携挙の真実―終末に起こるイエス・キリストの空中再臨の全てを解説

携挙の真実―イエス・キリストの空中再臨の希望を全てを解説

かつて、全米で6500万部を売り上げた驚異のベストセラーをご存知だろうか?その本のタイトルは「レフト・ビハインド」といい、その後ニコラス・ケイジ主演で映画化され、日本でも2015年に上映された。

この映画は「携挙」をテーマにしたものであり、ある日突然、世界中からクリスチャンと子どもたちだけが消える、謎の大量人間消失事件がその内容となっている。

聖書に馴染みの無いノンクリスチャンから見れば、SF映画さながらのこのような事件が現実的に起きると信じることは、宗教熱心な人々の妄想のように思えるだろう。しかし、終わりの時代に起こるとされるこの携挙という現象は、世界中の多くのクリスチャンから、真面目に信じられている。

そして、彼らの信仰の根拠とは、聖書が明確に携挙を預言している点にあり、また聖書の預言の数々が人類史を通して確かに実現してきた事実にある。したがって、聖書の預言が確かに信頼に値するのであれば、それがどんなに想像を越えたような事柄であっても、その内容を真剣に考えなくてはならないだろう。

  • 携挙とは何か?
  • 携挙にはどんな意味があるのか?
  • それは本当に起こるのか?
  • 携挙はいつ起こるのか?

本記事では、これらの重要な疑問に答えながら、携挙の真実に迫りたい。

目次

携挙の解説に入る前に

本論を進める前に、幾つかお伝えしておくべき点がある。

想定する読者:本記事は、クリスチャンだけでなく、ノンクリスチャンの方々が読まれることも想定して書いていく。ただし、本論のテーマによっては、内容が多少専門的になるので、その点はご容赦いただきたい。

当サイトの終末論の立場:本記事の筆者は、聖書的に、また神の計画の進展において、携挙は極めて重要なテーマだと理解している。また携挙の時期については「患難前携挙説」、千年王国に関しては「千年期前再臨説」を支持している。

終末論の立場の違いに対する捉え方:携挙の時期や有無を含む終末論については、キリスト教内で多くの議論があるが、このテーマを巡ってクリスチャンが分裂することは、神の御心ではないと考えている。

本記事では、筆者が信じる立場の聖書的な根拠の要点は説明させていただくが、特定の立場の強要を意図するものではなく、読者の方々には、内容を鵜呑みにせずに各々聖書を実際に開き、納得のいく信仰を確立していただきたい。

そして、クリスチャンでない方々には、本記事を通して、神の計画の確かさと壮大さに思いを向けていただければ幸いだ。

携挙とは何か?

携挙の見え方

Rapture / photo by christiancourier.com

携挙の定義

「携挙」(けいきょ、英:Rapture)とは、プロテスタントにおけるキリスト教終末論であり、終わりの時代にイエス・キリストが再臨する時に起こると信じられている現象である。

まず、キリストが天から再び来られる時に、それまでに死んだ全てのキリスト教徒の霊が、復活の体(不死の体)を与えられ、最初のよみがえりを経験する。続いて地上で生きている全ての真のキリスト教徒にも不死の体が与えられ、彼ら全てが空中まで一挙に挙げられ、再来した主イエス・キリストと出会い、永遠に結ばれることになる。

聖書の中では、新約聖書の第一テサロニケ人への手紙4章の中で、最も明白に預言されている。

15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

「16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(第一テサロニケ4:15-18

携挙の語源

「携挙」の語源は、冒頭で引用した聖句の17節にある「雲の中に一挙に引き上げられ」という表現から来ており、原文のギリシャ語では「ハルパゾー」(άρπάζω)となっている。この言葉には、「さらって行く」「(無理やりに)つかまえて連れて行く」などの意味があり、再来のキリストが地上の信者を天に連れ去る様子を適切に表現している。

※「携挙」は神学用語であり、このような日本語表現は聖書の中にはない。しかしギリシャ語の語源の「ハルパゾー」という言葉は、ギリシャ語聖書の中に幾つか登場する。

携挙信仰の歴史

天から再臨するキリストによって、神の御怒りの裁き(患難)から救われる、という携挙信仰は、初代のキリスト教徒たちが広く共有していた主要な信条であった。そのことは、上記で引用した第一テサロニケ4章の聖句や、以下に引用する同書の一章の聖句が裏付けている。

「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」(第一テサロニケ1:10)

しかし時代が進んで4世紀になり、ローマ帝国のキリスト教国教化によってカトリックが台頭してからは、千年王国に対する理解が変わり、それと共に携挙信仰も意識されなくなっていった。

しかし、近年の十九世紀以降には、主にディスペンセーショナリズムと呼ばれる神学体系の台頭によって再び広まるようになり、前千年王国説・患難前携挙説に基づく携挙信仰が再び強調されるようになった。

