預言者は現代でも存在しますか?五役者に関する聖書的議論

預言者は存在するか

現代でも、預言の賜物を持つ「預言者」は存在するのでしょうか?このテーマについて、プロテスタントの中では、「現代でも存在する」とする立場と、「現代は存在しない、紀元一世紀でその役割は終わった」とする二つの立場が存在する、と言えます。

キリスト教界には、様々な神学的テーマを巡る議論が存在しますが、その全てが等しいレベルで重要なわけではありません。重要なテーマから、さほど重要でないテーマまで、幅広くあります。そして、本記事で取り上げる「預言者の有無」という議論は、中々重要なテーマであると、筆者は考えます。

もしも、現代において、実際に預言者が存在しないのなら、自分が「預言者だ」と称する全てのクリスチャンは、偽預言者であり、偽りの霊によって惑わされていることになります。そして実際に、預言を肯定するキリスト教の教会において、預言が的中しなかったり、その内容が御心から外れていたりするような、怪しげな預言が存在することは事実ですが、早まって、全ての預言が同類であると決めつけるべきではありません。

なぜなら、もしも神の霊によって預言する預言者が、実際に存在するのなら、「預言者はいない」と主張するクリスチャンは、その神学によって、雑草と一緒に小麦を刈り取ってしまうことになり、結果的に神の預言者を退けてしまうことになってしまうからです。

本記事を通して、読者の方々が、この重要なテーマに関する確かな聖書の答えへと導かれ、聖霊によって祝福されるよう、お祈りいたします。

聖書解釈における重要な注意点

預言者の有無に関する考察を進めていく前に、まずは聖書解釈において重要な基準を確認しておきたいと思います。

ある教理が、「絶対的に正しい」と主張する場合、そこには極めて慎重な態度が求められます。なぜなら、教理の絶対性を主張するなら、その教理に反する人々を裁くことにもなるからです。そして、その慎重さを考慮した場合、教理の絶対性を唱える際の必須条件として、次のような点を挙げることが適切であると、筆者は考えています。

それは、その教理を教える箇所が、

  • 単一の聖句だけでなく、複数の聖句において示されていること、
  • 一貫性・明瞭性を持って示されていること、

さらに、もう一つを加えるなら、

  • その真理が多角的な視点で論じられていること、

となります。

例えば、聖書が「信仰」という言葉を使う時、それがどんな信仰のことを言っているのか、という論題がある場合、聖書的な信仰の本質を定義する必要があります。そして、その時に有効な聖句としては、ヤコブ2章を挙げることができます。ここでヤコブは、単一の聖句だけでなく、14節~28節全体に渡って、「真の信仰には必ず行いが伴う」という点を、多角的な視点で論じており、それによって、読者が誤解をする余地を与えていません。またこの点は、マタイ7章でイエスが、「父の御心を行う者が天の御国へ入る」と語っている言葉とも、一貫性を持って調和します。

このように、複数の聖句や節において、一貫性・明瞭性を持って示され、かつそれが多角的な視点で論じられているならば、正当な教理として確立するに値する、と言うことができるでしょう。もっとも、このような基準は、筆者だけでなく、多くの神学者たちにとっても、同意していただける点であると考えています。

根拠1:預言者への言及が過去形である

該当の聖句と根拠

預言者の存在が、紀元一世紀に終わったとする考える第一の聖書的根拠は、以下の通りです。

「それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。」(第二ペテロ3:2)

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。4それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。」(ユダ3~4)

「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。4 そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。」(ヘブル2:3~4)

これらの聖句においては、預言者への言及が過去形になっていることから、それ以降の時代において、預言者による預言は存在しない、とされています。しかし、この解釈には、複数の落とし穴が存在する、と筆者は考えています。

執筆年代からの考察

第一に、引用されている聖句の書簡の多くは、専門家たちによって、紀元90年頃までに執筆されたと考えられていますが、ヨハネの黙示録の執筆年代は、明らかにそれよりも後となります。ですから、もしも「預言者への言及が過去形であるから、それ以降の預言は存在しなくなる」と考えるなら、ヨハネの黙示録は、存在してはならない預言書となるのです。

