支配神学〜復活の奇跡のための祈りと命令は聖書的か? 『新使徒運動はなぜ危険か』の検証②


支配神学〜復活の奇跡のための祈りと命令は聖書的か? 『新使徒運動はなぜ危険か』の検証②

「支配神学」に対する根本的な疑問、という見出しで始まる『新使徒運動はなぜ危険か』の第二章は、「NARのメッカ」と呼ばれるベテル・チャーチで起きた出来事の紹介から始まります。要約すると、ベテル・チャーチの賛美リーダーであるカリー・ヘイリゲンゾールの娘さん(2歳)が、原因不明の病気で突然死亡したことを受け、ビル・ジョンソンが復活のために、五日間に渡って賛美祈祷会を開いた、ということです。毎晩、数千人が集まり復活のための祈りや命令が捧げられましたが、その祈りは届きませんでした。結果、ビル・ジョンソンは、親に二重の悲しみを与えたとして、インターネットで痛烈な批判を受けているようです。(20頁)

復活のために全力を尽くしたビル・ジョンソンは、本当に間違っていたのでしょうか?復活の奇跡について、またそれについての弟子たちの権威について、聖書は何と言っているのでしょうか?本記事では、これらの点について考えていきたいと思います。

死者の復活の奇跡〜聖書の記録

まずは、復活に関する聖書の教えと記録を確認していきます。私たちの信仰の土台は、主観的な体験ではなく、第一に聖書のことばとなるべきだからです。

死人の復活については、病の癒しの延長線上にある奇跡だと言えます。なぜならイエスは、癒しの権威を弟子たちに与えた時、死人の復活をも同時に命じたからです。(復活が、癒しや悪霊追い出しと同列に置かれていることに注目してください)

「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」(マタイ10:8)

そして、実際にペテロやパウロも、死人の復活を行なっています。

「ペテロは皆を外に出し、ひざまずいて祈った。そして、遺体の方を向いて、『タビタ、起きなさい』と言った。すると彼女は目を開け、ペテロを見て起き上がった。」(使徒9:40)

「ユテコという名の一人の青年が、窓のところに腰掛けていたが、パウロの話が長く続くので、ひどく眠気がさし、とうとう眠り込んで三階から下に落ちてしまった。抱き起こしてみると、もう死んでいた。10しかし、パウロは降りて行って彼の上に身をかがめ、抱きかかえて、『心配することはない。まだいのちがあります』と言った。 ・・12人々は生き返った青年を連れて帰り、ひとかたならず慰められた。」(使徒20:9〜12)

新約聖書の中では、弟子たちが復活の奇跡を行なった記録はあまり多くは無いのですが、書いてないだけで、実際にはたくさんの復活が起きたことは想像に難しくは無いでしょう。いずれにしても、復活が癒しの奇跡の延長線上にあると理解できる以上、前回の記事と同様に、全ての信者に与えられた使命の一つとして理解して良いと、私は考えます。(病の癒しについての詳細な解説は、ぜひ前回の記事をお読みください)

死人の復活の奇跡〜現代の証

では、現代においてはどうかと言うと、1世紀と同様に、死人の復活が起きたことを示すたくさんの奇跡の事例があるのです。

冒頭で紹介した、ベテル・チャーチの失敗の話だけを聞いた読者は、「結局、復活を信じて祈るなんて、無意味なことではないか?」と考えたかもしれませんが、以下に紹介する証を確認していけば、この問題に対する見方も変わるかもしれませんし、何より信仰の励みになることでしょう。

カーリー・R・ブレイク氏の証

すでに前記事でご紹介したJGLMのカーリー・ブレイク氏の場合、これまでに祈りによって復活した事例は、9人に上ります(1997年時点)。一例として、カーリー氏が、かつてペンシルバニア州のブレザレンの教会で癒しを教えた後、その教会の礼拝中に死者の復活が起きたことについて、サイト上で次のように紹介されています。

ある時、ペンシルベニア州のハリスバーグに一週間いて、そこで癒しを行っていました。・・それはブレザレンの教会で、彼らは元気のいい礼拝ではなく、おとなしいことで知られていました。私達がそこを去ってから、2週間後、礼拝中に突然前の席に座っていた女性が倒れて死んでしまいました。礼拝中に、皆の目の前でです。

