預言者は現代でも存在しますか?五役者に関する聖書的議論


預言者は存在するか

現代でも、預言の賜物を持つ「預言者」は存在するのでしょうか?このテーマについて、プロテスタントの中では、「現代でも存在する」とする立場と、「現代は存在しない、紀元一世紀でその役割は終わった」とする二つの立場が存在する、と言えます。

キリスト教界には、様々な神学的テーマを巡る議論が存在しますが、その全てが等しいレベルで重要なわけではありません。重要なテーマから、さほど重要でないテーマまで、幅広くあります。そして、本記事で取り上げる「預言者の有無」という議論は、中々重要なテーマであると、筆者は考えます。

もしも、現代において、実際に預言者が存在しないのなら、自分が「預言者だ」と称する全てのクリスチャンは、偽預言者であり、偽りの霊によって惑わされていることになります。そして実際に、預言を肯定するキリスト教の教会において、預言が的中しなかったり、その内容が御心から外れていたりするような、怪しげな預言が存在することは事実ですが、早まって、全ての預言が同類であると決めつけるべきではありません。

なぜなら、もしも神の霊によって預言する預言者が、実際に存在するのなら、「預言者はいない」と主張するクリスチャンは、その神学によって、雑草と一緒に小麦を刈り取ってしまうことになり、結果的に神の預言者を退けてしまうことになってしまうからです。

本記事を通して、読者の方々が、この重要なテーマに関する確かな聖書の答えへと導かれ、聖霊によって祝福されるよう、お祈りいたします。

聖書解釈における重要な注意点

預言者の有無に関する考察を進めていく前に、まずは聖書解釈において重要な基準を確認しておきたいと思います。

ある教理が、「絶対的に正しい」と主張する場合、そこには極めて慎重な態度が求められます。なぜなら、教理の絶対性を主張するなら、その教理に反する人々を裁くことにもなるからです。そして、その慎重さを考慮した場合、教理の絶対性を唱える際の必須条件として、次のような点を挙げることが適切であると、筆者は考えています。

それは、その教理を教える箇所が、

  • 単一の聖句だけでなく、複数の聖句において示されていること、
  • 一貫性・明瞭性を持って示されていること、

さらに、もう一つを加えるなら、

  • その真理が多角的な視点で論じられていること、

となります。

例えば、聖書が「信仰」という言葉を使う時、それがどんな信仰のことを言っているのか、という論題がある場合、聖書的な信仰の本質を定義する必要があります。そして、その時に有効な聖句としては、ヤコブ2章を挙げることができます。ここでヤコブは、単一の聖句だけでなく、14節~28節全体に渡って、「真の信仰には必ず行いが伴う」という点を、多角的な視点で論じており、それによって、読者が誤解をする余地を与えていません。またこの点は、マタイ7章でイエスが、「父の御心を行う者が天の御国へ入る」と語っている言葉とも、一貫性を持って調和します。

このように、複数の聖句や節において、一貫性・明瞭性を持って示され、かつそれが多角的な視点で論じられているならば、正当な教理として確立するに値する、と言うことができるでしょう。もっとも、このような基準は、筆者だけでなく、多くの神学者たちにとっても、同意していただける点であると考えています。

根拠1:預言者への言及が過去形である

該当の聖句と根拠

預言者の存在が、紀元一世紀に終わったとする考える第一の聖書的根拠は、以下の通りです。

「それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。」(第二ペテロ3:2)

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。4それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。」(ユダ3~4)

「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。4 そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。」(ヘブル2:3~4)

これらの聖句においては、預言者への言及が過去形になっていることから、それ以降の時代において、預言者による預言は存在しない、とされています。しかし、この解釈には、複数の落とし穴が存在する、と筆者は考えています。

執筆年代からの考察

第一に、引用されている聖句の書簡の多くは、専門家たちによって、紀元90年頃までに執筆されたと考えられていますが、ヨハネの黙示録の執筆年代は、明らかにそれよりも後となります。ですから、もしも「預言者への言及が過去形であるから、それ以降の預言は存在しなくなる」と考えるなら、ヨハネの黙示録は、存在してはならない預言書となるのです。

加えて、以下の聖句を確認すると、紀元90年代においても、ヨハネだけでなく、他にも真の神からの霊感の表現が多数存在していたことが伺えます。それゆえに、使徒ヨハネは、「神からの預言的な啓示は存在しなくなる」と忠告せずに、むしろ神からの啓示と悪霊からの啓示を、「キリストをどのように告白するか」によって、識別するようにと警告しました。

「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。2 神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。3 イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。」(第一ヨハネ4:1~3)

歴史的記録と、普遍的真理とを分ける

第二に、「神が預言者たちを通して語られた」というのは、単純に過去の事実に関する歴史的記録であり、それ以降の時代においても、神が継続して語るかどうかは、全く別の問題となると考えられます。つまり、「神は語られた」とは書かれていますが、「神が語らなくなる」とは書かれていないのです。

この点はまさに、「A=B」が、必ずしも「B=A」とはならない、ということの事例だと言えます。

そして、以上の点を考慮すると、「預言者への言及が過去形となっている」という点は、現代は預言者は存在しない、という主張の根拠として、十分では無いことがわかります。

根拠2:預言書が教会の土台であることについて

該当の聖句

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ2:19~20)

ここでは、あなた方(エペソ教会)が、「使徒と預言者という土台」の上に建てられている、と説明されています。建築においては、一度土台を据えたら、それ以上土台を据えることはありません。それで、「預言者が教会の土台である以上、それ以降の時代には存在しないはずだ」というのが、現代の預言書の存在が否定される第二の根拠となります。

加えて、この解釈は「使徒はいない」というもう一つの類似する主張の根拠ともなります。

第一の問題点

最初に考慮した「預言者への言及が過去形である」という点が、預言者はいないとする主張の根拠とならない場合、残る聖句は、上記で取り上げたエペソ2:20に限定されてきます。すると、ここでまず問題となるのは、本記事の冒頭で取り上げた「教理の絶対性を主張する際の重要条件」が満たされないことになる、という点です。

そして、その条件が満たされていない、ということは、「預言者は教会の土台である」という聖句を、別の視点で論じた際に、別の解釈の可能性が生じ得る、ということを意味します。

預言者の役割は、教会の土台だけなのか?