なお、昨今の日本の神学教育においては、携挙信仰を強調するディスペンセーショナリズムは少数派であり、携挙を意識しない無千年王国説(神学体系は契約神学)が主流となっている。

携挙される信者の特殊性

生きている状態で天へと携挙されるクリスチャンは、人類史上、唯一肉体の死を経ないで栄光の体を得る特殊なグループだと言える。

しかし、携挙に近い現象は聖書の歴史においては初めてではなく、旧約時代のエノクやエリヤも、死を経ずに天へ挙げられる同様の経験をしている。―創世記5:23、第二列王記2:11。

携挙を示す聖書箇所

携挙の有無や時期については、キリスト教の中でも様々な議論があるが、聖書の中では合わせて次の四ヶ所において、直接的に言及、あるいは示唆されている。なお、携挙は新約聖書の時代にはじめて啓示された奥義であるため、旧約時代には知られておらず、聖句の言及も無い。

■携挙の内容と流れについて最も明白に言及している聖句

「16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(第一テサロニケ4:15-18)

■携挙と復活に伴う信者の栄化(栄光の体への変化)に言及している聖句

私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(第一コリント15:35-54、※引用聖句は一部抜粋:51-52節)

■携挙の時と地上の状態について言及している聖句

「36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイ24:36-42)

■携挙の目的について言及している聖句

「2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:2-3)

このように、聖書の中には確かに携挙の概念が明白に示されているが、これらの聖句の解説に入る前に、まずはクリスチャンが携挙を信じるべき根拠について、先に確認をしておきたい。

携挙―空中再臨と復活の根拠

墓から消えて復活したイエス

墓から消えたイエスの遺体

預言されていたキリストと信者の復活

携挙と死者の復活を信じる重要な根拠とは、「聖書の預言」と、「その成就として起こったイエス・キリストの復活」にある。キリストは、十字架の前に予め弟子たちに次の二つの重要な出来事を預言していた。(1)一つ目は、自身が十字架で処刑された後、三日後に復活すること、(2)キリストを信じる弟子たちもやがて同じように復活すること、である。

「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。19 そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」(マタイ20:18-19)

「わたしの父の御心は、子(イエス)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:40)

証明された復活の約束の信頼性

そしてキリスト自身が預言していた通り、また数百年前からの聖書預言の通り、彼は十字架上で死に、葬られ、三日に復活を遂げた。これが歴史的事実であることを示す証拠はあまりにも多く、疑い用の無い事実として多くの専門家が認めるところとなっている。

キリストの復活の真実について

そして、彼が自身の宣言通り死に対して勝利し復活を遂げたからこそ、彼を信じて従う者たちもまた、終わりの日に復活すると信じることができるのだ。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」(ヨハネ11:25)

また、キリストの復活は単なる蘇生ではなく、朽ちることの無い栄光の体への復活であった。その事実は、彼に従う者たちも、将来の復活の際に、同じ栄光の体へと変えられることを意味している。最後のラッパの響きと共に、一瞬の内に変えられるのだ。

結論として、聖書が預言していた通り、イエス・キリストは超自然的な方法で栄光の体で復活し、神の言葉の確かさが証明された。ならば、同じく聖書が預言している通り、キリストの再臨の時に、全ての信者が同じ栄光の体へ変えられて携挙されることも、確かに信じるに値する出来事なのだ。

※なお、その他の過去の聖書預言の成就を確認したい方は、「聖書預言一覧」を確認することをお勧めする。

携挙の流れと内容を理解する

終わりのラッパを吹く天使

携挙のはじめに神のラッパが鳴る

携挙の流れを確認する

それではここから、携挙についての具体的な解説を進めていく。まずは第一テサロニケの携挙に関する聖書箇所を改めて引用し、携挙がどのように起こるのか、その順番を確認しよう。

「15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(第一テサロニケ4:16-18

引用した聖書箇所の流れを整理すると、携挙は次のような段階で起こることがわかる。

  1. 号令、御使いの頭の声、神のラッパが響く。
  2. 主イエスが天から空中まで下ってくる。
  3. キリストにある死者(歴史上死んだ全てのクリスチャン)が復活する。
  4. 生き残っているクリスチャン(教会)が復活したクリスチャンと一緒に空中に引き挙げられる。
  5. クリスチャンはいつまでも主と共にいることになる。

再臨・復活・携挙―各段階の解説

第一段階:神のラッパが鳴り響く。ラッパは古来からイスラエルにおいて、人々の招集・戦いの合図・王の就任、などの目的で用いられてきたが、キリストの再臨の時には、信者の天への招集のために、神のラッパが鳴り響くことになる(*[i])。

第二段階:次に、イエス・キリストが教会を迎えるために、天から「空中」まで下ってくる。キリストの再臨については、聖書は二つの異なる形を預言しており、ここでの空中再臨は、やがて世を裁きに来る時に生じる「地上再臨」とは区別される。(再臨を二段階と理解することは患難前携挙説に基づく。)