彼らは緊急の911番に電話しました。彼らのいたところは田舎だったので、救急車が到着するまでにはしばらく時間がかかりました。待っている間に、誰かが言いました。「彼女は死んでいます。」そこには看護婦がいたので、彼女が死んでいることを確認しました。彼らは言いました。「彼女は死んでいるので、カリー・ブレイク氏が教えたように彼女をよみがえらせませんか?学んだことを実践できるから!」なので、彼らは彼女を取り囲んで、祈り始めました。

彼らによると、15分から、20分ほど経った後に、彼女はひょこっと顔を上げて、あたりを見回しました。その後、救急車が到着して、救急士らは彼女を診察したがりました。その時には、彼女は病院に行くことはありませんでしたが、彼らは後で診断をしたがりました。そのまま彼らは礼拝を終えました。それが起こった後は、彼らの神に対する信仰は以前より強くなりました。— 神癒技術者訓練 セッション3

カーリー・ブレイク氏。出典:jglm.org/

カーリー・ブレイクのような人が復活の奇跡の証をしても、「カーリーだからできたのではないか」と思う人も出てくるものですが、この証では、彼から癒しを教えられた人々が、すぐに信仰によって実践し、復活が起きたことが注目に値します。こういう証を聞くと、「私たちにもできる!」という励みを受けるのではないでしょうか? 特別に神に用いられている器でなくても、信じて従う時に、主は偉大なしるしを与えて下さるのです![1]

※以下のYouTube 動画では、カーリー・ブレイク氏の癒しの教えを全て日本語で朗読してくれています。

Healing Time のシモーネさんの証

シモーネさん(左から2番目)

こちらは、以前にも当サイトでご紹介した癒しのミニストリー「Healing time」の記事からの抜粋です。この働きを通して、たくさんの人がこれまでに癒されてきましたが、ミニストリーを最初に始めたシモーネさんは、お腹の中で死んだ胎児が復活する、という素晴らしい奇跡を体験しています。

「死んで一週間経っていた胎児が復活した:
ある時、お腹の中にいた子供が死んだ、という女性から連絡がありました。その子供は、死んでから既に一週間が経っており、医学的には、全く希望がありませんでした。シモーネさんが、その女性の元に行き、お腹の子供が復活するよう祈った後、子供は息を吹き返し、復活しました!」

レスリー・キーゲル氏

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私たちの上に主の御霊がおられる

スリランカの神の器である預言者レスリー・キーゲル氏による証の本『私たちの上に主の御霊がおられる』でも、死人の復活に関する素晴らしい証が幾つか書かれています。

以下に紹介する証は、ある日、死にかけていた男の子のためにレスリーが祈りに行った時のものです。

死に瀕している男の子の家族は、20 キロ程離れた町の反対側に住んでいる。 そこまでのバス代がなかったため、私たちは歩き始めた。私たちが到着したとき、この小さな家の中にも外にも人があふれていた。葬式前の礼拝のように見えた。その時は知らなかったのだが、本当に葬式前の礼拝をしていたそうだ。

折り畳みベッドに横たわっている赤ちゃんを見て、私はすぐに彼のそばへ行き、体を持ち上げ、ダラんとしている頭を私の顔の前で支えた。

「イエスの御名によって、病を叱る。症状を叱る。死を叱る。」声を荒げて言った。

赤ちゃんはくしゃみをし、泣き始めた。私は驚いている母親、ワインフリーダに彼を渡した。寝ている赤ちゃんを起こしてしまったので、機嫌が悪くなったことを彼女に謝った。

「牧師。彼は死んでいたんですよ!」

到着したとき、男の子が数時間死んでいたことを、私たちは知らなかった。 もし知っていたら、折り畳みベッドから彼を持ち上げなかったのに。

この奇蹟を目の当たりにした40人以上の人々に福音を分かち合い、ほとんどの人がキリストに心を捧げた。『死人を目覚めさせる』以上に力強い伝道はない。(82〜83頁)

復活の奇跡を通して神の偉大な力を目の当たりにした人々が、その場で福音を聞いて救われる、まさに聖書的で、感動的な証ですね!

