患難前携挙説~神が数える「七」の奥義|キリストの空中再臨を待ち望む

携挙~イエス・キリストが空中まで来られ、全ての信者を天に引き上げる栄光の時はいつくるのか?第一テサロニケの4章が示す通り、将来のある時点で携挙が起こることは確かだと言えますが、それが七年間の患難の時代の前に起こるのか(患難前携挙説)、患難中に起こるのか(患難中携挙説)、患難後の地上再臨時に起こるのか(患難後携挙説)、クリスチャンの間では議論があるところです。

私は色々な理由から、患難前に携挙が起こると信じる立場ですが、一方で、この説をめぐってクリスチャンが分裂することは望ましくないと信じています。むしろ、どのような立場であっても、主の再臨を待ち望み、いつ主が来られても良いよう霊的に目ざめていることこそ、最も重要な信仰だと理解しているからです。

さて、以上の点を踏まえた上で、最近神様から教えてもらった「携挙の時期を示す『七』の数字の奥義」について、この記事を通して分かち合いたいと思います。

「私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。16すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(第一テサロニケ4:16~18)

ノアは七日前に方舟に入った

まず私たちが、聖書の構造として抑えておくべき重要な点は、「旧約聖書の預言や出来事の多く」は、新約聖書の時代の救世主キリストの働きを預言的に指し示す「型」だったということです。ですから、もしも私たちがキリストの空中再臨である「携挙」についてより深く理解したければ、その鍵は旧約聖書の出来事にも見いだされるということです。

「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。17これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。」(コロサイ2:16~17)

そこでまず、ノアの家族が、大洪水からどのように救われたのか、聖書の記録を確認していきます。

「主はノアに言われた。『あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。この世代の中にあって、あなたがわたしの前に正しいことが分かったからである。・・・4あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生けるものを大地の面から消し去る。』5 ノアは、すべて主が彼に命じられたとおりにした。・・・7 ノアは息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻とともに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。・・・10 七日たつと、大洪水の大水が地の上に生じた。」(創世記7:1~10)

創世記7章のノアの大洪水の記録を注意深く読むと、ノアが方舟に入ったタイミングについて興味深いことがわかります。上記では、方舟に入る流れと要点を把握しやすくするために、1~10節までの記録を部分的に引用していますが、神様がノアに箱舟に入るよう命じたのは、大洪水を起こす直前ではなく「七日前」でした。そして、そう命じられたその日にノアが箱舟に入ったことは、その後の7~10節の文脈を考慮してもわかります。七節で「ノアは・・箱舟に入った。」と書かれた後、10節で「七日たつと、大洪水の大水が地の上に生じた」とあるからです。

つまり、ノアとその家族と動物たちは、大洪水の裁きが起こる「七日前」に、当時の滅び去る世から「取り去られた」、つまり携挙されたのです。

出エジプト記、十の災い

次に、出エジプト記の記録から、イスラエル人がエジプトからどのように救われたのかを見ていきましょう。主なる神は、その力強い御手を持って、以下に示す「十の災い」によってエジプトを打たれました。

  1. ナイル川の水を血に変える、呪法師たちも同じことをする(7章)
  2. 蛙が這い上がる、呪法師たちも同じことをする(8章)
  3. 地のちりがブヨになる、呪法師たちは真似ができない(8章)
  4. アブの群れが送られる(8章)
  5. 家畜に重い疫病が起こる(9章)
  6. かまどのすすからのほこりが、人と家畜に膿の出る腫物となる(9章)
  7. 激しい雹をふらせる(9章)※避難しなかった人だけが打たれる(9章)
  8. いなごの大群が草木を食い尽くす(10章)
  9. 三日間の闇が襲う(10章)
  10. エジプトの全ての長子が殺される(11章)

