聖書が教える水のバプテスマ~洗礼はキリストとあなたを一体化させる

この記事では、聖書的なバプテスマの意味と、そのバプテスマに込められた神の恵みの素晴らしさを明らかにしていきます。また、イエスを信じた人が水のバプテスマを受ける上で、どのようなことを理解しておく必要があるのかを示すガイドラインともなっています。バプテスマを授ける人と受ける人の双方がこの記事で書かれていることを理解し、神の御心にかなうバプテスマへ備えることができますように。

バプテスマとは

全ての信者はバプテスマを受ける必要がある

“ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。”マタイ 28:19

イエスは有名な大宣教命令の中で、全ての弟子たちに対して「父・子・聖霊の名においてバプテスマを授けなさい」と命令されました。ですから、バプテスマはイエスを信じる全ての人が行うよう明白に命令されているものであって、「自分はイエスを信じてはいるけど、バプテスマは受けなくていいや」と考えて良いものではありません。むしろ、もしもあなたが本当にイエスを主と信じたのであれば、その第一の命令であり恵みである「バプテスマ」を受けたいと願うようになるでしょう。

使徒の働きを読んでいくと、実際にイエスの弟子たちがこの命令を忠実に果たしてきたことがわかります。彼らは、キリストの福音を信じる全ての人に対して、ほとんどその日の内にバプテスマを授けているからです。

また、バプテスマは全ての弟子たちに対して「授けなさい」と命じられているので、牧師や宣教師だけでなく、全ての信者がバプテスマを授けることができます[1]

バプテスマは浸礼を意味する

聖書の中で「バプテスマ」と訳されているギリシア語「バプティゾー」には、水に沈める、浸す、という意味があります。わかりやすくスマホに例えれば、それは「水没」を意味します。つまり、全身を完全に水に浸すのが聖書的なバプテスマです。そしてこの言葉の通り、初代教会が行ってきたイエスの名によるバプテスマは、全て全身を水に浸す浸礼によって行われました[2]

バプテスマを受ける条件とは

キリストの福音を本当に信じている人

使徒の働き、および新約聖書全体を読めばわかりますが、イエスをキリストと信じていない人に洗礼を授けている場面は一つも登場しません。ですから、バプテスマはキリストの福音を本当に信じた人に授けるべきものです。信じていない人に授けるバプテスマは、洗礼式ではなく「入浴式」です。入浴であるならば、誰かが授ける必要はありません。

また、洗礼とは婚約式のようなものです[3]。相手に対する気持ちが真実でないのに、あえて婚約する人がいるでしょうか?使徒ペテロも、バプテスマという行為が「誓約」を意味するものであることを、次のように述べています[4]

“かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。21 この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。” 第一ペテロ 3:20~21

ですからバプテスマを受ける人は、神との明白な誓約関係に入ったのであり、そこには特権と同時に責任も伴います。男女の場合も、婚約すると、それまでとは異なる関係に入り、互いに対する特権と責任を持つようになるのと同じです。

信じるべき福音とは

では、バプテスマの前に信じているべき福音とは何でしょうか?使徒パウロは、その福音の内容を明白に定義しています。

“兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。3   私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、5また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。”第一コリント15章1~5

つまり、ナザレのイエスが聖書で約束されてきた「救い主」(キリスト)であり、そのキリストが自分の罪のために死に、墓に葬られ、三日後によみがえられたこと、これが新約時代に与えられた神の福音、キリストの恵みです。

あなたはこの福音を本当に信じているでしょうか?

イエスが自分の罪の身代わりとして十字架の上で死なれたことによって、神の前で全ての罪を赦され、義とされ、神の子どもとされたことを信じているでしょうか?

墓に葬られたキリストが三日後によみがえり、今も生きていて、あなたと共にいることを信じているでしょうか?

このお方があなたの救い主であり、あなたの人生を導いてくれる方であることを受け入れ、心から「イエスは私の主です!」と告白することができるでしょうか?これらの質問に対する全ての返答が「アーメン」であれば、あなたが水のバプテスマを受けることを妨げるものは何もありません。

“ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。36道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」” 使徒8章35~36節

悔い改め

悔い改めの聖書的意味

聖書の中で「悔い改める」と訳されているギリシア語「メタノエオー」には、「後悔」ではなく「考え方を変える」という意味があります。ですから、聖書が「罪を悔い改める」という時、それは単に過去の罪を後悔することを意味してはいません。過去の考えや心や行動が神の前で罪であったことをへりくだって認め、これからはその考えや行動を改めて生きるという「180度の方向転換」が、悔い改めの意味していることなのです。

悔い改めと後悔の違いを表す典型的な例は、イエスを裏切ったユダと、同じ日にイエスを裏切ったペテロの違いです。ユダの場合、後悔はしましたが悔い改めはしなかったので、自殺という道を選びました。ペテロの場合、後悔と同時に悔い改めがなされたので、神の赦しを得て回復することができたのです。

