支配神学〜病気や悪霊への命令は聖書的か? 『新使徒運動はなぜ危険か』の検証①

支配神学〜病気や悪霊への命令は聖書的か? 『新使徒運動はなぜ危険か』の検証①

今回の記事では、異端・カルト問題の専門家であるウィリアム・ウッド氏が書いた『新使徒運動はなぜ危険か』(いのちのことば社)の本の内容について、聖書な視点から、私の見解を語らせていただきます。

私自身は、異端的な教団から出てくる時に、ウィリアム・ウッド先生にはお世話になった経緯がありますので、その働きには感謝をしていますし、今でもウッド先生の異端やカルトの救出活動は支持しています。

『新使徒運動はなぜ危険か』

『新使徒運動はなぜ危険か』いのちのことば社

今回、この記事を書くことを決めた背景ですが、私自身は、この本で取り上げられているような新使徒運動(NAR)のリーダーたちを特にフォローしたり強く支持したりしている立場ではありませんが、本で批判されている内容が、NARのリーダー各人だけに対するものではなく、そこで採用されている教えや神学体系全般に対するものとなっており、その批判が当サイトの内容や、私の周りの友人たちにも及んできていることから、記事で取り上げる必要性を強く感じました。

記事の目的は、批判されている各テーマ(支配神学、預言・啓示等)について、当サイトの立場を示すと共に、著者の調査が及んでいない部分や、見落とされていると思われる視点などを取り上げつつ、聖書が実際に教えている内容を検証していくことです。最後までお読みいただければ、きっと本を読むだけではわからなかった、この問題に対する新たな視点を知る事ができ、問題とされている神学への理解も深まり、誤解も取り除かれる事でしょう。

読者の方々に、神の導きがありますように。

※文調の関係上、『新使徒運動はなぜ危険か』については「本」、ウィリアム・ウッド先生については「著者」と略します。

病気に命じるのは聖書的か

本の内容について

新使徒運動(NAR)の代表的な特徴の一つとされる「支配神学」については、本著の前に書かれた『日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)の第8章において、その基本的な定義と内容が紹介されていましたが、「病気への命令」についての言及はありませんでした。

「支配神学」(Dominion Theology)は、三つの概念に基づいている。1サタンはアダムと エバを誘惑して、地球に対する支配権を奪ってしまった。2サタンからその支配権を奪い返すために、神は教会を用いようとしておられる。3教会が地球に対する支配権を奪い返 し、この世の政治制度、社会制度を征服するまで、イエス・キリストの再臨はない。(82頁)

しかし、本著においては、表紙において「“預言者”と称し病魔ウィルスに『立ち去れ』と命じる怪しい権威」とも書かれている通り、支配神学の適用が「病や悪霊への命令」にも拡大され、批評の対象とされています。

内容を読んでいくと、著者が新使徒運動のリーダーと見做している人々、シンディ・ジェイコブス、ケネス・コープランド、ベテルチャーチのビル・ジョンソン等がコロナウィルスなどの病気や死に権威を持って立ち向かった結果、失敗した事例が引き合いにされ、その権威や力に疑問が呈される流れとなっています。

病気への命令は、新使徒運動の神学なのか

そこで、この本を読んだ読者であれば、このような神学は、NARによって提唱され、流行してきたかのような印象を受けるでしょう。そして現在、病気に対して命じたりするクリスチャンは、基本的に、NARの影響を受けている、と考えてしまうことでしょう。しかし、それは部分的には事実ではありません。

この神学(病気や悪霊への命令)が、昨今の西欧のキリスト教世界において、NARの影響を受けて大きく広がっている、という点は事実でしょう。しかし、NARとは全く関係なく、ただ聖書を純粋に読んだ結果として、このような考えに至るクリスチャンもたくさんおり、私自身もそうなのです。

この教えに関して、私が特に影響を受けて来た人物としては、「The Last Reformation」のトーベン・サンダーガード氏や、「John G Lake Ministries(JGLM)」のカーリー・ブレイク氏等を挙げることができます。彼らの働きは、世界的に大きな影響を及ぼしていますが、その働き自体は、NARとは全く関係がないのです。