加えて、以下の聖句を確認すると、紀元90年代においても、ヨハネだけでなく、他にも真の神からの霊感の表現が多数存在していたことが伺えます。それゆえに、使徒ヨハネは、「神からの預言的な啓示は存在しなくなる」と忠告せずに、むしろ神からの啓示と悪霊からの啓示を、「キリストをどのように告白するか」によって、識別するようにと警告しました。

「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。2 神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。3 イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。」(第一ヨハネ4:1~3)

歴史的記録と、普遍的真理とを分ける

第二に、「神が預言者たちを通して語られた」というのは、単純に過去の事実に関する歴史的記録であり、それ以降の時代においても、神が継続して語るかどうかは、全く別の問題となると考えられます。つまり、「神は語られた」とは書かれていますが、「神が語らなくなる」とは書かれていないのです。

この点はまさに、「A=B」が、必ずしも「B=A」とはならない、ということの事例だと言えます。

そして、以上の点を考慮すると、「預言者への言及が過去形となっている」という点は、現代は預言者は存在しない、という主張の根拠として、十分では無いことがわかります。

根拠2:預言書が教会の土台であることについて

該当の聖句

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ2:19~20)

ここでは、あなた方(エペソ教会)が、「使徒と預言者という土台」の上に建てられている、と説明されています。建築においては、一度土台を据えたら、それ以上土台を据えることはありません。それで、「預言者が教会の土台である以上、それ以降の時代には存在しないはずだ」というのが、現代の預言書の存在が否定される第二の根拠となります。

加えて、この解釈は「使徒はいない」というもう一つの類似する主張の根拠ともなります。

第一の問題点

最初に考慮した「預言者への言及が過去形である」という点が、預言者はいないとする主張の根拠とならない場合、残る聖句は、上記で取り上げたエペソ2:20に限定されてきます。すると、ここでまず問題となるのは、本記事の冒頭で取り上げた「教理の絶対性を主張する際の重要条件」が満たされないことになる、という点です。

そして、その条件が満たされていない、ということは、「預言者は教会の土台である」という聖句を、別の視点で論じた際に、別の解釈の可能性が生じ得る、ということを意味します。

預言者の役割は、教会の土台だけなのか?

預言者はどのような意味で教会の土台となったのか

「使徒や預言者が普遍的教会の土台となった」、と言う場合、それは、一世紀の使徒たちや預言書たちが、初代教会の形成において重要な役割を担ったことを意味します。その時代は、律法の時代から、恵みの時代への移行期であり、その移行に伴う多くの新しい啓示が必要とされました。そして、それらの啓示は、使徒や預言者たちを通して与えられ、その重要なものは、新約聖書の正典として継承されていきました。

ですから、預言者たちの土台として役割は、主にその時代に彼らに与えられた「恵みの時代の啓示」(新約時代の啓示)と関係しています。そして実際に、恵みの時代の重要な啓示は、初代教会の時代に、既に十分に明らかにされました。

ですので、もしも、新約聖書が定義する預言者の役割や、彼らが預言した内容が、恵みの時代の新たな啓示の伝達に限られていたのであれば、それは「預言者はもう存在しない」という立場を肯定するものとなるでしょう。

しかし、実際に新約聖書を読んでいくと、聖書時代の預言者たちの役割、そして彼らが預言した内容は、恵みの時代に関する啓示のみならず、より広範囲に渡ります。

土台以外の預言者の役割

例えば、預言者アガボは、当時の大飢饉や、パウロがエルサレムで捕らえられることなどを預言しました。これらは、恵みの時代の啓示とは何も関係なく、当時の時代の信徒たちの必要に応えたものでした。すると、この手の助けは、一世紀だけでなく、どの時代においても必要とされてきます。

「その中の一人で名をアガボという人が立って、世界中に大飢饉が起こると御霊によって預言し、それがクラウディウス帝の時に起こった。」(使徒11:28)

