の意識ある心ではこれに対処できなかったのだろう。そして、これらの経験は全て無意識の中に押し込められてしまったに違いない。

彼はあの祈祷(祈り)のことは憶えている。その祈祷の後、一度か二度仮死に陥ったことも記憶している。しかし、地獄で起こった経験はいまだに想起できない。だが、仮死(臨死)の彼が部屋の後方に立っていて、・・彼の肉体に蘇生術を施している私たちを見守っていたことは憶えている。

また、これらの相継ぐ死の経験のひとつで、彼のずっと前に死んだ実母と義母に会ったことも想起できる。会った場所は、美しい色彩に満ち溢れた峡谷であったという。・・この経験は、樹木の濃く茂った狭い谷間で、巨大な光のビームで明るく照らされている場所で起こり、非常に楽しかったという。(モーリス・ローリングス『死の扉の彼方」21-24P)

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地獄の実際の体験率はもっと多い

モーリス医師の体験は、一つの重要な真実を示唆している。それは、臨死体験の中で恐ろしい出来事に遭った場合、時間と共にそのような経験は忘れ去られ、良い経験だけが思い出されるようになる、ということだ。

この事例は、多くの文献に出て来る臨死体験の報告のほとんどが「良いケースばかり」であることについて、一つの理由を示している。実際に、臨死体験を持つ患者とのインタビューの多くは、蘇生直後ではなく、かなり遅れて行われる

立花隆氏の著作「臨死体験」では、合わせて三人の研究者(レイモンド・ムーディー、ケネス・リング、マイケル・B・セイボム)研究者による主要な要素体験のリストが紹介されているが、それらのどのデータにおいても、「蘇生直後のインタビュー」には焦点が当てられてはいない

「ムーディーの研究の基本的な方法論は、臨死体験例を広範に集め、その内容を分析することによって、臨死体験の構造的な特徴を抽出していく、というものだった」(立花隆『臨死体験』100p)

「77年に研究を始めたケネス・リングは、医療機関の協力を得る他に、地元の新聞に広告を出すなどして、死にかかったが蘇生したことがある人を120人探し出した。」(同401p)

「76~81年にかけての6年間に、セイボムは、死にかかったが蘇生した経験がある患者78名にインタビューをした。」(同403p)

モーリス・ローリングス氏は、この体験をきっかけに臨死体験を研究し始め、心臓血管専門医としての立場を活かし、特に蘇生直後のインタビューに焦点を当てて、体験報告を収集していった。そして彼は、研究の結果について、以下のように報告をしている。

私が「臨死体験」というテーマを研究するようになって発見したことは、私たちがなんとか回復させることに成功した最初の200の事例のうち、およそ18パーセントは「地獄」の 事例であり、そのパーセンテージは、それ以後多くなっているという事実です。

現在は、さらに多くの人々が情報収集をしており、地獄を体験した事例として報告されているものは今や36%になっており、50%に近づいています。多くの 地獄の体験者は、その恐怖ゆえに、自らの意識からそれ を事実上遮断しています。思い出された時、地獄の炎のことで悲鳴を上げることもあるのです。―モーリス・ローリングス

光・お花畑などの良い体験と生前の行いは関係が無い

光の体験をした殺人犯

光体験

こちらも、モーリス医師が収集した臨死体験報告の一つで、ある殺人犯が見た光の体験に関するものだ。

ある駐車場で二人の人を殺した男が捕まり、胸に三発の銃弾を受けました。 それから、彼はこの「すばらしい」光の体験をしたのです。しかし、蘇生した後、彼は私に、「神は忘れっぽい神なのかね?」と尋ねたのです。というのも、その光の使いはそもそも神の御使いではなかったからです。この男自身が、自分の体験としてふさわしいことであることを疑ったのです。―モーリス・ローリングス

世界広しといえども、人を二人も殺したばかりの殺人者が、死後に光輝く天国へ行く、という教えは存在しないし、受け入れられることもない。その点は、加害者である本人自身も疑っていたようだ。では、なぜこの殺人者は、光を見たのだろうか?

殺人犯はなぜ光を見たのか?