第三段階:携挙の中で見逃してはならない重要な出来事が、「死んだ信者の復活」だ。第一テサロニケの聖句では、生きている信者の栄化の直前に起こる出来事として、これまでに死んだ全てのクリスチャンが一挙に肉体的な復活を遂げる、と預言されている。

過去に地上生涯を終えたキリスト教徒の魂は全て天にあるが、キリストの空中再臨・携挙の時には、彼らの霊が地上で復活する肉体と結びつき、永遠に朽ちることの無い不死の体を持つことになるのだ。

第四段階:復活に続いて、生き残っている全ての真のクリスチャンも、同じ栄光の体へと瞬く間に変えられ、復活した信者と共に空中へ挙げられる。そして、全ての栄化されたクリスチャンは、空中で主イエスと対面し、共に永遠を過ごすようになるのだ。

以上の流れから、将来のある時点でキリストが空中再臨する時が、全てのクリスチャンにとって「栄光の体」を与えられる時であり、その時点で既に死んでいるか、生きているかによって、「復活」という形を取るか、生きたまま挙げられるかが分かれてくる、ということだ。

携挙に伴い変化する栄光の体とは

イエス・キリストの復活

キリストは栄光の体でよみがえった

栄光の復活の体の詳細

キリストの空中再臨の時に生じる信者の栄光の体への変化について、詳しく解説しているのが次のパウロによる聖句だ。少々長いが、大事な点なので、全て引用する。

「35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。  36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。

40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。」(第一コリント15:35-54)

上記の聖句の通り、キリストの再臨の際に復活・携挙される全ての信者は、地上の体から天上の体へと変えられるのであり、それは「朽ちない体」「輝かしい体」「強いもの」「霊の体」「不死を着る」と表現されている。

また別の新約聖書書簡のピリピ人への手紙の中では、「栄光の体」とも表現されている。

「20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:20-21)

現在の私たちの体は、罪を持っているため朽ちる体であり、それは年と共に衰えていく。ところが、朽ちない体へと変えられる信者は、もはや老化や病による苦しみから完全に解き放たれ、不滅の栄光を見に帯びるようになるのだ。

朽ちない体が、具体的にどんなものであるかは、現在の人間の理解力を越えているため想像が難しいが、復活したキリストに関する福音書の記録から、わかる範囲で解説を試みる。

復活のイエスの体はどのようであったか

「36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。 38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。 39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」 40 [本節欠如] 41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。」(ルカ24:36-42)

復活後のイエスは弟子たちに何度か現れたが、上記の引用聖句では、集まっている弟子たちの真ん中に突然に出現したために、弟子たちはそれがイエスの亡霊か何かではないかと勘違いをしかけた。

ところが、イエスには肉や骨がちゃんとあり、魚を食べることもできた。これらの点を総じて考えると、復活のイエスの体は、物理的な次元における肉体を備えつつも、霊的な次元の動きにも対応した多次元の体となっていたことが伺える。

そして、キリストの再臨の際に栄化されるクリスチャンも、その時から同じような栄光の体を身に付けることになるのだ。

子羊との結婚ー
キリストは教会を迎えに来る

子羊との結婚 携挙はキリストが教会を迎えに来る時

キリストと教会との結婚式|Designed by Danny Hahlbohm / inspired-art.com

天の住まいの準備が完了する時

「2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:2-3)

クリスチャンは、地上生涯を終えた時点で、皆天へ行く。だから、もしもこのイエスの言葉が、信者が死後に天へ行くことを示唆する預言なのであれば、「地上での人生を終えたら、あなたがたをわたしのもとに迎えます」となるはずだ。

しかしここでは、「場所を備えたら、また来て・・」とあるため、このイエスの預言が「携挙」を示唆している聖句だということがわかる。イエスは復活後に天へ帰られたが、その目的の一つは「場所を備えに行く」、つまりキリストを信じる者たちのための天での住まいを準備することにある。そして、キリストが場所を備えることが完了した時点で、彼は信者を天へ迎えるために、再び来ることになるのだ。

そして、以上の一連の流れは、聖書の中でキリストと教会が、結婚関係で結ばれる花婿と花嫁の関係で表されている点を考慮すれば、より深く理解することができる。

花婿のキリストは花嫁の教会を迎えに来る

「7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(黙示録19:7-8)

「子羊」とは、十字架上で罪の代価を支払ったキリストを表す象徴的な表現である。新約聖書では、キリストと教会の関係は、花婿と花嫁の関係にたとえられているが、両者の婚礼を深く理解する鍵は、「ユダヤ式の婚礼のしきたり」にある。なぜなら、ユダヤ人の婚礼の方法は、キリストと教会の結婚を予表するものとなっているからだ。

以下に、ユダヤ式婚礼とキリストと教会の結婚の関連性についての說明をしていく。

前提:子羊の結婚においては、花婿はキリスト、花嫁は教会、花婿の父親は父なる神となっている。以下の說明では、最初にユダヤ式の婚礼のしきたりを説明し、次のキリストと教会の結婚関係との関連性を示していく。

