福音主義と自由主義神学(リベラル)― 聖書の正しい読み方はどれか?

聖書の正しい読み方はどちらか?福音主義とリベラルとの議論

近年のドイツでは、教会の出席者が激減しています。かつて30~40年前は、国民のおよそ80%が教会の礼拝に出席していましたが、今ではその割合が5%を切るほどになっているのです。このような傾向は、ドイツだけでなく、他の西欧の諸国全体において、顕著に見られる現象です。

一体何が、このような現象を生じさせているのでしょうか?それは西欧のキリスト教世界に浸透してきた「リベラル神学(自由主義神学)」がその原因です。リベラルとは、簡単に言えば、聖書全体を神の言葉と見る保守的な信仰(福音的)に対し、聖書全体を必ずしも神の言葉とは見做さずに、人間の理性や感覚を重視する神学的立場のことです。

このようなリベラル神学が教会で教えられ始めると、人々は神に対する信仰を無くし、教会離れが加速していくのです。

福音主義とリベラル―果たしてどちらが聖書の正しい読み方なのでしょうか?またこの問題をどう理解し、どう対処すべきなのでしょうか?本記事では、これらのテーマについて取り扱っていきたいと思います。

福音主義とリベラルの定義

福音主義(福音派)

福音主義は、聖書を最高の権威と認め、聖書全体を「神の霊感を受けた誤りなき神の言葉である」と信じる立場です。この立場に立つ教会は「福音派」と呼ばれます。(参考:十全霊感 – Wikipedia

「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:18)

一般的に、「福音派」には以下の四つの大きな前提があるとされています。

  1. 聖書の権威と十分性
  2. 十字架上のキリストの死による贖いの独自性
  3. 個人的回心の必要性 
  4. 福音伝道の必要性・正当性・緊急性

追って説明を加えますが、この立場は一世紀の初代教会の教えに基づいており、イエス・キリスト自身が明らかにしていた信仰の内容です。

リベラル(自由主義神学)

リベラル(英: Liberal theology)は、キリスト教プロテスタントの神学的立場の一つです。自由主義神学とも呼ばれ、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派の多くが採用する立場です。

この立場は、伝統的・保守的な福音主義に対抗するものであり、聖書を最高の権威とは見做さず、人間の理性や感覚に従って聖書を理解します。そのため、聖書の十全霊感説を否定し、そこには誤りがあるとします。具体的には、部分霊感説、概念の霊感説、自然主義的霊感説など、幾つかのバリエーションがあります。

自由主義神学では、聖書の言葉の解釈の判断基準が、聖書そのものではなく、人間の個人の理知的判断になるため、解釈の一貫性が失われます。自由主義神学に傾倒している神学校を出たある牧師先生の話によると、その学校では、先生によって聖書の解釈がまるで異なっていた、とのことです。

福音主義的な信仰から外れている神学には、他にも複数のものがありますが、本記事では、聖書よりも人間の理性・知性を重視する立場を総称して、自由主義神学・リベラル神学という言葉を用いていきます。

自由主義神学が主張する点としては、具体的に以下のような項目が挙げられます。なお、既に申し上げた通り、福音主義的な信仰に立たない立場においては、解釈の基準が個々の人間によって異なってくるため、解釈の一貫性が保たれることは多くありません。

ですからリベラル神学が採用される場においては、福音主義的な信仰に近い人から遠い人まで、幅広く存在します。したがって以下の項目は、全ての自由主義神学を採用する個人やグループに当てはまると考えるべきではありません。

  • 聖書全体が神の言葉であるとは認めない。聖書には誤りがあると理解する。
  • 進化論などの科学的な見方を許容する。
  • 天地創造、ノアの箱舟、バベルの塔、ヨシュア記などを、歴史的事実とは見做さず、宗教的に有益な寓話や神話などと理解する。(聖書を神の言葉と認めつつも、このような寓話的な解釈を施す個人やグループもあります)
  • 各書の成立に関わる伝統的な説を否定する。(モーセ五書の著者はモーセ、イザヤは一人の預言者イザヤによる、など)
  • イエスだけが救いの道ではない。※普遍的な救いを説く
  • キリストの十字架は罪の贖いのためではない。※神は生贄を必要とはされない。
  • マリヤによる処女降誕を否定する。
  • 悪魔は実在しない。あるいは悪魔の影響を軽く見る。