何を悔い改めているべきか

バプテスマを受ける前の悔い改めとしてもっとも大切なことは、それまでの人生において自分が神に背いて生きてきたこと、救い主であるキリストを主とせずに、他の何かを主として歩んできたことを改めることです。例えば使徒二章では、ペテロはイエスが救い主であることを否定していたユダヤ人に対して、「悔い改めてバプテスマを受けなさい」と命じました。その意味は、「イエスについての考えを改め、この方をキリストとして受け入れなさい」というものでした。

“そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。”(使徒 2:38)

イエスを心から信じることと、過去の人生を悔い改めることは切り離すことはできません。なぜなら、イエスを救い主として受け入れることは、これまでの人生が神の前で罪であったことを認め、これからの人生において神を主として生きていくことを意味するからです。

聖書の中でも「悔い改め」という表現は使わず、ただイエスを信じた人がバプテスマを受けたとする記録がたくさん出てくるのはそのためです。

“そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」32そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。33看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。” 使徒16章30~33節

ですから過去の生き方を悔い改め、これからはイエスを主と信じて生きるという決心ができているなら、バプテスマを受けるのは主の御心に適っているのです。

個別の罪の悔い改め

神の教えを知り、過去の生き方を悔い改めることに伴い、これまでの人生で行った色々な具体的な罪についても、神に告白して悔い改めることにもなるでしょう。ただし、水のバプテスマの前に、その全ての罪について必ず告白しなければならない、ということではありません。

実際に使徒の働きで回心したほとんどの人は、その日の内にバプテスマを受けていますが、もしも洗礼前に全ての罪を告白する必要があったとすれば、おそらく彼らの誰もすぐに洗礼を受けることはできなかったでしょう。

ただし、バプテスマの前によく神に祈り、具体的に神に告白して赦しを願うよう導かれる罪があれば、ぜひそれを行って下さい。バプテスマは新しい人生の重要な出発点になりますから、その前に悔い改めるべき過去の罪をしっかりと告白しておくのはふさわしいことです[5]

バプテスマは何を意味するのか

“それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。5私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。” ローマ6章3~5節

ローマ人への手紙6章は、イエスの名によるバプテスマの意味について明らかにしている素晴らしい箇所です。パウロはこれを「イエスにつくバプテスマ」とし、イエスとの結合をもたらすものとして表現しました。

バプテスマによって水に沈む時、それは私たちの古い人がキリストと共に葬られることを意味します。ですからバプテスマとは、古い自分に対する葬式なのです。そして水から上がる時に、私たちはキリストと共に新しい命によみがえります。このように、イエスにつくバプテスマを通し、私たちはキリストと共に葬られ、共に復活することにより、栄光のキリストと一体化するのです。

“バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。”コロサイ2章12節

ですから、バプテスマは単なる象徴ではありません。それは、救い主であるイエスとあなたとの一体化をもたらし、その関係性を確立する神の力です。十字架と埋葬と復活というキリストの福音の力をあなたにもたらす神の恵みなのです。

バプテスマの力

このように、イエスの名による水のバプテスマは、あなたに福音の恵みをもたらす力があると聖書は語っています。

私の知っているクリスチャンの一人は、洗礼前までは神様に対して「お父さん」と呼びかけることができませんでした。しかし、バプテスマを受けた後に、自然と「天のお父さん」と呼びかけることができるようになっていたようです。ハレルヤ!

別の男性は、腰が悪かったのですが、洗礼を受けて水から上がってきた後に、その腰は癒されていました。

こちらの動画で紹介する男性は、水の洗礼を受けた後に与えられた驚くべき変化について、次のように語ってくれています。

「実際に洗礼を受けた時、自分でも驚いたんだけど、自分が変わった!ってものをすごい実感した。自分の心の中の鎖みたいなものが全部イエス様の愛によって打ち砕かれて、知らない間に自分の内側から愛とか喜びとか、そういう嬉しいものがどんどん溢れて出てくる。人を見ただけで愛おしくなる、そんな思いが自分の中からどんどん溢れて出てきて、本当に変えられるってこういうことなんだって、イエス様の愛を受け取るってこういうことなんだ、この愛があるからこそ、他の人を愛せる・・て感じました。」

もっとも、水のバプテスマによって全てのクリスチャンが大きな変化を感じるわけではありません。私自身を含め、バプテスマの前後で大きな変化を感じなかったという人はたくさんいます。しかし、たとえ五感で何も感じなくても、実際には霊の領域においてキリストとの一体化という素晴らしい霊的な変化がもたらされているのです。五感で感じることではなく、神のことばに書かれていることが真理だからです。

