4. アダムの創造から始まる本当の人類史|聖書の教え


自然災害、テロや紛争、飢饉、金融危機、貧富の広がりなど、人類を悩ます問題は、歴史的に後を絶たない。もし神が存在するのなら、なぜこのような苦しみを許されるのだろうか?

この重要な疑問に答えるためには、まずはじめに、最初の人類の創造から始まる、真実の歴史について知らなければならない。

 

人類の創造に至る流れ

天地の創造 光の出現

創世記1~2章では、神がどのような段階を経て、天と地と最初の人類を創造していったのかが描かれている。以下に内容を要約する。

創造の歴史~天地の創造から始まる六日間

創造主である神は、六日間という期間をかけて、段階的に万物を創造していった。光と闇の区分、天と地の水の分離、陸地と植物の出現、太陽と月、海洋生物と翼のある動物の出現、そして六日目に、神は地上のあらゆる動物を創造し、最後に、神に似た「かたち」を持つ者として、最初の人間「アダム」を創造した。そして7日目に、神は全ての創造の業を休み、その日を聖別した。(創世記1章)

理想の楽園、エデンの園

神は「エデン」と呼ばれる園を設け、そこにアダムを置いた。そこは、食べるのに好ましいあらゆる木が生えている、理想の楽園だった。園の中央には、「命の木」と「善悪の知識の木」と呼ばれる二本の特別な木が置かれたが、善悪の知識の木については、それから取って食べる日に必ず死ぬと警告された。(創世記2:1-15)

アダムに与えられた権威と仕事

神は、アダムに三つの仕事と役割を与えた。(1)地球上のあらゆる生物を支配すること。(2)子を生んで多くなり地に満ちること。(3)エデンの園を耕しそこを守ること、である。

最初の女性の創造と結婚

神はアダムを深い眠りに入らせ、彼のあばら骨の一つを取り、そこから最初の女性であるエバを創造した。アダムはエヴァを見て大変喜び、二人は正式に夫婦関係で結ばれた。これが人類で最初の結婚である。(創世記2:18-24)

以上が、天と地と最初の人間の創造に関する、本当の歴史である。

創世記のアダムとエバの伝説が人類誕生の真実である証拠についてはこちら

神の「かたち」とは何か?

神の「かたち」とは何か?

Photo by Jeb Wallace-Brodeur

「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、・・・すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1章26~27節)

ここで、神が人間を「神のかたち」に創造した、という部分は、非常に重要な意味を持っている。「神のかたち」とは、外面の形状の「形」のことではなく、「内的な性質」を表している。では、人間に受け継がれた、神の内的な性質とは何だろうか?代表的なものを以下に取り上げる。

神のかたち(内的性質)の具体例

自由意志:

自由意志とは、理性を持つ者が、自らの責任において決定をする意思のことを表している。もし神が人間に自由意思を与えなかったら、人間はロボットか、あるいは本能のみによって行動するある種の動物に過ぎない。

人間にとって最も大切な自由意思の選択は、創造者である神に従うことである。この点は、人間の存在意義や、神が人間を取り扱う方法について理解する上で、極めて重要なテーマである。

倫理性:

人間は動物とは違い、善悪を明確に識別する倫理性を備えており、その倫理性は、「良心」という形で人間の心に刻まれている。ただし、良心が本来の正しい状態へと精錬されるためには、創造者である神の導きが必要である。

創造性:

神の創造性の豊かさは、自然界を通して明らかにされているが、神のかたちである人間にも、何かを造り出すことを喜びとする創造性がある。例えばそれは、音楽や絵画、ダンス、建築、文学、などあらゆる分野において、顕著に現れる。とはいえ、人間は既にある物からしか造ることはできない。無から有を創り出せるのは、万物の創造主だけである。

神のかたちとしての本質的な価値

人間は誰もが、承認欲求(他者に認められたいという気持ち)を持っているが、一般の社会でその欲求を満たすためには、金持ちになったり、昇進したり、外見を良くしたりすることが求められる。このような価値の追求に熱心な社会の風潮に、疲れを覚える人は後を絶たない。

しかし、これらは皆、人間の付加的な価値であって、本質的価値ではない。聖書によれば、全ての人間は神の像(かたち)に造られているため、個人の能力や特権に関わらず、本質的に尊い価値を持っている。そして、神はその尊い価値を認めており、一人一人の人間を無条件に愛している。

