3. 聖書の神はどのような存在なのか?|聖書の教え


もしもあなたが、知らない人から手紙をもらったら、しかもその手紙がラブレターだったら、返事を書く前に、まずはその相手のことを知ろうとするだろう。

前回の記事「聖書は本当に神の言葉なのか」で学んだ通り、聖書は神からのラブレターである。だから、あなたがその手紙に返事をするためには、まずはその差出人について知る必要がある。

そこで今回の記事では、あなたを愛する神の真の姿―その役割や性質について、一つ一つ聖書からご紹介していきたい。

聖書の神の役割

神は万物の創造者

創造者

初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1

聖書の最初の言葉は、神による万物の創造者としての宣言で始まる。地球とそこに存在する全ての生命、宇宙とその中にある全ての星々は、神によって創造された創造物である。万物は、神の創造の働きなくしては、存在すらしていなかった。

さらに聖書は、創造された万物が、今もこうして存在し続けているのは、創造主の意志と力による、と教えている。

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示録4:11)

創造主と被造物の関係:

ここで、神と人間の関係が明らかになってくる。私たち人間は、100%神に依存しており、神の創造無くしては、はじめから存在していない。さらに、今もなお神の力に支えられなければ、片時も存在を続けることができない。このように、私たちには神に感謝をし、誉め称えるべき十分な理由があるのだ。

父親

「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)

聖書の中で、神は繰り返し「父親」として表されているが、これは極めて適切な表現だと言える。どんな人間の子供も、親がいなければ生まれてくることはできないが、同じように、全ての人間は、父なる神によって命を与えられたのでなければ、生まれてくることはできなかった。

父親が子供に対して担う役割

神が父親として表現されている基本的な理由は、古代中近東における父親の役割が、聖書の唯一神が人間に対して持っている役割と、とてもよく似ているからである。

父親は、家族全体に目を配り、養い、守り、育てる役割を持っている。同じように、神も子供である人間に対して、同じような役割を担っている。

私たちは、地球上の環境から、あらゆる恩恵を受けているが、それは神が人間を養っているからだ。また、神は世界中の人間を教育するために、聖書を通して、正しく生きる道を示している。

このように、神は単に人間を創造して、放置しているわけではない。父親が子供を愛するように、様々な形で働いてくれているのである。

では、なぜ神が父親のような存在ならば、この世界に多くの苦しみが存在するのだろうか?それは、人間が全体として、父親である神の愛や教えを退けて、自分の願望や欲望に沿って生活しているからだ。

神は人間に自由意志を与えた。そのため、もしも人間が神を父親と認ないなら、たとえ苦しみに遭うとしても、教訓を学ばせるために、その選択に安易に介入したりはされないのである。自由意志については、また次の記事で、もう少し詳しく取り上げる。

※こちらの記事も合わせてお勧めしたい。「神を父なる神と呼ぶのはなぜですか?

いと高き方、主、王

「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。まことに、いと高き方【主】は、恐れられる方。全地の大いなる王。」(詩篇47:1-2

いと高き方(至高者)、大いなる王、主の中の主、これらの称号によって、神は万物の中にあって最高・絶対的な権威を持っている存在として、啓示されている。それは、神が創造者である、という事実を考えれば、当然のことだと言える。

神は普遍的な意味において永遠の王だが、これまでの数千年間の人類史においては、人間が神から独立した道を歩むことを許してきた。しかし、聖書の預言によれば、神は近い将来、実際的な意味において、王として地上を支配する永遠の王国を確立することを約束している。

至高者・王と人間の関係

王の存在は、その王国の住民に、王に従う責任があることを示している。したがって、神が万物の王であるという事実は、その国の住民である人間に、主なる神に従う責任があることを示している。全ての人間は、至高の神である王に従うかどうかを試されているのである。

裁き主、法令授与者

まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。」(イザヤ33:22

神は創造主、王であると同時に、万物に法を与える法令授与者、その法に沿って裁く最高裁判官である。例えば、この宇宙を支配している物理法則は、神が物質に与えた「法」である。同じように、神は知性にしたがって生きる人間に「法」を与えたが、その法が記されている書物が、「聖書」である。