補足

バプテスマと救い

水のバプテスマはキリストと一体化したことを象徴する行為なのでしょうか?それとも、バプテスマそのものが一体化をもたらすのでしょうか?私はかつて、バプテスマは象徴的な行為であると理解していた時期がありました。その後、駅前で伝道しているエホバの証人に対して逆伝道をするために、聖書的なバプテスマの意味について調べ直す機会が与えられました。(エホバの証人はバプテスマの意味についてとても非聖書的なことを信じているからです。)その時に私は気が付きました。

聖書の中で、バプテスマの意味について説明しているどの箇所においても、バプテスマがキリストとの一体化を象徴する行為だとは述べられておらず、バプテスマそのものがキリストとの一体化や救いをもたらす行為だと述べられていることをです。

“キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。” ガラテヤ3章27節

ノアの大洪水と紅海の奇跡

では、バプテスマを受けていない人は救われていないのでしょうか?バプテスマと救いについて、聖書からどのように理解すればよいのでしょうか?この問題を考える上で助けになるのが、ノアの大洪水と紅海の奇跡の出来事です。ノアの家族が大洪水の大水の中を通って救われた出来事と、イスラエル人が紅海の水を通ってエジプト人から救われた出来事は、イエスの名によるバプテスマを預言的に表す「型」であったと聖書は述べています。つまり、これらの出来事は「影」であり、その実体こそが「イエスの名によるバプテスマ」なのです。

“かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。21 この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。”第一ペテロ 3:20~21

“兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、”第一コリント10章2節

ノアの家族とイスラエル人にとって、水の中を通った出来事は単なる象徴ではありませんでした。イスラエル人にとって、紅海の海の中を通った出来事は単なる象徴ではありませんでした。それらは実際に、彼らに救いをもたらす偉大な神の力でした。それと同様に、イエスの名によるバプテスマは、単なる象徴的行為でなく、キリストとの結合をもたらす偉大な神の力なのです!

ノアの家族が救いを得たのは、彼らが信仰によって建造した箱舟の中に入った時でした。イスラエルがエジプトから救われた決定的な出来事は、十の災いの最後、子羊の血を門の柱にかけることを通し死の災いから救い出された過越しの時でした。同じように私たちも、イエスの十字架と復活を信じ「イエスは主です!」と信仰を告白する時に、救いを得ることになります。

“なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。”ローマ10章9~10節

そして、ノアの家族が「大洪水から完全に救われた」と言うためには、彼らが大水を通り、箱舟から出る必要がありました。イスラエルがエジプトからの救いを完全に得るためには、追ってくるエジプトの軍勢を振り払って紅海の水を通る必要がありました。同じように、私たちが主であるキリストと完全に結合し、新しいいのちによって歩むためには、バプテスマによって水の中を通り、キリストと一つになる恵みを確立する必要があるのです。

信じた後に洗礼を受けずに死んだ人は天国へ行ったのか?

時々、信仰告白をしてから死を迎えるまでに、バプテスマを受ける時間的余裕の無い方がいます。そのような場合、その方々が死後どこへ行ったのかと考えさせられるかもしれません。この問題についてはすでに述べた通り、私たちはイエスの十字架と復活を信じ「イエスは主です!」と信仰を告白する時に、救いを得ることになります。ちょうど、ノアの家族が箱舟に入った時に救われたの同じです。ですから、水の洗礼を受ける前であっても、イエスを信じる信仰を持っていたのであれば、その人は救われて天国へ行っていると思います。

この点についての興味深い証は、ダイビング中の事故で臨死体験をしたイアン・マコーマックの体験談です。彼は、死の直前に主の祈りが目の前に出てきたので、救急車の中でその祈りを告白していきました。死後の世界に入った後、彼は天国へ挙げられてキリストと出会うのですが、その時に「救急車で祈った時に、あなたの全ての罪は赦された」と語られたのです。(動画の12~13分目)このイアンの体験は、洗礼前であっても、死の直前の祈りと告白で完全な罪の赦しが得られることを示す素晴らしい証だと言えるでしょう。

脚注

[1] 私の周りや私が通っている教会では、洗礼に導いた人が洗礼を授けるようにしています。

[2] 聖書に記録されている全てのバプテスマも、浸礼によって行われたと考えられます。聖書ではありませんが、初代教会で広く親しまれてきた「12使徒の教訓」(ディダケー)によれば、状況的に浸礼方式が難しい場合にのみ、水を頭の上からかける滴礼方式が採用されました。

[3] 結婚式は、携挙の後に天で行われるものですので、地上の洗礼は婚約式だと言えるでしょう。

[4] ここで「誓約」と訳されるギリシア語は、他の訳では「誓い、祈願、願い」等様々な言葉で訳されますが、いずれにしても、それが誠実な心からから来る願いを確証するものであることに変わりはありません。

[5] 洗礼を受けた後も、過去の罪で告白する必要のあるものを段階的に聖霊が思い起こさせてくれることはよくあります。

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