ギジェルモ・マルドナルド氏

マルドナルド氏が教える聖書学校では、40カ国から2500人の生徒が来ているようですが、死人の復活の証を分かち合うよう求めた所、その内の25人が、証拠付きの証を持ってきたようです。以下の動画では、その内の一人の実体験が紹介されています。(動画の10分目以降)

その信者は救われてから30日しか経っていませんでした。彼の上司が5〜6メートルくらいの高所から落下して、救急隊も来て、彼は死亡しているので触るなと言われました。でも彼は「祈ってもいいですか?」と聞いたのです。救われてまだ30日でしたが、私の教会で死の霊を叱ることを学んでいたので、彼が死の霊を叱ると、男性が生き返ったのです。その男性は救われて、洗礼も受けて、二人とも奇跡を行うために訓練を受けに来ました。

救われてたったの30日しか経ってない男性が、信仰によって復活を命じた時に、よみがえりの奇跡を体験したのです。たとえ霊的な円熟さや特別な油注ぎが無くても、信仰によって踏み出す時に、全ての信者が同じ奇跡を体験する事が可能であることを、この証は教えてくれています。

デイビッド・ホーガン氏

メキシコでミニストリーをしてきたデイビッド・ホーガン氏は、これまでに37人もの復活の奇跡を経験しており、また彼が率いるチームでは、なんと500人にも上る復活の奇跡が起こってきたようです。すごいですね!(動画の冒頭で、司会者がその話を紹介しています)

間違いなく言えることは、彼のミニストリーにおいては、復活の奇跡は偶然ではなく、安定して起こっているということです。その理由はきっと、デイビッド氏が、聖書の教えをその通りに信じ、実践しているからなのでしょう。

神のことばを信仰の土台とする

信じる者は主と同じわざを行う

いかがだったでしょうか?これらの証に目を通すことによって、「自分も、周りで死ぬ人がいたら、復活を信じて祈ってみよう」と励まされるクリスチャンも、きっと多いかと思いますが、事実、聖書はそのように教え、そのように励ましているのです!なぜなら、イエスを信じる者は、主と同じわざを行うと、聖書で約束されているからです。主イエスを復活させた聖霊は、私たちの中にも宿っているのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)

たとえ癒されなくても、信仰に立ち続ける

もっとも、これは癒しの場合においても同様ですが、私たちが信じて祈っても、すぐには結果に結びつかないような場合もあります。これについては、私自身も経験してきましたし、同じような信仰によって歩んでいる多くのクリスチャンも経験してきていることでしょう。しかし、その場合でも、その祈りが無駄になったとは私は考えていません。

第一に、もしも何度か祈って癒しや復活が起きず、その結果「病人に手を置けば癒されます」と言う主の約束を疑問視したり、解釈を変えたりするようであれば、その信仰は体験に基づくものとなり、聖書のことばに基づくものとならないからです。上記で紹介したカーリー・ブレイク氏やデイビッド・ホーガン氏のミニストリーにおいてなされてきた驚くべき癒しや復活の奇跡は、神のことばを信仰の土台とし続けた結果、伴っているものなのです。

第二に、たとえ結果がどうであれば、目の前に病人がいたら、死んだ人がいたら、そのために祈るようにと聖書が教えている以上、その教えに従うことが神に対する従順だと考えるからです。

そして、すぐに結果が出なくても、あくまで信仰によって忍耐して立ち続ける時に、神の約束が人生に実現していくと、私は信じています。

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 10だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 11あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。・・・してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9~13)

では、どんな時でも、復活が神の御心だと信じて、そのために祈るべきなのでしょうか?最後はこの点について、考えていきたいと思います。

どんな時でも復活させる必要があるのか

初代教会はどうだったか

「彼らは決して、どのような状況にあっても、誰に対しても、キリストの名によって命令すれば、自分たちの願い通りのことが必ず起こる、とは考えていなかった。使徒の働きを読んでも、そのことは明らかだ。ステパノが殉教した後、あるいはヤコブがヘロデによって殺された後、『生き返れ!』と命令した人は一人もいない。教会は二人が天に召されたことを、主のみこころとして受け入れている。」30頁

著者が指摘する通り、初代教会の弟子たちは、どんな状況においても復活させる必要があるとは考えていませんでした。追って詳細を示しますが、実際に人が死んだ時に、復活のために祈っているケースとそうでないケースがあるからです。

