写本の信頼性―旧新約聖書の原典は正確に書き写されてきたのか?


新約聖書の書簡を書くパウロ

今日私たちが読んでいる聖書は、オリジナル(原典)の内容を正確に反映していると言えるのか?この点は、17世紀以降に合理主義が生まれ、自由主義神学が台頭するようになって以降、たくさんの批判を浴びてきた。

批判の根拠の中でも最大と言えるものは、聖書の原典の喪失だと言えるだろう。つまり、オリジナルが無いのだから、現代の聖書の内容が必ずしも原典の内容と一致しているとは限らない。むしろ、歴史的にコピー(写本)が作成されていく中で、多くの改ざんがなされ、その内容が書き変えられていったのだ、と批判を受けてきたのだ。

このような批判を展開してきたのは、無神論者や自由主義神学者たちをはじめ、イスラム教やスピリチュアリズムなどをもたらした「霊による啓示」も含まれる。

もしも、聖書の内容が本当に書き変えられてきたのであれば、キリスト教の信仰の基盤は大きく揺らぐことになるだろう。しかし逆に、聖書が正確に筆写されてきたという確かな根拠があるのなら、その信頼性は確かなものとなり、多くの批判を一掃することになるだろう。

そこで今回の記事では、「写本の信頼性」という点に的を絞って、この疑問に対する確かな答えを提出していきたい。

聖書の成り立ちを理解する

用語の解説

写本の信頼性を説明していく前に、まずは最低限知っておくべき用語の説明をする。

原典:著者が書いたオリジナルの文書のこと。聖書の原典は、主にパピルス紙や獣皮紙など腐朽しやすい書写材料に手で書かれた。

写本:原典を書き写したコピーのこと。写本作成作業を専門的に行う人を「写字生」と言う。聖書の写本を作成した多くの写字生は、注意深くその作業を行った。

本文批評:古典作品などの原典を復元するために、伝本(写本)どうしを比較したり語学的に検討したりすること。(デジタル大辞泉)他には、「下等批評」や「テキスト批評」などの言い方もある。聖書研究の視点からは「聖書批評学」とも言われる。

定本:本文批評によって、写本を比較・検討して誤りや脱落などを正し、その本の最初の姿に復元するように努めた書物のこと。今日、旧約聖書の底本として多く用いられるのはドイツ聖書協会発行の「ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア」であり、新約聖書の底本として用いられるのは「ネストレ・アーラントの校定本」となっている。

聖書の成り立ちと本文批評

聖書は、今からおよそ3500年前~2000年前にかけて徐々に記されていった書物の集大成だ。合わせて66巻に上る全ての書物は、元々特定の著者によって原典(オリジナル)が作成され、その原典を写字生たちが書き写して写本を作成していき、今日までその内容が語り継がれるようになった。

では、聖書の各書物の原典はどこに存在するのかというと、現代は全ての原典が失われており一つも残っていない。この事実が、多くの批判の原因となってきたことは、本記事の冒頭で説明した通りだ。

では、原典が無ければ写本の正確性を判別できないのか?というと、答えは完全に「ノー」だ。聖書の原典が無くとも、歴史的に多くの専門家たちが多大な努力を払って本文批評を行ってきたおかげで、原典の内容はほとんど誤りの無い形で復元されているからだ。

今日私たちが手にしている聖書は、下等批評によって十分に復元された定本を元に、各国の言語に翻訳されたものだ。だから、私たちは安心して聖書を読んで、その記録を信頼することができるのだ。

以上の点を踏まえ、これから旧約聖書と新約聖書、それぞれの写本の信頼性について、もう少し詳しく説明をしていきたい。

旧約聖書の写本の正確性

マソラ学者によるマソラ本文の正確な筆写

旧約聖書の本文は、ユダヤ人の書記(ソフィリーム)と呼ばれる人たちによって、繰返し写本が作られ、受け継がれてきた。そして中でも、ユダヤ教の「マソラ学者」として知られる専門家たちによって、写本の誤りを防ぐための特別な配慮と工夫が取られてきたものを「マソラ本文」と呼ぶ。

全てのマソラ本文には、写本に誤りが生じた時にそれが明らかになるように、「マソラ」と呼ばれる注釈が付いている。そしてこの注釈には、ある書物が全体で何文字あるのか、あるいは全体でいくつの単語があるのか、ある単語は全部でいくつあるか、ある書物のちょうど真ん中の文字はどれになるのかといったことが書かれており、誤りを防ぐための最大限の努力が払われてきた。

今日、世界の様々な図書館に残存しているヘブライ語聖書の全巻・あるいはその一部の写本のほとんどはマソラ本文であり、その数はおよそ6,000点に上り、どれもが西暦10世紀以降のものだ。その中でも標準本文として認められているのが、「レニングラード写本」であり、その流れを汲む「ビブリア・ヘブライカ」は、世界中の旧約聖書の定本となっている。

旧約聖書の写本、どんな批判があるか?