(1)婚約の段階:花婿の父が、花嫁の父に花嫁料を支払って婚約が成立する。続いて、花婿が花嫁のための住まいを準備する。この間、花嫁の方も、婚礼の準備を整える。なお、婚約から結婚までは、最低でも一年間の期間を設けるのが当時の伝統だった。

【子羊の結婚において】キリストと教会との結婚において支払われた花嫁料とは、イエスの贖いの血だ。最後の晩餐において、その血による契約がなされ、キリストと教会との間に婚約が成立した。復活後、キリストは天へ帰り、花嫁の場所を準備し始めた。そして花嫁である教会も、キリストの再臨に備えて、地上での歩みにおいて身を清く保つことが求められる。―ルカ22:14-20、第一ペテロ1:13-16。

(2)花婿が花嫁を迎えに行く段階:花婿の父親が、花嫁を迎えに行く時を決める。そして、花婿が友を連れて花嫁を迎えに行く。花嫁も、結婚を祝う仲間たちの音を聞いて家を出て、二人が道中に用意された結婚式場で出会う。

【子羊の結婚において】花婿であるキリストが花嫁を迎えに行く段階が「携挙・空中再臨の時」となる。後述するが、キリストはこの時について「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」と語り、その日を決める権限が父にあることを明確にした。(マタイ24:36)

そして、花嫁を迎えに行くキリストは、天と地の道中である空中で、花嫁と出会い、婚姻が開始される。―第一テサロニケ4:16-18

(3)婚姻の段階:結婚式は、家族や親族に限られた少人数で行われる。また、花嫁は清めの儀式を行う。そして結婚式の後、二人は花婿が準備した新居で七日間のハネムーンを過ごす。

【子羊の結婚において】携挙された花嫁は、キリストのみ座の裁きで清められる。(第一コリント3:10-15)その後、キリストと教会の結婚式が行われる。婚姻が終わったら、キリストは花嫁を天の住まいへと連れていき、そこで七年間(七日間)のハネムーンを過ごすこととなる(*[ii])。―ダニエル9:27。

(4)婚宴の段階:ハネムーンの後、大勢の客を招いて婚宴が行われる。(日本で言えば、披露宴に当てはまる)

【子羊の結婚において】七年間の患難時代の後、キリストが地上再臨して神の国(千年王国)が樹立される。そして、復活した大勢の聖徒たち共に、子羊の婚宴が盛大に行われる。―黙示録19:9、20:4-6

以上の説明から、子羊の結婚が、ユダヤ式の婚礼法と密接な関連性があることは明らかだ。キリストは、確かに将来のある時点―父なる神が決めるその日に、地上の教会を迎えに来るのだ。

※なお、ユダヤ式婚礼と子羊の結婚との関連性について、より詳しくは「キリストの空中再臨と教会の携挙」を読むことをお勧めする。

携挙の日時は誰にもわからない

携挙の日時は誰にもわからない

父なる神だけが知る再臨の日時

「36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。・・・40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイ24:36-42

「その日、その時」とは、信者を迎えに来るためのキリストの空中再臨の時であり、それは「ひとりは取られ、ひとりは残されます」という表現から容易に理解できる。キリストが花嫁を天へ連れ去っていくために、人類は取られる人々と、残される人々に二分されるのだ。

そして極めて重要な点として、その日時はただ父なる神だけが知っているほどのトップシークレットである。「み使いたちも、子も(子とはキリスト自身のこと)」知らない、したがって、いかなる人間であろうとも、その日を予測することはできない。

また、前の見出しで既に説明した通り、「花婿が花嫁を迎える日」を決める顕現が「父なる神にだけ」あることについては、ユダヤ式婚礼に、その共通点を見出すことができる。

しかし、キリストの時代以降、聖書の教えに反して、その日を予測し、偽りの予言を行う人は実に数多く現れてきた。もしも私たちが、そのような誤りを犯す人を見たなら、毅然とした態度で、その偽りから離れる必要がある。

その日を予測できないことの益とは

再臨のタイミングがわからないという事実は、全ての信者に対し、「いつキリストが戻って来ても良いよう常に備えをさせる」効果がある。そしてそのような生活は、真の信仰によって神と歩む人でなければ続けることができないため、結果的に各人の信仰生活の動機を明らかにするものとなる。

反対に、もしもキリスト再臨の日時が予測可能であれば、その日に合わせ、打算的な人生を送ろうとする者が増加するだろう。たとえば、丁度三年後に再臨することが予測できるとすれば、これからの二年は好き放題罪深い生活を送り、残りの一年で悔い改めて清い生活を送ればよい、という具合だ。