私としても、「ただ命令さえすれば、どんな時でも自分たちの願い通りのこと起こる」とは考えていませんし、その点については、前回の記事でも明らかにしました。

ただし、弟子たちがステパノやヤコブの復活のために祈らなかったことを引き合いに出し、病死した人の復活のための祈りや命令をも否定することはできないと思います。なぜなら、同じ死であっても、殉教と病死では、状況が全く異なってくるからです。

この理由を説明する前に、まずは復活のために祈るケースについて、どんなことを考慮すべきかを考えていきたいと思います。

復活について考慮すべきこと

第一に、全ての人間の命は、神の主権の中にあるのであり、究極的には、私たち人間が左右できるものでも、すべきものでもありません。この点については、著者の考えに同意します。

第二に、神は、その主権によって、弟子たちに、死人を復活させるよう命じました。以下の聖句をもう一度注意深く読んでいただきたいのですが、イエスは、病の癒しの場合と同様に、「癒しのために、復活のために神にお願いしなさい」とは命じずに、「病人を癒やし、死人を生き返らせ・・なさい」と命じました。

「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」(マタイ10:8)

ですから、癒しの場合と同様に、復活の場合も、御心だと判断できるような場合は、「起き上がりなさい」と命じたり、復活のために祈ることが聖書的だと言えますし、御心ならば、むしろそうすべき責任が、弟子たちにはあるのです。

第三に、ではどのような場合において、復活が神の御心だと考えることができるのか、判断できるのか、です。この点は、福音書と使徒の働きを確認していくと、興味深い事実が明らかになります。

イエスや弟子たちは死人にどう対応したか|一覧表

福音書〜使徒の働きの記録において、人が死んだ場合にその死因が何だったのか、それに対してイエスや弟子たちが復活させたかのどうかを明らかにするために、一覧表を作成しました。合わせて11人をピックアップしましたが、これである程度は網羅できていると思います。

死んだ人 死因 復活したかどうか?
1 バプテスマのヨハネ(マタイ14:10) 殉教 しなかった
2 会堂管理人の娘(マルコ5:41) 病気 復活させた
3 ある母親の一人息子(ルカ7:14) 不明(おそらく病) 復活させた
4 ラザロ(ヨハネ11) 病気 復活させた
5 イスカリオテのユダ(マタイ27:5) 自殺 しなかった
6 アナニアとサッピラ(使徒5) 神の裁き しなかった
7 ステパノ(使徒7) 殉教 しなかった
8 12弟子のヤコブ(使徒12:1) 殉教 しなかった
9 ヘロデ(使徒12:23) 神の裁き しなかった
10 タビタ(使徒9:40) 病気 復活させた
11 トロアスのユテコ(使徒20:12) 怪我 復活させた

考察〜どんな時に復活を祈るべきか

殉教や罪がもたらす死の場合

このように見ていくと、殉教や、深刻な罪による裁きの死においては、例外なく復活させていないことがわかりますが、これは理解できます。そもそも殉教は、クリスチャンにとって最も栄誉ある死に方であり、天に召されていることが明らかなので、復活させる必要はないのでしょう。また、深刻な罪によって自ら死を招くような場合も、本人自ら、その死を選びとっていると言えるので、復活のために祈る必要はないのでしょう。

病気や怪我で死んだ場合

一方、これらの記録によれば、病気や怪我で人が死んだ場合は、その人が信者であるかどうかに関わりなく、例外なく復活させていることがわかります。ですから、病気などが原因で人が死ぬのであれば、その時には、その人の復活が基本的な神の御心だと聖書から判断し、復活のために祈ったり命じたりすることは、何も間違っていることではなく、むしろ聖書的な行為だと言えるのです。

ただし、上記の理解は、あくまで聖書の歴史的記録からの推論であり、そこから「何が基本的な神の御心なのか」を導き出したものなので、完全ではありませんし、神の主権に委ねるべき、色々な例外的な状況もきっとあることでしょう。

しかし、こうした聖書的な考察から、復活が神の御心だと判断できる、あるいは確信できるような場合は、積極的に、そのために祈ったり命じたりすることこそ、弟子としての使命であり、神の主権に服することであると、私は信じるのです。

使命を全うして天に召されたと考えられる場合

なお、たとえ病気で死ぬとしても、その人が救われている人で、すでに地上で長く生きており、地上の使命を全うしていると考えられるような場合は、祈る必要性はあまり無いでしょう。実際に、使命を全うして晴れて天の祝福に与った人にとっては、天に居続けた方が遥かに良いからです。(もっとも、その人が本当に使命を全うしたのかどうか、完全にはわからないのですが、身近な人が祈って判断すれば良いと思います。)