預言者はどのような意味で教会の土台となったのか

「使徒や預言者が普遍的教会の土台となった」、と言う場合、それは、一世紀の使徒たちや預言書たちが、初代教会の形成において重要な役割を担ったことを意味します。その時代は、律法の時代から、恵みの時代への移行期であり、その移行に伴う多くの新しい啓示が必要とされました。そして、それらの啓示は、使徒や預言者たちを通して与えられ、その重要なものは、新約聖書の正典として継承されていきました。

ですから、預言者たちの土台として役割は、主にその時代に彼らに与えられた「恵みの時代の啓示」(新約時代の啓示)と関係しています。そして実際に、恵みの時代の重要な啓示は、初代教会の時代に、既に十分に明らかにされました。

ですので、もしも、新約聖書が定義する預言者の役割や、彼らが預言した内容が、恵みの時代の新たな啓示の伝達に限られていたのであれば、それは「預言者はもう存在しない」という立場を肯定するものとなるでしょう。

しかし、実際に新約聖書を読んでいくと、聖書時代の預言者たちの役割、そして彼らが預言した内容は、恵みの時代に関する啓示のみならず、より広範囲に渡ります。

土台以外の預言者の役割

例えば、預言者アガボは、当時の大飢饉や、パウロがエルサレムで捕らえられることなどを預言しました。これらは、恵みの時代の啓示とは何も関係なく、当時の時代の信徒たちの必要に応えたものでした。すると、この手の助けは、一世紀だけでなく、どの時代においても必要とされてきます。

「その中の一人で名をアガボという人が立って、世界中に大飢饉が起こると御霊によって預言し、それがクラウディウス帝の時に起こった。」(使徒11:28)

「かなりの期間そこに滞在していると、アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。11 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」(使徒21:10~11)

また、パウロはコリントの信徒への手紙の中で、預言の実例について触れる時、預言の賜物を持つ人々が、人々の隠れた罪を明らかにする、という点を述べました。

「しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、25 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」(第一コリント14:24~25)

このような預言の内容も、恵みの時代の啓示に関わるものではなく、どの時代の教会や信徒の間でも、あって良い賜物となっています。ですので、以上の点を考慮すると、預言者は教会の土台を構成したが、その役割は、土台以外の様々な分野にも及ぶ、という事実が見えてきます。

預言の賜物が廃れるタイミング

パウロは、預言の賜物が「いつ」消滅するのかについて、第一コリント13章において、その具体的なタイミングを説明しています。

「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11       私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12            今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

この一連の文章から、預言の賜物が廃れるタイミングは、「完全なものが現れる」時であることがわかります。またパウロは、その時について、「その時には顔と顔とを合わせて見る」や、「私も完全に知ることになります」と述べているので、それは、「その主の再臨によって私達が栄光の体へと変えられて、主の前に立ち、顔と顔を合わせて見る時」のことを述べていると考えられます。

ですから、主の再臨前までは、依然として預言の賜物は継続していく、というのが、この聖句から読み取れる事実だと言えます。また、共に列挙されている異言や知識の賜物は、現代でも明らかに存在していますので、解釈の一貫性を考慮するならば、「異言や知識の賜物が現代でも存在している以上、預言の賜物も存在する」と理解するのが、自然な解釈となってきます。

教会を建て上げるための五役者の役割

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:11~13)

ここでは、キリストが使徒・預言者・伝道者・牧師・教師という役職をお与えになった理由が、(1)キリストのからだを建て上げるため、(2)全ての信者が御子の知識の一致に達し、キリストの身たけにまで達するため、であると書かれています。

世界中に存在するキリストの体は、今でもこの目的に従って建て上げられている最中であり、主の満ち満ちた身たけに達するよう励んでいる最中です。そして、その建てあげる働きは、異邦人の完成のなる時まで、これからも続いていくことになります。(ローマ11:25)

ですから、使徒や預言者の役割が、聖書的に、土台を据えること以外にも及んでいるのであれば、むしろそれらは、キリストご自身が必要に適って教会にお与えになっているものであり、私たちはその働きを尊重しなければならないことになります。

また、旧約聖書の歴史の流れを見ていくと、重要な預言は、時代の転換点において集中していますが、そうでない時期においても、神の民の堕落が進む時に、神が預言者たちを遣わして、悔い改めのメッセージを語らせる事例が多くあります。

そして、現代は世界中のキリスト教において、背教的な教えが広まっている時代であり、主の再臨も迫っています。ですから、キリストの体を建て上げるための「預言者の必要性」という観点で考える時に、神が預言者たちを通して語りかける必要性は、いよいよ高まってきているのではないでしょうか。

預言の賜物を持つ人々

もしも聖書から、「預言者は存在しない」ということが絶対的に証明できない場合、その立場を貫くためには、世界中に存在する「預言者」と名乗る人々の預言を詳しく調べ、それらが非聖書的であることを論証しなければなりません。しかし、それは現実的には不可能です。

一方、世界中で報告される預言の賜物を持つ人々の情報を調べていくと、確かにその賜物を持つ人々がたくさん存在している、という事例を見出すことができます。以下に、その実例を示します。

アルフレッド・ハワード・カーター

ハワード・カーター(1891~1971)は、ペンコテステ運動では著名な人物であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの創立メンバーでもありました。彼は、宣教師として、世界中を周って伝道をしましたが、その働きにいつも同行していたのが、レスター・サムラル、という人物です。サムラル氏が、カーター氏の宣教に同行するようになったのには、次のような背景がありました。

サムラル氏が、テネシー州のビルで集会に参加している時、神が彼に次のように語られました。

「この集会を終わりにしなさい。アーカンザス州ユーレカ・スプリングスに行き、三州合同のキャンプ集会に出なさい」

サムラル氏が、その合同キャンプに着くと、そこの説教者の中に、ハワード・カーター氏がいました。サムラル氏は、集会後、カーター氏がホテルに行こうとしてそばを通った時、彼の手を掴んで、突然、次のように言いました。

