聖書を信仰の土台とする(2)聖書を第一に信頼する


聖書を信仰の土台とする(2)聖書を第一に信頼する

霊的体験(夢・幻・預言)は聖書によって吟味する

「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。2 神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです」(第一ヨハネ4:1〜2)

ヨハネがこの手紙を書いた当時、悪霊の影響によって(反キリストの霊)、神が肉体をまとって人として来られたことを否定する偽預言者たちがいました。残念なことに、教会の中には、それら偽預言たちの言うことを信じ、真理から反れる者たちが生じていたので、使徒ヨハネはこの警告を書かなければなりませんでした。

新約聖書の記録によれば、イエス・キリストが肉体を持って来られたことは明らかなことでしたが、「霊」によって語られる偽りを信じてしまった人々は、聖書よりも、聖書と違うことを語る「霊」を信じてしまったのです。ここから学べる重要な教訓があります。全てのクリスチャンは、霊によって語られる言葉を、「聖書」によって吟味する必要があります。土台は「聖書」であって、「霊の言うことば」であってはならないのです。

実に、教会の歴史を通して、この「霊の声」によって惑わされ、聖書の真理から反れた人々が大勢生じてきました。例えば、「キリストの再臨は○○年に起こる」と偽って預言したクリスチャンは、教会史を通して少なくはありません。しかし聖書は、「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24章36節)と明白に語っています。聖書によって吟味する大切さを理解していれば、そのような偽りの声に惑わされる必要は無いのです。

昨今は、インターネットを通して、様々な霊の声を発信している人が多くいます。本物もありますが、偽物もあります。各人が、聖書に何が書いてあるのかをよく理解し、それらの声を吟味できるようにしていくことが大切です。

個人的な体験よりも重視する

同性愛について

個人的な体験が人を神のことばに近づける場合もありますが、それとは逆に、聖書から引き離す場合もあります。例えば、家庭環境や色々な理由から「異性ではなく同性を愛するのが自然だ」と感じる人々が一定数います。そのような人がクリスチャンになる時に、同性同士の結婚や恋愛を禁じる聖書の命令とぶつかることになります。

“こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。”ローマ人への手紙 1章26~27節

ここで、その人が「何を信仰の土台にするのか」が試されることになります。もしも、自分の感覚を土台とするならば、「自分にとっては同性に惹かれるのが自然だし、同じような感覚を持つ人は世の中にたくさんいる。だから、同性愛を禁じる聖書のことばには、きっと別の解釈があるに違いない。」と考えるようになり、聖書が明白に述べることを否定する色々な解釈や理解に導かれます。事実、同性愛者であることを公言するクリスチャンの多くは、自由主義神学の影響を受けているので、聖書全体を字義通りの神のことばとして受け入れてはいないのです。

しかし、聖書を信仰の土台とし、「自分は異性に惹かれてしまうけど、神は聖書のことばでそれを禁じているから、同性愛の行為は罪だ。」と認めるならば、その人には神の恵みが働きます。「主よ、どうか自分がこの罪から解放されるよう助けて下さい。」と神に対して祈ることができるようになります。そして、その人の心に対する神の癒しと、同性愛をもたらす悪霊からの解放が与えられます。その結果、同性へ惹かれる傾向から解放されたクリスチャンの証は、世界中に大量に存在します。当サイトでも、同性愛に関する色々な記事や証を紹介しているので、このテーマに興味のある方は、ぜひご覧になってみて下さい。

自分には価値が無い

家庭環境が悪く「親から大切にされなかった・暴力を振るわれてきた」、あるいは「学校や職場でいじめに遭ったりのけ者にされてきた」、このような経験を持つ多くの人が「自分には価値が無い」という偽りを信じてしまいます。しかし、イエス・キリストに出会い、神のことばを知るならば「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43章4節)という真理を受け取ることができるでしょう。

ただし、「自分には価値が無い」という敵の嘘に深く同意してきた人の中には、イエスを主として救われた後も、その嘘に完全に勝利するためにある程度の戦いを要する場合があります。救われて「霊」は新しくされても、「魂」に解放を必要とする領域が残り、悪魔がその領域にある心の傷を通して攻撃を仕掛けてくるからです。

では、そのような霊的な戦いにおいて勝利するためにはどんなことが必要でしょうか?本記事ですでに取り上げましたが、イエスが荒野で悪魔の誘惑に直面した時に、「神のことば」で対抗したことを思い起して下さい。悪魔との霊的な戦いにおける最大の武器は、「神のことば」なのです。あなたが自分の個人的な体験ではなく、聖書に信仰の土台を据えるならば、あなたの勝利は約束されています。

“神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。” ヘブル4章12節

“ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。・・17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。”エペソ6章13~17節

科学よりも聖書を重視するべきか

科学とは何か

科学とは、再現可能な観測や実験に基づいて、自然界の仕組みや法則を知ろうとする営みのことです[1]。つまり科学とは、神が創造されたこの世界、創造物の仕組みを探究する学問の一つであると言えます。したがって、純粋な科学的探究と科学の知識は、聖書のことばと矛盾しないはずです。