この点については、スミス・ウィグルワースが経験した興味深い話をご紹介しておきたいと思います。

もし彼らが聖徒であって、敬虔な生き方をしてきて、彼らのできることをすべてして、次の世代のために知恵を残して、人生の道のりを終えたなら、生き返らせる前に、思い直した方がいいと思います。・・もし、彼らが自分自身の意思でこの世を去ったのなら、どうして彼らを天と比べたらゴミ箱のようなこの世に呼び戻す必要があると思いますか?・・例えば、スミス・ウィグルワースは自分の妻を生き返らせました。ポリーは亡くなりましたが、彼は彼女を生き返らせました。でも、彼女が最初に言った言葉は、「スミス、なんて事をしてくれたの?」でした。彼女はこの世には戻ってきたくありませんでした。彼らはしばらくの間話をして、彼は彼女の霊を解放しました。彼女は又死んで、主のもとに帰りました。 — 神癒技術者訓練 セッション4

ビル・ジョンソンは間違っていたのか

最後に改めて、ビル・ジョンソンが復活のために開いた賛美祈祷会の是非を振り返ってみたいと思います。こうした一連の考察を経ることによって、この話の見え方は大きく変わり得るからです。

幼い子供が突然病死する、と言う事例は、聖書の記録上、まさしく復活が神の御心だと判断しやすい状況だと言えます。ですから、自分の教会のメンバーの娘が幼くして突然死んだことを受け、教会を挙げて祈祷会を開いたビル・ジョンソンが、間違っていたとは私は考えません。

「親に二重の悲しみを与えたとして、インターネットで痛烈な批判を受けている」と言う点についても、仮に自分がその娘さんの親だとしたら、たとえ結果が伴わなくとも、復活のために全力を尽くしてくれたビル・ジョンソンに、ただ感謝しかできないと思います。

そして、もしも私たちが1世紀のユダヤに生きていて、自分の娘が突然死んだら、真っ先にイエスがどこにいるのかを突き止め、復活のために彼を呼んでいるはずです。そして、その同じイエスが今、ユダヤではなく、私たちの中にいるのですから、家族や友人が病気や怪我で死ぬのなら、そのイエスの名によって、私たちは「起き上がりなさい!」と言うのです。

脚注

[1] なお、カーリー・ブレイク氏は、癒しのために特別な油注ぎが必要だとは教えておらず、信じた時に与えられる聖霊による油注ぎがあれば、全ての信者が癒しを行えるとしています。

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2件のフィードバック

  1. 向後孝美 より:

    ハレルヤ、主に栄光。

    いつも兄弟のTAが更新されるのをを心待ちにしている者です。
    今回の「新使徒運動」もの前回と併せて大変勉強になりました。
    いつも解りやすい文章をありがとうございます。

    今回、メールをお送りしましたのは、
    兄弟は、人間が生き返ることを「復活」と表現されています。
    恐縮ですが、「生き返り」と「復活」は違うのではないでしょうか。
    蘇生の有名な聖書箇所でヨハネ11章ラザロの蘇生がありますが、第一テサロニケ4章では死んだ者が蘇ることを復活と表現されています。
    ご教授の程、宜しくお願いいたします。

    • true-ark より:

      ハレルヤ、いつもご購読ありがとうございます!

      ご指摘の件について、お答えさせていただきます。

      おっしゃる通り、「蘇生」と「復活」は異なります。
      聖書の中では、永遠の命(第二の死から解放された)への復活は、「よみがえり」もしくは「復活」と表現されています。(新改訳)

      イエス様が地上で行なった復活の奇跡は、厳密には「蘇生」にあたります。
      なので、聖書をよく読むと、これらの奇跡について、「復活」「よみがえり」と言う表現はほぼ使われていないと思います。

      しかし、実際には、ラザロや会堂管理人の娘の奇跡などは、クリスチャンの間では「復活の奇跡」として表現され、親しまれています。
      ですので当サイトや記事では、蘇生の奇跡のことを「復活の奇跡」として表現しています。(蘇生の奇跡と表現してもピント来ない人が多いと思うので)

      ご参考になれば幸いです!

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