裁き主と人間の関係

全ての人間は死んだ後に、最高裁判官である神の前に立たされ、地上生涯における全ての行いとその動機を裁かれる。裁きの基準は聖書に記されている神の教えであり、その内で最も大切なものは、「心を尽くして神を愛すること」「隣人を自分自身のように愛すること」である。(マタイ22:36~40)

神の裁きは完全に公正であり、良いことであれ悪いことであれ、一人一人は、必ずその報いを与えられる。多くの人が、正しく裁かれる神の存在を知らず、ただ自分の欲望にしたがって生きているのは、悲しいことである。全ての人間が、裁き主である神の存在を知れば、この世界の悪は激減するだろう。

神の道徳的属性

神は聖なる神

聖(神聖さ)

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(イザヤ6:3

神は完全な聖さを持つ神であるため、どんな汚れも容認することができない。神がかつてモーセを通してイスラエルに与えた律法には、清めに関する多くの規定が設けられていたが、その理由について、神はこのように語った。

あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」(レビ19:2

神が忌み嫌う汚れの本質とは、物質的なものではなく、霊的なものであり、聖書はそれを「罪」と呼ぶ。聖書の中では、具体的な罪の行為として、偶像礼拝、不道徳、貪欲などが挙げられているが、罪の本質的な定義とは、「創造主なる神に背くこと」である。

神は聖なる者であるために、罪の汚れを持つ人間は、いかなる努力によっても、そのままで神に近づくことはできない。しかし神は、人間が聖さを取り戻し、再び神に近づくことができるようにと、特別な方法を用意している。

愛(憐れみ、慈しみ)

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、」(出エジプト34:6-7

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16

神の道徳的な性質の中で、最も重要なものは、「愛」である。神の愛には様々な側面があり、それは、憐れみ深さ、情け深さ、怒りに対する遅さ、罪の赦し、恵み深さ、となって表れる。

神は愛であるが故に、他者との人格的な交流によって、愛を育むことに喜びを見出す。

神は一人一人の人間を、深く愛しており、その愛の大きさは、人間の想像を遥かに越えている。神の愛は無条件の愛であり、それは私たちが置かれた状況、能力や社会的地位に、一切左右されることはない。だから、神の愛を本当に理解した人は、周りの人間からの評価に囚われなくなり、神と同じような無条件の愛を、周りに示すことができるようになる。

神は今から約二千年前に、独り子を通して人類の歴史に介入した。それは、汚れによって神と断裂した人間の全ての罪を、独り子に背負わせて、罪の赦しを与えるためであった。この行為によって、人間が聖なる神に再び近づく道が開かれたと同時に、独り子の命を惜しまぬほどの神の愛が明らかにされた。

義(神の義)

「主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。」(詩篇33:5

「義」とは、正しいこと、正しい状態を表す言葉である。神の属性は「完全な義」であり、聖書では「神の義」とも呼ばれている。善悪を識別する倫理観は、神の属性の重要な部分である。

神の義の基準は、人間の義の基準よりも遥かに高い。したがって、人間が神の前で義(正しい)とされるためには、人間の義(人間が考える正しさの基準)を捨てる必要がある。

神はご自身が義であることを、以下のような行動によって具体的に示される。

1:真実を語る(偽りを語らない)

聖書には、「神は真実である」と書かれている。神は偽ることができず、どんな時でも真実を語る。神が真実であるが故に、私たちは神を信頼することができるのだ。

2:約束を必ず守る。

神は預言者たちの口を通して、多くの約束を人間に語ってきた。それらの約束がことごとく果たされてきたことは、聖書の預言と歴史を調べれば確認することができる。かつてパレスチナの土地の征服を成し遂げたイスラエルの指導者ヨシュアは、晩年に次のように力強く語った。

あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。」(ヨシュア23:14

3:公正である。

神は全ての物事を完全に公正に扱い、そして裁く。人間は弱い生き物であり、時と場合によって不公平な判断をしてしまうが、神はそのような失敗を犯すことはない。

神は公正であるが故に、良い行いに対して必ず報いを与えるが、同時にいかなる罪に対しても必ず罰を設ける。神が愛によって罪人を赦すために、罪の身代わりとしてイエスを十字架に付けたのは、神の義を貫くためであった。

