血の契約がもたらす一体化①~聖書の三位一体の関係をわかりやすく解説


血の契約がもたらす一体化①~聖書の三位一体の関係をわかりやすく解説

今から数週間前、『血の契約』*[1]という本を読む機会が与えられた。既に昇天された東泰男先生が書かれた本であり、聖書を理解する上で重要とされる「血の契約」について詳しく解説する内容だが、この本を読んで、筆者の聖書理解は大きく深められた。

聖書の中には、複数の人格的存在が、契約によって「一つ」となる、という教えがある。例えば、三位一体の神*[2]、イエス・キリストとクリスチャン、夫婦などである。これらのグループの一体化の関係については、以前からの筆者の研究テーマでもあったが、この度、この一体化の関係を、「血の契約」という側面から改めて読み解いた時に、その関係を、より深く明快に理解できるようになったのである。

「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創2:24)

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラ3:28)

「そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」(マタイ28:19)

例えば、この契約的な一体性を理解することによって、それまですっきりと説明できなかった、三位一体の神における一体性を、よりはっきりとわかりやすく説明することが可能となった。これは、三位一体がよく理解できないクリスチャンや、三位一体を否定するエホバの証人などの異端のグループの方々に、有益な情報となるだろう。

またそれに伴い、「新しい契約」によって、全てのクリスチャンが、キリストのうちにあって、いかに祝福された関係を約束されているのか、いかに偉大な約束を与えられているのかを理解できるようになった。まさに、全てのクリスチャンのアイデンティティ(自己認識)に、素晴らしい影響を与える偉大な真理が、この契約に含まれているのだ。

今回は、合わせて二つの記事を通して、筆者に与えられた神の恵みを、読者に皆様にお分かちしていきたい。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17~19)

※本記事の引用聖句は全て新改訳2017です。

古代世界の血の契約の流れ

血の契約とは

聖書は、神と人との間に結ばれた契約を明らかにする書だが、それらの契約において、多くの場合、「血」が用いられている。古代の中近東における契約には、互いの靴を交換する「靴の契約」、互いの塩を交換する「塩の契約」など(民数記18章)、その厳粛さのレベルにおいて様々なものがあったが、血を用いる「血の契約」が、それらの中で最も厳粛なものであった。

例えば、創世記15章を読むと、主なる神が、アブラハムとの契約を結ぶ際に、「血の契約」を用いていることがわかる。この時は、アブラハムが眠っている時に、裂かれた動物の間を神の臨在だけが通り過ぎ、契約が成立した。このような血の契約は、もしも契約を交わした者が、その義務を果たさなければ、これらの裂かれた動物のようになっても構わない、という事を意味するものだった。

つまり、その契約は、「わたしはアブラハムの子孫を星の数のように増やす。もしその約束を果たせなければ、ここで裂かれた動物のようになっても構わない」という神の側からの一方的、命がけの誓いを意味するものだったのだ。

また、神がイスラエル人と結んだモーセ契約も、動物の血を用いた血の契約であり、神がキリストを信じる全ての人と結ばれた「新しい契約」も、イエス・キリストの血を用いた血の契約であった。

モーセ契約:「ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。19モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ、『これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である』と言いました。」(ヘブル9:18~20)

新しい契約:「             しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(ヘブル9:11~12)

このように、血の契約への理解は、聖書を理解する上で欠かすことのできないものなのである。

古代世界における一般的な血の契約の流れ

さて、血の契約の習慣は、聖書の世界だけでは無い。実に、古代の中近東を始め、世界中の民族の間で、血の契約の習慣は存在してきたのである。

では、古代世界で広く行われていた血の契約は、通常、どのような形で行われていたのだろうか?本記事を書く上で、大変お世話になった書籍『血の契約』には、その詳細な流れが説明されているが、大まかにまとめると、次のようになる。

(1)証人や仲介者を立てて儀式を行う。儀式には家族や親族も参加する
血の契約が交わされた場合、その契約は、家族や親族にも影響を与えるものとなったので、親族の参加は一般的なものだった。

(2)契約の内容を発表し、確認する。

(3)互いに着ているものを脱いで相手に着せる。(財産の共有)
ここで「互いに着ているものを交換する」という行為は、この契約以降、お互いの持ち物が共有されることを象徴的に示すものだった。つまり、「私のものはあなたのもの、あなたのものは私のもの」ということを表したのだ。

(4)腰につけている刀や帯を互いに交換する。
この行為は、契約以降、お互いを守り合う義務があることを確認するものだった。聖書の事例としては、ヨナタンがダビデと契約を結んだ時、彼の身につけていたあらゆる武具を、ダビデに与えている。(サムエル記上18:1~4)これは、二人が互いを命がけて守り合う関係に入ったことを意味するものとなった。

(5)お互いに、相手の名前の一部を取り、自分の名前に加える。(名前の共有)
一例として、「山田太郎」と「佐藤一郎」という二人の人物が、血の契約を結んだ場合、以降の二人の名前は、「山田 佐藤 一郎」と、「佐藤 山田 一郎」という風になったと言える。このようにして、契約によって互いが一体となったことを表明したのである。