確かに、このような教えを信じるようになってしまえば、神への信仰の必要性は失われ、ドイツの教会の現状のようになってしまうのも理解できます。

聖書の信頼性を確認する方法

お勧めの書籍などの紹介

福音主義・リベラル、どちらの読み方が正しいのでしょうか?この点の答えを探るためには、聖書全体の信頼性を詳しく確認していく必要が生じます。しかし、このようなテーマはあまりにも膨大なテーマであり、本記事で論じきることは不可能ですし、全てを調査する時間を持っている人もまた限られてくるでしょう。

ただし、時間をかけて調査していきたい方のために、以下の情報は参考のためにお勧めしたいと思います。

  1. ヘンリー・M・モリス『科学は聖書を否定するか?』CRJ出版。
  2. ケン・ハム『進化論―偽りの構図』クリエーション・リサーチ・ジャパン
  3. リー・ストロベル『ナザレのイエスは神の子か』
  4. True Ark Bible(当サイト)

※なお、自由主義神学の側の書籍はこちらでは紹介はしませんが、気になる方はご自身で調べてみて下さい。また、福音主義とリベラル神学の議論について、お勧めの書籍やコンテンツ等ありましたらお伝え下さい。

キリスト論的な聖書の完全性の証明

では、聖書全体の信頼性を十分に確認する時間が無い人が、シンプルに聖書全体を十全霊感性や無謬性(誤りが無いこと)を確信するためには、どうすれば良いでしょうか?

私が考える、最もシンプルで、強力で、わかりやすい論証方法は、キリスト論的な証明であり、それは次のような論法になります。

  1. イエス・キリストは復活によって神の子と定められた。
    ※参考記事:「キリストの復活の真実」(当サイト)
  2. イエスが神の子なのであれば、彼は天地創造の前から存在してきた創造者である。つまり、イエスは聖書の歴史全体を観察してきただけでなく、その歴史を導いてきた当事者だということになる。
  3. イエスは偽りの証言をすることがない。なぜなら、彼の人格の信頼性は、彼が神の子であることが明らかとなった時点で、完全に証明されているからだ。
  4. 以上の点から、旧約聖書の内容に関するイエスの証言は、全て正しいことがわかる。
  5. そのイエスは、旧約聖書の記録を歴史的事実として、また霊感を受けた神の言葉として繰り返し引用し、聖書の十全霊感性・無謬性を保証した。
  6. 新約聖書も、キリストから直接教えと啓示を受けた弟子たちの手によって書かれ、その霊感性と信頼性が歴史的に確立されてきた。
  7. 結論:以上の点から、聖書全体は、神の子イエスによって直接的にその信頼性を保証されたものであるため、どんな人間の不完全な知識や科学よりも信頼に値する。

実際に、イエスが本当の神の子なのであれば、彼の言葉の正確性や信頼性は、どんな人間をも遥かに越えるものとなることは明白です。ですから、たとえ世の中の一流の学者が丹念な努力を積み重ねて得た知識であろうとも、キリストの語った言葉と相反するのであれば、その学者の知識には大なり小なりの誤りがある、ということになるのです。

ですから、私たちが聖書を読む時には、聖書の言葉が「人間の知恵・知識」ではなく、「神からの啓示」であるということを一つの重要な点として理解しなければならないのです。

キリストは聖書をどのように教えたか?

既に見てきた通り、イエスは聖書の十全霊感性を保証し、その内容の信頼性を保証しましたが、リベラルが主張する幾つかの点について、イエス自身が何と教えたのかを、これから確認していきましょう。

なお、既に説明しましたが、以下に示す自由主義神学の主張について、どれを、どの程度取り入れているかは、個人やグループによって異なりますので、予めご承知ください。

聖書の霊感性

リベラル(自由主義神学):

聖書には誤りがあり、全てが神の言葉だとは言えない。

イエス・キリスト

「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:18)

ここでイエスが言及した「律法」とは、文脈上、旧約聖書全体を意味しています。またヘブル語の文字は、そこに点があるかどうか、画があるかどうかで、まるで意味が変わってくるものもあります。つまりイエスがここで言いたかったのは「旧約聖書は、その原典において全くの誤りの無い完全な預言の書物だ」ということだったのです。