この臨死体験報告が示す事実は、生前の行いの善し悪しと、臨死中の光体験との間には直接の関係性が無い、というものだ。つまり、良い人だったから光を見る、悪い人だったから光を見ない、という問題ではないのだ。

3)良い体験の後、境界の先で裁きがある。

臨死体験者の中には、バリア体験(生死の境を見る)を持つ人も多い。日本人の場合は、三途の川のようなものがよく登場するようだが、ほとんどの生還した人々に共通するのは、彼らは境界を越えてあの世へ行くことを選択せず、現世に戻ってきた、ということだ。

つまり、境界の手前で、たとえどんなに素晴らしい体験をしたとしても、境界の向こう側で何が待ち受けているかを知らない以上、軽率な判断をすることはできない。彼らが見たのは、あくまで死後の世界の一部なのだ。

しかし、極稀にだが、あの世とこの世の境界の向こう側の世界を実体験して、生還することを許される人々もいる。以下に、それらの人々の貴重な体験をご紹介したい。

天国と地獄を見た少女―ジェニファー・ペレツの証

ジェニファー・ペレツ|天国と地獄の証

ジェニファー・ペレツ Photo by Spanish: Jennifer Perez, El Infierno es real

ジェニファー・ペレツの臨死体験の証言(PDF) 証言動画

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・私の過去の生活

私の名前はジェニファー・ペレツです。私の両親はクリスチャンです。私もクリスチャンになりましたが、高校生になると、私は反抗的になり、神様の道から離れました。・・

私の証しは1997年5月2日から始まります。私に一人の友人がいました。・・彼が私をモーテルに連れて行こうとしていることなど、決して思いつきもしませんでした。・・そのモーテルで私がトイレから戻ると、私のコップにはすでにスプライトが注がれていました。私がそれを飲んだ後、何が起こったのか、私にはわかりません。

・私が連れて行かれた場所

けれども、気が付くと、私は自分の霊が私の体から抜け出るのを感じました。・・私は自分の反射した姿を見たのではなく、ベッドの上にいる私の体を見たのです。

私が振り向くと、二人の人がいました。彼らは「こちらへ来なさい」と言って、それぞれが私の片腕を取りました。彼らは私をある場所に連れて行きました。私は自分がどこにいるのかを知ろうとして見ると、そこは天国でした!

最初に私が見たのは、とても大きな壁でした。それは白くて、ずっと遠くにまで広がっていて、終わりがありませんでした。その壁の真ん中に、一つのドアがありました。長いドアでしたが、それは閉じていました。そのドアのすぐそばに、大きなイスがありました。また、その右側に、それより小さなイスもありました。それらのイスは金で造られているように見えました。

私の右側に大きな黒いドアがありました。その周囲はとても暗くなっていました。それは醜いドアでした。ところが、私の左側はパラダイスのようであり、そこには木々や、透明な水の滝や草がありました。それはとても平和に満ちた場所でしたが、そこにはだれもいませんでした。

・天の父なる神様と御子―裁きが下される

私がよく見ると、私の前に父なる神様が見えました。ただし彼の御顔は見えませんでした。彼の栄光の輝きのためにです。それは、とても大きく、とても明るく、天国中を輝かせて、明るくしていました。彼の栄光はどんなものをも輝かせていました。そこには太陽はなく、月もなく、星もなく、彼がその光でした。

私は確かに彼の体を見ました。そして彼の体は御子とともにおられました。彼らはお互いの内側で一つとなっておられ、彼らはいっしょでした。彼らを別々に見ることも可能でしたが、彼らは一方が他方の内側におられ、彼らはいっしょでした。

彼らのすぐそばに、二人の天使、ガブリエルとミカエルがいました。私が彼らの名前がわかった理由は、彼らの額に金でそれが書かれていたからです。・・・

私がそこで主の御前にいると、彼は私に私の人生の映画を見させてくださいました。始まりから今に至るまです・・・私は私の友人たちに、自分はクリスチャンだと話していましたが、実際には私は自分のクリスチャンとしての実を現してはいませんでした。そして彼は私に、私は地獄に行くことになっていると語られました。

・地獄への落下!