旧約聖書の写本の正確性に対する批判の中でも主だったものは、イザヤ書とダニエル書に対するものだ。これらの預言書では、キリスト(救い主)に関するものや、世界の終末に時代にかかわる預言が多く含まれているが、それらの預言があまりにも詳細に成就してきたため、多くの懐疑的な人々から、その真正性を疑われてきた。

質の高いことで定評のあるマソラ本文だが、現存する写本がどれも紀元10世紀以降だということで、自由主義の聖書批評家たちからは、その内容が原典を正確に反映していないのではないか?と疑問を投げかけられてきたのだ。

別の批判として、旧約聖書の正典全体は、そこに書かれている出来事のずっと後に、伝統的に信じられている著者ではなく、無名の記者によって書かれたのであり、多くの時代錯誤と誤りを含んでいると、多年にわたって批判されてきた。

この議論の中でも主だったものは、モーセ五書に対するものだが、写本の伝達の信頼性とは若干テーマが異なるので、本記事では追って簡単に解説を加えたい。そして今回の記事では、写本の信頼性に対する批判として、イザヤ53章で語られている「苦難の下僕」の預言に焦点を当てていく。

イザヤ53章「苦難の僕」のメシア預言

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。・・・9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」(イザヤ53:5-9)

以上は、イザヤ53章の預言の一部だが、(1)メシアが罪のための犠牲として刺し通されて死ぬこと、(2)その墓が悪人と共に設けられ、(3)金持の墓に葬られること、などが預言されている。他にも、53章全体の預言が、イエスの十字架~復活によって成就する内容となっている。

そしてこれらの預言は、(1)イエスが十字架の上で実際に刺し通されて亡くなったこと、それが罪の贖いのためであったこと、(2)またイエスの処刑の際は両脇に二人の犯罪人が共に十字架に付けられていたこと、(3)処刑後にはアリマタヤのヨセフと呼ばれる裕福なユダヤ人の議員が彼の遺体を引き取って自分の墓に収めたこと、などが歴史上明らかとなっており、新約聖書の記録からその預言の成就を確認することができる。

イエス・キリストは聖書で預言されていた救い主なのか?

しかし、このような預言の詳細の成就は、信仰の無い懐疑的な人々からは疑いの目で見られてきた。そこで彼らは、イザヤ53章の預言は紀元前八世紀に書かれたものではなく、イエスが十字架に付けられた紀元一世紀以降に意図的に書き加えられたのだと主張してきたのだ。

そして、イザヤ書の1~39章を紀元前八世紀の「第一イザヤ」、40章以降はより後の時代に「第二イザヤ」によって「預言が成就したかのように」書かれたと考える「複数イザヤ説」が浮上した。そして、当時現存していた最古の旧約の写本が紀元10世紀以降(AD1000年以降)のものであったため、その懐疑的な立場は多くの人々から受け入れられてきた。

しかしこの批判は、20世紀最大の考古学的発見と言われる「死海写本」によって、見事に誤りであることが証明されることとなる。

死海写本の発見(死海文書)

死海写本は、今からおよそ60年以上前に、ベドウィンの羊飼いがとある洞くつに一つの石を投げ込んだことがきっかけで発見された。その少年は、投げた石が土器の壺のようなものに当たって割れる音を聞いたが、まさにその割れた壺のようなものの中から、古代の写本が発見されたのだ。

「死海北西岸の洞窟群で、1947年以降複数回にわたり発見されたヘブライ語、アラム語で書かれた古文書群の総称。「死海文書」ともいう。紀元前3世紀ごろ~紀元1世紀ごろに成立したとみられている。クムラン教団修道院跡で多くの文書が発見されたことから「クムラン文書」「クムラン写本」ともいう。」(デジタル大辞泉プラス)