いつ戻って来られるかわからないからこそ、クリスチャンは正しい動機をもって神に仕えることができるのだ。

※後述するが、予測できない「その日」とは、キリストが信者を迎えに来る空中再臨の時を意味する。世を裁きに来る地上再臨のタイミングについては、七年間の大患難時代の終わりであり、聖書の預言からほぼ予測することが可能だ。

携挙の時期はいつか―
キリストの空中再臨を巡る議論

「ダニエル七十週の預言」キリストの再臨へ向かうタイムテーブル

終末論の違いに対する見方

聖書の終末論を巡っては、キリスト教内で実に多くの議論がある。そして、本記事の冒頭でもお伝えした通り、筆者は終末論において確信を持って支持する一つの立場をもってはいるが、だからといって終末論の立場の違いによって互いを裁くことは望んではいない。

むしろ、終末論については互いに同意できないとしても、どの立場でも共通する信仰―やがてキリストが再臨し、復活が起こり、全ての信者が栄化される―という点において、互いに励まし合うことを望んでいる。

なお、ここで取り上げる「携挙の時期」に関する考察は、携挙の日時を特定しようとする試みではない。終末期における聖書預言のタイムテーブルにおいて、携挙をどこに位置づけるべきなのか?という考察だ。

以下にそれぞれの立場を説明していくが、合わせて各立場のタイムテーブルを表した図も紹介させていただく。(クリックして拡大表示が可能)

終末論の立場の違い:携挙、患難時代、キリストの再臨、千年王国に関して

千年王国の議論―キリスト再臨との関係

昨今のキリスト教神学者の間では、終末期のタイムテーブルにおいて二つの代表的な説があり、それは次のようになっている。

(1)千年期前再臨説:千年王国が来る前にキリストが地上に再臨すると考える。この立場のキリスト教徒の中には、携挙待望者が多い。

(2)無千年王国説:文字通りの千年王国は無く、それは霊的・象徴的な意味であり、教会は既に霊的に支配している。そして、やがて将来に、キリストは再臨し、新天新地を築く。携挙の見方は人によって異なるが、信じていない人も多い。

無千年王国説については後述するが、筆者は「千年期前再臨説」を支持しており、携挙を待望する信者も圧倒的にこの立場の人が多いので、その前提で次の話を展開する。

携挙の時期の議論―患難時代との関係

千年期前再臨説は、終わりの日に関する旧約・新約聖書の預言を字義的に解釈すれば、必然的に導き出される答えだが、具体的な流れは次のようになっている。

  • 今後ある時点で、反キリストと称される人物が世界の表舞台に登場し、時を同じくして世界が七年間の患難時代に突入する。―ダニエル9章:七十週の預言。
  • 後半の三年半は特に厳しい時代となり、反キリストによる世界の独裁支配と神の御怒りの裁きが厳しさを増す。―黙示録13-16章。
  • 大患難の終わりに、キリストが世を裁くために地上に再臨し、王として支配を始め、それが千年間続く。―黙示録19-20章。

この立場においては、携挙の時期について三つの説があり、上記で触れた大患難時代の前に起こるとする説(患難前携挙説)、大患難時代中のどこかで起こるとする説(患難中携挙説)、患難時代の終わりに起こるとする説(患難後携挙説)とがある。

そして、この中で筆者が支持する立場は、「患難前携挙説」であり、以下にその理由を説明していく。

無千年王国説・無携挙について

無千年王国説は、近年メジャーな神学的立場となっており、日本の多くの神学教育の場でも、この立場が採用されている。無千年王国説の立場の特徴は、聖書の預言の多くを比喩的・霊的に解釈することであり、黙示録で六回にわたって語られている「千年」を文字通りの千年と解釈せず、携挙についても文字通りのことが起きると考えない神学者も多い。

無千年王国説の問題点

「1 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。2 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、3 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」(黙示録20:1-3)

黙示録の預言によれば、千年王国とは、悪魔サタンによる悪影響が完全に無くなる特定の期間を表している。したがって、無千年王国説が主張するように、もしも現在が既に霊的・象徴的な千年王国だとすれば、サタンの影響はこの世に無いはずだ。

しかし、この世界を見る限り、サタンとその配下の悪霊たちは、精力的に働いており、むしろその影響力は大患難時代に向けて増しているようにさえ見える。またキリストの十字架と復活以降の新約時代においても、サタンは「この世の神」「全人類を惑わす者」と聖書の中で表現されており、今日までその状態は変わっていない。間違いなく、サタンはまだ封印されていないのだ。(第二コリント4:3、黙示録12:9)

結論として、無千年王国説の神学的立場は、この世界の現実と矛盾すると考えられる。

患難後携挙説について

患難後携挙説の場合、キリストの再臨は二段階ではなく、一段階で来ると信じられており、地上再臨と空中再臨を分けて考えることはない。そして、筆者が考える患難後携挙説の重要な問題点は、キリストの再臨の時期がある程度わかってしまう、という点にある。