さて、実はこの十の災いは、二つの種類に区分することができるのです。神は、始めの三つの災いに関しては、エジプトの全土を打たれましたが、四つの目の「アブの群れ」の災いからは、エジプト人の住む場所と、イスラエル人の住むエジプトのゴシェンの地とを区別し、イスラエルの上には災いが及ばないようにしたのです。

「もしもわたしの民を去らせないなら、わたしは、あなたと、あなたの家臣と民、そしてあなたの家々にアブの群れを送る。エジプトの家々も、彼らのいる地面も、アブの群れで満ちる。22         わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。23         わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。明日、このしるしが起こる。』」24主はそのようにされた。おびただしいアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入って来た。エジプトの全土にわたり、地はアブの群れによって荒れ果てた。」(出エジプト7:21~24)

このように、神は4~10番目の災い、すなわち最後の「七つの災い」が起こる前に、イスラエルをエジプトに下る神の怒りから「取り去られた」のです。

携挙の後も、七つを数えて神は地を裁く

このように見ていくと、裁きと救いに関し、神の方法には興味深い共通点があることがわかります。ノアの大洪水、エジプトへの十の災い、キリストを預言的に示すこれら二つの重要な裁きにおいて、どちらの場合も、神はご自分を信じる者を先に「取り去った後」に、「七つを数えて」から決定的な裁きをもたらしているのです。

それは、ノアの大洪水においては「七日」であり、出エジプトでは「七つの裁き」でした。

では、キリストの再臨に関わる世の終わりについてはいかがでしょうか?聖書の終末預言がそれについて明らかにしていることは、「七年間」と、「七 x 三の裁き」です。

「七年間」については、ダニエル9章ではこの世に対するメシアの働きを完了させる最後の1週として預言されており、黙示録の11~13章では「二人の証人」と「反キリスト」の活動の合計期間として明白に預言されています。

「七 x 三」の裁きについては、黙示録6~16章において、封印の裁き x 7 ~ラッパの裁き x 7 ~鉢の裁き x 7 という流れで展開することが示されており、その裁きの内容には、出エジプト記の十の災いを彷彿とさせるものが幾つもあります。

ですから、将来に起こる携挙についても、神はまず初めに主を信じる全てのものをこの世から「取り去って」から、七つを数えて裁きを完了させることでしょう。

※もっとも、これらの理解は、私が大患難前携挙を信じる根拠の全てではなく、あくまでその一つであり、それを証明するというよりは、それを「示唆する」ものと理解しています。しかし、こうやって神様の物事の扱い方に関する共通のパターンを聖書から発見していくのは聖書研究の面白さであり、醍醐味だと言えるでしょう。

神の恵み

最後に、ノアの救いと、携挙との間には、一つだけ重要な違いがみられます。ノアの日の大洪水においては、洪水の七日前に方舟の戸は閉じられ、外にいた人々の救いの機会は完全に失われました。つまり、第一の扉が閉じた時点で、救いの機会は閉ざされたのです。

将来の携挙の際も、神は七つを数える前に、信者を地上から取り去り、戸を閉められることでしょう。その後に残された人々は、神の怒りとサタンの怒りの両方を体験する厳しい時代に置かれたことを後悔することになりますが、恵み豊かな神は、七年間の患難時代に取り残された人々のために、もう一つの扉を用意しておられるのです。それは、聖書に次のように書かれている通りです。恵みの時代に生かされている私たちは、最後の裁きにおいても、二倍の恵みを受けることになるのです。

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(ヨハネ1:16)

その時代に、苦境の中から神を信じる人々は、厳しい迫害と苦難には遭いますが、神への信仰を全うするなら、命に冠が与えられるのです。

また、彼らの後にもう一人、第三の御使いがやって来て、大声で言った。「もしだれかが獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けるなら、10その者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。・・」12ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。

13また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」(黙示録14:9~13)

ですから、主がいつ私たちを迎えに来ても良いよう、いつも主を見上げ、彼の恵みから離れ落ちないようにしましょう。

 

あわせて読みたい