1947以降、クムラン洞穴の調査によって次々と発見された古代写本の総数は、およそ700点にも上り、20世紀最大の考古学上の発見とも呼ばれるようになった。そしてこの死海文書の中に、旧約聖書のイザヤ書の完全な写本が、一つの巻物として出てきたのだ。

死海文書のイザヤ書の巻物

死海文書のイザヤ書の巻物

死海周辺で見つかったこのイザヤ書の写本は、紀元前100年以前のものと判定され、最古の写本であることが認められたと同時に、当時認められていたイザヤ書の本文の内容とあらゆる細分に渡ってほぼ完全に同一であることが明らかとなった。存在する極少数の相違もほとんどが単語の綴りの問題であり、実際の意味の不一致は一つも無かったのだ。

この発見によって、イザヤ書は間違いなくキリストの誕生以前に一人の著者によって書かれたことが明らかとなり、53章のキリストの預言に対する批判は一掃された。また、一つの巻物として発見されたことにより、イザヤ書が複数の著者によって書かれたとする「複数イザヤ説」も論破されることとなった。

さらに、発見された死海文書群は、イザヤ書だけでなく旧約聖書のほぼ全てを含んでおり、それらの古写本の内容は、現在の「標準本文」の内容と、千年以上もの長い期間を空けているにも関わらず、本質的に同一であることが確認された。

結論として、旧約聖書全体は、ユダヤ人の写字生たちによって極めて注意深く正確にコピーされてきたのであり、現在私たちが読んでいる旧約聖書が、原典の内容をほぼ正確に反映していると考えて良いのだ。

モーセ五書への批判「文書説」について

旧約聖書の写本の真正性について、最後にモーセ五書に対する批判を簡単に取り上げたい。モーセ五書は、ユダヤ人の中では、伝統的にモーセ一人によって書かれたと信じられてきた。

ところが、十七世紀以降の自由主義神学者たちによって、モーセ五書がモーセ一人によって書かれたものではなく、ずっと後に書かれた複数の文書を融合させたものだと主張されてきた。それらの複数の文書とは、ヤハウェ文書(J文書)、エロヒム文書(E文書)、祭司文書(P文書)、申命記文書(D文書)の四つから成っており、バビロン捕囚期以降に今の形に編纂されたと考えられるようになったのだ。

この文書説に対する反論は複数挙げることができるが、特に注目に値する発見が1980年になされた。この年、エルサレムにあるヘブライ大学で、モーセ五書の語彙のコンピュータ解析が行われた結果、五書は全て同一の著者(編纂者)によって書かれたものであることが確認されたのだ。

したがって、五書が全てモーセ一人による著書であると信じてきたユダヤ人の伝承は正しかったのである。

新約聖書の写本の信頼性

新約聖書の写本―どんな批判があるか?

旧約聖書同様、新約聖書においても、その原典は今日存在しない。原典の内容は、キリストを信じる写字生たちの手によって、歴史的に書き写されて継承され、今日に至っている。

そこである人々は、今日現存している新約聖書の写本には多くの誤りが含まれており、原典の内容を正確には反映していないと主張する。

また、今日の新約聖書の内容は、後の時代の教会がその権威を維持するために、教理に合うように書き換えた、そして教理に合わない書簡は新約聖書の正典から排除した、とも主張する。

本記事ではこれらの批判に対して、新約聖書研究の世界的な権威であるブルース・M・メツガー博士の証言を参考に、確かな答えを提示していきたい。

写本の正確性を示す三つの証拠

新約聖書の写本数の多さ

今日の新約聖書が原典の内容を正確に伝えていると言われる最も重要な根拠は、その「写本の多さ」にある。まず、ギリシア語で書かれている写本の総合計は5664にも上る。さらに、ラテン語のウルガタ聖書の写本がおよそ八千から一万、エチオピア語、スラブ語、アルメニア語の翻訳本が合計八千あり、全体では二万四千もの手書き写本が残されているというが、この数字は他のいかなる古代文献とも比較にならない。

例を挙げると、聖書の次に多くの写本が残っている古代文献は、古代ギリシャでバイブルとして読まれていたホメロスの「イリアド」であり、現存するギリシャ語の写本は650部を切っている。また、他の有名な「タキトゥス」や「ガリア戦記」などの著名な古代文献でさえ、その写本数は僅か20程度である。