人間の心は、神の愛によって満たされることによって、最も健全な状態へと回復する。そして、そのような回復を経験した人は、付加的な価値の追求に囚われることが無くなり、真の平安と心の自由を手に入れるようになる。

エデンの園と中央の二本の木

猿からの進化ではない~最初の人間・アダムの創造から始まる本当の歴史

「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 9また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。」(創世記2章8~9節)

パラダイスであるエデンの園

神は「エデンの園」と呼ばれる、理想の楽園にアダムを置いた。そこは、美しく食べるのに良いあらゆる木が生えているパラダイスだった。衣食住のために不必要に労することはなく、美味しい食物が常にあり、病気は無く、死ぬこともなかった。そして最大の歓びは、愛情深い創造主との自由な交流だった。

中央の二本の特別な木

エデンの園の中央には「命の木」と「善悪の知識の木」という、二本の特別な木が置かれた。これらの木々は、アダムの命、神とアダムの関係を象徴する、特別な意味を持つ木々だった。

最初の命令~エデン契約~

命の木と善悪の知識の木

「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。(創世記2章16節~17節)

自由意志の象徴

「園の中にあるどんな木からでも食べてよいが、善悪を知る木からは食べてはならない」これが、神がアダムに与えた最初の掟であり、専門的には「エデン契約」と呼ばれる。この時神は、その木の周りに柵を作ったりはしなかった。確かに神は、アダムに食べないようにと警告したが、それを最終的に取って食べるかどうかは、アダムの自由意思に委ねられたのである。

神はなぜ人間に自由意思を与えたのか?

もし神が人間を、プログラムによって神を礼拝する存在として創造したならば、それは「神のかたち」とは言えず、ロボットや他の動物と同じである。人間は、自由意思と無関係に選択することからは、本当の喜びを見出すことはできない。神が人間に自由意思を与えたのは、人間が愛情深い神との交流を通して、 永遠に深い喜びを得るためであった。

永遠の命

神はアダムに対して、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と語った。このことから、人間には元々、終わることの無い永遠の命が与えられていたことがわかる。人間が歴史的に死を経験してきたために、多くの人は、人間がいつかは死ぬ存在だと理解しているが、それは間違いなのである。

では、なぜ永遠の存在だった人間が、苦しみと死を経験するようになっていったのだろうか?その理由は、次の記事で取り上げる。

 

罪による堕落~サタンと人間の反逆

⇒ 本記事のシリーズでは、30日間のメール配信プランもご用意しています

あわせて読みたい

16件のフィードバック

  1. ヒュパティオス より:

     ヒュパティオスは創造主が存在することを認識しております。創造主の性質、全能性を被創造物は観測できませんので、ヤハウェが創造主であることを識別することは不可能です。サタンと呼ばれる被告側の訴えは退けられますが、原告側の訴えも保留されます。
     原告側の主張の正しさを証言する人々は多いです。彼らは道徳的であり、隣人愛を持ち差別をしません。彼らは言います「イエスを信じて、永遠の命に与ろうではありませんか。疑えば永遠の死が訪れます」
     イエス・キリストはヒュパティオスが裁判長の席を降りて、証人の列に加わるのを待っています。彼は人類の罪を償い、人類を愛しています。ヒュパティオスには彼の貌がぼんやりと見えています。放蕩息子を赦す神の家に帰って安らぐことは希望であり、父親に今までの不品行を詫びたい衝動が大きくなります。クリスチャンの人々はヒュパティオスを受け入れ、抱擁し、ともに暮らすでしょう。異教や科学至上主義の殺伐とした世界から、聖書が示す神の世界に進むべきでしょう。
     ですが、ヒュパティオスは法廷の扉の向こうに誰かの気配を感じるのです。ずっと誰かが来るのを待っている気がしてなりません。サタンの呪詛や怨嗟、キリストの交わり、賛美が響く法廷の中に、奇妙な囁きがほんの僅かに混ざっているのが聞こえるのです。囁きは少しずつ大きくなり、やがて法廷に達するでしょう。ずっと待っていた誰かが扉を開けて法廷に立つ時、ヒュパティオスは死にます。
     不信仰ゆえの地獄か、悪霊たちに虐待されるハデスか、それとも別な結果か。
     私には分からない。家出した息子は誰の家にも入ることができず、路上で衰弱するだけかもしれません。
     