神の自然的属性

神は唯一、永遠である

全知

主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。」(歴代誌第二16:9

この世界に、神の知らないことは何一つ存在しない。人の心の中の状態でさえ、神は全てを把握している。したがって、真実であり、全知である神の前には、いかなる偽善も通用しない。しかし神は、心の正しい者が誰かをよく知っており、そのような心で神を求める人々のためには、強大な力をもって救いを与えることができる。

神は、過去から現代だけでなく、遠い未来に起きることも、完全に知っている。神が、遠い未来の出来事を正確に預言することができるのは、このためである。

全能

神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37
主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。」(創世記17:1

神には、いかなる限界も存在しない。神が全能であるということは、神にとって、この世界で成し遂げられないことは何一つ無い、という意味である。その全能性は、宇宙の広大さやそこに満ち溢れている巨大なエネルギー、また地球上の生命の驚くばかりの精巧さによって、明らかにされている。

神が全能の力で宇宙を創造したことを理解できれば、聖書の記されている奇跡を疑うことは無くなるだろう。聖書の預言によれば、近い将来、神は地上に楽園を回復させる。神が全能であるために、私たちはその約束に、信頼と希望を置くことができる。

永遠

わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13
今おられ、かつておられ、やがて来られる方から」(黙示録1:4

神は永遠の存在である。神には始まりがなく、終わりも無く、常に今この時に存在する。神の永遠性に比べると、百年足らずの人の一生は、あまりにも短い。しかし、神は人間に、再び永遠の命を与えると約束している。(ヨハネ3:16)。神が永遠の存在だからこそ、私たちはその約束を信じることができる。

唯一

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。  5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5

「神は唯一である」これは、神にとって極めて重要な宣言である。これまでに考慮してきた神の役割や属性を考えれば、神が唯一の存在であるという結論は、必然的に導き出される。

世界には、人間から拝まれている様々な偶像が存在するが、それらは実在しない神々である。万物を創造した神は唯一であり、聖書の神だけが、生きていて、私たち人間と人格的な交流を持つことができるのである。

次回の記事では、神が人間を創造した経緯と意図について、また人間がどのように堕落していったのかについて、詳しく取り上げる。

⇒アダムの創造から始まる本当の人類史

⇒ 本記事のシリーズでは、30日間のメール配信プランもご用意しています

補足事項

三位一体の神について

聖書は、神が「三位一体」であることを教えており、それはキリスト教の正統教理として歴史的に教えられてきた。その意味は、「父」「子」「聖霊」という三つの人格的主体(位格)を持つお方が、一人の神としての実体と統一性を持っている、ということである。難解な教えではあるが、聖書全体は、確かに神の唯一性と複数性を啓示しており、その教えが人間の伝統ではなく、聖書そのものから来ていることは明白である。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28:19-20)

私たち人間の視点からは、一見矛盾とも思えるような教えだが、そのように感じる理由は、神の実体が人間の有限の知性を遥かに越えているからである。

「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は[何と]たどりがたいものなのでしょう。」(ローマ8:33)

三位一体論について、もっと詳しくお知りになりたい方は、別サイトの記事「三位一体は聖書の教えですか?」をご覧いただくことをお勧めする。

神の御名「ヤハウェ」について

三位一体の神には「ヤハウェ」というお名前がある。この御名は、「テトラグラマトン」というヘブル語の四文字の子音によって表され、旧約聖書において約七千回近く登場する。この御名は、「わたしは在る」という言葉から来ており、そこには「自立自存」「いかなる限界もない」「永遠の存在」という意味が込められている。

旧約聖書の時代の神の民の間では、「ヤハウェ」という御名は日常的に用いられていたが、紀元一世紀になる頃には、ユダヤ教の伝統により、その御名は発音されなくなり、代わりに「主」という表現が用いられた。そして、キリスト以降の時代においては、「イエス・キリスト」という御名が、救い主なる神の最も重要な御名として、クリスチャンの間で唱えられるようになっていった。

なお、「ヤハウェ」という御名は、16世紀以降から近代に至るまでは、「エホバ」という発音で広く知られていたが、専門家がその発音の間違いに気付き、今では「ヤハウェ」という発音の方が正しいことが通説となっている。

あわせて読みたい

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です