「先生、私はあなたと一緒にどんな高い山々でも行きます。私はあなたと一緒に広大な平原でも行きます。私はあなたと一緒にどこの砂漠にでも行きます。私はあなたと一緒に海の荒波でも通って行きます。あなたが年老いたときも、私はあなたを助け、あなたを愛し、あなたを祝福します。」

サムラル氏は、自分がしゃべったことに気づくと、頭を振って、こう言いました。

「私はそんなこと全然しません。私はあなたのことを知りませんし、あなたも私のことを知りません。どうか、私をお赦しください。こんなことを言ってしまってすみません。確認しておきたいと思いますが、私はあんなことを今まで、一度も言ったことが無いんです。」

カーター氏は、微笑んで言いました。

「私の部屋に来てください。」

サムラル氏は、彼のホテルの部屋に行きましたが、到着すると、カーター氏は次のように言いました。

「私は、預言したことを本に書き留めており、私が何を語ったかが誰にでもわかるようにしています。二年ほど前、ロンドンにいた時、私がひざまづいて祈っていると、神は私に、世界の国々に出かけて行って、御霊の賜物について教えよ、と言われました。それから神は、私にこう言われました。

『私は、あなたのために一人のコンパニオンを備えます。彼ははるか遠くからやって来ます。彼は見知らぬ人としてやって来ます。そして彼は、このように言います。「私はあなたと一緒にどんな高い山々でも行きます。私はあなたと一緒に広大な平原でも行きます。私はあなたと一緒にどこの砂漠にでも行きます。私はあなたと一緒にあらゆる海の荒波でも通って行きます。」』

そして、カーター氏は続けて、サムラル氏が道で彼に言った言葉を全部引用し、最後に次のように言いました。

「私と一緒に旅をしていただけますか?神は私に一人のコンパニオンを約束なさいました。私はあなたのことを知りませんが、神はあなたのことをご存知です。もし神があなたのことをご存知なら、私はそれで十分です。」

こうして、カーター氏とサムラル氏は、世界中の国々に宣教をして旅をするようになりました。そして、高い山々、広大な平原、砂漠、海の荒波を通って行き、カーター氏が書き留めていた預言の内容は、全てその通りになりました。

韓国のベストセラー『神の大使』より

本の紹介

韓国の超ベストセラー、『神の大使』は、前駐中国大使という経歴を持つ韓国人クリスチャンの金夏中(キム・ハジュン)によって書かれた書籍です。この本の中には、預言の賜物を持つ人が複数人登場し、預言の内容や、それらがどのように成就したのかが詳細に記録されています。本の紹介文は、次のようになっています。

著者がどのように神に頼り、どのように祈りに答えられたかは、多くの読者を感動させた。この本によって、多くの読者が聖霊の中で切に祈り、神とまことの関係を持とうと努力するようになった。・・・この本は韓国で出版されると同時に大きな反響を呼んだ。2010年には韓国の代表的なクリスチャン日刊紙が選定する「キリスト教ヒット大賞」を受賞し、2011年には韓国キリスト教出版協会とキリスト教書店協議会が集計したキリスト教総合ベストセラー1位に選定された。そして、著者は2011年韓国キリスト教出版文化界で最も権威ある連合期間の文書宣教協力委員会が選定する「今年の著者賞」を受賞した。

キム伝道師

ある日、著者のキム・ハジュン氏の元に、キム伝道師が来ると、その伝道師は、ハジュン氏の妻に、部屋中にティッシュをばらまくよう指示した。そして、キム伝道師は、祈り出すと、次のような神からの語りかけを話しだした。

「愛する息子よ!私は、あなたがどれほどわたしを愛しているかよく知っている。私は、あなたがわたしに祈っているのをすべて見ている。あなたが早天礼拝でわたしに祈っているのを見ている。自動車の中で祈っているのを見ている。ソファに座って祈っているのを見ている。また、空いている部屋で立ったまま祈っているのもすべて見ている。」

ハジュン氏は、その言葉を聞きながら、それまでの人生で最も激しく泣き出した。

「私の普段の祈りはキム伝道師にも伝えてもない。私だけが知っている秘密のはずなのに・・その時はじめて私は、神が私の祈りをすべて聞いておられることを知った。」(40~41頁)

ここで登場するキム伝道師は、ハジュン氏の隠れた秘密を、神が彼に語られた言葉から明らかにし、その時に彼がまさに必要としていた励ましを与えています。そして、キム伝道師の予告通り、部屋中にばらまかれたティッシュは、全て涙を吹くために使い切られました。

隠れた秘密を明らかにし、励ましたりすることは、聖書中に見られる典型的な個人預言のタイプです。

パク・ジョンヒ執事

2003年2月の中旬頃、ハジュンシ氏の家に、パク・ジョンヒ執事が訪れ、共に夕食をとり、祈りをしていたところ、パク執事が口を開いた。

「大使はお酒を飲まれますか?」

「はい、通常は飲まないのですが、公式的な行事があるときには、ワインを一、ニ杯は飲みます。」

「もうこれからはワインも飲むことができなくなりますよ。」

「なぜですか?」・・

「今、神様が幻を見せてくださっているのですが、大使がずっとお酒を吐き出しています。これからいつかお酒を引き出す日が来て、それからは一滴も飲めなくなるでしょう。その後、大使にいろいろと驚くべき変化があるはずです。」

それから二年以上が経ち、2005年12月に大使官邸で開かれた晩餐会にて、ハジュン氏は突然、普段飲んでいたワインが飲めなくなり、吐き気がこみ上げるようになった。そしてその時、前にパク執事から聞いていた預言を思い出し、聖霊がハジュン氏の中から酒を追い出されたことを悟った。(71~74頁)

パク執事が幻を通して語った預言は、二年の歳月を経て、ハジュン氏の上に正確に成就しました。さらに、その後にハジュン氏の身に変化が生じる、という点も、正確に成就していきました。

キム・ハジュン氏自身が、神の声を聞き始める

「次の日の夜、自分の部屋で鍵を閉めて祈っていると、誰かに後ろから話しかけられたような気がした。・・その時、私は聖霊が語っておられるのではないかという気がした。すぐにペンと紙を用意して、異言で祈り始めた。そして、私の中で聞こえる言葉を聞いた。祈りが終わってみると、とりなして祈っている人についてのことのようだったが、私が知らなかったその人の職場や家庭での問題、子供についての内容が書かれてあった。