「かなりの期間そこに滞在していると、アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。11 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」(使徒21:10~11)

また、パウロはコリントの信徒への手紙の中で、預言の実例について触れる時、預言の賜物を持つ人々が、人々の隠れた罪を明らかにする、という点を述べました。

「しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、25 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」(第一コリント14:24~25)

このような預言の内容も、恵みの時代の啓示に関わるものではなく、どの時代の教会や信徒の間でも、あって良い賜物となっています。ですので、以上の点を考慮すると、預言者は教会の土台を構成したが、その役割は、土台以外の様々な分野にも及ぶ、という事実が見えてきます。

預言の賜物が廃れるタイミング

パウロは、預言の賜物が「いつ」消滅するのかについて、第一コリント13章において、その具体的なタイミングを説明しています。

「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11       私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12            今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

この一連の文章から、預言の賜物が廃れるタイミングは、「完全なものが現れる」時であることがわかります。またパウロは、その時について、「その時には顔と顔とを合わせて見る」や、「私も完全に知ることになります」と述べているので、それは、「その主の再臨によって私達が栄光の体へと変えられて、主の前に立ち、顔と顔を合わせて見る時」のことを述べていると考えられます。

ですから、主の再臨前までは、依然として預言の賜物は継続していく、というのが、この聖句から読み取れる事実だと言えます。また、共に列挙されている異言や知識の賜物は、現代でも明らかに存在していますので、解釈の一貫性を考慮するならば、「異言や知識の賜物が現代でも存在している以上、預言の賜物も存在する」と理解するのが、自然な解釈となってきます。

教会を建て上げるための五役者の役割

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:11~13)

ここでは、キリストが使徒・預言者・伝道者・牧師・教師という役職をお与えになった理由が、(1)キリストのからだを建て上げるため、(2)全ての信者が御子の知識の一致に達し、キリストの身たけにまで達するため、であると書かれています。

世界中に存在するキリストの体は、今でもこの目的に従って建て上げられている最中であり、主の満ち満ちた身たけに達するよう励んでいる最中です。そして、その建てあげる働きは、異邦人の完成のなる時まで、これからも続いていくことになります。(ローマ11:25)

ですから、使徒や預言者の役割が、聖書的に、土台を据えること以外にも及んでいるのであれば、むしろそれらは、キリストご自身が必要に適って教会にお与えになっているものであり、私たちはその働きを尊重しなければならないことになります。

また、旧約聖書の歴史の流れを見ていくと、重要な預言は、時代の転換点において集中していますが、そうでない時期においても、神の民の堕落が進む時に、神が預言者たちを遣わして、悔い改めのメッセージを語らせる事例が多くあります。

そして、現代は世界中のキリスト教において、背教的な教えが広まっている時代であり、主の再臨も迫っています。ですから、キリストの体を建て上げるための「預言者の必要性」という観点で考える時に、神が預言者たちを通して語りかける必要性は、いよいよ高まってきているのではないでしょうか。

預言の賜物を持つ人々

もしも聖書から、「預言者は存在しない」ということが絶対的に証明できない場合、その立場を貫くためには、世界中に存在する「預言者」と名乗る人々の預言を詳しく調べ、それらが非聖書的であることを論証しなければなりません。しかし、それは現実的には不可能です。

一方、世界中で報告される預言の賜物を持つ人々の情報を調べていくと、確かにその賜物を持つ人々がたくさん存在している、という事例を見出すことができます。以下に、その実例を示します。

アルフレッド・ハワード・カーター

ハワード・カーター(1891~1971)は、ペンコテステ運動では著名な人物であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの創立メンバーでもありました。彼は、宣教師として、世界中を周って伝道をしましたが、その働きにいつも同行していたのが、レスター・サムラル、という人物です。サムラル氏が、カーター氏の宣教に同行するようになったのには、次のような背景がありました。