    • true-ark より:

      私たちと神との関係を隔てるものは、どんなものであっても、それは神から来たものではありません。その法廷の扉の向こう側に、どんな気配を感じようとも、ヒュパティオス様が主イエスを信じる選択をする時に、それは消えさるでしょう。神に祈ったことはありますか?
      ぜひ、「主イエスよ、もしもあなたが、聖書に書かれている通りのあなたであり、私が心から信じるべきお方であるならば、それを私にわかるような方法で教えてください」と祈ってみてください。たとえ、一度の祈りで何も起こらなくても、この祈りを日々の糧としてみてください。主は、必ず答えてくださるでしょう。
      あなたに、神の祝福と導きが豊かにありますように

  2. ヒュパティオス より:

     私の質問に回答していただけることを感謝しております。私はただ、神と組み打つヤコブのように、神と対決したヨブのようでありたいのです。重ねて感謝申し上げます。あなた様の神があなた様を祝福されますように。祈ることしかできませんが。

  3. ヒュパティオス より:

     イスラエルの神ヤハウェが受肉した。ダビデの子孫イエスとして誕生した。彼は奇跡を示し、人々を癒した。福音を伝え、神の国について教えた。やがて処刑され、復活した。これらの出来事は古代から預言されていた。預言は全て成就する。これらが事実であると認めましょう。ですが、イスラエルの神が創造主であるという証明ではありません。預言の成就と創造が関係のないイベントである可能性を考えましょう。
     ヤハウェは超自然的能力を持っています。他の神々は偶像であり、あるいはヤハウェに反逆した悪霊でしょう。神々はヤハウェよりも無能であり虚言で己を誇張しているだけでしょう。ですが、人類が未だに知らない神がいる可能性を考えるべきです。宇宙は広大であり、暗黒物質で充填されていて、光はほんの僅かです。人類は他の恒星系、銀河の詳細について無知なのです。知られざる神は宇宙の何処かで受肉し、人類がやって来るのを待っているのかもしれません。
     まずは銀河系を探索してからでも遅くはありません。ヤハウェは全宇宙の主権を主張していますが、その弁論を証明する証拠は状況証拠のみであり、創造主がヤハウェであることの必然性を証明するものではありません。人類は自然探求、歴史や文化への調査を通して考えていくべきではありませんか。
     もし、イエス・キリストが全宇宙の創造主である客観的な証拠がすでに提出されているならば教えて下さい。私はイエス・キリストが超自然的な存在、時空間を超越した存在であることを認識しましたが、彼が宇宙を創造したと結論するのは現時点では不可能だと判断したのです。証拠が聖書の語句のみに依存するならば、原告の主張を盲信する裁判官と同じ過ちを犯しています。

    • true-ark より:

      「005 天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主はこう言われる。
      006 「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。
      007 こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。
      008 わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。
      009 初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」(イザヤ42章)

      ヤハウェが創造主である、という点は、聖書全体を通して一貫して啓示されているので、ヤハウェは神であることと、創造主であることを切り離すことは全く不可能です。もし、それらが切り離せる関係で、ヤハウェが実は創造主でないとするならば、ヤハウェは嘘つきです。イエス・キリストは嘘つきです。それも、深刻な嘘つきであり、詐欺師であることになります。

      「証拠が聖書の語句のみに依存するならば、原告の主張を盲信する裁判官と同じ過ちを犯しています。」

      まず、裁判においては、原告の主張は、その証言の真実性が客観的に観察されます。その点で重要な指標となるのは、原告の人格が信頼に値するのかどうかです。もしも、その原告の信頼性が、多数の証人の確かな証言によって保証され、またその原告が真っ当な人物であることが、その原告の長年の人生の功績を通して証明されるのであれば、その原告の証言は、なおのこと、信ぴょう性の高いものとなります。たとえば、マハトマ・ガンジーが、裁判の席において、命をかけて証言する言葉があるとすれば、彼の言葉を信頼しない人間は、この世界にそう多くはないでしょう。