天使ガブリエルが来て私の腕をつかみました。彼は私を、あの醜い黒いドアへと連れて行きました。・・・それから私たちはとても速く落下し始めました。・・・

私たちが止まると、・・・私がそこで最初に感じたのは、渇きでした。私は本当に渇いていました!・・・私は泣き出しました。涙が頬を流れているうちに、その涙は完全に蒸発してしまいました。タイヤが焼けるような、硫黄の臭いがありました。・・・私の五感はすべて非常に敏感になっていました。・・また、私の両腕の小さい毛は、全部すぐに消えました。私はそのをすべて感じており、ものすごい暑さでした。・・・

その後、私は天使ガブリエルを振り返って見ました。・・そして私はその天使にこう叫びました。「私は渇いています、私は渇いています!」・・・・彼は私を見下ろし、こう言ったからです。「主はあなたにもう一度チャンスを与えようとしておられます。

彼がそう言うと、すぐに私のすべての渇きも、私のすべての苦悩も、私のすべての痛みも、さっと消え去りました。私は平安な気持ちになりました。それから彼は私の片手をつかみ、私たちは上っていこうとしていました。

「私はあなたを愛しています」

それから、その天使は私をふたたび神様の御前に連れ戻しました。・・主は、とても感じの良い御声で、こう言われました。「私はあなたを愛しています

彼はみなさんをも全く同様に愛しておられます。彼はそのことばを私に直接語られました。彼は、私が行って彼を怒らせたどんなことでも私を赦しておられると言われました。彼は私を赦してくださったのです。

彼は私に将来のことも示されました。・・私に与えられた幻は、現在から携挙までのことでした。彼は私に携挙を示されませんでしたが、その前に起ころうとしているさまざまなことを示されました。・・私はみなさんにお話ししますが、携挙は近いのです! みなさんは自分自身と自分の生活を点検し、「私は主といっしょに行く準備ができているだろうか?」と自問する必要があります。

彼は私に、私には使命があると言われました。その使命は、すべての若い人々に私の幻のことを語ることでした。たとい私がそれをしたくないと思っても、それは主が私にお与えになった命令であり、私はそれを完了させるつもりです。―ジェニファー・ペレツ

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ジェニファーの臨死体験の考察

ジャニファーの臨死体験を、主要な要素体験に区分けすると、以下のようになる。

  1. 体外離脱体験
  2. 迎えに来た人によって、別の場所に連れられる。
  3. 天国に到着し、ドアで仕切られた天国と地獄のバリアを見る
  4. 光輝く父なる神、その御子イエス、大天使たちに出会う
  5. 人生回顧
  6. 裁きの宣告
  7. バリアを通過して地獄へ到着。
  8. 既に地獄で苦しむ人々や友人を目撃する
  9. 神の赦しで、再び天国へ戻される
  10. 未来予知―当時から携挙までに起こる出来事

ジェニファーの臨死体験では、天国へ行ってキリストと出会った後、裁きを宣告されて、境界線を通過し、地獄へ下っている。また、それらの過程で、神や天使と多くの会話をしたと語っており、体験の内容に主観的な見方が含まれる余地がとても少ない。

さらに非常に重要な以上の点から、ジェニファーの臨死体験は、境界を通過してあの世を見てきた体験として、極めて貴重なものだと結論できる。

また、ジェニファーは、裁きの宣告の前に、光の世界(天国)や、光の存在(神)との出会いを体験している。もしも彼女の体験が、他の多くの臨死体験者と同じように、裁きの宣告の手前で終わるものだったのであれば、彼女は「自分が天国に行くに値する人間だった」と勘違いしていたことだろう。

彼女の体験が示す事実は、臨死体験での「良い体験」は、天国へ行くことの保証になるとは限らない、ということだ。生前の行いに対する死後の裁きは、境界の先で待っているからだ。

参考までに、聖書にも、死後の裁きについて、次のような明白な教えが存在する。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」(ヘブライ9:27)

 

誰が天国と地獄へ行くのか?

12. 死後の世界~聖書が教える天国と地獄

あの世とこの世の境界の向こう側に、天国と地獄が実在するのなら、どんな人が、それらの場所へ行くことになるのだろうか?これは、とてもデリケートな問題であると同時に、極めて重要な問題でもある。そこで、臨死体験の証言から、どの程度その答えに迫っていくことができるのか、これから段階的に考えていきたい。

臨死体験の報告だけで結論を出すことには注意が必要

はじめにはっきりさせておかなければならない点として、臨死体験の証言だけを元に、死後の世界の実態を解明することは難しい。なぜなら、ほとんどの体験者は、死後の世界の一部を見ただけであり、その全貌を知ったわけではないからだ

これまでに考慮したように、体験の一部を忘れている可能性もあるし、生死の境界を越えていない、ということも挙げられる。とはいえ、本記事では、以下の条件を元に、できるだけ死後の世界の実態を正確に描写していると考えられる体験に的を絞り、その答えに近づいていくことを試みる。