私は、そのようにして神の言葉を受けるようになった。そして、その人に会った時に、祈っている時に与えられた言葉を慎重に伝えたり、祈った内容が書かれた紙を渡したりした。

その影響は、私が思った以上に大きかった。言葉を伝えられたほとんどの人たちは、驚きのあまりどうしていいかわからなくなっていた。その場で涙を流す人もいた。その人たちは神が自分を燃え盛る炎のような目で見守ってくださっていることに感激し、喜んでいた。それから今まで、数え切れないほど多くの人々の前に神の言葉を伝え、その度に神が生きておられることを経験した。そして、私は、誰が何と言おうと、揺り動かされない信仰と大胆さを持つことができるようになった。」(74~75頁)

聖霊がハジュン氏からお酒を追い出し、新たな賜物を与えて以降、神は彼に数え切れないほどの直接的な語りかけをするようになったようです。また、それらの言葉は、ことごとくそれに関わる人々の秘密を正確に明らかにし、彼らに慰めや励ましを与えました。

参照元の本「神の大使」は、韓国国内で、非常に多くのクリスチャンたちが読み、その内容の真正さが広く認められています。ですので、韓国内のクリスチャンの中で、預言の賜物を信じるクリスチャンは、かなりの数に上るはずです。

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34件のフィードバック

  1. Andy より:

    私が尊敬している外国の預言者
    Prophet Lovy, Passion Java, Alph Lukal, Roberto Ruiz, Leonardo Sale.

  2. 亀川偉作 より:

    古い記事に、コメント申し訳ありません。記事やブログ主さんの回答を拝見して、以下、コメントさせて頂きます。
    私は、やっぱり、どこまでいっても、今でも預言者がいるか否かについて、いると思いたいかどうかだと思うのです。聖書という完全な形の啓示が与えられた時点で、完全なものは現れているのです。ブログ主さんは、「私の周りで預言がある」的なご主張をされ、お薦めの図書を挙げますが、全て聖書ではない図書なわけで、個人的体験を記した図書を真実であると吟味する術がありません。つまりは、図書の作者を信頼しているか否かでしかないのです。お勧めするには、非常に危うくないですか?
    土台だけが役割ではない。でも、土台なわけですから、教会がその土台の上に据えられたにも拘らず、その土台たる預言者がさらに加わるというのは、極めて不可解で不合理な帰結と言わざるを得ません。
    異端はぼぼ預言者や使徒を肯定したところに存在していることをご存知でしょうか?モルモンのジョセフ-スミス、エホバの証人も偽預言ばかりです。テモテシスク氏著書はベニーヒンの著作が、嘘偽りで満ちていることを証明しました。預言者や預言は極めて厳格に吟味すべきであり、個人的に数人のことを言い当てた程度で語られるべきことではないと考えております。

    • true-ark より:

      コメントありがとうございます。実は、「使徒たちの時代を持って預言が終わる」というのも、聖書には書かれておりません。パウロ書簡を読む限り、教会内で預言を行うことは明らかに推奨されていますが、どの段階でそれを止めるべきだ、という指示も聖書の中にはございません。もし、書かれた神のことばである聖書に、教会内での預言を終わらせることに対する具体的な指示が無いのであれば、神の意向はそれを続行することだとも考えられないでしょうか?
      聖書は、もしも完全なものが現れたら、私たちは完全に主を知ることになる、とあります。聖書の完成を持って完全なものが現れたのであれば、すでに全てのクリスチャンは完全に主を知っているはずなので、分裂や神学論争はすでに終了しているはずだと私は考えます。預言を否定する著名な福音派系の団体も、この文脈については同じ立場を取っています。
      もちろん、預言は聖書と調和するかどうかが吟味されなければなりません。預言によって発生している異端の多くは、聖書よりも預言を重視したことが問題だったと思います。

  3. Mike より:

    現代のクリスチャンにとって、仮に「預言の賜物」があるとしても、それが本物の神の言葉であるかどうかをどうやって判断すれば良いことになるのでしょうか。

    もしかすると「聖書と矛盾が無ければ真正な預言である」と言われるのかもしれません。しかし、明日の天気が晴れか雨かのように、聖書の内容だけでは真偽を判断できないこともたくさんあります。あるいは、聖書の内容だけで真実と判断できる預言なのであれば、そもそも聖書に書かれているわけですから、それは「新しい預言」ではないはずです。

    つまり、個人に与えられる「預言」というものは結局のところ、人間の有限の頭脳では真偽を完全に見極める方法が存在しないため、常に「本当に神の言葉なのかな?」と自問自答しなければならない性質のものだということになります。

    さて、信仰生活において「預言」というものはとてつもなく重い存在であるはずです。預言とはすなわち「完全なる神から与えられる言葉」ですから、それに対する一切の批判や抵抗はもはや「罪」となります。預言を受け入れた人は、生涯を通じてそれに忠実でなけれなければならないわけです。

    たとえば、「ひょっとしたら聖書は神様じゃなくてサタンが書いたものかもしれない」などと疑いながら生きるというのは「笑えない冗談」でしょう。サタンの罠は数多あれど、「少なくとも聖書だけは永久に大丈夫だ!」と安心しているからクリスチャンの信仰が成り立つわけです。

    個人に与えられる「預言」も、もしそれが本物の「神の言葉」であるならば同じ原理が成り立つはずです。「本当に聖書の価値観と矛盾していないだろうか?」「ひょっとしたらサタンによる罠ではないか?」といちいち疑わなければならない、あるいは少なくとも人間の側で再点検しなければならない「預言」などは、そもそも預言と呼ぶに値しないはずです。一度受け入れれば永久に正しいと受け入れ続けることができるものこそが真の「預言」ではないでしょうか。

    ハーベスト・タイムの中川牧師も、「主観的体験」を救いの確信の土台にしてはいけない、神の言葉という「変わらないもの」を土台にしなければならないと指摘します。つまり、自分が救われているかいないか迷いながら生きるのではなく、絶対に信頼できると言えるものの上に立って生きるとき、まるで青空が広がるように救いを完全に確信できるというのです。そのような「土台」となる資格のあるものは、クリスチャンにとって聖書以外には存在しないという結論になるのではないでしょうか。

