15. 宝を天に積む―神の奴隷と富の奴隷|山上の垂訓の解説


宝を天に積む―神の奴隷と富の奴隷|山上の垂訓の解説(14)

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「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら(澄んでいれば)、あなたの全身が明るいが、23 もし、目が悪ければ(濁っていれば)、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:19-24

イエスはここで、「天の宝と地上の宝」「澄んでいる目と濁っている目」「神の奴隷と富の奴隷」という三種類の対比を取り上げているが、それらは全て、同じ真理を伝えることを目的として語られている。その真理とは、「富ではなく、神を信頼すること」の重要性だ。

これから三種類の対比を順を追って解説していくが、それぞれのテーマにおいて、話の中心となる真理を意識しながら読むことをお勧めしたい。

天の宝と地上の宝

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21

地上の宝とは、私たちが地上で蓄える資産などを表している。イエスが「宝を地上にたくわえるのはやめなさい」と警告した一つの理由は、私たちにとって、地上の富とは、究極的に信頼を置くものとはならないからだ。

例えば、私たちの国では、2011年に東日本大震災があったが、その時どれだけ多くの資産が消え去り、人々は家や仕事を失っただろうか?また、原発の影響で人々が非難した後、残された多くの家には、泥棒が入って物を盗んでいった。「地上の富に絶対の信頼を置くべきではない」ということが、震災から私たちが学ぶべき教訓だったはずだ。

だからイエスは、誰にも盗まれることの無い天国に「宝を蓄えるように」と教えたのだ。

天に宝を積む方法

「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ12:33―34)

天に宝を蓄える方法とは、自分の資産を、困っている人を助けるために、積極的に用いることを意味している。もしもあなたが、自分の富をそのように用いることができれば、地上の富は減るかもしれないが、天国に迎えられた時に、尽きることの無い報いを、天の神から受けることになるのだ。

地上の富を積もうとする人々は、資産を増やすための良い投資案件を探すことに夢中になっている。しかし、最高の投資案件は地上にあるのではない。最もリターン(投資収益率)の高い投資案件は、聖書の中にはっきりと書いてあり、それは施しを行って、天に宝を積むことなのだ。

澄んでいる目と濁っている目

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:22-23―新共同訳)

「澄んでいる」という表現は、他の日本語訳では「健全」「純真」などの言葉で訳されている。つまり、目が澄んでいるとは、純真な心で、物事を見ていることを意味している。

一方、「濁っている」という表現は、「悪い」「怪しい」「よこしま」とも訳されており、聖書の他の箇所では、「サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。」(第一サムエル18:9)や、「貪欲な人の食物を食べるな。」(箴言23:6)などの箇所で用いられている。つまり、「目が濁っている」とは、「目つきが悪い」とか「視力が低い」という意味ではなく、「妬み、貪欲、のために心が閉じている状態」を表しているのだ。

心が純真な人は、光である神を見、全身が明るく照らされることになる。また、天の神とそこにある宝に思いを向けることができる。

しかし、地上の富に思いを向ける貪欲な人は、目が濁っているため、光である神を見ることができず、全身が暗くなったままである。そのような人々の目には、天にある尽きない宝が映ることは無い。

二人の主人―神の奴隷と富の奴隷

「24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:19-24

イエスがここで語った警告は、地上で多くの富を得ること自体を否定するものではない。言うまでもなく、現代社会では、お金が無ければ生活を維持していくことはできない。

また、ただ生活を維持していくだけでなく、将来設計のため、万が一の時のためにも、ある程度の貯蓄をしておく必要もあるだろう。

しかし、もしも私たちが、生活の必要を越えて、富そのものを信頼する生き方を選ぶのなら、私たちの心は富に支配されることになり、神を信頼する生き方を選ぶことはできない。

神の奴隷となったニコデモ

紀元一世紀、イエスの時代、エルサレムに「ニコデモ」という高名なユダヤ教の教師がいた。彼はユダヤ教の最高評議会「サンヘドリン」の一員であり、社会的な地位と富とに恵まれていた。

彼は心の正しい人であったため、イエスが行った力ある奇跡の数々を見て、彼がキリストであることを信じるようになった。しかし、当時の社会では、イエスへの信仰を公に表明することは、社会的な地位や命を失うリスクが伴ったので、ニコデモはその信仰を公にせず、隠れた弟子となっていた。

しかし、イエスの十字架刑の後、ニコデモは心を動かされ、自身の信仰の表明として、イエスの遺体を丁重に葬った。ユダヤ教の文書によれば、その後ニコデモは仕事を失い、貧しい生活を余技なくされたと言う。

ニコデモは、神の奴隷として仕えるために、富に支配されることを止めた。彼は地上の富の多くを失ったが、今では天国において、尽きることの無い宝を受けていることだろう。

まとめ

神を愛するからといって、ニコデモのように、いつでも地上の富を完全に放棄することを選択する必要があるわけではない。地上の富について、どれだけのリスクが伴うのかは、各人が置かれた状況によって変わってくる。