ではなぜ写本数が多いと信頼できるのだろうか?それは、同一の写本が多いほど、特に違う場所から同一の写本が見つかったという事例が多いほど、それらを比較研究し、原典の内容を推察しやすくなるからだ。例えば、ヨハネの福音書の1章1節に対し、ある地域の写字生の何人かが意図的な改ざんを行ったとしても、別の地域の写字生が全く同一の改ざんを一様に行う、ということは確率的にまずあり得ない。だから、別の地域で作成されたヨハネ福音書の写本も多数見比べることができれば、それだけどの部分が原典通りなのかを見分けやすくなっていく。そして、見比べれる写本数が多ければ多いほど、原典通りに再現できる確率は高まっていくのだ。

教会教父による文書の存在

実は聖書の場合、原典の内容を再現できていると確証できる更なる強力な理由がある。それが、「教会教父による膨大な著作の数々」だ。1世紀末~3世紀に活躍した著名な教会の指導者たちは、新約聖書の教えを説く膨大な著作を残しており、それらの著作で引用されている新約聖書の文章だけで、新約聖書全体をカバーできると言われている。つまり、仮にギリシア語の写本や初期の翻訳版をすべて失ったとしても、教会教父に文献から新約聖書の内容を再現できるのだ。
「それに、仮にギリシア語の写本や初期の翻訳版をすべて失ったとしても、『教会教父』と呼ばれる人々が残した聖書注解や説教、手紙などからその内容を再現することも可能ですね。」

原典と最古の写本の時間的隔たり

次に重要な要素が、聖書の原典と現存する最古の写本との時間的隔たりだ。当然のことながら、この時間的隔たりが少なければ少ないほど、写本の内容の信憑性が増していくこととなる。

新約聖書の場合、現存する写本と原典との時間的隔たりが30~300年程であるのに対して、他の古代文献の多くは、500年~1000年もの時間的隔たりがあるのだ。既に挙げたタキトゥスやガリア戦記などの著名な古代文献も、その時間的隔たりは、およそ900年に及ぶことからも、聖書との信憑性の大きな違いが容易に理解できるだろう。

以上に挙げた二つの点「写本の数が多いこと」「原典と写本との時間的隔たりが短いこと」を踏まえた上で、ブルース・M・メツガー博士は次のように語っている。

「(他の有名な古代文献と比べて)大変優れております。ですから、自信を持って、聖書の内容が正確に筆写されてきたと言うことができます。特に、他の古代文献と比べた場合、正確さは顕著になります。

写本同士の間違いは教理に影響したのか?

新約聖書が他の古代文献よりも遥かに正確に筆写されてきたとしても、各写本を比較した時に、ある程度の誤りが混入してきたことは、本文批評によって明らかになっている。

そして、ある試算によれば、新約聖書の写本同士の相違点は20万にも上るという。しかし、その相違点をどのように計算したのか、という問題を考えると、その数字には若干の誤解がある。例えば、二千の写本に一つでもスペルミスがあれば、相違点が「二千」として計算されてしまうのだ。

とはいえ、こうした相違がキリスト教の教理に影響を与えてきたことは無かったのだろうか?写本同士に存在する相違によって、信仰面での真実性が揺らぐような教理はどれくらいあるのか、という質問に対して、ブルース・M・メツガー博士は次のように断言している。

そういう教理は一つも存じ上げません。・・一つもありません。」

「エホバの証人の信者が訪問伝道に来て、『英欽定訳聖書には、ヨハネの手紙第一5:7~8節に、「父とことばと御霊である。この三つが一つとなる」とありますが、最古の写本にはこうした文章はありません。だからあなたの聖書は間違っています』と言ったとしましょうか。

これは事実だと思います。・・・しかし、だからといって、聖書ではっきりと証言されている三位一体の教理が否定されることにはなりません。・・・パウロはコリント人への手紙第二の最後で『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊なる交わりが、あなたがた全てとともにありますように』と書いています。三位一体を示す聖句は他にもたくさんあります。」

メツガー博士は、写本同士の相違があったとしても、それは重要視するべきことではなく、どちらかと言えばマイナーな問題であることを確認した上で、さらに次のように加えている。

相違点についても、研究者たちが最新の注意を払いながら、もともとの意味にまでさかのぼって解決しようとしています。比較的重要な相違点も、それで教会の教理が覆されるというようなことはありません。

正典研究―意図的に排除された書は無かったか?