JGLMの働きについていえば、その源流は、ジョンGレイク氏(1870 – 1935)にさかのぼりますが、当然のことながら、彼の働きは、現在のNARの台頭よりも遥か前です。

ですから、病気に対する命令は、現代のNARが考案したものではなく、またNARだけが広めてきたものでもなく、単に、現代の新使徒運動において、昔から存在してきたその教えが採用されている、という事なのです。

支配神学「病気への命令」の源流

では、キリスト教の歴史の中で、その神学を最初に教えた人物は誰だったのでしょうか?それは他でもない「イエス・キリスト」でした。イエス・キリストは、すべての病や悪霊に対して、権威を持って命じることによって、癒しや解放を行いました。イエスが権威を持って、それらを行ったことについては、それに反対するクリスチャンは誰もいませんので、これ以上は掘り下げません。

次にイエスは、自分が行ったのと全く同じ癒しを、弟子達も行うことができるよう、十二使徒と、選抜の72人に権威を与え、彼らを伝道に送り出しました。つまり、最初に病気・悪霊への権威を弟子達に教えたのも、主イエスでした。

「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」(マタイ10:1)

「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。2そして彼らに言われた。・・その町の病人を癒やし、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。・・19 確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。20 しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:1〜20)

ここで私たちは立ち止まって考えなければなりません。もしも、クリスチャンが病気に対して命じる事が非聖書的だと考えるのなら、「十二使徒と七十二人は命じて良いが、それ以外のクリスチャンはダメだ」という考えを明白に証明する聖句を、新約聖書から見出さなければなりません。しかし、私が知る限り、それを明白に証明する聖句は存在しないのです。

むしろ、いくつかの聖句は、イエスが全ての信者に対して、同じことを命令している、という事実を証明します。

マルコ16章〜信じる者に与えられるしるし

全ての信者は病人を癒す

「それから、イエスは彼らに言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。16信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。17信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、18その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。』」(マルコ16:15〜18)

本の中では取り上げられていませんでしたが、実はこの聖句こそ、病気の癒しに関する支配神学の聖書的根拠を検証する上で、最も取り上げなければならない箇所なのです。ここでイエスは、全世界に弟子達を送り出す際に、「信じる人々には次のようなしるしが伴います」と言いました。「使徒には」でもなく、「70人には」でもなく、「牧師には」でもなく、「信じる人々には」と語ったのです。そのしるしとは、イエスの名によって、悪霊を追い出し、新しいことばで語り、病人をいやす、ということでした。

つまり、かつて十二使徒達に対して命じたのと全く同じ命令を、全世界に送り出す全ての信者に与えているのです。このように一連の流れを見ていくと、大変興味深いことがわかります。それは、イエスは、悪霊追い出しと病気の癒しの権威を与えずに、弟子たちを福音宣教に遣わしていることは一度も無い、ということです。

マルコ16章の信ぴょう性

ここで、あるクリスチャンは、「マルコ16章9節以降は、後代に付加された文章だから、正典としての十分な権威は無い」と考えるかもしれませんが、以下に挙げるこの問題の真実を知れば、その考えは覆るはずです。

  • 現存するマルコの福音書のギリシア語写本の数は、およそ1600程度に上りますが、その内、9節以降を含んでいないものは、わずか三つだけであり、他の1600の写本の全ては、9節以降を含んでいます。つまり、99.8%以上の写本は、きちんと該当の聖句を含んでいるのです。
  • 9節意向を含んでいないとされる三つの写本には、バチカン写本、シナイ写本、が含まれており、この二つの写本は、今日、多くの聖書翻訳において重要視されています。ところが、これら二つの写本はどちらも、16章の後半に、不自然な余白や文字密度の減少がある事がわかっています。つまり、実際には、元々その箇所に、文章が書かれていた可能性が高いのです。
  • 初期のキリスト教の著述家たち、バビアス、エイレナイオス、テルトゥリアヌス、ユスティヌス等は、一様にして、マルコ16章の後半を、正典の一部として引用しています。