参考にする臨死体験報告の条件

臨死体験の報告のみによって、死後の世界を解明しようとする試みが危険であることは大前提だが、体験内容の深さや体験者の人格やバックグラウンドなどを総合して、ある程度信頼性の高い報告を選択し、参考とすることは可能だ。

1)臨死体験の中で境界を突破していること

既に述べた通り、境界の手前で生還している場合、その体験は死後の世界のごく一部を描写したものとなるため、境界の向こう側の体験報告が、より優先されることは言うまでも無い。

2)体験中に出会う霊的存在から多くの情報を得ていること。

多くの臨死体験者は、自分が見たり感じたりしたものから、それを主観的に解釈する傾向がある。例えば、臨死中に出会う超越的な存在が、自分が誰かを名乗らなかった場合、仏教徒であれば仏と解釈し、イスラム教徒であればアラーと解釈し、キリスト教徒であればキリストと解釈する。

しかし、体験中に出会う霊的な存在者の方から、自身の名前を明らかにし、多くの情報が与えられれば、体験した内容に主観的な要素が入り込む余地が無くなる。

3)体験内容や体験者に関する公開性が高いこと

公開性とは、例えば体験を証言する人物が、実名・顔写真・プロフィールなどの個人情報を公開しているかどうかのことだが、この点は重要だ。なぜなら、素性を隠した上で、体験を報告し、特定の思想や宗教の教えを正当化することは幾らでも可能だからだ。

さらに、臨死体験者の証言が、書籍化・映画化されていれば、それらの制作過程で体験報告の客観的信頼性が十分に確認されていることが明らかなので、さらに信憑性の高いものとなる。

4)人格的な信頼性が高いこと

もしも、体験者が嘘を付くような人間であれば、その証言は信用に値しなくなる。だから、体験者の人格的信頼性は、重要な問題だ。

信頼性が高い2つの臨死体験

コルトン君―『天国はほんとうにある』

コルトン君の臨死体験の内容は、天国にあると思われる多くのものを描写しており、彼が境界を越えて天国の内側で多くの時間を過ごしたことは明らかだ。彼は、イエス・キリストをはじめ、他の多くの天使や天国に行った人々と会話をしており、主観が入り込む余地の無いほど多くの情報を受け取っている。また、彼の体験は、書籍化・映画化され、本は全米でベストセラーとなっている。その信頼性はお墨付きだ。

コルトン君は体験後、ある葬儀に参加した時、父親にこのような質問を投げかけた。

「その人の心には、イエスがいるの?」つまり、息子は、死んだ男性がキリスト教徒だったのかどうか、イエスを救済者として見ていたのかどうかをたずねている。「ぼくは、よく知らないんだよ、コルトン」その激しさに不意をつかれた私は言った。「その人のこと、あまり知らなかったからね。」

コルトンの顔が心配そうにゆがむ。「その人の心に、イエスがいないとだめ!その人は、イエスを知らないとだめ!そうじゃなきゃ、天国にはいけないの!」(トッド・バーポ『天国はほんとうにある』101,102p)

コルトン君が、天国で過ごした経験から、明確に理解した情報―それは、「イエス・キリストに対する信仰が無ければ、天国へ入ることができない」というものだった。

ハワード・ストーム―『臨死』

元無神論者 ハワード ストームの臨死体験―天国と地獄でイエスと出会う

ハワード・ストーム氏

ハワード氏の臨死体験では、死後に地獄のような場所へ直行し、そこで恐ろしい体験をした。体験の内容と深さから察するに、彼は死後に直接裁きの場所へ直行したと見える。その後彼は、キリストに助けられ、天国へ迎えられた。

彼の体験の際立った点は、彼がイエスや天使たちと長い時を過ごし、思いつくあらゆる質問を投げかけ、その全てに対する十分な回答を得て生還したことだった。

ハワード氏の体験は書籍化されており、その他アメリカのテレビ番組にも多数出演し、Youtubeでも彼の体験が公開されている。

彼が臨死体験の中で、イエスや天使たちに「死んだら私たちはどうなるのですか?」と質問をしたところ、与えられた回答を次のようなものだった。

「死後、神の愛に受け入れられるかそうでないかは、あなたが人生をどのように生きてきたかによる。・・・神は、私たち全ての行動、全ての思い、全ての動機を知っておられる。もし私たちが神を愛しており、神が送った目の前の人を愛し、仲間を愛し、自分を愛していたなら、神の元に引き寄せられる。もし私たちが神を愛さず、神の御子イエスも愛さず、仲間も愛さず、自分も愛さなかったのであれば、神の愛から拒絶される。その中間は無いのだ。」(ハワード・ストーム『臨死』第七章、80p)