      では、今、ヒュパティオス様が、その裁判において対峙しているのは、ガンジーもなく、釈迦でもなく、人類史上、もっとも多くの人物から崇敬され、今なお崇拝され続けているイエス・キリストです。彼が、どのような人物であるかについては、人類史上、もっとも多くの人に読まれ、その信ぴょう性を認められている聖書の中で、数多くの預言者によって保証されています。つまり、彼は神の御子であり、救い主であり、創造主です。次に、キリストの実績です。彼はどんな病でも癒し、どんな悪霊でも追い出しました。彼は、あらゆる預言を成就し、神の約束の確かさを証明しました。彼は、自然界を制する力を行使することにより、神であることを示しました。彼は十字架によって人類への無償の愛を示しました。彼は復活によって、ご自身が命の救い主であることを証明しました。

      英国最高裁の裁判官、エドワード・クラーク氏は、裁判官としての視点に立ち、キリストの復活に関する証拠を調査した上で、キリストの復活が確かであるとの結論に達しましたが、そのことを次のように語っています。
      「私にとってこの証拠は決定的である。最高裁の裁判官として、これまで入念に証拠を調べ判決を下してきたが、これほどまでに圧倒的な証拠を今までに見たことが無い。弁護士としても、私は福音書の証拠を文句無しに受け入れることができる。証言者は信用できる人物であり、その人物像からも、証言内容の確かさが立証される」
      https://true-ark.com/bible-christ-resurrection/#i-14

      そして、イエスは、ヒュパティオス様に対して、次のように主張しています。
      「私は創造主であり、あなたの罪の赦しために、十字架にかかり、あなたへの永遠の愛を示した。私を信じ、罪の赦しと永遠の命を受けとりなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい」

      ですから、ヒュパティオス様に求められているのは、イエスに対する人格的な信頼です。聖書はそれを「信仰」と呼びます。彼の言葉を信じるかどうかは、あなたの選択であり、誰もそれを矯正することはできません。しかし、もしも「それでもまだ、キリストの言葉は十分に信頼に値しない」と考えるなら、それは証拠の量に問題があるのではなく、キリストに心を開くかどうか、という所に問題があるのでしょう。「証拠はすでに十分である」というのが、神様の側の主張です。

      難しく考えすぎず、素直に、キリストの愛を受け取ってみてはいかがでしょうか?

  4. ヒュパティオス より:

     奇跡が事実だと認めましょう。ですがイエス様が奇跡を為した事実があったとして、どうして彼が創造主であると確証できますか。復活したからといって、どうして唯一神だと確証できますか。創造主が別に存在し、私たちが知らないだけかもしれません。
     金の子牛鋳造を主導したアロンを大祭司に任命した。ミデアン人の財産を盗み、その男子と妻を殺害するように命令した。腹を痛めて産み、抱きしめて育んだ息子を殺される母親の悲しみを、嫁に出して幸福になった娘を殺される父親の苦しみを無視した。さらに処女の娘を女主人に仕える奴隷とし、もしくは性的な奉仕を強制した。エリコやアイ、アマレクの人々を刃物で首を刎ね、腹を抉り出し、火にかけてアブラハムの神への人身御供とさせた。背いたヤコブの家は赦したにも関わらず、生き残りのカナン人を奴隷化した。イサクの神はこれらを看過するか、命令しました。理由は知りえないでしょう。ただ、事実としてヤコブの家は強くなりました。
     もう一度言いますが、奇跡はありました。復活もあったとします。ですが、奇跡という異常現象はイエス様のみの業ではありません。仏陀の奇跡、弘法大師の奇跡はどうですか。
     もう一度言いますが、創造主はいます。ですがイエス様でも、イスラエルの神でもありません。私たちが未だに知らないだけなのです。
     姦淫のゼウス、復讐のアポロン、弱者に無関心な諸仏、綺麗ぶった日本の神々、異世界の怪物阿弥陀如来、戦乱のヤヌス、奴隷製造職人ブラフマン、放逸なバアル、これらの数えきれない偽の神々の列にヤハウェも加わりました。
     ただ、イエス・キリストに関しては葛藤しています。

    • true-ark より:

      聖書の神が、全能の唯一神であるとする重要な根拠は、預言の成就にあります。当サイトでも、色々と預言の成就に関して説明する記事を載せているのでぜひご覧ください。世界には、色々な神と呼ばれるものが存在しますが、遠い昔から、時代を越えて預言を成就させ、約束を忠実に果たされてきたのは、聖書の神だけです。なので、聖書の神を、ゼウスや色々な神々と比べることはできません。始めから同じ土俵に立っていないと思います。

      そして、その神の救い主に関する預言の成就として生まれたのがイエス・キリストでした。イエス以外、遠い昔から、その出生と生涯を予告され、その通りに生まれ人生を送った人は、一人もいません。 なので、そういう観点を考慮すると、ブッダやマホメットやモーセさえ、同じ土俵で比べることが不可能です。

      また、イエスの奇跡は、死人が復活し、完全な姿で現れる、というレベルです。他に、そのような奇跡を証拠の記録が残る形で体現した人は、歴史上いたでしょうか?

      イエスは、旧約聖書の登場する神が、唯一の善い方であると言いました。なので、イエスを信頼するならば、イエスの父なる神に対しても、同じように信頼することができます。

  5. ヒュパティオス より:

     イエス様が福音書に詳述されているように、癒し、科学的思考を超越する奇跡を本当に示すことができたと考えるのは誤りではありませんか。多くの民衆の前、異邦人の前で奇跡を示したというのに、彼らはイエス様を見捨てました。過越の祭りの時、エルサレムに来た人々の多くはイエスよりもバラバを選んだのです。過激派の一分子の方が尊敬に値すると考えたのです。
     婦人たちを除き、ペトロも含む弟子集団は逃散したのではありませんか。彼らはイエスがメシアであると確信できるだけの奇跡を観察する機会に恵まれていたにも関わらず、おそらくはエルサレムから逃げたのです。数々の奇跡を行う預言者に付き従う弟子たちを知っている民衆は少なくありませんでした。ローマ人への反逆罪という一番重い罪を犯したにも関わらず、ローマ当局はイエスのみを処刑、処罰し、弟子たちを捕えすらしませんでした。また、民衆も通報した形跡がありません。証を見ても信じない民衆にとって、通報による報奨金を手に入れるチャンスだったというのに。貧しく、将来への展望が見えない彼らにとって、渇望するものであったでしょうに。
     エルサレムの市民と各地から来た民衆はイエス様の弟子たちをみつけることができなかっただけ、と考えてしまうのです。では、何故弟子たちはメシアを見捨てたのか、アブラハムの神からの預言者を見捨てたのか、それは奇跡がイエス様の幻覚あるいは幻聴であったことを示唆していませんか。弟子たちはイエス様の主張に魅了されて、あるいは野望を掻き立てられて師事し、いざ死の危険が迫ると逃亡したのです。イエス様自身はただの人間だったから。
     民衆たちもイエス様がマタティアの倅のように英雄であると期待し、ただの人間であることに失望したので、ローマ人に対して彼を弁護しようとする動機はありませんでした。
     ローマ人は婦人に対しては寛容です。パルミラ女王ゼノビアをアウレアヌスは処刑しませんでした。アウグストゥスはクレオパトラに関心を示しませんでしたが、彼女の息子カエサリオンは殺害しました。女性は後見人に依存することなく財産を処分することができ、解放奴隷の夫婦は共働きでした。ユダヤ人は逆に厳格でした。ローマ人の寛容さ、ユダヤ人の女性への軽視が、婦人たちへの追及を行わなかった理由でしょう。
     復活についてですが、そもそもアポロンの息子アスクレピオスが示した治療と同等のものではないのですか。神々が人間を蘇生させた逸話は多く、蛮勇ヘラクレスですら成しえた程度のものです。アスクレピオス、ヘラクレス2人の半神には復活させる自信があり、それを実行したにすぎません。あらかじめそのことを言明したからといって、自分自身で預言を実現させただけです。
     イエス・キリストは本当に創造主でしょうか。単に、気まぐれな神々の一柱ではありませんか。

    • true-ark より:

      おそらく、ヒュパティオス様は、奇跡はない、という前提で、聖書を読んでいないでしょうか?奇跡は当時も、今もたくさんあります。
      コメントを拝見させていただいていると、「奇跡はなかった」という考えに基づいて、色々な思考を重ねられている印象を持ちましたが、実際に聖書が述べている文章の意味が、完全に度外視されています。
      (1)福音書は、奇跡が実際に起きたと述べています。
      (2)使徒の働き以降も、たくさんの奇跡が起きたと書かれており、弟子たちは復活を信じて、命の危険をおかしました。

      したがって、ご指摘の主張の正しさを証明するためには、新約聖書の記録が嘘であることを証明する必要が生じます。それで、まずは当サイトで紹介している、色々な奇跡の体験談や、リー・ストロベル氏の「キリストの復活は事実か」を読んでみてください。

      真実を探求なさっているのであれば、憶測や推論ではなく、事実や証拠に基づいて、物事を判断されることをお勧めします。

  6. ヒュパティオス より:

    福音書を読んだ後の推論ですが、イエス様は統合失調症の陽性症状を患っておられたのではありませんか。彼は精神を病んでおられましたが、神に対して誠実だったのです。律法と圧政に縛られた人々に福音を告げ、神の本質が愛であると語られたのです。また、詐欺師であったアスクレピオアス神殿の司祭たちと異なり、イエス様は真実癒しを与えようと試みたのです。彼はただの人間です。ですが、嘘を述べなかったのです。イエス様は己の矛盾した言動、主張の破綻を認識することすらできなかったのです。彼は異常な行動に駆り立てられ、幻覚や幻聴と戦い、己の偏執狂じみた発想を分かりやすく語ったのです。

    • true-ark より:

      福音書を読む際に、常識や先入観を省いて読むことをお勧めしたいと思います。例えば、「イエス様は真実癒しを与えようと試みたのです。」とありますが、試みたのではなく、実際にあらゆる病を片っ端から癒されたことがわかります。
      「エス様は己の矛盾した言動、主張の破綻を認識することすらできなかった」とありますが、ではなぜ、聡明な名だたる学者たちの一人として、イエスを論破することができなかったのでしょうか?
      「彼は異常な行動に駆り立てられ、幻覚や幻聴と戦い、」とありますが、ではなぜ、イエスが見て語った幻は、ことごとく、その通りに成就していったのでしょうか?

  7. ヒュパティオス より:

    何故創造主は悪を放置するのか。創造主は人類を愛していないからです。唯一神が人類を創造したのは正しいでしょう。ですが、神は人類をじっと観察しているだけかもしれません。ある霊的存在が人類から信仰を貰おうと企み、アブラハムをウルから導き出したのかもしれません。ヤコブと格闘したのもその僭称者だったのかもしれません。イスラエルをパレスチナまで導き、先住の人々をヘレムに処すよう命令したのもその僭称者だったのかもしれません。まことの創造主はじっと地球を観察しているだけだったのかもしれません。創造主は人類の道徳に無関心なのでしょう。イスラエルの神、イエス・キリストとは別に創造主は存在しているのではありませんか。そして我々人類はその唯一神を未だに知らないだけのなのです。イエス・キリストは愛をもたらしますが、彼が創造主である証明はされていないのです。

    • true-ark より:

      おそらく、ヒュパティオス様は、聖書をまだ熟読された経験がないのかもしれません。しかし、心を開いて、熟読されてみることを強くオススメいたします。きっと、そのような結論や疑問へは導かれないでしょう。
      「イエス・キリストは愛をもたらしますが、彼が創造主である証明はされていないのです。」とありました。もしも、新約聖書のイエスの言動を観察するならば、そのような結論には達しません。

      彼は、完全な偽善者、あるいはペテン師だったか、
      もしくは、本物の創造主の御子であったか、のどちらかです。
      その中間はありません。
      https://true-ark.com/bible-jesus-teaching-personality/
      https://true-ark.com/lifestory-detective/
      https://true-ark.com/lifestory-howard-storm/

    • true-ark より:

      聖書を読む際に、一度、先入観を完全に省いて、読んでみることをお勧めしたいと思います。また書籍であれば、「キリストの復活は事実か」を、一度読んでみてください。きっと、違う視点が与えられると思いますよ

  1. 2016-07-22

    […] ⇒最初の人間・アダムの創造から始まる本当の人類史 […]

  2. 2016-10-02

    […] 4. アダムの創造から始まる本当の人類史 […]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です