以上の事実を考慮すれば、マルコ16章後半における大宣教命令、およびそこに書かれた信者に伴うしるしは、イエスの言葉として、十分に信頼に値するものだと理解できるはずです。

キリストと同じわざを行う

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)

ここでもイエスは、「わたしを信じる者」、つまりイエスを信じる全ての信者が、「わたしが行うわざを行」う、と保証なさいました。では、イエスが地上で行ったわざとは何でしょうか?それは、次の聖句に要約されています。

「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、19主の恵みの年を告げるために。」(ルカ4:18〜19)

実際にイエスは、福音を伝えるだけでなく、悪霊追い出しや癒しにもたくさんの時間を使われました。ですから、イエスが「わたしが行うわざ」と語った時に、そこに「解放や癒し」も含まれていると考えるのは、ごく自然なことなのです。

以上の聖句から明らかなことは、主イエスは、彼を信じる全てのクリスチャンに対し、福音を宣べ伝えるのと同時に、イエスの名によって悪霊を追い出し、病気を癒すことを期待しておられるのです。そう、かつての十二使徒達と70人と同様に、です。ということは、全てのクリスチャンは、かつての使徒達と同じように、病気や悪霊に対して命じて良い、という結論が必然的に導き出されるのです。

すでに該当の本を読んだ方々に、一つ、質問したい事があります。あなたは、本を読んだあと、このイエスの大宣教命令に従い、悪霊を追い出したり病人を癒したりするよう励まされたでしょうか?あるいは、その命令に従う事に対し、より躊躇するようになったでしょうか?

私はこう考えています。癒しの原則や方法について、私たちが何を信じるとしても、その解釈は、このマルコ16章のイエスの大宣教命令に従えるよう私たちを励ますものとなる必要がある、と言うことです。

私の場合は、2年ほど前から、病気や悪霊に対して命じることを理解し、マルコ16章にしたがって、それを伝道で実践するようになりました。その結果、多くの瞬間的な癒しや解放によって、キリストの力がその場で働くのを見てきました。イエスのみ名をたたえます!

今、主の恵みにより、神のことばと力に対する私の信仰は、前よりも成長し強くなっているのです。

私は、この記事を読む全てのクリスチャンに心から勧めます。かつての使徒たち、70人がしたように、出て行って福音を宣べ伝え、イエスの名によって悪霊を追い出し、病人を癒してください。たとえあなたが今、病気に対して命じるクリスチャンに対し批判的に考えているとしても、このキリストの命令を実行しようとするなら、その時に、その行動にどのような信仰が求められるのかをきっと知ることになるでしょう。

命じた方が癒されるのか

命じる祈りの効果の適切な検証方法とは

本の中では、NARのリーダーたちがコロナウィルスや病気に対して命じた結果、効果がなかった、といういくつかの事例が示されています。

「これらの数字が明らかに示しているように、シンディ・ジェイコブスやケネス・コープランドの宣言によって、新型コロナウィルスが死滅したわけでもないし、状況が収束に向かったわけでも無い。むしろ、状況は悪化の一途を辿っている。」(13頁)

それで、この本を読んだ読者の中には、「結局、命じる祈りは効果がないじゃないか」と考える人もいたことでしょう。確かに、この事例は残念なことではありますが、冷静に考えて、少人数の人々の命令や宣言によって国中の病気が死滅する、という奇跡は、イエスも弟子たちも地上生涯で行わなかった業ですので、「効果があるかどうか」を比較する対象のサンプルとしては、あまり適切では無いように思えます。

イエスや弟子たちの場合、基本的には、いつも病人の元へ出向き、手を置いたり命じたりすることによって癒しが起きました。ですので、この問題を正しく検証するためには、「同じようなシチュエーション」において、「癒されなかった事例」だけではなく、「癒された事例」も取り上げる必要があります。加えて、「命じた場合」と「そうでない場合」の効果を、ある程度の時間、相当数の事例から検証する必要があります。(どのような問題の是非を判断する時も、その結果が偏りの無いものとするために、このような手法が不可欠であることは、全ての科学者が同意することでしょう。)