既に学んだように、イエスが花嫁である教会を迎えに来る時は、天使たちもキリストも知らず、ただ父だけが知っている。そのため、いかなる人間でさえ、彼がいつ来るのかを予測することはできない。

「36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:36)

ところが、終末期の聖書預言を紐解けば、イエス・キリストが地上再臨するタイミングは、大患難時代の終わりであることが明らかになっている。特に、ヨハネの黙示録の預言においては、19章で登場する再臨のキリストまでに、どのような順序で裁きが進行するのかが、明白に描かれている。

結論として、キリストの地上再臨のタイミングは終末期の預言からある程度予測ができるので、空中再臨と地上再臨を同一時期と見做す患難後携挙説は、「その時がいつであるかは、だれも知りません。」というキリストの預言とは相容れないことがわかる。

患難中携挙説について

この説の聖書的な根拠について

患難中携挙説は、患難時代中に携挙が起こるとする説だが、患難前携挙説と同様、キリストの再臨が、空中再臨と地上再臨の二段階に分かれて起こると考える。この説を信じる聖書的な根拠は、次の聖書箇所から、復活と携挙が、「終わりのラッパ」と関連付けられている点にある。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(第一コリント15:52)

ヨハネの黙示録の預言によれば、大患難時代には三種類の異なる神の裁き「七つの封印の裁き」「七つのラッパの裁き」「七つの鉢の裁き」が起こる。そこで、患難中携挙説の神学者は、これらの内の中間に位置する最後のラッパの七番目の裁きが、復活と携挙を意味していると考えるのだ。

「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」(黙示録11:15

この説の問題点

筆者が考えるこの説の問題点は、患難後携挙説と同様、携挙の時がある程度予測できてしまう、というものだ。

第一に、どのようなタイミングであれ、空中再臨と携挙が、大患難時代中に起こるとすれば、あらゆる信者は「再臨と携挙はどんなに遅くても七年以内に起こる」ということがわかってしまい、「盗人のように来る」というキリストの言葉の意味の重要性が軽くなってしまう。

第二に、第一コリント書でパウロが語った「終わりのラッパ」が、大患難時代の七番目のラッパの裁きを意味している場合、携挙の時期がさらに特定できてしまう。つまり、六番目のラッパの裁きが地上に起こった時点で、「もうすぐ来る」ことがわかってしまうのだ。

第三に、黙示録の預言は、ヨハネだけに啓示された奥義だが、パウロが第一コリント書を書いた時は、大患難時代に生じるラッパの裁きは明らかになっていなかった。またヘブル的な視点を考慮すれば、ここでのラッパは、ユダヤにおけるラッパの祭りと関係していると考えることも可能だ。

結論として、患難中携挙説の場合も、携挙の時期がある程度わかってしまうので、「その時がいつであるかは、だれも知りません。」というキリストの預言とは十分に調和しないことがわかる。

患難前携挙説について

大患難時代が始まる前のある時点で、突然携挙が起こると考える説であり、筆者が支持する立場だ。また「ディスペンセーショナリズム」という神学体系を採用している全ての神学者は、この立場を支持しており、冒頭で取り上げたレフト・ビハインドも、この立場に沿って書かれた本だ。

以下に、当サイトがこの立場を支持する聖書的根拠の要点を示していく。

(1)実は、携挙を支持する三つの立場において、「その時がいつであるかは、だれも知りません。」というキリストの言葉と唯一調和するのが、この患難前携挙説だ。なぜなら、聖書は大患難時代がいつ始まるのかについては、全く明らかにしていないからだ。

(2)また、ヨハネの黙示録は6~19章までが大患難時代の様子を描いた預言となっているが、その中では「教会」という言葉が一度も出てこない。

(3)さらに、キリストの空中再臨と復活と携挙は、史上最大スケールの壮大な奇跡だが、黙示録の大患難時代の描写では、その出来事には一言も触れられていない。むしろ預言の中では、キリスト再臨の前の19章の文脈において、既に天に挙げられた花嫁である教会が、花婿であるキリストとの婚姻を行う様子が描かれているのだ。

(4)補足する点として、昨今の世界において、イエス・キリストから携挙に関する幻(啓示)を受け取るクリスチャンが時々現れるが、彼らが啓示される携挙の内容は「一貫して」大患難時代の直前に携挙が起こる、というものとなっている。筆者はこれまでに信頼性が高いと判断できる複数の証に目を通してきたが、彼らの内の誰一人として、他の立場を支持する啓示を受け取っている人はいない。

つまり、終末に関する全ての啓示の内容は、ある時突然に携挙が起こって教会が天に挙げられ、その直後に大患難時代が始まり、地上はかつてない患難と混乱に見舞われる、というものだ。

それぞれの説に関して、論じるべき点はまだまだ多くあるが、以上に挙げた理由から、筆者は患難時代の前に携挙が起きることを、確信を持って信じるに至っている。

携挙は近いのか?