ハワード氏が、死後の世界の人間の行方に関して、天国で明確に得た回答は、「死後の世界の行き先は、その人の人生が、神への愛を中心とするものだったか、神の愛の拒絶を中心とするものだったか、によって分けられる」というものだった。

なお、ハワード氏は、臨死体験の後、無神論者として生きたそれまでの人生から一転し、熱心なキリスト教徒として生きるようになった。

その他、本記事で既にご紹介した、ジェニファー・ペレツや、韓国のパク・ヨンギュ牧師の体験も、境界を越えた体験として、考慮に値する内容だ。そして、彼らの臨死体験報告においても、天国に入る基準について、コルトン君やハワード氏と同じような特徴が見られる。

光の超越的存在―イエス・キリストとは?

イエス・キリストの復活は本当に起きたのか?

イエス・キリストの復活は最大の奇跡だった

幾人かの臨死体験の報告から、天国に行くための鍵を握っていると証言されているイエス・キリストとは、一体どのような人物なのか?

キリストは、慈愛と光に満ちた超越的存在として、実に様々な臨死体験報告で登場している。歴史上に存在した人間の中で、死んだ後でも、キリストと同じような超越的存在として数多くの人々に現れている人物は、他にはいない

さらに彼は、死後の世界の臨死体験報告だけではなく、現代に生きている人間に対しても、様々な形で現れている

これらの点を考えていくと、イエス・キリストという人物が、普通の人間とは一線を画した超越的な人物であるということは、否定の余地の無いほど明らかだろう。

最後のテーマでは、臨死体験や、現世において、実際にキリストと出会った人々の証言を取り上げながら、彼の人物像に迫っていきたい。また、彼らの証言が、聖書が教えているキリスト像と一致しているのかも、同時に確認をしていく。

1)イエスは神・神の御子なのか

聖書の証言

聖書の中では繰返し、イエス・キリストが唯一の神であり、また神の子であると証言されている。

「また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。」(出エジプト3:6)

「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:3-4)

現世の出現:ナサール・サディーク氏

モハメッドの初代後継者「カリフ」の血をひくナサール・サディーク氏は、ある時、原因不明の深刻な病気にかかり、免疫機能が麻痺し、医者には明日までもたないだろうと言われた。彼は怖くなって神に助けを求めた。「神よ、あなたが本当なら、私を死なせないでください」しかし、アラーも、ムハンマドも、彼を助けに来ることは無かった。

ところが、まさにその夜、彼のベッドの脇に、光を放つ人が突如として現れた。ナサール氏は、それがイエスだとわかった。(イエスについてはコーランの中にたくさんの記述があり、イスラム教徒はイエスのことを偉大な預言者であることは認めている) イエスは二つのことを彼に告げた。

「わたしはクリスチャンの神である」
「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」

翌日の朝、驚いたことに、絶体絶命であった彼の体の症状は鎮静した。あまりにも奇跡的だったので、彼の経過はトロントの医学会の研究対象となったほどだった。 イエスの出現によって、ナサール氏の病気は奇跡的に癒やされたのだ。

▶ナサール・サディーク氏の証言動画

他にも、既に本記事で紹介したジェニファー・ペレツや、コルトン君の証言も、参考とすることができる。

私がよく見ると、私の前に父なる神様が見えました。・・そして彼の体は御子とともにおられました。彼らはお互いの内側で一つとなっておられ、彼らはいっしょでした。彼らを別々に見ることも可能でしたが、彼らは一方が他方の内側におられ、彼らはいっしょでした。―ジェニファー・ペレツ

「でね、イエスはね、神のすぐとなりの座ってるんだよ、知ってる?」興奮したコルトンは続ける。「イエスのいすは、イエスのパパの、すぐとなりなの!」―天国はほんとうにある、174p

