8. 敵を愛しなさい、完全でありなさい|山上の説教の解説

敵を愛しなさい

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敵を愛せよ、完全でありなさい マタイ5:43-48

43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

隣人と敵とは誰か

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』という教えは、パリサイ派のものではなく、エッセネ派の教えだった。したがって、イエスのこの言葉は、エッセネ派の教えに対して向けられたものと推測できる。

当時のユダヤ人にとっては、隣人とは、基本的に同胞のユダヤ人を意味していた。モーセの律法や厳格な口伝律法の教えの元で生活していた彼らにとっては、律法を実践しない異邦人は「汚れた民」として見做され、彼らの家に入ったり、共に食事をすることができなかったのだ。

また同胞のユダヤ人であっても、取税人は金目当てに同胞を売った売国奴のように見做され、嫌われていた。(実際に取税人たちは、同胞のユダヤ人たちから、必要以上に多くの金をかき集めていた。)

また、イエスが語った「善きサマリア人」の話から、サマリア人も、当時のユダヤ人にとって敵を意味していたことが伺える。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

イエスはなぜ「敵」を愛するよう勧めたのだろうか?それは、彼らの天の父が憐れみ深く、善人悪人問わず、豊かな恵みを公平に与えている善い方だからだ。

実際に、道を歩いていて、悪い人の人の上だけには、日が照っていなかったり、または雨が降っていなかったりするだろうか?(ユダヤ人にとって雨は恵みを象徴する言葉だ)天の父は全能の神であり、その気になれば、そうすることも不可能ではない。しかし、あえてそのようにしないのは、神が敵に対しても恵み深い方だからだ。

それで、天の神を「父」と呼ぶユダヤ人は、そのような善い方の子どもなのだから、その父の善良な態度にならって、自分の敵にも親切にしない、というのが、イエスの言葉の意図なのだ。

自分を愛してくれる者を愛しても報いは無い

46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

もしも、誰かが自分を愛してくれたら、例えば親切にしてくれたのなら、その人に対して感謝を伝え、然るべき時に恩返しをすることは、「特別なこと」ではなく、「当たり前」のことだ。だから、イエスはここで、「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」と語ったのだろう。

そのようなことは、彼ら(ユダヤ人)が敵と見做していた異邦人や取税人たちでも、普通に行っている。また、古今東西、どの人々も実践しているのだ。

しかし、天の神から「子ども」として扱われるユダヤ人は、良い意味において、当たり前の行為で満足してはならなかった。彼らは、偉大なアブラハム契約の継承者であり、この世にあって、「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト19:6)となって、神と異邦人との間に立ち、全人類を祝福する使命へと召されていたからだ。

だから彼らは、天の父が完全な善良さを持って全ての人間を愛するのと同じように、敵をも愛するようにと教えられたのだ。

異邦人やクリスチャンへの適用

当時のユダヤ人に対してだけではなく、イエスのこの訓戒は、全ての人に対して普遍的に重要な意味を持っている。また、イエス・キリストを救い主と信じる全てのクリスチャンにとっては、なおのことそうだと言える。

私たち全てが、「自分を愛してくれる者」に対してだけでなく、「自分を愛さない敵」に対しても親切にすることができるなら、今すぐ世界は大きく変わることだろう。

とはいえ、私たちには罪があって不完全であり、この教えを実践することは容易ではない。この教えを本当に実践していくには、神の助けが不可欠だ。つまり、聖書の言葉で自分を養い、聖霊の助けを得て良い行動へと導いてもらうのだ

敵である私たちを愛した神―キリストの十字架

「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:10)

最大の「敵をも愛する愛」は、神が、キリストの十字架によって、全人類に示した愛だと言える。神の愛を退け、神に従わなかった私たちは、それによって「神の敵」となってきた。

しかし、神は全ての敵が、自身と和解することができるよう、罪の代価として、「先に」キリストの十字架を通して、赦しを与えてくれたのだ。このようにして表された神の無償の愛を、私たちが本当に理解できたなら、それと同じような愛を、周りの人々にも実践していくことができるようになるだろう。

ステパノ―迫害する者たちのために祈った殉教者

最後に、キリストの十字架の愛を知った人物で、イエスのこの教えを見事に実践した有名な人物を紹介したい。その名は、「ステパノ」といい、初代のエルサレム教会で指導的な役割を担っていた。

彼は知恵と聖霊に満ちた人で、イエスに敵対していた当時のユダヤ人の中で、誰も彼を論駁できる人はいなかった。そのため、彼は敵対者から激しく憎まれ、策略によって、ユダヤの最高評議会(サンヘドリン)で裁判を受けることになった。

ステパノは証言の場で、臆することなくユダヤ人たちの罪を糾弾し、イエス・キリストを証ししため、石打の刑に処せられ、初代教会最初の殉教者となった。

しかし石打の刑の中、厳しい苦しみに耐えながらも、ステパノは、迫害者のために執り成しをすることを忘れなかった。

58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。(使徒7:58-60)

ステパノは、苦しみの中でも、神の栄光の力に満たされていた。彼の内に働く、超自然の聖霊の力が、またキリストの十字架によって示された神の愛の力が、死に面してさえ、ステパノが敵のために執り成しの祈りをすることを可能にしたのだった。

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