聖書の歴史の史実性

リベラル(自由主義神学):

天地創造、出エジプトの奇跡、ノアの箱舟、ソドムとゴモラ、ヨシュア記などは、歴史的事実ではなく、宗教的に有益な寓話や神話である。

イエス・キリスト

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

「まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。」(マタイ10:15)

ここでは、上記の二点だけご紹介していますが、イエスが旧約聖書の歴史を史実として語っている箇所は、他にも多くあります。もしもイエスが、旧約聖書の歴史性を否定するようなことを教えたのであれば、当時の宗教指導者たちから、真っ先にそのことを批判されたでしょう。しかし、歴史的にそのような記録は全く存在しません。

さらに、イエスがその完全性を保証した聖書のあらゆる筆者たちも、一貫して、これら全ての超自然の出来事が歴史的事実であったことを前提に書いています。そして、聖書時代のユダヤ人が、これらの歴史を寓話と見做していた形跡も全くありません。

旧約聖書の書簡の著者や成立について

リベラル(自由主義神学):

モーセ五書の著者はモーセではなく、バビロン捕囚以降に成立した。イザヤ書は一人の預言者イザヤによるものではなく、第二イザヤ、第三イザヤが存在する。

イエス・キリスト

「46 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。47 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」(ヨハネ5:46-47)

「すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:17-19)

イエスが朗読したイザヤ書の箇所は、61章1~2節であり、自由主義神学者が「第三イザヤ」と考えている箇所です。しかし、イエスは預言者イザヤの預言として、その言葉が自分に成就していることを示された。

なお、創世記~申命記の五書がモーセ一人の人物によるものであることや、イザヤ書が同一の人物の一つの巻物であったことの他の証拠については、以下の記事をお読み頂ければ幸いです。

写本の信頼性―旧新約聖書の原典は正確に書き写されてきたのか?

イエスだけが救いの道なのか

リベラル(自由主義神学):

イエスだけが救いへの、天国への唯一の道だと聖書は教えてはいない。重要なのは、イエスが教えた通りに人を愛することであって、人は善い行いによって救われる。(普遍的救いの根拠として挙げられる理由には、他にもバリエーションがあると考えられます)

イエスと弟子たち

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

イエスは、福音書全体を通して、彼を「信じる者」が救われる、ということを繰返し語りました。彼を信じない人も救われる、ということは一言も言いませんでした。

また、確かにイエスは愛の重要性を語りましたが、その愛は第一に真の神に向けられるべきものであることも名言されました。その神とは父・子・聖霊からなる三位一体の神であり、他に人を救うことができる神は存在しない、というのが、聖書の基本的な教えです。

キリストの十字架と罪の赦し

リベラル(自由主義神学):

キリストの十字架は愛の表現であり、罪の身代わり(贖罪)ではない。また十字架は贖罪ではあるが、それは必ずしも身代わりの死であることは意味しない。神は人を赦すために血や生贄を必要とはされない。

イエスと弟子たち

「27 また杯を取り、(神に)感謝したのち、彼らに渡して言われた、「皆この杯から飲みなさい。28 これは多くの人の罪を赦されるために流す、わたしの『約束の血』であるから。」(マタイ26:27-28)

「2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」(第一コリント15:2-4)

「5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:9-10)

重要な箇所なので、聖書から三つ取り上げましたが、他にも無数に贖罪の必要性を証明する箇所があります。キリストの十字架が罪の贖いであったことについては、聖書の教えでは議論の余地がありません。

また聖書の中では、血による贖罪とは身代わりの死を表しており、それは罪ある人間が聖なる神に近づくための不可欠な方法です。疑問のある方は、レビ記やヘブル書をお読みになってみてください。

悪魔の存在と働きについて

リベラル(自由主義神学):

悪魔は存在しない。あるいは悪魔の働きは軽視される。

イエスと弟子たち

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(第一ペテロ5:8-9)

聖書は、悪魔であるサタンが実在する霊者であり、私たちが警戒すべき対象であることを明白に語っています。悪魔の否定や悪魔の働きを軽視する人々は、その時点で、悪魔の策略にはまっているのです。

以上に挙げた点から、自由主義神学の教えが、キリスト教の創始者であるイエスやその直弟子たちの教えと明らかに異なっていることが、ご理解いただけると思います。

聖書はリベラルについて何と言っているか?

