キリスト教における礼拝とは何ですか?それはどうあるべきですか?

一般的には、礼拝とは、宗教において神や仏などを敬って拝むことを指します。キリスト教の場合も、その基本的な意味は同じであり、教会に集まって、神への祈りや賛美が捧げられ、聖書のメッセージや信者同士の交流の時が持たれます。

以上が、一般的な礼拝の意味ですが、今回は、実際の聖書の言葉から、この礼拝の意味をしっかりと確認し、礼拝とはどうあるべきか、という心の態度についても考えていきたいと思います。

※なお、本記事は、どちらかと言えばクリスチャン向けの内容ですが、ノンクリスチャンの方々にとっても、礼拝とは何なのかを知る上で、役立つ記事となるでしょう。

どのような言葉が用いられているのか

聖書の中で、「礼拝」と訳されている言葉の元の言語を確認してみると、旧約聖書のヘブル語、新約聖書のギリシャ語においては、それぞれ次のような言葉が用いられていることがわかります。

  • ヘブル語:シャーハー(שָׁחָה)(もしくはハーヴァー)
  • ギリシア語:プロスキュネオー(Proskuneo)

これらの言葉が共通して持つ基本的な意味合いは、「(身をかがめて)ひれ伏す」「ひざまづく」というものです。

例えば、ギリシア語の「プロスキュネオー」は、当時の人々が、王の足元にひれ伏して接吻をするのに用いられた言葉です。そして、聖書の中で「礼拝」という言葉が出てくる箇所を確認していくと、確かに、それぞれの箇所で「礼拝」をしていた人々は、実際にひれ伏したり、膝をかがめたりしていることがわかります。

たとえば、イスラエルの民は、主なる神を、ひざまずいて礼拝しました

「アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。31民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。」(出エジプト4:30〜31)

イエスが誕生した後、バビロンから上ってきた東方の占星術者たちは、幼子のイエスの前に、実際にひれ伏して礼拝を捧げました。彼らは、イエスに礼拝を捧げた異邦人の第一号となりました。

「そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。」(マタイ2:11)

黙示録の4章では、天での美しい礼拝の様子が描かれていますが、そこで礼拝をする二十四人の長老たちも、実際に神の前にひれ伏して礼拝を捧げています。

「二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。」(黙示録4:10)

他にも、礼拝を表現するたくさんの聖句がありますが、実際に確認してみると、聖書全体において、礼拝は、実際に神の前にひれ伏して捧げられていることがわかります。

今回、記事を書くために色々な聖句を確認していた時に、礼拝の意味について、改めて考えさせれられました。なぜなら、今日のキリスト教の「礼拝」において、実際に神の前にひれ伏している人を、私は一度も見たことが無いからです。

もっとも、聖書が書かれた多くの時代において、神や王などの崇敬の対象に対してひれ伏すことは、今の時代よりも自然な行為でした。ですから、今日の礼拝において、誰も実際にひれ伏している人がいない、という事実は、必ずしも、神に対して不敬であることを意味しないと思います。

しかしながら、聖書の中の実際の「礼拝」の場面を確認していくなら、ひれ伏して神を拝むという実際の行為が極めて聖書的なものであり、礼拝とは、そのような心の態度を持って行うべきものであることがわかるのです。

礼拝における心の態度

礼拝とはどうあるべきか、「ひれ伏す」という行為が実際に何を意味するのか、もう少し掘り下げて考えていきたいと思います。

聖書の中に登場する実際の礼拝のシーンとして、私が最も美しいと思わされる場面は、すでに本記事で挙げさせていただいた、黙示録の天での礼拝です。先ほど引用した聖句の前後は、次のようになっています。

「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」9また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、10二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。11「主よ、私たちの神よ。あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」

ここで注目したいのは、二十四人の長老たちが、「自分たちの冠を御座の前に投げ出し」たことです。長老たち頭にあった冠は、彼らの誉れと栄光を表しており、その栄光は、神ご自身が彼らにお与えになったものです。なぜなら24人の長老たちは、その冠を受けるにふさわしかったからです。

しかし長老たちは、全能の神の前に出た時に、自分たちが持っている誉れや栄光を投げ捨てているのです。それは、神の前に出て、そのあまりの聖さと偉大な栄光に触れた時に、ただ神だけが、「全ての栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」であることを自覚したからです。

ですから礼拝とは、自分に注意を向けたりする時ではありません。たとえあなたが、どれだけ神の前に従順な人であっても、どれだけ素晴らしい人であってもです。

礼拝とは、自分を低め、ひれ伏すような思いで神の前に出ることであり、ただ、神だけが、全ての栄光と誉れと賛美を受けるにふさわしい方であることを思い、祈りと賛美を捧げる時なのです。

 

なお、この記事を読むノンクリスチャンの方々が、「自分はそんな思いにはなれないから、キリスト教の礼拝にはとても参加できそうにない」と考える必要はありません。神様は、ノンクリスチャンの方が、まず礼拝やクリスチャンの集まりに来て、そこでの賛美やメッセージを通して、神様がどんな方なのかを知って欲しいと心から願っているからです。

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