2)イエス・キリストは救い主なのか

聖書の証言

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

聖書で啓示される「救い主」は、人を罪から救い、永遠の命を与え、地上に永遠の平和をもたらす王を表している。

臨死体験:トーマス・ウェルチが見た火の湖

トーマス・ウェルチは、工事現場の仕事中に起きた事故で臨死体験をしたが、そこで彼が見たものは、見渡すかぎり、「火と硫黄の燃える池(大海)」だった。ところが、そこへ歩いてきたイエス・キリストによって、彼は地獄から救われた。

「もしおれにこのことが分かっていたら、こんなところへ来るのを逃れるために、必要なことがあったら、なんでもしていただろうに」こうした思いが心の中を駆け巡っているとき、もう一人の男がわたしたちの前へやってくるのが見えた。・・・彼は強い、情深い、思いやりのある顔をしていて、・・それはイエス自身であった

・・・私はまたも、自分自身に言った。「もし彼が、おれの方向へさえ眼を向け、そしておれを見さえしてくれたら、彼はここからおれを救い出してくれるはずだ。」・・・彼は、わたしの視界から消える寸前に、彼の頭をめぐらし、まともにわたしを見た。それだけで十分だった。・・・数秒の内に、わたしは自分の肉体の中へ戻りつつあった。(モーリス・ローリングス『死の扉の彼方』162,163p)

他にも、ハワード・ストーム氏や、元悪魔崇拝者のジョン・ラミレス氏、また多数のイスラム教徒の臨死体験者が、同じような報告をしている。

人が地獄に行ってしまう原因は、その人の「罪」にある。イエスが、これら地獄に行った人々を救うことができた事実は、聖書がキリストについて「救い主」と証言していることと一致する。

3)神・キリストは光なのか

聖書の証言

「イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」(マタイ17:1-2)

「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊(キリスト)が都のあかりだからである。」(黙示録21:23)

臨死体験:ギルデ医師・ハワード氏の証言

「その大きな白い光は、愛に満ちた光でした。そして、その巨大な全体像はキリストの姿をしていました。・・キリスト像は、自由の女神くらいの大きさがありましたが、あまりにも強く輝いているので、直接全体を見ることはできませんでした。」(立花隆『臨死体験 上』167p)

「私はその光から目を離すことができなかった。それは私が今まで見たどんなものよりも、激しく、美しかったからだ。それは太陽よりも明るく、稲妻よりも眩しく、その光は私の上に来た。」(ハワード・ストーム『臨死』)

4)神・キリストは愛なのか

聖書の証言

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エフェソス5:25)

聖書の中で、神の属性として「愛」は最も重要なものだ。そして、神の愛は憐れみに満ちた無条件の愛であり、それは神ご自身の命を人間のために捧げるほどの愛なのだ。

臨死体験・現世での出現:クリス氏、ハワード氏

わたしは、激しい愛で、あなたを愛している。わたしの『激しさ』とは、人間が支配することも止めることもできないもので、あなたへのわたしの激しい愛は、誰も止めることができないのだ。」(クリス・デュプレ)

「イエスの愛は人類愛の全てを足しても、それを超えるほどの愛であり、その愛は完全に私を包み込んでいた。私は、彼が善であり、力であり、知識であり、愛であり、言葉を失うほど素晴らしいお方で、人間が想像できる以上の愛なるお方であると知った。―ハワード・ストーム『臨死』

クリス・デュプレ氏は、超自然的な方法で、生けるキリストを目の当たりにし、彼から深い愛を伝えられた。その後、彼が長年抱えてきた心身の病は完全に癒された。

臨死体験や現世でのキリストの出現において、彼は一貫して偉大な愛を持つ超越的存在として、自身を啓示している。イエスは、確かに聖書で証言されている通りの、大きな愛を持つ存在なのだ。

5)キリストの十字架は人類の罪の身代わりなのか

聖書の証言

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)

聖書は、イエスの十字架が、人類全体の罪の身代わりだったと繰返し説明しており、それは私たちの罪の赦しの土台だと説明している。なお、キリストの十字架については、当サイトの記事「罪の贖いと十字架の死」にて、詳しく解説をしている。

臨死体験:コルトン君の証言

「コルトン、イエスが何で十字架の上で死んだのか、君は知ってるかな?」コルトンはうなずいた。・・「えっとね、イエスが言ってたけどね、イエスが十字架の上で死んだのはね、そうすれば、僕たちがイエスのお父さんに会いに行けるからだよ。」(トッド・バーポ『天国はほんとうにある』190p

6)イエスは復活し、今も生きているのか

聖書の証言

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(使徒2:32)