仮に新約聖書が正確に受け継がれ、信頼性において他の古代文献の追随を許さないとしても、そこにイエスの全体像が描かれているという保証はあるのか?そして、新約聖書二十七書が最高かつ信用できる情報の集大成だと言い切れる理由はどこにあるのか?教会が、自分たちにとって不都合なイエス像や真実の情報を含む書物を、意図的に正典から排除した可能性は無いのだろうか?

正典を決定する際の三種類の判断基準

初代教会の指導者たちは、聖書に収めるべき文書を決める上で、以下の明確な三種類の判断基準を持っていた。

(1)使徒的な権威があるもの:使徒自身によって書かれたものか(マタイ・ヨハネ・パウロ・ペテロなど)、あるいは使徒たちの活動に追随した者たちの手によって書かれたものであるかどうか(マルコやルカなど)

(2)信仰の規範との一致:初代教会が規範的と認めたクリスチャンの伝統に文書の内容が一致しているかどうか。

(3)信頼性と継続性:教会全体がその内容を継続的に認め、用いてきたかどうか。

正典の決定はほぼ満場一致だった

これら三種類の基準に沿って正典が考慮されていく中で、多少の議論はあったものの、新約聖書の正典は、編纂当初の二世紀の間にほぼ満場一致で決定されていた。そして、キリスト教の異なる教派の間でもこれは同じだったのだ。

メツガー博士は、新約聖書の正典の決定には「適者生存の法則」が働いたと説明した上で、次のような話を紹介し、重要な結論を展開した。

「ハーバードで教鞭をとったアーサー・ダービー・ノックは、学生たちに『ヨーロッパでは最も交通量の多い道が最高の道である。最高の道だから、最もよく使われたのだ。』と教えました。これはとてもよいたとえですね。

それからイギリスの新約学者ウィリアム・バークレーは、『新約聖書の各書巻は、それを阻止する者がいなかったがゆえに正典として認められた』と言っています。

正典に関する古い歴史を研究した人は、新約聖書こそがイエスの歴史に関する最高の資料であると必ず納得します。そして正典の何たるかをはっきりと理解した人は、福音書に対してバランスの取れた明晰な考えを持つことができるのです。

結論―聖書の写本は信頼できる

最後に、旧新約聖書の写本に関して、本記事で学んだ重要な内容を確認する。

旧約聖書の写本は、マソラ学者たちの手によって、特別な配慮の元に正確に筆写されてきた。そしてその正確性は、死海文書の中から見つかった旧約聖書全体の古写本によって確認され、確定的なものとなった。

新約聖書の写本は、その写本数の多さと、原典と写本との時間的隔たりの短さにおいて、他のどの古代文献とも比べ物にならないほど、その正確性と信頼性が認められている。そして、写本同士の相違によって、信仰面での真実性が揺らぐような教理が一つも無いことも確認されている。

さらに二十七書からなる新約聖書の正典は、適者生存の法則によって、イエスの歴史に関する最高の資料が必然的に選ばれたものであることが認められている。

したがって、現代私たちが読んでいる聖書は、原典の内容をほぼ正確に反映している最高の資料だと断言できるのだ。

「新約聖書は他のどの古代文献よりも多くの写本が残っているだけでなく、その内容も99.5%が限りなく原本に近い形で残されている、最も信憑性のある本です」(ノーマン・ガイスラー|ウィリアム・ニックス)

聖書は神の霊感を受けた言葉だ。(第二テモテ3:16)そして神は、その聖書が正確に筆写され、後の時代の人々も同じ神の言葉の読み、救いの祝福に与ることができるように、その言葉を守ってこられたのだ。

「研究は私の信仰を育ててくれました。私はこれまで、質問という質問を自らに問いかけ、新約聖書をむさぼり読み、隅から隅まで調べ上げました。そして今は自信をもって、イエスに対して揺るぎない信頼を持っていると申し上げられます。」(ブルース・M・メツガー博士)

参考資料・文献

  • ヘンリー・M・モリス「科学は聖書を否定するか」CRJ出版
    ※旧約聖書の写本に関する情報を参照。
  • 中川健一「60分で分かる旧約聖書―イザヤ書」ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
  • リー・ストロベル「ナザレのイエスは神の子か?」いのちのことば社。
    *新約聖書の写本に関する情報を参照。
  • アルファ・コース

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