サムラル氏が、テネシー州のビルで集会に参加している時、神が彼に次のように語られました。

「この集会を終わりにしなさい。アーカンザス州ユーレカ・スプリングスに行き、三州合同のキャンプ集会に出なさい」

サムラル氏が、その合同キャンプに着くと、そこの説教者の中に、ハワード・カーター氏がいました。サムラル氏は、集会後、カーター氏がホテルに行こうとしてそばを通った時、彼の手を掴んで、突然、次のように言いました。

「先生、私はあなたと一緒にどんな高い山々でも行きます。私はあなたと一緒に広大な平原でも行きます。私はあなたと一緒にどこの砂漠にでも行きます。私はあなたと一緒に海の荒波でも通って行きます。あなたが年老いたときも、私はあなたを助け、あなたを愛し、あなたを祝福します。」

サムラル氏は、自分がしゃべったことに気づくと、頭を振って、こう言いました。

「私はそんなこと全然しません。私はあなたのことを知りませんし、あなたも私のことを知りません。どうか、私をお赦しください。こんなことを言ってしまってすみません。確認しておきたいと思いますが、私はあんなことを今まで、一度も言ったことが無いんです。」

カーター氏は、微笑んで言いました。

「私の部屋に来てください。」

サムラル氏は、彼のホテルの部屋に行きましたが、到着すると、カーター氏は次のように言いました。

「私は、預言したことを本に書き留めており、私が何を語ったかが誰にでもわかるようにしています。二年ほど前、ロンドンにいた時、私がひざまづいて祈っていると、神は私に、世界の国々に出かけて行って、御霊の賜物について教えよ、と言われました。それから神は、私にこう言われました。

『私は、あなたのために一人のコンパニオンを備えます。彼ははるか遠くからやって来ます。彼は見知らぬ人としてやって来ます。そして彼は、このように言います。「私はあなたと一緒にどんな高い山々でも行きます。私はあなたと一緒に広大な平原でも行きます。私はあなたと一緒にどこの砂漠にでも行きます。私はあなたと一緒にあらゆる海の荒波でも通って行きます。」』

そして、カーター氏は続けて、サムラル氏が道で彼に言った言葉を全部引用し、最後に次のように言いました。

「私と一緒に旅をしていただけますか?神は私に一人のコンパニオンを約束なさいました。私はあなたのことを知りませんが、神はあなたのことをご存知です。もし神があなたのことをご存知なら、私はそれで十分です。」

こうして、カーター氏とサムラル氏は、世界中の国々に宣教をして旅をするようになりました。そして、高い山々、広大な平原、砂漠、海の荒波を通って行き、カーター氏が書き留めていた預言の内容は、全てその通りになりました。

韓国のベストセラー『神の大使』より

本の紹介

韓国の超ベストセラー、『神の大使』は、前駐中国大使という経歴を持つ韓国人クリスチャンの金夏中(キム・ハジュン)によって書かれた書籍です。この本の中には、預言の賜物を持つ人が複数人登場し、預言の内容や、それらがどのように成就したのかが詳細に記録されています。本の紹介文は、次のようになっています。

著者がどのように神に頼り、どのように祈りに答えられたかは、多くの読者を感動させた。この本によって、多くの読者が聖霊の中で切に祈り、神とまことの関係を持とうと努力するようになった。・・・この本は韓国で出版されると同時に大きな反響を呼んだ。2010年には韓国の代表的なクリスチャン日刊紙が選定する「キリスト教ヒット大賞」を受賞し、2011年には韓国キリスト教出版協会とキリスト教書店協議会が集計したキリスト教総合ベストセラー1位に選定された。そして、著者は2011年韓国キリスト教出版文化界で最も権威ある連合期間の文書宣教協力委員会が選定する「今年の著者賞」を受賞した。

キム伝道師

ある日、著者のキム・ハジュン氏の元に、キム伝道師が来ると、その伝道師は、ハジュン氏の妻に、部屋中にティッシュをばらまくよう指示した。そして、キム伝道師は、祈り出すと、次のような神からの語りかけを話しだした。