新約聖書は、キリストの復活が歴史的事実であったことを、繰返し証言している。なお、キリストの復活の歴史性の論理的説明は、当サイトの記事「イエス・キリストは本当に復活したのか?」で詳しく解説しているので、合わせてお読みいただくことをお勧めする。

臨死体験、現世での出現の証言全体

イエスは多くの臨死体験で、超越的存在として度々登場するが、そればかりでなく、現世で生きている多くの人間にも、具体的な形を持って出現している。実際、私の周りでは、イエス・キリストを直接見たり体験したという人が、複数人いる。

当サイトでは、既にご紹介したナサール氏をはじめ、他にも何人かの証言を載せているので、合わせてご確認することをお勧めする。

7)イエスは神の元へ行く唯一の道なのか

聖書の証言:

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

臨死体験:コルトン君

その人の心に、イエスがいないとだめ!その人は、イエスを知らないとだめ!そうじゃなきゃ、天国にはいけないの!」(トッド・バーポ『天国はほんとうにある』102p)

イエスが語った「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とは、父である神が支配する天国には、キリストを通さなければ入ることができない、という意味だ。つまり、コルトン君の証言と、聖書でのイエスの証言は一致していることがわかる。

結論:臨死体験は何を証明するのか?

臨死体験は、死後の世界の実在を証明する

臨死体験の数々の報告を客観的に吟味すれば、それが単なる脳内の現象として片付けられないことは明らかだ。エベン・アレクサンダー医師や、コルトン君の事例からもわかる通り、意識の主体が別の空間に存在しなければ、決して知り得ないような事実を、臨死体験者は知ることがあるからだ。

したがって、臨死体験の証言の多くは、人間の意識が肉体と別に存在することと、死後の世界が実在することを証明している。

また、境界を越えた人々の体験談を見ると、境界の向こう側のあの世には、天国と地獄が存在することもはっきりとわかる。

ほとんどの臨死体験者は、死後の世界の一部を垣間だけである

臨死体験は、死後の世界について多くの示唆を与えるが、それだけでその実態を定義することは危険だ。なぜならほとんどの臨死体験者は、死後の世界の一部を見たに過ぎず、その全貌を見たわけではないからだ。

例えば、臨死体験で良い体験をした多くの人は、その体験が天国のような場所へ行くことの保証だと考えるが、その見方に注意が必要な三つの理由として、1)悪い体験だけを忘れている、2)良い体験と生前の行いには因果関係が無い、3)境界の向こう側を見ていない、などが挙げられる。

とはいえ、境界を越えた深い臨死体験の場合は、その信頼性は、そうでないものよりも高くなる。

死後の世界やキリストについて聖書が語る内容は、複数の臨死体験者の証言と一致する。

聖書は、人間の魂が、霊と肉から成っていること、死後の世界(天国と地獄)が実在することを明確に教えている。

また、イエス・キリストが、神の子・救い主・光・愛・天国への道であり、彼の死が罪の身代わりであったこと、彼の復活が事実であったことを伝えている。

聖書におけるこれらの証言は、幾人かの境界を越えた深い臨死体験を持つ人々の証言と、見事に一致しており、また現世で生きている人々に現れたキリストの証言とも一致している。

死後の世界を誰よりも知っているのは生命の創造者である

「人は死んだらどうなるのか?」人類全てにとって、この普遍的で最大の疑問の答えを、私たちはどこで手に入れることができるだろうか?

実は、当サイトがお勧めするその最善の方法は、世界中の臨死体験の報告に目を通すことではない。それは、「人間の創造者に答えを求める」、というものだ。

複数の証拠に基づいて、当サイトは、「万物とそこにある全ての生命を創造した神が存在すること」、そして「その創造者が、聖書を通して、人類に真実を啓示していること」を支持している。

そして、生命の創造者であれば、人間がどこから来て、どこへ行こうとしているのかを、知らないはずはない。したがって、今回ご紹介した幾つかの信用性の高い臨死体験の証言が、聖書の証言と一致していることは、決して不思議ではないのだ。

今回の記事の結論は、特定の信仰を強制するものではない。それは、この記事を読むあなたが、自らの意志に基づいて、最善の選択をすることができるよう、必要な情報を提供するものだ。

何を信じ、どう生きるかは、あなた自身が決定する問題なのだ。

この記事を読む全ての人が、良い生き方を選び、天国へ行くことができるようにと願っている。

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