「聖書」は、リベラル神学の主張に対して、何と警告をしているのでしょうか?

福音に反する者は呪われる

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテア1:8-9)

ここでの文脈で、ガラテアの教会に福音に反することを教えた者とは、ユダヤ系の律法主義者たちのことで、彼らは「救われるためにはキリストの十字架だけでなく割礼も受けるべきだ」と主張した人々です。

パウロはこのような人々に対して「のろわれるべです」と繰り返し宣言していますが、「呪われるべき」と訳される原語のギリシャ語の「アナテマ」は、とても強いニュアンスを持つ言葉です。

リベラル神学の主張が、大きく聖書の言葉の本来的な意味から反れてくると、「福音」の価値を台無しにすることにつながってしまいます。そのような教えに対する聖書の言葉の警告は、決して優しいものではないのです。

ですから、自分が信じている・あるいは自分の周りで語られている神学が、福音が持つ本来的な価値を台無しにしていないかどうかは、しっかりと各自が確認すべき問題だと言えます。

この世に属する騙しごとに注意しなさい

「2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:8-9)

この聖書箇所の今日的な適用は、リベラル・自由主義神学に当てはまる部分があります。たしかに、この立場を採用する専門家の中には、善意を持って研究を重ねてきた結果として、自由主義的な立場を信じるようになった方もいるかもしれません。

しかしその結果として、キリストの啓示の言葉の価値よりも、人間の努力による知恵や知識の価値を上に置くとすれば、それは初代の弟子たちの信仰からは外れることとなり、聖書的な信仰とは相容れなくなります。

またそのような人間の知識を優先する考え方は、結果的に神を信じる人々の信仰を破壊することにつながってしまうのです。「キリストを信じる」ということが、「キリストの言葉を全面的に信頼する」という意味であることを、今一度確認する必要があります。

悪魔の主張との共通点

聖書は神の霊による啓示ですが、霊の世界からの啓示によって成り立っている宗教は他にもたくさんあり、イスラム教や、ニューエイジ、シルバーバーチなどのスピリチュアル、幸福の科学、など様々です。

この中で、ニューエイジやスピリチュアルなどの多くは、霊媒を通して死者の霊による啓示を受けたものですが、聖書の教えにおいては、これらは「忌むべきもの」として、明確に否定されています。その理由は、その霊の根源が悪霊によるものだからです。

あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、11 呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。12 これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。(申命記18:10-12)

※スピリチュアリズムをどう見るかについては、「聖書(キリスト)の教え VS スピリチュアリズム・霊媒の啓示~どちらが真理か?」をご覧下さい。

筆者は以前に、これらの啓示において、聖書の教えやキリストの存在がどのように伝えられているのかを読んで確認したことがありますが、そこには次のような特徴がありました。

  1. イエスだけが救いの道ではない。
  2. イエスは神の子ではなく、もっと相対的な存在である。
  3. キリストの十字架は罪の贖いのためではない。※神は生贄を必要とはされない。
  4. 悪魔は実在しない。あるいは悪魔の影響を軽く見る。
  5. 聖書には間違いがある。
  6. アダムとエバ、その他の聖書の超自然の伝説は寓話であり史実ではない。

いかがでしょうか?霊媒を通した悪霊からの啓示において主張されている幾つかの重要な点は、リベラル神学において主張されている点と実によく一致するのです。自由主義神学を採用している方々の中で、この神学の主張が悪魔の主張と一致していることに気付いている人は、果たしてどれくらいいるのでしょうか?