カーリー・ブレイク氏による検証

そして、この命じる祈りの効果を検証する上で、ベストな事例を提供してくれているのが、「ジョン・G・レイク・ミニストリー」の後継者である「カーリー・R・ブレイク」氏です。元々、カーリー氏は自分の娘を病気で亡くした経験もあり、聖書的な病の癒やしの方法を熱心に研究してきた人でした。彼は、アメリカ中の癒やしの本を読み漁り、それらの全てを試してきたことについて、次のように語っています。

「信じてください。恐らく、私の個人的な図書館ほど多い本のコレクションを見たことがある人はほとんどいないと思います。私の息子にきいてください、彼はそれを引越しのために動かすのをたくさん手伝ってくれました。私は癒しについての本はほとんどなんでも持っています。そのうちの98パーセントは使い物にならないゴミです。それでも、それらを持っているのは、他の人たちの意見や考えを知りたいからです。それらを読みながら、その本で彼らの言っていることをすべて行いました。それでも私の癒しの成功率は、15~25パーセントでした。大抵の教会の平均10パーセントと比べればよいほうですが。10人に1人は癒される程度です。なので、私はこれらの本を読んで、それに書いてあるすべてのことを行っていました。」(Devine Healing Technicians training – Session1

しかし、その後にジョンGレイク氏の癒やしのマニュアルを手に入れて、癒やしの方法を「神にお願いする方法」から、「命じる方法」に変えた時に、癒やしの成功率が大きく変わったことについて、カーリー氏は次のように述べています。

「まず最初に私は祈り方を変えました。お願いすることから、命令することに変えましたそれによって瞬く間に癒しの成功率が上がりました。マニュアルを学びつつ、私のしていたことを変えていきました。祈り方を変えた後に私は信じていることを変えました。何故なら、祈った時に得る結果は、私達がその時に信じていることだからです。もしゆっくりとした癒しを信じているなら、段階的な癒しが起きるでしょう。でも、瞬間的な癒しを信じるなら、瞬間的な癒しが起きるでしょう。」(Devine Healing Technicians training – Session1

それ以来、カーリー・ブレイク氏は、イエスの御名の権威による癒やしを、彼のミニストリーにおいて実践し続けてきました。そして、1997年時点での統計によれば*[1]、その前の四年間で、カーリー氏が手を置いて癒やされた人の数は、7万件にも上りました。(計算すると、一日47件の癒やしとなります)

結果的に、カーリー氏のミニストリーにおける癒しの成功率は、94%〜97%もの上昇を記録することになりました。

「私達は、今までに少なくとも7万人のために祈ってきました。そのうち、私はてんかんの為に祈って、癒されなかった人を知りません。知っている限りは、皆癒されています。私達は、ほとんどすべての記録を残しています。その他のある病気に対しては100%の癒しの成功率があります。全体的には、私達の祈ってきた94%から97%の人々は癒されています。ある病気は、他の病気に比べて瞬間的に癒されたりします。」

おそらく現代のアメリカにおいて、癒しに関し、カーリー氏ほど研究し、実践を重ね、多くの人のために祈り、結果を出してきてきた人物は、数えるほどしかいないと言ってよいでしょう。ですから、上記で取り上げた彼の証言は、かなりの信頼に値するものだと考えて良いのです。

今回の本で言及されている、コロナウィルスへの戦いの失敗については、事実なのでしょう。それについては、その原因がなんだったのか、はっきりと述べることは私にはできません。ただし、全体としては、権威に基づく癒しを正しく信じ切って実行した時の結果は、お願いする祈りよりも効果が遥かに高い事が実証されているのです。

(もっとも、ただ命じさえすれば、確実に成功率が上がる、ということではありません。癒しについては、他にも考慮していくべき部分があり、それら全てを踏まえた上で、カーリー氏は上述のような結果を出しているのです。

また、このような点を述べるからと言って、神様に癒しをお願いすることがダメだと考えているわけではありません。他の人のための心からの祈りは、どのような形であろうとも、神の目には良いものだからです。)

