聖書を信仰の土台とする(1)聖書の権威と信頼性


聖書を信仰の土台とする(1)聖書の権威と信頼性

信仰の土台は聖書のことば

“こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。”第一テサロニケ 2章13節

イエスキリストを信じ、信者として成長していく上でのもっとも基礎的・土台となる信仰とは何でしょうか?それは、聖書全体を生ける神のことばとして認めている、という信仰です。あなたはなぜ、イエスを主と信じたのでしょうか?なぜイエスが私たちの罪のために十字架にかけられたことを信じることができたのでしょうか?それは、その真理が聖書に書いてあったからではないでしょうか?[1]

もし、聖書にそう書かれていないのであれば、あるいはそう書いてある聖書の信憑性そのものを疑うことがあれば、どうやってイエスを主として信じることができるでしょうか?

“その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。”黙示録19章13節

事実、「神のことば」とはキリストの称号であり、主イエスご自身です。イエスを信じることは神のことばを信じることであり、聖書を信じることはキリストを信じることなのです。

私の人生の中で、かつて信仰の最大の試練となったものがありました。それは、「自由主義神学」と呼ばれるものと直面した時でした。自由主義神学とは、「聖書には人間の言葉も含まれている」「天地創造やアダムとエバの話は神話である」「モーセ五書を書いたのはモーセではない」等のことを教える神学であり、プロテスタント全体の中にかなり浸透しています[2]

エホバの証人であった時は、聖書全体を素直に神のことばとして認めていたのですが、そこから出てきて色々調べていく中で「自由主義神学」を知った時、その神学に対する免疫が無かったので、信仰が大きく揺さぶられたことを今でも鮮明に覚えています。

ドイツの教会では、かつて教会の礼拝出席人数が国民全体の8割にも上ったそうです。しかし、自由主義神学の影響を教会が受け始めてからは出席者が激減し、1~2割くらいになったそうです。

こういうわけで、聖書全体を神のことばとして信じることは、イエスを主と信じる全てのクリスチャンにとって、極めて重要な土台になるのです。

旧約聖書の権威

イエスは聖書をどう理解していたか?

すでに、イエスを救い主として信じている方、あるいは受け入れ始めている方であれば、新約聖書に書かれているイエスの言葉を信頼されていることでしょう。ではそのイエスは、旧約聖書全体についてどのように考えていたのでしょうか?

“まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。”マタイ5章18節

ここでイエスが言及している「律法」とは、旧約聖書全体のことです[3]。旧約聖書はヘブル語で書かれましたが、そのヘブル語には、文字に点が含まれるかどうか、または文字の端の形が丸いか角ばっているかでどうかだけで、言葉の意味が全く変わってくるものがあります。

ですから、イエスが「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません」と言われた時、それは旧約聖書全体の預言や神の約束は、一言一句漏れることなく全てが実現する、ということを意味していたのです。主イエスがいかに旧約聖書の権威を認めていたのかがよくわかります。

“それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。2そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。3すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」4イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」”マタイ 4章1~4節

イエスが荒野で悪魔の誘惑を三回受けた時、その全てにおいてイエスは「~と書いてある」と答え、自分自身の言葉ではなく、神のことばで悪魔に対抗しました。もしもイエスが、「聖書にはところどころ間違いがあり、人間の言葉も混じっている」と考えていたら、このような言い方は決してしなかったでしょう。

私たちの場合も、重要な議論をする際に信憑性の薄い書物を引用したりはしません。例えば「Wikipediaに書いてあるから」とは言いません。Wikipediaの内容に間違いがあることはよく知られているので、引用しても権威や正確性を担保するものとはならないからです。

また、悪魔は天地創造前から人間の歴史を観察してきているので、聖書が権威ある神のことばなのかどうかを、多くの人々より知っています。ですから、もしも聖書に神のことばとしての権威がないのであれば、イエスの返答には何の力も無かったでしょうし、そもそも「~と書いてある」とイエスが返答することも無かったでしょう。間違いなく主イエスご自身は、旧約聖書全体の権威と正確性を認めておられたのです。

弟子たちはどう理解していたか?

イエスの教えを直接受けた弟子たちはどうだったでしょうか?ペテロは次のように述べています。

“あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。24「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。25しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。” 第一ペテロ 1章23~25節

ペテロは神のことばを「生きた、いつまでも残る」とし、その根拠として「・・草はしおれ、花は散る。25しかし、主のことばは永遠に立つ」というイザヤ書の預言を引用しています。(40章7~8節)ペテロは聖書を、永遠に変わることの無い神のことばとして認めていました。

主イエスによって直接使徒として召されたパウロは、次のように述べています。

“聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。”第二テモテ3:16

このパウロの言葉は、聖書全体の霊感性を保証する大変重要な言葉です。彼は聖書の一部分ではなく、その全てが「神の霊感によって書かれた」ことを認めているのです。「霊感によって」という言葉には、「神の息を吹きかけられた」という意味があります。かつて、土から造られたアダムが神の息を吹きかけられたことによって生きる魂となったのと同じように、聖書の全ての言葉には神の息吹が込められており、文字通り「生ける神のことば」となっているのです。

新約聖書の権威について

約束の聖霊による保証

新約聖書全体の正確性とその権威については、次のイエスの言葉に信頼を置く必要があります。

”しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。”ヨハネ14章26節

ペンテコステの日に弟子たちに注がれた聖霊が、イエスの弟子たちにイエスが語った全てのことを思い起させて下さる、という約束が与えられました。そして新約聖書の多くは、そのイエスの弟子たちによって書かれたので、主イエスの言葉に信頼を置くならば、新約聖書の記録が信頼できるものであると認めることができます[4]