    • true-ark より:

      コメントありがとうございます。
      まずは、以下の点について、当サイトは大いに同意している立場です。
      「ハーベスト・タイムの中川牧師も、「主観的体験」を救いの確信の土台にしてはいけない、神の言葉という「変わらないもの」を土台にしなければならないと指摘します。」

      その上で、聖書は、預言や幻を否定するようにではなく、吟味するようにと促しています。
      「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(第一ヨハネ4章1~3節)

      Ⅰコリント14:29
      「 預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。」

      つまり、聖書を土台とし、吟味し、良いものであれば受け取れば良いということです。
      確かに、判別が難しいような預言も時々ありますので、その場合は、すぐに鵜呑みにせず、時間の経過と共に、その預言の信憑性が明らかになるかどうかを見守れば良いと思います。

      「つまり、個人に与えられる「預言」というものは結局のところ、人間の有限の頭脳では真偽を完全に見極める方法が存在しないため、常に「本当に神の言葉なのかな?」と自問自答しなければならない性質のものだということになります。」

      この点については、多くの場合、見極める方法が存在するため、ぜひ以下の記事も合わせてご覧になってください。そうすれば、考えがきっと変わるものと思います。
      https://true-ark.com/christ-revelation/

      • Mike より:

        返信ありがとうございます。拝見しましたが、なお不審に思う点があるので、感謝の気持ちを持ちつつもコメントしたいと思います。

        確かに、神が個人に語られる(啓示する)ことはあります。というより、神は、信者も未信者も含め全ての人に対して、何らかの形で少なくとも一度は語りかけをなさっています。あるときは夢を通して、あるときは幻を通して、あるときは友人を通して、あるときは本を通して、あるときはインターネットを通して…などなど、その人の個性を踏まえて語りかけをなさいます。

        だからといって、全ての人が預言者だという考えは聖書にありません。重要なのは「啓示=預言」というわけではないことです。預言とは即ち、神から「預かった」啓示であり、信仰・伝道・生命の普遍的土台となる神の言葉です。神と人間との個人的関係の中で単に「受けた」啓示ではないということです。

        このウェブサイトで取り上げられている事例は、あくまで神と人との個人的交流の中で与えられる「啓示」にあたるものだと思います。そのような啓示については、管理人さんが仰るような「否定ではなく、吟味する」という原則を当てはめて全く差し支えないと思います。

        神が個人に対して何かしら語りかけをしたならば、その語りかけはその人個人が大切にすれば良いのであって、他人が「預言」として重視する必要はありません(もちろん証言してはならないという意味ではありません)。神様は全ての人について、個人的な性格や思考、癖といったものをよくご存知ですから、「各人に適した語りかけ」に腐心していらっしゃいます。つまり、Aさんへの啓示はAさん向きの内容になっているのであり、必ずしもBさんに向いているとは限りません。この点、全ての人の信仰・伝道・生命の土台となる聖書預言とは全く性質を異にします。そもそも聖書は単に知識の書ではなく「いのちのことば」であるという点に留意しなければなりません。

        さて、このように神が個人に与える啓示は、たとえ聖書に直接書かれていない知識が含まれていたとしても、あくまで聖書に由来する知識です。喩えるなら聖書は「土壌」であり、その土壌の上に「木」が生えるわけです。神の啓示は「木」にあたると思います。これは神学的な内容に限らず、隣人とどのように仲良くするかとか社会にどのように貢献するかといったことも含め、全ての有意義な知識は「聖書」という土壌から来ています。

        結論としては、管理人さんの言われるのは神の個人に対する語りかけであり、聖書預言とは厳に区別されるべきものです。また、神の個人的語りかけも、結局は聖書の言葉に由来するものです。聖書は完全であり、それ以外の権威は何も存在しません。

        • true-ark より:

          「だからといって、全ての人が預言者だという考えは聖書にありません。」についてですが、当サイトは、そのようなことを主張はしていません。もっとも預言の賜物は全ての信者が求める事ができますが、預言の賜物を持つことと、預言者としての職務に召されることは全く別問題です。

          また神から個人への語りかけの中には、「このメッセージを他の人にも伝えなさい」と神から命令を受ける場合も多々あるので、そのような場合は、個人的な語りかけを越えて、預言、という性質も帯びることになります。そういう事例は、とてもたくさんあります。

          それ以外の点については、私もその通りだと考えています。

      • Mike より:

        さらに言えば、神から個人への語りかけがあったとき、なるほど本人はその内容を吟味できますが、本人以外の人は吟味できません。あまり言いたくないですが、結局のところ他人の証言は、嘘やデタラメである可能性を完全に排除できないからです。また嘘ではないとしても、啓示の内容や背景に関する細かい事情は分からないので、究極的には真偽を見極めることはできません。

        このことも含め、預言としては聖書のみが完全に信頼できるという「基本」を守るべきだと思います。

        • true-ark より:

          「このことも含め、預言としては聖書のみが完全に信頼できるという「基本」を守るべきだと思います。」

          当サイトは、ずっと前から、その立場の元に情報発信をしていますよ。完全なスタンダードである聖書を元に、預言や幻を吟味すれば良い、という理解です。同列においてはなりません。

  4. JUNJIO より:

    はじめてコメントします。
    私は十年以上前にある個人預言を受けました。何か学位等、教育に関する博士号等を受ける機会がやってきますが、要らないと退けないでチャンスを掴んで挑んで下さいという内容でした。その後、自分なりゆ士業に関する事と受けとめ、何度もマンション管理士を受験しましたが、叶わず、諦めてました。それか、4年程の前のある聖回で個人預言は自身も実現に動かないと成就しまいと語られたのが、胸に差刺さりました。再び士業について思いを巡らせると社会福祉士の資格を取る条件が自分にその時、整っている事が判りました。但し、一年半の通信とスクーリングなどの学びが必要でした。またかなりの金額の学費が必要でした。しかし、全てね難問難題をクリアして、無事に本年、社会福祉士試験に一発合格し、社会福祉士になれました。預言は主からのものと信じています。