社会的、学問的な視点で考えれば、部分霊感説や自由主義神学などのリベラルも、聖書に対する立場の一つと言えるかもしれません。しかし、霊的な視点・聖書的な視点で考えれば、それは結果的に悪魔の教えを擁護するものであり、厳しく警戒すべき問題なのです。

福音主義者は自由主義神学にどう対処すべきか

自分の信仰を確立する。

現代は、インターネット等のメディアを通して、様々な情報が耳に届く時代ですので、福音的な教会に通うクリスチャンであっても、遅かれ早かれリベラルについての議論を耳にする可能性は高いと言えます。

そのような時に、惑わされずに自分の信仰を保つためには、自身の信仰とその根拠をしっかりと確立しておく必要があります。そしてこの点で特に重要なのは、イエス・キリストに対する信仰を確認することであり、その上でキリストが持っていた聖書感を理解し、それを自分の聖書観としていくことです。

そして、議論されやすい重要なテーマに関しては、しっかりと自分の信仰の弁明をできるよう備えをしておくことも必要です。

自由主義神学に立つ人との関わりについて

今日、プロテスタントの多くの教会が自由主義神学の影響を受けているため、この立場に立つクリスチャンとの関わりを避けることは現実的ではありませんし、そうする必要もありません。ここは、バランスの取れた見方が必要となります。

リベラルの影響を受けているとは言っても、人によってどれだけのレベルで自由主義的な聖書観を持っているのかは違いますし、それに対するこだわりの強さも異なります。積極的な影響を与えて来ようとする人に対しては注意が必要ですが、全くそういう危険が無い場合もあります。

また、異なる聖書観を持つクリスチャンと、どのような場で関わりを持つのかによっても、状況は変わってくるでしょう。例えば、ボランティア活動で仲間のクリスチャンと共に働く場合は、互いがどのような聖書観を持っているのかは、あまり関係がありません。そこで求められるのは、シンプルな隣人愛だからです。しかし、伝道的な働きにおいては、共に働くクリスチャン同士の間に大きな聖書観の違いがある場合は、一致して働くことは困難です。

さらに、自分の信仰や知識がどれだけ成熟しているのか、という点も考慮に入れる必要があります。まだあまり信仰が確立していない状態の求道者やクリスチャンがリベラル神学に触れた場合、聖書理解に混乱を覚える可能性があるからです。

自由主義の影響を受けたクリスチャンと関わる場合は、以上に挙げた点を考慮しつつ、関わりの度合いを選択していくことが必要です。また、既に自分が自由主義の影響を受けた聖書観を持っている場合は、その聖書観・信仰が、本当にイエス・キリストや弟子たちと一致しているのかどうかを再度吟味してみることをお勧め致します。

True Ark Bibleとしての対応

True Ark では、Facebookページを用いて記事を宣伝することがありますが、過去には、リベラル神学に強く傾倒する幾人かの方々から、厳しい批判を受けたこともあります。

筆者としては、はじめの内はコメント上で話し合いに応じてはいましたが、神の言葉に対する根本的な姿勢が全く異なり、議論が平行線を辿りやすいために、そのような方からのコメントをブロックしていく流れとなりました。

また、当サイトはどちらかと言えば、クリスチャン同士の議論よりも、ノンクリスチャンの方々を意識した内容と構成にしていますので、そのような人々がFacebookページを含めてたくさん訪問されてきます。

このような場において、リベラル神学を強く主張する人々が複雑な議論を招く批判的なコメントをしてくることは、既に説明した通り、有害な影響となる危険もございます。

その他にも、次のような「傾向」がある人に対しては、比較的早い段階でブロックをすることにさせて頂いております。

  • 「批判的・攻撃的な傾向が強い人」
  • 「記事の内容をちゃんと読まず・理解せずに批判をする人」
  • 「質問やコメントの動機が不誠実であると見受けられる人」

筆者は、これまで約一年間にわたり、多くの方々からのコメントに対応してくる中で、上に挙げたような傾向を持つ方々とのやり取りが、不毛な議論へ展開しやすく、他のユーザー様にとって不快感をもたらしかねないことを理解するようになりました。

筆者も、ユーザー様に対する対応していく上で、常に完全であるわけではありませんので、過去にTrue Ark の対応方法に対して誤解や不満を持った方もいるかもしれません。その点についてはこの場を借りてお詫び申し上げたいと思います。

そして、本記事の内容を通して、以上に説明したような深い理由があることについて、ご理解いただければ幸いです。

聖書全体が本当に神の言葉なのか、
それらの預言は本当に文字通り成就するのか?
この議論の最終的な決着は、イエス・キリストが再び来られる時に、全ての人々の目に明らかとなるでしょう。

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