では、なぜ科学的な知識や理解が、聖書的な信仰の妨げとなってしまうことが多々あるのでしょうか?一つの目の理由は、私たちの身の回りで「科学的な真理」として受け入れられているものの中に、実際にはそうでないものが多く存在しているからです。

進化論を聖書信仰に取り入れることができるのか

その典型的な例が「進化論」です。進化論は、学校教育の段階から、あたかも科学的な真理かのように教えられていますが、実際には証明された理論ではなく、あくまで「仮説に過ぎない」という事実を多くの日本人は知りません。むしろその説は、多くの科学的発見や法則から逸脱してさえいるのです。

さて、聖書を信じるクリスチャンの中には、「進化論」を受け入れている人が一定数います。その方々は、神を否定しているわけではありませんが、進化論も否定しません。つまり、神が「進化を通して」生命を導いてきたと考えます。これを「有神論的進化論」と言います。ここで考えなければならないのは、クリスチャンが有神論的進化論を信じる場合、その信仰の土台はどこにあるのか?ということです。

もしも、有神論的進化論が歴史的事実なのであれば、最終的に神が生物を進化させて人間を造るまでの間に、自然界に無数の「死」があったことになります。しかし、創世記1~3章を読めばはっきりとわかる通り、この地上の世界の「死」は、アダムとエバの罪から生じました。パウロも、この点を次のように述べています。

“もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。”ローマ5章17節

創世記1章では、神が進化を通して生命を創造したとは述べていません。むしろ、はじめから「種類ごとに」造られたとはっきり述べています。

“神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。25神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。”創世記1章24~25節

このように、進化論を受け入れることと、聖書を真実の歴史を記録した神のことばとして読むこととは決して両立しないのです。他にも、聖書が明白に述べている事柄と、科学的な真理として一般に受け入れられていることとの間の矛盾に気付く機会が多くあるかもしれませんが、「創造主が聖書を通して何と言っているか」という点にいつも注目することが大切です。

奇跡について

聖書を読み進めていく中で、多くの現代人がその記録を疑う主要な理由の一つが「奇跡」にあると言えます。創世記1章における六日間での天地創造から始まり、ノアの大洪水、バベルの塔、モーセの出エジプトにおける十の災いや紅海を分ける奇跡、イエスキリストによる癒しや悪霊追い出し、水の上を歩いたり、嵐を静めたり等、現代の日本人が目の当たりにしたことの無い数々の奇跡が記録されているので、多くの人が疑うのです。

聖書に記録されている奇跡を、科学で十分に証明したり、説明したりすることはできません。しかし「科学で証明できない」からと言って、それが事実や真理ではないことを意味するわけではありません。歴史を通して、科学は大きな発展を遂げましたが、それは今なお発展途上であり、未だ、目には見えない領域で何が起こっているのかを十分には説明できないのです。つまり、奇跡は「非科学的」なのではなく、「未科学」の領域なのです。

奇跡について、それがどのような仕組みで起こるのかを科学は説明できませんが、観測的な事実や目撃者の証言を通して、ある奇跡が起こったことを証明することは可能です。例えば、イエスキリストの復活については、その復活が本当に起こったことは、歴史的な資料を検証することによって十分に確認することが可能です。

現代においても、復活のイエスの力によって、膨大な癒しの奇跡が世界中で起こっており、それらの奇跡の膨大な事例が、医師の診断書などを通して証明されています。

私の場合、聖書を読み始めた時期に進化論と創造論について学び、進化論が誤っていること、神が無から全てを創造されたことを知的に理解し、その真理を信仰で受け取りました。その時に、気づきました。自分の全存在が、神の偉大な奇跡によって成り、支えられていることを。今見ているこの世界の全てが、最も偉大な「創造」という奇跡によって成り立っていることをです。私たちがいつも目にしているこの世界―それ自体が、「創造」という神の最も偉大な奇跡の現れなのです。そのことを理解するならば、聖書に書かれているどのような奇跡に対する疑いも、瞬く間に取り去られることでしょう。

“信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。”へブル11章3節

参考記事・文献

  1. TRUE ARK
    1. 創造論のアダムとイブ、猿からの進化論、どちらが人類誕生の真実か?
    2. 臨死体験や天国訪問・幻などによる キリストの啓示は信頼できますか?
  2. その他のサイト・文献
    1. 聖書を読むのに、なぜ解釈学が必要なのですか。(聖書入門)
    2. ナザレのイエスは神の子か(いのちのことば社)
    3. 「創造」の疑問に答える(バイブル・アンド・クリエーション)

脚注

[1] 実際には、科学は自然科学、社会科学、人文科学、という三つの分野に分かれますが、この中でも自然界の仕組みを探究する分野を自然科学と言います。一般的に「科学」という言葉を使う場合、この自然科学を意味する場合は多いです。

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