    • true-ark より:

      ハレルヤ!預言された人自身も、実現に向けて働きかける必要があるかどうかは、個人預言の内容によってくるでしょうね。JUNJIOさんの場合、「要らないと退けないでチャンスを掴んで挑んで下さい」ということなので、自分の意志も関わってくるケースだと思われます。社会福祉士として、仕事を通して主の栄光が表されますように。

  5. Ohi より:

    こんにちは、以前癒しの記事でコメントさせて頂いたOhiです。

    預言の賜物が廃れるタイミングですが、私の学びグループではⅠコリント12章8節~12節を考察した結果、預言、異言、知識は徐々に廃れ(廃止され)、現代ではほぼ無くなった(限定的にある事はあっても)という見解に達しました。

    黙示録が完成するまではあったと思いますが、(預言者への言及が過去形でも、それ以降に書かれた記事に預言の箇所があるので)空中再臨まで、完全な知識も預言も既に聖書を通して与えられているので、現在は必要なくなったのではと考えました。
    聖書に付け足すことも削ることも赦されないのは、完全だからです。

    >そのときには顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

    この、12節の”そのとき”とは”空中再臨”のことですよね。この節は、完全な知識と不完全な知識に関しての適格な説明がされている箇所です。(10節と12節の”そのとき”は違う”とき”なのでは)
    ”かんぜんなもの”とはイエス様のことではない・・・というのは”かんぜん”も、”もの”も中性で書かれていて、イエス様なら新約聖書ではいつも男性形、形容詞は”彼”だからです。この”かんぜんなもの”は聖書のことで、つまり聖書完成の”とき”に、この3つは終わったと考えるのが自然なんじゃないかなと思いました。

    癒しは言及されていないので、今もまだ続く賜物なのかなと思います。
    ただ、私たちの学びグループの着地点は”祈れば、一人一人が癒しの賜物を持てるということ”ではなく、あくまでもⅠコリント12:29には>皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。皆が癒しの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。 とあるように、与えられるか否かは、聖霊の主権なのでは、という意見が多かったです。

    特にⅠコリント12章10節~の見解は、どう思われますか?長文失礼しました。

    • true-ark より:

      コメントありがとうございます。

      (1)「預言の賜物が廃れるタイミングですが、私の学びグループではⅠコリント12章8節~12節を考察した結果、預言、異言、知識は徐々に廃れ(廃止され)、現代ではほぼ無くなった(限定的にある事はあっても)という見解に達しました。」

      まず、この点についてですが、もっと多角的に情報収拾をされることをお勧めしたいと思います。そうすれば、現代においても、預言・異言・知識の言葉が広くみられることを否定できなくなって行くと思いますし、私の周りでは、実際に日常的に起こっています。お勧めできる本としては、本記事で紹介済みの「神の人」や、「聖霊の現れ」「朝の9時」などです。ぜひ、学びのグループのメンバーで、それらの本に目を通し、その上で結論を出されると良いと思います。

      (2)空中再臨まで、完全な知識も預言も既に聖書を通して与えられているので、現在は必要なくなったのではと考えました。聖書に付け足すことも削ることも赦されないのは、完全だからです。

      預言がある場合、聖書に付け足すことになる、という考えは、落とし穴があると思います。なぜなら、新約聖書に記されているのは、当時に存在していた預言の、ほんのごく一部にすぎないからです。当時、存在していた膨大な預言の中から、聖書に残すべき部分が記録されたわけですが、それ以外の預言については、当時の教会や個人への、聖霊からの助言や励ましでした。ですので、今日、同じような預言が存在していても、聖書に付け足すことにはならないと思います。むしろ神は、教会への励ましとして、聖書の中に「みんなが預言することを望んでいる」と書きました。

      (3)完全なもの、の定義ですが、もし、聖書の完成によって、クリスチャンの知識がすでに「完全に」なっているのであれば、おそらく、このサイトの存在は不要であり、いろいろな教派間の立場の違いもなくなっているでしょう。聖書の完成を持って、「完全な知識が与えられた」という約束は、聖書そのものにはないと思いますが、しかしながら、新約聖書の完成を持って、私たちが神と共に歩み、希望を保つ上で、「十分な知識」は与えられていると思います。
      私は、完全なもの、を、キリストの再臨と共に現れる神の国やその支配全般を意味していると考えています。

      (4)特にⅠコリント12章10節~の見解は、どう思われますか?
      例えば、預言については、該当の聖句において、「ある人には預言〜」と語られていますが、一方で、14章ではパウロは「みんなが預言することを望んでいる」「預言の賜物を熱心に求めなさい」とあります。ヨエル書の預言でも、主は終わりの日に、「全ての肉なる者に」とあり、それをペテロは、キリスト以降の日に適用しています。

      なので、ここには、一見すると、若干、矛盾とも思えるような内容があります。これは、異言についても、癒しについても、同様の事が言えます。(マルコ16章を参照)

      実際に、人によって、どの賜物が強く働くのか、それによってどんな働きに召されているのか、違いはあるでしょう。また、教会の集会の現場において、その時に、どんな賜物が、各人に働くのかには違いがあるでしょう。 ただ一方で、預言・異言・癒し、等については、あらゆる信者が用いる事ができる、という約束も、聖書には見出されるのです。そして、それらは、教会の益となる、良い者であり、神様からのギフトです。

      ぜひ、結論を出される前に、パウロの勧め通り、「熱心に求めて」みてはいかがでしょうか? 神は、善いお方です。
      「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11:13)

  6. いくつかの宗教を勉強中の者 より:

    記事の「『A=B』は、必ずしも『B=A』ではない/聖書をはじめ、文章を解釈する際の落とし穴としてよくあるのが、『A=Bである』が、必ずしも『B=A』とはならない、という点です。」という部分について意見があり書き込みさせていただきます。

    これについては、もし数学の記号を用いて説明したいのであれば、
      「『a∈B』は『B∈a』ではない」
    または、
      「『A⊆B』は『B⊆A』ではない」
    と書き表すことが正しいのではないかと思います。