(6)両人の手首の内側をナイフで傷つけ、その血を共有する。(生命の共有)
血を交換する方法として、「互いの血を一つの杯に入れて飲む」「互いの傷口をすり合わせる」等の方法が用いられた。聖書の教えでもそうであるように、古代から、「血」とは「生命」を表すものと考えられてきた。したがって、互いの血の共有とは、「互いの生命の共有」を意味するものであり、その契約と行為によって、新しい一つの生命を持つ複数の者が誕生することを表すものとなった。

(7)契約の記念となるものを置く。
例えば、木を植えたり、石を建てたりした。聖書の中でも、何らかの契約を交わす際、記念となる石を建てたりする事例が複数見出される。(創世記28:20~22、31:43~48)

契約が意味するもの

このように、血の契約を結んだ者同士は、その契約によって生命の共有が行われ、新しい一つの生命を持つ者同士となったのである。だから、もはや契約者同士は、互いに別々に存在するとしても、新しい一人の人となっているのだ。

たとえば、AさんとBさんが契約を結んだのなら、契約以降は、ABさんと、BAさんという、同じ生命と名前を共有する、二人の人物が誕生することになる。Aさんの中には、Bさんの命が宿り、Bさんの中にもAさんの命が宿っている。

血の契約と一体化

だから、必然的に、AさんとBさんは、命だけでなく、互いの財産を共有することにもなったのだ。もしもAさんが経済的に困窮することがあれば、AさんはBさんの家に行き、足りない分を、Bさんの財産から自由に引き出すことができた。

もしも、Bさんが強盗に襲われて死にそうになるのなら、Aさんは、命がけてBさんを助けにいかなければならない。なぜなら、Bさんが襲われているということは、Bさんの内に宿るAさんも共に攻撃されていることになるからだ。

このように、血の契約を結ぶ者同士は、互いに一つの生命を共有することによって、祝福と義務を負い合う密接な関係になったのである。

では、ここまでで考察してきた血の契約がもたらす一体化の関係は、聖書の中で、三位一体の神の関係(父と子と聖霊)、キリストと信者の関係、にどのように反映されているのだろうか?今回の記事では、特に、以下の3つの側面に沿って、その意味を考えていきたい。

 1:一つの生命を持つ複数の者
 2:お互いの名前を共有する
 3:お互いの財産を共有する

三位一体=父と子と聖霊の関係

一つの生命を持つ複数の者

父と子の関係

父と子と聖霊との関係についての聖書の教えを確認していくと、血の契約に伴う一体性の関係が、見事に表現されていることがわかる。特に、「父と子」の関係については、「一つの生命を持つ複数の者」という関係性が、はっきりと表現されている。

「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)

主イエスは、父と自分との関係を「一つ」だと表現された。しかし、どのような意味において「一つ」と言ったのだろうか?次の聖句を読むと、その意味が見えてくる。

「イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。10  わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

11わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」(ヨハネ14:9~11)

ここでイエスは、「わたしが父のうちにおり、父がわたしにうちにおられる」と語っている。英語では、「I am in the Father, and the Father in me」となっており、互いの中に、互いの命が存在している関係であることがわかる。つまり、父と子は、別々に存在していながら、「父・子」「子・父」という同じ一つの生命を共有する存在となっているのだ。

このような点を考慮すれば、イエスがピリポに対し、「わたしを見た人は、父を見た」と言った理由がはっきりと見えてくる。イエスは、父なる神の命を、自分自身のうちにも持っているがゆえに、「父自身」でもあったからだ。

血の契約と一体化~父と子

父と子は、別々に存在していながら、 「父・子」という同じ一つの生命を共有している

「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(使徒20:28)

ここでも、「神がご自身の血をもって買い取られた」とあるように、イエス・キリストが神ご自身であり、父なる神と共に、一人の神となっていることが理解できる。なお、新約聖書の文脈では、多くの場合、「神」という称号は父なる神を指して用いられるが、イエスは内側に「父なる神」を持っているお方であるため、「父なる神自身」とも言うことができるのだ。

聖霊について

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(ヨハネ14:16)

イエスはここで、聖霊の到来を預言しているが、その聖霊を「もう一人の助け主」と呼んでいる。ここで「もう一人」と訳されているギリシア語「アロス」には、「もう一つの同質の存在」という意味があり、「もう一つの別の存在」を意味する「ヘテロス」とは区別される。

したがって、イエスはここで、聖霊という別の性質を持つお方が到来すると預言したのではなく、イエスご自身と全く同質の助け手が到来する、と預言したのだ。このような理由から、主イエスが持つ神性を、聖霊も全く同じように持っている、と理解することができる。

血の契約と一体化~三位一体

父・子・聖霊は、互いに一つの命を共有し、一人の神となっている。子と聖霊は、父と同じ命を持つ以上、神でしかあり得ない。

お互いの名前を共有する

父と子と聖霊の御名

父・子・聖霊との間に、血の契約と類似する一体性があるのなら、三者は、同じ一つの名前を共有しているはずである。

「そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」(マタイ28:19)

「baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit(NIV)