“その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。”第二ペテロ3章16節

このペテロの言葉で注目すべきなのは「聖書の他の箇所と同様」という表現です。文脈を踏まえると、ペテロはパウロの手紙の数々を、「聖書の一部」と認めていたことがわかります。パウロには、復活前のイエスとの交わりがありませんでしたが、復活後のイエスに直接使徒として召され、主から多くの啓示を受けた人物として、手紙の内容には権威と聖霊の導きによる保証があったのです。

絶対的な信頼性を持つ古代文書

新約聖書は、約二千年前に書き終えられた古代文献ですが、多くの研究を経て、現代私たちが読んでいる聖書の内容は、原本の内容をほぼ正確に再現できていると確証されています。その信憑性の高さは、他の全ての古代文献と比較しても、圧倒的な地位に置かれているほどです。具体的な根拠として挙げられているのは、(1)写本の数が多いこと、(2)原本と現存する写本の時間的隔たりが少ないこと、の二つです。

聖書の写本数は、ギリシャ語・ラテン語を合わせれば、約25000もの数に上り、他のいかなる古代文献とも比較になりません。例えば、タキトゥスやガリア戦記などの著名な古代文献でさえ、その写本数は僅か20程度にしか過ぎません。

また、聖書の原本と写本との時間的隔たりについては、上に挙げた他の古代文献がおよそ900年なのに対して、聖書の場合は、30~300年程です。

これらの二つの事実によって、原本の内容がどのようなものであったかの検証が、他の全ての古代文献よりも遥かに正確に可能となっているために、新約聖書の信憑性は確立されているのです。仮に新約聖書が信頼に劣ると見做されるのであれば、すぐさま他の全ての古代文献も破棄されなければならなくなるでしょう。

参考記事と文献

  1. TRUE ARK
    1. 聖書は本当に神の言葉なのか?|聖書の教え
    2. 福音主義と自由主義神学(リベラル)― 聖書の正しい読み方はどれか?
    3. 写本の信頼性―旧新約聖書の原典は正確に書き写されてきたのか?
    4. ノアの方舟(箱船)と大洪水の伝説は実話なのか?旧約聖書の疑問に答える
  2. その他のサイト・文献
    1. ナザレのイエスは神の子か(いのちのことば社)
    2. 「創造」の疑問に答える(バイブル・アンド・クリエーション)

脚注

[1] もっとも、幻や超自然的な体験を通して、聖書を読まずともイエスへの信仰に導かれる人もいますが、どちらにしても、全ての信者は自分の体験を聖書によって吟味し、確証していくことが必要です。

[2] 実は、プロテスタントの主流派の多くに、この神学の影響が見られます。多くの場合、自由主義神学の影響を受けたクリスチャンの間では、どこまでを人間の言葉とし、どこまでは神のことばとするかの一致が全体としてありません。プロテスタントの中で、「福音派」と「聖霊派・ペンテコステ派」の流れに属する教会では、この影響がありません。

[3] 一世紀のユダヤ人の間での旧約聖書を呼び名として、「律法」「律法と預言者」「律法と預言者と詩編」等の言い方がありました。

[4] 他にも、現在の新約聖書27巻が正典として認められた要因は複数あります。(1)使徒たち、あるいは使徒たちに近い弟子たちによって書かれたかどうか?(2)初代教会の間で、その信憑性や重要性を一貫して認められてきたかどうか? などです。

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1件の返信

  1. Fujiwara より:

    老後の学習として、若かりし頃、断念した聖書を読んでいます。読む程に、難しい点も有りましたが、それ以上に、大変な事が分かった。
    キリスト教の教えが、今では、誤って教えられているのでないか。サタンは、実在し邪悪な存在であり、神と人を、引き離す事ばかり考えている。この世で、神に成ろうとしているかもしれない?
    牧師、聖職者は、聖霊、悪霊の話、奇跡、再臨をあまり教える事をしないし、又出来ない。理由として非科学的なものは、言わない、教えない。責任を負えないからか?
    教会には、通っていませんが、その様な話は、聞こえて来ません。
    又再臨に関しては、聖書のおとぎ話ではなく、真剣なテーマであり、実現が近いのでないか。
    聖書に数多く預言されており、初臨が実現した様に、再臨も実現すると感じました。もっとも再臨は、1000年後かもしれませんが。必ず、あると思われます。イエス様を信じ、御心に従った者は、携挙され栄体が与えられ、復活するそうです。私達が信じようと、無視しようと必ず実現しそうです。これは、神の熱き思いから来ているものらしい。イエス様も神の右に座し、再臨を待たれているらしい。
     ヨハネの黙示録7章に、四人の御使が地の四隅に立っているのを見た。彼らは地の四方の風を引き止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。「私達の神の僕らの額に、私達が印を押してしまうまでは、地と海と木とを損なってはならない」。  
    神の印が押し終わってしまったのか、世界が混乱しています。疫病(コロナウイルス等)異常気象、世界大戦の兆し(ロシアが侵略戦争)。等々、非常に多く成っています。
    聖書の凄さは、思想を集めた文学・文集などではなく、神とこの世との関わりを描いた記録集であり、また神との契約書のようです。
    思うままに書き込みしましが、許して下さい。皆様が神、イエス様の祝福が有ります様に、心からお祈り申し上げます。

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