    なぜならA=BであるならB=Aだからです。

    あるいは、
      「『Aは、B』は、必ずしも『A=B』ではない」
    と表すことがよいのではないかと思います。

    文章で「人間は、哺乳類」と書くことと「人間=哺乳類」とは違いますし、「ホンダは、自動車メーカー」と「ホンダ=自動車メーカー」とは違います。文章のほうの意味を正確に書き下すと「人間という集合は、哺乳類という集合の真部分集合である」「ホンダは、自動車メーカーという集合の要素である」となるのではないでしょうか。言葉の落とし穴ですね。一部分の性質と全体の性質の区別があいまいになってしまいます。

    記事の後の部分でこの論理を用いている文脈を拝見すると、
    「過去形で肯定した部分が聖書にあるからといってその後に起こることを聖書が否定しているのと同じだ、などという反対解釈は成り立たない」
    と主張されているようです。つまり一つの部分集合によってそれが属する集合全体の性質が決まると誤解することが文献解釈の落とし穴となることについて、true-ark様は注意を促したいのではないかと私は感じました。

    もしかするともっと露骨に、
      「『過去に起きた』は、必ずしも『未来には起きない』ではない」
    という内容を直接的に書いてしまうのがよいのかもしれません。

    「預言者の有無、という聖書的テーマについて考える際、まさに重要となってくるのが、このような視点となるのです。」と記事でおっしゃっているように、文献解釈の際の論理の基盤は重要ですので、差し出がましいようですが、まるで論理的に間違っているかのような印象を与えかねない見出し文の表現(「A=B」は、必ずしも「B=A」ではない)にコメントさせて頂きました。

    どうも失礼いたしました。

    • true-ark より:

      コメントありがとうございます。数学の世界における数式の正確な意味について、当方では理解が足りなかったかもしれません。失礼いたしました。追って、内容の修正をさせていただく予定です。また何か、気になる点等ございましたら、遠慮なくお伝えください。引き続き宜しくお願い致します。

  7. 三島 より:

    以前コメントしました、神から啓示を受けたとして25年以上にも渡り活動している人のサイトを紹介します。
    個人的には神からの啓示だと認めたいのですが、同じ位に今のところ、疑問を持ってしまいます。迷走やブレを感じるなどにより。
    管理人さんはこの方の受けた啓示をどう判断されますか?
    コメントはなくて構わないので、特集の記事を書いてもらえたら幸いです。
    この男性は本名(大城まさる)、住所、電話、写真のすべてをもブログに掲載し
    ています。
    これまでのやり方とは違う人で、自分のお金一千万も使って運動を行った人でもあります。
    この方のブログ内の青文字をクリックすると動画が出てきます。
    かなり歴史が長い事もあり、全部を把握したり結果を自分の中で出す時間がかかると思います。

    http://jesus4-25.sakura.ne.jp/yugi/777-999.html
    http://jesus4-25.sakura.ne.jp/kyoukai/666-7.html
    http://jesus4-25.sakura.ne.jp/kyoukai/7-7-7.html
    http://jesus4-25.sakura.ne.jp/kyoukai/1993-4-25-777.html

    • true-ark より:

      少しだけ拝見させていただきましたが、全体的に、何が伝えたいのかがとても分かりづらかった、という印象です。特に、特集記事を作る必要性は感じませんでした。もしも、三島さんが、この方の立場に平安を感じられないようでしたら、無理に信じる必要は無いと思います。

      例えば、以下の動画ですが、神様から4時間の間、コントロールされて、言うことを聞かないと、他人の家の前に行って呼び鈴をならす羽目になった、とあります。愛の神が、なぜ預言者に、全く関係の無い他人の迷惑になるような行為をさせるのかは理解ができません。少なくとも、本物と思われる預言者たちの行動や言動に、こういったたぐいのものがあると聞いたことはなく、聖書的に見ても疑問が残ります。
      https://www.youtube.com/watch?v=lzz7dNjIxbg&t=39s

      • 三島 より:

        私は大城さんのすべてのサイトの記事も動画も真剣に見ましたが神様の啓示なのか、いつわりの霊に動かされているのかあやふやな面を感じないでは今もいられません。

        銀座まるかんの創業者は納税トップのランキングに何年も位置していたという話は検索で確認したので事実です。
        しかし、自社の化粧品や健康食品の売り上げの利益よりも霊感商法による収入が多いのだそうです。
        斉藤氏はキリスト様を侮辱しているし、地獄なんてないと教えるなど聖書そのものについて正確には知らない人だそうで、大城さんは斉藤さんを底に落としても彼を救って聖書を教えて、斉藤氏の天国言葉を広めるのが目標のようです(斉藤ひとりさんは動画も30万件近くアップしていてそれです・・・)。
        今年12月末までには全国の駅前で全国の右翼が斉藤ひとりの霊感商法を凱旋するため、ひとり観音は無残に姿になります。と明確にサイトに書いてあり、もし現実になれば神の啓示だと信じて良いのではと思いますが、今の所はあやふやで、また大城さんのサイと動画には説明が足りない部分も多々あります。
        ただ名前も住所も電話もすべて書いてあり勇気がある人だと思います。

      • 三島 より:

        管理人さんの記事やコメントは全くと言って良い程に完璧で、またキリスト者として姿勢も低く立派な人だと思っています。
        博学や聖書の知識は誰にも負けない程に立派な記事を書かれる人も他にもいますが、それゆえに自分の記事に対して気に入らないコメントや、どうして読者の多くは分からない人ばかりだろうと思って高慢なコメントを返されるキリスト教サイトの管理人さんもいます。
        繰り返しになりますが、そういう人に比べてこちらの管理人さんはとても丁寧に教えてくれるので感謝しているし、また大城さんのサイトや動画をどう思うか、ぶれや迷走がない記事を書かれるのでお尋ねしてみたかったのです。
        掲載してくれただけでも感謝しています。

        • true-ark より:

          励ましのお言葉に心より感謝します。全ての感謝と栄光を主にお捧げします。ある方の活動などに対する見解を述べるには、ある程度の下調べする時間を必要とします。
          現時点では、その方のお考えについて十分に学ぶよう、導かれておりませんので、これ以上のコメントは控えさせていただければ幸いです。

          三島様の学びや働きが、ただ主の霊によって導かれますように。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

          • 三島 より:

            はじめに
            管理人さんコメントを控えてくださる事は構わないし、承知しています。
            私も大城さんの受けた啓示については、まだまだ先を見ない事には分からないと思っています。
            聖書には預言者について書かれたものもかなりあり、その中で大城さんの預言に関してはどれを参考にしていいか決定的な預言が今の所なく、ただ次の聖句になぜか引っかかりました。

            ★もし預言者が欺かれて、言葉を出すことがあれば、それは主である私が、その預言者を欺いたのである。
            私は手を彼の上に伸べ、わが民イスラエルのうちから彼を滅ぼす。
            彼らはその罪を負う。その預言者の罰は、問い求める者の罰と同様である。
            これはイスラエルの家が、重ねて迷わず、重ねてもろもろのとがによって、己を汚さないため、また彼らがわが民となり、私が彼らの神となるためであると、主なる神は言われる。
            【エゼキエル書:14章9から11節】

            なかなか解釈に苦しむ難しい聖句だなぁ。

          • true-ark より:

            エゼキエル書で言及されている偽預言者の場合は、きっと、心の動機が間違っていたために、主が間違った方向へ行くことを許されたのでしょう。
            預言者の正当性の検証は、預言が成就するかどうかや、種々の明白な聖書の教えと一致しているか、という点にありますね。
            また、預言が、各自の中に内住する聖霊の促しと調和するか、という点も吟味することができると思います。
            三島さんの上に祝福がありますように。

  8. パウロの末裔 より:

    聖書の完結によって預言は終わり、
    聖書の言葉から聴くこと以上に
    「神から預かる言葉はない」

    従って現代における「預言」の類を認める人々は、もし一点でも数多の預言を、聖書の中の預言と同等と認めていくなら、結局のところ聖書の絶対権威を際限なく壊していくことにつながることに気づかない人々である。

    • true-ark より:

      コメントありがとうございます。「新約聖書の完結によって預言は終わる」と書いている聖句は存在しません。しかし、主の再臨の時に、預言が終わる、という言及はございます。詳しい点は、全て記事の中で解説しております。

  9. 三島 より:

    私は現代の預言者を出来れば信じたいと前向きに考えている者です。
    ネットの掲示板での私の知る人ですが、私は神の啓示を受けて今日まで献身的な活動をして来たという話や功績には心から尊敬していますが、記事や動画にブレや迷走もある事が合わせてとても気になっている人がいます。
    本当に神からの啓示か、それともサタンの惑わしか
    どちらの結果にするかはその方の今後のあり方次第だとしか言い様がないと
    思います。あのダビデ王も誘惑に負けて神に裁かれていますし絶対と言う保障はありませんからね。
    なので預言の賜物は管理者さんがコメントされているように、あくまで慎重に扱うべきものだと思います。
    管理者さんに、この方の預言の賜物をどう思いますか?と尋ねてみたい程ですが、多分その方のURLを掲載してもコメントは載らないと憶測されるので無理かな。

    • true-ark より:

      慎重な吟味の元、正当性の確認ができれば、積極的に受け入れる姿勢が大切ですね。注意点として、ある人が昨日までは本物の預言をしていたのに、次の日から急に偽物の預言をしだす、ということもあります。預言者の側には、聖書的原則にぶれずに、賜物を用い続ける責任があり、神の意図から離れだすと、悪霊が入り込んでくるからです。ただし、聖書の教えに熟達した人は、それらを見分けることができます。なので、吟味できる人が必要ですね。

      • 三島 より:

        聖書に熟達した人が必要、そのとおりだと思います。
        啓示を受けたという人そのものが熟知していない人が普通ですが、旧約聖書のどこかに書かれていたけど、彼はその場で成長するだろうと・・・なので、熟知とは言えないけど許されるのか???わからない事は多いです。
        啓示を受けたという人に牧師さんも、一般人も心配して忠告する人はいないのだろうかととても侘しく、心配になります。

        • true-ark より:

          聖書には、教会内で預言する時は、吟味する人を用意するよう忠告する記録がありますね。いづれにしても、吟味できる人がいないと心配ですね。
          エターナルライフミニストリーズが発行している「五つの奉仕職」で、ヘーゲン氏が預言者の職務について解説していますが、とても優れた内容で、おすすめできます。

  10. 武州の鳩 より:

    はじめまして。
    ハーベストで学ばれた方が、聖霊の賜物や現代の預言者を肯定されているとは、嬉しい驚きです。
    たくさんの記事を掲載されておられますね、拝読させていただきます。

    • true-ark より:

      はじめまして、当サイトへのご訪問ありがとうございます。ハーベストタイムでは、聖霊の賜物は全く否定されているわけではなく、現代でも存在するものとされています。ただし、預言の賜物などは、否定的に捉えられていますね。私の場合は、聖書そのものや、多角的な視点で探求してきた結果、預言の賜物は現代でも存在する、という結論に至りました。

  11. 哲郎 より:

    カーター氏は、微笑んで言いました。
    「私の部屋に来てください。」
    サムラル氏は、彼のホテルの部屋に行きましたが、到着すると、カーリー氏は次のように言いました。 カーリー氏? 
    預言者と使徒のような人は、現在の時代区分のなかには存在しないという教えを聞いていたので、解釈に困っていました。ありがとうございます。

    • true-ark より:

      誤字がありましたね、失礼しました!
      本記事が、預言者理解に関する助けとなれて幸いです。

  12. まさる より:

    預言の賜物、預言者を受け入れているクリスチャンです。

    最近になって、ネットの中では、今回のテーマについて否定的なクリスチャンがいらっしゃることを知りました。ビックリするのと同時に、とても悲しい気持ちになりました。

    預言の賜物は、大切な神からのギフトと信じている者として、今回の記事は大変励まされました。ありがとうございました。

    • true-ark より:

      昔から、プロテスタントの中には、預言の賜物や、聖霊の数々の賜物を否定する流れが存在しますね。預言は、慎重に取り扱うべき賜物であり、誤った用い方によって弊害が起きたりするのは事実なのですが、それだけに重要な神様のギフトなのだと理解しています。ですので、真正な預言であれば、ちゃんと理解し、受け止める必要がありますね。記事が励みとなったようで幸いです!

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