携挙が起きる年や日時を特定することはできないし、すべきではない。しかし、私たちが聖書の預言に真剣に注意を払うならば、その時がどの程度迫っているのかを洞察することは可能だ。特に現代は、聖書の終末論を知らない人々でさえ、世界中を取り巻く深刻な問題の数々を引き合いに出し、この文明の終わり、あるいは転換点が来ているという点について、警報を鳴らしている時代なのだ。

では、聖書の預言的な視点に立って現代を見た時に、今は終末の時代に入っていると言えるのだろうか?

この点を理解する鍵として紹介した預言は、ダニエル書9章にある「七十週の預言」だ。より詳しい解説は「ダニエル書の終末時計」で行っているので、本記事では詳細な解説を控えるが、まずは該当の箇所を見てみよう。

「24 あなたの民あなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。      25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の・・後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主・・彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9:24-27)

この預言は、ユダヤ人の預言者ダニエルがバビロンに居た時に、天使ガブリエルから受けた啓示だが、「あなたの民とあなたの聖なる都」について定められている「七十週」の預言となっている。言い換えれば、「ユダヤ人とエルサレム」に関して定められている「490年」に関する預言だということだ。

そして「油注がれた者」であるキリストが十字架で死んだ時点で、六十二週に相当する483年は既に成就したが、残りの一週に相当する最後の七年間(患難時代)はまだ来ていない。

なぜ最後の七年間がまだ来ていないのかと言えば、それはこの預言が「ユダヤ人とエルサレム」に関するものだからだろう。ユダヤ人は、西暦七十年のローマ帝国によるエルサレム没落以降、約二千年間に渡って祖国を持たずに世界中に離散していたが、このようにユダヤ人がエルサレムに居ない状態では、預言が成就する前提条件が成り立たなかったことがわかる。

しかし、彼らは1948年に建国に成功し、1967年の六日戦争での勝利でエルサレムを奪還した。これによって、最後の七週に関わる預言のタイムテーブルが進行する条件が、およそ二千年の時を経て整ってきたのだ。

そして、最後の七年間の始まりに登場する「やがて来たるべき君主」とは、反キリストを意味しているが、ある日携挙が突然起きた後に、彼が多くの者と契約を結ぶことによって、患難時代が始まることとなるだろう。

したがって、現代は過去二千年のどの時代よりも携挙が近いと考えられる時であり、私たちはキリストの再臨を現実的な希望として再確認すべき時なのだ。そしてここから先は、患難前携挙説に立った時に、終わりの日の展望をどのように考えることができるのかを聖書から確認していきたい。

携挙されたクリスチャンを待つ
永遠の祝福

携挙された信者はキリストと結ばれる

天でキリストと結ばれる|Designed by Danny Hahlbohm / inspired-art.com

神の怒りからの救い

「2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。 3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。・・・しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。 ・・・神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(第一テサロニケ5:2-9)

引用した第一テサロニケ5章は、4章で携挙に関する説明がなされた後に、同じ文脈で語られている。盗人のように来る「主の日」とは、全地球規模で全ての罪人に下ろうとしている神の怒りの裁きを表しており、それは大患難時代を通じて、段階的に行われる。

しかし、信仰によって、イエス・キリストが自分の罪の身代わりとして十字架で死んだことを受け入れているクリスチャンは、神の怒りの裁きに会うことは無い。なぜなら、全ての信じる者たちの罪に対する神の怒りは、キリストがその十字架の上で身代わりとしてお受けになったからだ。

七年間の大患難時代が始まる前のある時点で、真にキリストを信じる全ての者たちは携挙され、天での永遠の祝福へと旅立つこととなる。その後に地上で生じる大きな苦難は、悔い改めていない罪人に対してなされるものなのだ。

いつまでも主(キリスト)と共にいる

「17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(第一テサロニケ4:17

神であるキリストは、地上での生涯においても、全ての信者と霊的に共にいる。しかし、罪を持つ朽ちる肉体の存在は、依然として神と人との隔ての壁となっている。しかし、携挙によって栄化されたクリスチャンは、罪の性質から完全に解き放たれるため、その瞬間から完全な形で神との交流を持つことができるのだ。

神のご性質の最大のものは「愛」であり、その愛の偉大さは、地上のどんなものとも比べることができない。携挙されたクリスチャンは、そのような神の愛の中で、完全な喜びと平安を永遠に見出すようになるだろう。

子羊(キリスト)との結婚

「6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。 7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(黙示録19:6-8)

イエス・キリストを信じるクリスチャンは、聖書の中で子羊であるイエスの花嫁と呼ばれている。(ヨハネ3:29も参照)人間同士の結婚関係と異なる点は、キリストが神であるため、男女のような性愛があるわけではない。したがって「一夫多妻制ではないか」という質問は意味を成さない。あらゆるクリスチャンは、やがて花嫁として、一人の夫であるキリストと結ばれるのだ。

人間同士の結婚との共通点は、両者が特別な関係で結ばれる、ということだ。この社会の中で、人間同士の結びつきとして最も密接な関係は、男女の結婚関係である。実際に聖書の中でも、「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:27)とあり、夫婦の一体性を明らかにしている。

全てのクリスチャンは、深い愛情に満ちている偉大な全知全能の創造主である神と、そのような密接な関係で永遠に結ばれる、という計り知れない祝福を約束されているのだ。ハレルヤ!