しかし、神を愛し神に仕える生き方と、富を愛し富に仕える生き方を両立させることは決してできない。大事なことは、私たちが人生において第一に信頼をおくべき対象が、富ではなく、神になることなのだ。

「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」(第一テモテ6:17-19

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2件のフィードバック

  1. ジャック より:

     初めてコメントします。 私は農家で旅人のクリスチャンです。 こんばんわ。 毎日読んでいます。 貴サイトTRUE ARK。

     私は幼き頃からのクリスチャンで毎週教会にも行っていましたが、その当時は主に愛されているという究極の真実よりも、あれダメこれダメと言った戒めばかりに捕らわれてしまっていて、信仰生活の喜びを見いだせずにいました。 そんな喜びを見いだせないクリスチャン生活の中ついに高校の終わりあたりで恥ずかしながら当時通っていた教会の牧師さんと対立してしまい、教会に足を運ぶのをやめてしまい、その後7年以上も信仰生活から離れてしまった事もありました。 あの当時の私は正に「迷子の子羊」「無くした銀貨」そして、「放蕩息子」そのものでした。 信仰生活から離れる事で今まで自分を縛り付けていた戒めから解放された。と、最初はそう信じていましたが、結局は段々社会のしがらみ等で自分を縛り付ける結果となり、開放感も徐々に消え失せ、私自身の力の限界も嫌と言うほど思い知らされる日々を送ることになりました。  そんな悶々とした日々の中、この社会に生きていく楽しさも見いだせなくなった時ふと目にしたのが・・・・・部屋の片隅で読まなくなって久しい埃を被った聖書でした。 その聖書を開いた瞬間・・・目にしたのがルカ15章の子羊、放蕩息子の箇所でした。  久々に読んだ聖書。 その瞬間感じたことは、再び聖書を開いた私の事をイエスキリストは本当に心から喜んで下さっていると言うこと。 放蕩息子を受け入れた父親のように・・・。  幼き頃何となく過ごしてきた信仰生活、そして信仰から外れた高校終わりのあの頃に感じ取ることが出来なかった主の深い愛を本当に意味で理解することが出来て感動し、私は再びイエスキリストの御許に戻ることが出来ました。  主の本当の愛を知って10年以上経った現在、私は今、日々主の愛に感謝し生きることが出来ています。

     前置きが長くなってしまって失礼しました。 自己紹介も兼ねた証を語らずにはいられなかったもので・・・。  この記事のタイトル「宝を天に積む」については以前は中々その意味が理解出来ませんでした。 地上に富を蓄えすぎないようにする事は理解出来たのですが、一体どのようにして天国にお金などを持って行けばいいのだろうか???  この世での人生を終える時、地上で得たものは何一つ持って行けないはずなのだけど等と色々考えあぐねてしまったのでした。 でも、それは困っている人達の為に施しをする事だと聞いて何か目から鱗が落ちるような思いがして感動してしまいましたよ。 ありがとうございます。  私は実は東日本大震災の被災地に行って写真を撮ってブログで現状を伝える活動もしているのですが、そのことが少しでも天に宝を蓄える行為に繋がってくれたら、もう嬉しくて何もいう事がないですね。

     ところで、伝道者の書11.1でも似たようなことを書いていますよね。 「あなたのパンを水の上になげよ。 ずっと後の時代になってあなたはそれを見いだすであろう」でしたっけ??  偶像崇拝に昏倒してしまったソロモン王が虚しさと後悔の中で語ったと言われる伝道者の書も私はお気に入りなんです(著者については諸説あるらしいですね。無名の預言者がソロモンの気持ちになって記したとか)色々長々と書いてしまって大変失礼しました。    

    • true-ark より:

      ジャック様 ハレルヤ!いつも当サイトの記事をお読みくださりありがとうございます。色々な人生経験を経て、主の愛に導かれたのは本当に幸いでしたね。神様に感謝です。本記事を通して、天に宝を蓄える確かな方法に気づかれたとのこと、大変嬉しく思います。そして、その方法について一つ加えたい点がございます。話の流れから、イエスは特に「施し」に焦点を当てられましたが、天に宝を蓄える方法はそれだけではありません。ジャック様が、心を尽くして、神を愛し、隣人を愛する生き方をする時に、その一つ一つの行為が、天の宝となって蓄えられていくのです。つまり、心から主を礼拝をする時、祈る時、聖書を読む時、献金を捧げる時、施しをする時、苦しんでいる人を助ける時、福音を伝える時、その全ての行為が、神にとって尊いものであるということを覚えて頂ければ幸いです。今後共、当サイトをどうぞ宜しくお願い致します。

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