「愛する息子よ!私は、あなたがどれほどわたしを愛しているかよく知っている。私は、あなたがわたしに祈っているのをすべて見ている。あなたが早天礼拝でわたしに祈っているのを見ている。自動車の中で祈っているのを見ている。ソファに座って祈っているのを見ている。また、空いている部屋で立ったまま祈っているのもすべて見ている。」

ハジュン氏は、その言葉を聞きながら、それまでの人生で最も激しく泣き出した。

「私の普段の祈りはキム伝道師にも伝えてもない。私だけが知っている秘密のはずなのに・・その時はじめて私は、神が私の祈りをすべて聞いておられることを知った。」(40~41頁)

ここで登場するキム伝道師は、ハジュン氏の隠れた秘密を、神が彼に語られた言葉から明らかにし、その時に彼がまさに必要としていた励ましを与えています。そして、キム伝道師の予告通り、部屋中にばらまかれたティッシュは、全て涙を吹くために使い切られました。

隠れた秘密を明らかにし、励ましたりすることは、聖書中に見られる典型的な個人預言のタイプです。

パク・ジョンヒ執事

2003年2月の中旬頃、ハジュンシ氏の家に、パク・ジョンヒ執事が訪れ、共に夕食をとり、祈りをしていたところ、パク執事が口を開いた。

「大使はお酒を飲まれますか?」

「はい、通常は飲まないのですが、公式的な行事があるときには、ワインを一、ニ杯は飲みます。」

「もうこれからはワインも飲むことができなくなりますよ。」

「なぜですか?」・・

「今、神様が幻を見せてくださっているのですが、大使がずっとお酒を吐き出しています。これからいつかお酒を引き出す日が来て、それからは一滴も飲めなくなるでしょう。その後、大使にいろいろと驚くべき変化があるはずです。」

それから二年以上が経ち、2005年12月に大使官邸で開かれた晩餐会にて、ハジュン氏は突然、普段飲んでいたワインが飲めなくなり、吐き気がこみ上げるようになった。そしてその時、前にパク執事から聞いていた預言を思い出し、聖霊がハジュン氏の中から酒を追い出されたことを悟った。(71~74頁)

パク執事が幻を通して語った預言は、二年の歳月を経て、ハジュン氏の上に正確に成就しました。さらに、その後にハジュン氏の身に変化が生じる、という点も、正確に成就していきました。

キム・ハジュン氏自身が、神の声を聞き始める

「次の日の夜、自分の部屋で鍵を閉めて祈っていると、誰かに後ろから話しかけられたような気がした。・・その時、私は聖霊が語っておられるのではないかという気がした。すぐにペンと紙を用意して、異言で祈り始めた。そして、私の中で聞こえる言葉を聞いた。祈りが終わってみると、とりなして祈っている人についてのことのようだったが、私が知らなかったその人の職場や家庭での問題、子供についての内容が書かれてあった。

私は、そのようにして神の言葉を受けるようになった。そして、その人に会った時に、祈っている時に与えられた言葉を慎重に伝えたり、祈った内容が書かれた紙を渡したりした。

その影響は、私が思った以上に大きかった。言葉を伝えられたほとんどの人たちは、驚きのあまりどうしていいかわからなくなっていた。その場で涙を流す人もいた。その人たちは神が自分を燃え盛る炎のような目で見守ってくださっていることに感激し、喜んでいた。それから今まで、数え切れないほど多くの人々の前に神の言葉を伝え、その度に神が生きておられることを経験した。そして、私は、誰が何と言おうと、揺り動かされない信仰と大胆さを持つことができるようになった。」(74~75頁)

聖霊がハジュン氏からお酒を追い出し、新たな賜物を与えて以降、神は彼に数え切れないほどの直接的な語りかけをするようになったようです。また、それらの言葉は、ことごとくそれに関わる人々の秘密を正確に明らかにし、彼らに慰めや励ましを与えました。

参照元の本「神の大使」は、韓国国内で、非常に多くのクリスチャンたちが読み、その内容の真正さが広く認められています。ですので、韓国内のクリスチャンの中で、預言の賜物を信じるクリスチャンは、かなりの数に上るはずです。

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