ここで「御名」と訳される箇所は、複数形でなく、単数形となっており、英語の聖書では全て単数形の「Name」と訳されている。つまり、イエスはここで、父と子と聖霊という三者の異なる名前について言及しているのではなく、「父・子・聖霊」が共有する一つの名前について述べているのだ。

なお、ユダヤ的な視点においては、「名前」とは、当人の実質を表すものと捉えられる。だから、この聖句で父と子と聖霊が一つの御名で表現されているという事実は、この三者が、互いに共有する一つの実質を持つ存在だということを示している、と考えれるだろう。

イスラエルを導いた「使い」

「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。21 あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。」(出エジプト23:20~21)

この聖句で登場する「使い」は、かつてエジプトから約束の地へイスラエルを導くために、父なる神から遣わされた使いだが、丁寧に読むと、この使いは、唯一の神の名と、罪を赦す権威を、その内に持っていることがわかる。

「わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。」

このような理由から、ここでの「使い」とは、受肉前のキリスト(メシア)であったと考えて良いだろう。このように、イエス・キリストは、神の名をその内に持つことによって、父なる神と同じ名前と権威を共有する存在となっているのだ。

お互いの持ち物を共有する

父と子との間に、契約的な一体性があるのなら、父と子は、全ての持ち物を共有する関係にあるはずだ。

「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。」(ヨハネ17:10)

主イエスは、「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのもの」と言うことにより、自分と父なる神が、「すべてのもの」を共有する関係にあることを明らかにした。では、その「すべてのもの」には、神だけが持つことのできる、栄光や力や賛美は含まれているのだろうか?

「わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。」(イザヤ42:8)

このイザヤ書の預言で明らかにされている通り、主なる神は、ご自身が持つ栄光や栄誉を、「ほかの者」に与えることはしない。しかし、黙示録5章を見ると、父だけが持つことのできる栄光や賛美や力を、子なる神も持っていることがはっきりとわかる。

「また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」14 すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。」(黙示録5:13~14)

「And every created thing which is in the heaven, and on the earth, and under the earth, and on the sea, and all things that are in them, heard I saying, Unto him that sitteth on the throne, and unto the Lamb, be the blessing, and the honor, and the glory, and the dominion, for ever and ever. And the four living creatures said, Amen. And the elders fell down and worshipped.」(ASV)

英語訳で読むと、ここで父と子が持っているとされる「賛美と誉れと栄光」には、全て定冠詞の「The」が付されており、唯一の神だけが持つ賛美や栄光の事を表していることがわかる。さらに、14節では、イエスは長老たちから、父と共に礼拝を受けている。

だから、もしもイエスが、父なる神にとって「ほかの者」なのであれば、「わたしの栄光をほかの者に・・与えはしない」と宣言した神の言葉が矛盾することになる。しかし、主イエスは、神にとって「ほかの者」ではなく、「父なる神ご自身」でもあるので、父と全く同一の賛美と誉れと栄光を持つことができるのだ。

結論として、ヨハネ17章10節で、イエスが父に対して「あなたのものはわたしのものです」と言った時、それは文字通りに、父なる神が持つ全てのものを、イエスも同様に持っている、ということを意味するのである。

 

脚注

[1] 東泰男『血の契約』(あづまキリスト教伝道協会出版部)

[2] 父・子・聖霊との間に、何らかの契約が結ばれていることを示すはっきりとした聖句は無いかもしれない。血の契約について洞察していくと、父・子・聖霊との間に存在する関係性が、あらゆる契約の概念の根源であることがわかってくる。

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2件のフィードバック

  1. おむすびラッコ より:

    ジーザス・オンリーやワンネスの方々は、父と子という関係性を否定しているので、その教えが、誰かと誰か、何かと何か、との「関係性」という点において完全否定していており、父と子との個々の独自性を拒否しているので、(最初彼らは、父と子との関係性を肯定しているように見せかけて、自分たちは三位一体を信じるクリスチャンだ、ペンテコステの一派だと言っては近づいては来ますが)その実、聖書の教えからはかけ離れたものになっているな、…と思ったことがあります。言い方は悪いですが、聖書のあちこちの関係ない箇所をむすびつけて、聖書の理解もとても支離滅裂なのです。また、女性はスカートのみ着用、ズボンは禁止で髪を切らないでメイクも禁止とか決まっており、HPを見てもワンネスと書いていないので解りにくい。彼らが皆カルトだと言うつもりはありませんが、聖書的だとは言えないな、と思ったことがあります。会った方は親切な方だったのですが、ワンネスでなければクリスチャンではないと言われ、これはちょっと一緒には歩めないなと思ったことがありました。ふと、その方々に会った当時の事を思い出しました。多くの方に役立つ三位一体についての良い記事を、ありがとうございました。

    • true-ark より:

      三位一体の教えについては、色々な反論や曲がった教えがありますね。私は、ワンネスの方々と話したことはありませんが、自分自身が、かつて三位一体を否定する立場の教団にいたので、この教理の聖書的根拠をかなり詳しく再考してきました。今回の記事が、多くの異端の方々への有益な情報となれば幸いです。

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