神の主権の問題〜命じれば、願い通りの事が起きるのか

著者が考える、支配神学の最大の危険

「支配神学の最大の危険は、神の主権が侵されることだ。基本的には、神に委ねて、神のみこころがなるように祈るのではなく、それが果たして神の望まれることなのかどうか確かめることもなく、すべて自分の思いイコール神の思いとなって、ひたすら命令したり、宣言したりする(注2)。これはまさに、聖書の主要なテーマに真っ向から逆らうことであって、自分ではそのつもりはなくても、神の領域を冒すことにつながり、まさに人間が神になろうとすることなのだ。」(30頁)

本の内容を読んでいくと、この一文が、支配神学に対する著者の考えを簡潔にまとめた内容となっていることがわかります。

著者の視点によれば、あらゆる物事や出来事は、神の主権の中にあるので、それに対して、クリスチャンが持つべき基本的な姿勢は、神に委ねて、神のみこころがなるように祈ることであって、権威を持って命じたりするのはもっと控えるべきだ、というものです。もっとも、前後の文章を注意深く読む限り、著者が権威によって命じることを完全否定しているわけでは無いことはうっすら感じ取れますが、いづれにしても、命じることに対しては、とても消極的な態度であることが伺いしれますし、読者に対して与える印象もそのようなものとなっています。

次に、「それが果たして神の望まれることなのかどうか確かめることもなく、すべて自分の思いイコール神の思いとなって、ひたすら命令したり、宣言したりする」という表現から、この指摘が、極端な支配神学の支持者や教師に対するものであることがわかります。

実際に、この指摘の通り、聖書から御心をきちんと確認することもなく、とにかく命じたり宣言したりすればそのようになると考えるクリスチャンがいるなら、それは危険なことです。しかし、病気に対して命じたり、復活を命じたりするクリスチャンの全てがそうでは無い、という事実も、同時にしっかりと伝えておかなければなりません。そうでなければ、上記の引用文を読む多くの読者は、「病気に命じたりするクリスチャンは皆このような極端な信仰を持っている」と考えてしまうからです。

御心であれば、命じるのは主権に服することとなる

実際に、著者が批判するNARのリーダーたちがどうであれ、私自身や、私が学びの参考としてきた教師たちは、権威を用いる前に、神の御心が何なのかという検証を十分に行なっています。

そして、すでに確認してきたように、神が弟子たちに望んでいることは何なのかと聖書から確認すると、それは明らかに、福音を宣べ伝えると共に、権威によって悪霊を追い出し病気を癒すことです(マルコ16章)。ですから、命じれば悪魔は追い出され、病気は癒されるのが基本的な神の御心だと考え、それを期待して実行することは、神の主権や御心を無視するものではなく、むしろその主権に忠実に服することなのです

どこまでを命じて良いのか

一方、何でも命じればよい、と考えても、確かに著者の指摘する通り、神の主権や、神中心の考えが脅かされていくことになるかもしれません。イエスは、ある文脈において「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:22)と言われましたが、聖書全体の文脈を考慮すれば、その「何でも」の意味が、「御心にかなうもの」という範囲に限定されていることは明らかだと思います。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:33)

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

ですから、何が神の御心なのか、という吟味を聖書的に行うことなしに、イエスの名を用い、その権威によって何でも命じようとすることは、確かに良いことではありません。しかしながら、ある状況において、権威を用いて命じることが神の御心であると判断できるなら、その御心に沿って、イエスの名において命じることこそ、神の主権に服することであると、私は信じます。

なお、聖書から吟味した結果、何が御心の範囲なのかについて、クリスチャンの間で異なる見解は生じ得るでしょう。そのような場合でも、聖書的な解釈の範疇に含まれそうなものであれば、安易に互いを批判することを控え、お互いの考えを尊重し合うことも大切なのではないかと思います。

次回以降の記事では、復活やその他の奇跡についても取り上げていきたいと思います。

感想や質問などあれば、ぜひコメント欄からお寄せください。

脚注

[1] このコンテンツの元のメッセージが語られたのは、1997年です。

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