※なお、聖書的な原則に沿って考えれば、地上に存在する多くの出来事は、天にある実体の写しとなっている。(例:ヘブル人への手紙9章)。したがって、人間同士の結婚関係も、やたて天において成就するキリストとの結婚という実体の写しと考えることができるだろう。

全ての苦しみが過ぎ去る

「3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)

引用した聖句は、厳密には携挙に関する文脈ではないが、栄化される全ての神の民に訪れる共通の祝福を指し示すものとして、素晴らしい聖句だと言える。

この世界に生じているあらゆる苦しみの原因は、「罪」と「悪魔の働き」によるものだ。しかし、栄化されたクリスチャンは罪から解放され、悪魔の影響の無い完全な天国で、花婿であるキリストと完全に結ばれるため、もはや死や悲しみや、嘆きや労苦を経験することはなくなる。

そこには完全な喜びと平安と祝福の数々があり、栄化されたクリスチャンはそのような歓喜に満ちた状態で、永久に神を賛美し続ける。それこそが、神が全ての人間に対して意図していた本来の祝福「永遠のいのち」なのだ。―ヨハネ3:16

残された人々の苦難と希望

残された人々の苦難と希望

取り残される人々

残された人々を待つ運命

携挙されずに地上に残された人々を待ち受ける運命についての詳細は、別の記事「大患難時代―携挙、反キリスト、キリストの再臨」でより詳しく解説しているので、本記事では要点を確認する程度にとどめたい。

大患難時代は、世界中の人々が死と隣り合わせとなる極めて激しい時代である。携挙されずにこの時代に取り残された多くの人々は「サタンの怒り」「神の怒り」のどちらかの理由によって、七年以内に肉体的な死を経験することになるからだ。

しかし、この時代は神の恵みが大きく働く時代でもあり、神の警告的な審判の前にへりくだり、たくさんの人々が悔い改めて永遠の命を得るようになるだろう。―黙示録7章。

サタン、反キリストによる苦難

大患難時代の患難の重要な原因の一つは、悪魔によるものだ。とりわけ、悪魔の怒りは大患難時代に悔い改めて救われるクリスチャンに対して向けられ、多くのキリストを信じる者たちが殉教することとなる。

この時代、地上での悪魔サタンの意志を遂行する主要な人物となるのが、聖書の中で「反キリスト」と呼ばれる人物であり、彼はとりわけ後半の三年半で世界を独裁支配し、666の印を受けて自分に従わない者たちを容赦なく殺していくこととなる。この獣の数字を拒む多くの人は、生活の糧を奪われ、逮捕され、殉教していくこととなるだろう。

5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。・・・7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。・・・

また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。 17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。(黙示録13:5-17

しかし、キリストに対する信仰を持つ者には、迫害を忍耐し、神への忠実を保ち、勝利する力が必ず与えられる。そして、勝利した人々は、大患難の終わり、イエス・キリストが地上再臨した後に、復活を遂げることとなるだろう。

また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」(黙示録20:4)

み国の福音(良い知らせ)が世界中で宣べ伝えられる

「そしてこのみ国の福音が全世界にのべ伝えられて、すべての民への証となろう。そのときにこそ終わりが来よう。」(マタイ24:14

既に述べた通り、大患難時代は、神の怒りが注がれる時代であると同時に、神の恵みが豊かに注がれる時代でもある。

「御国の福音」とは、「良い知らせ」という意味であり、「キリストに対する信仰による永遠の命の希望」を表している。この福音は、既に現代でも世界の隅々にまで伝えられているが、患難時代には、「二人の証人」と「144,000人」の特別な奉仕者が神によって任命され、福音はかつて無い規模と力で、世界中で伝えられる。イエスの預言通り、この福音が全世界で伝えられるまでは、終わりが来ることは決して無い。―黙示録7章、11章。

神の怒りの裁きの苦難

「1 わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。」(黙示録15:1)

ヨハネの黙示録によれば、大患難の時代における神の裁きは、七つの封印の裁き→七つのラッパの裁き→七つの鉢の裁き、と段階的に行われる。上記で引用した聖句は、丁度最後の七つの鉢の裁きが到来する前に語られた言葉だが、「これらの災いで、神の怒りがその極みに達する」とあるように、地上の人間のあらゆる罪に対する精算が、神の裁きによって完全に執行されることを表している。

この時代、これらの段階的に裁きを通して、悔い改める人々と、心を頑なにする人々とに、人類は二分されることになるだろう。そして、封印・ラッパ・鉢の全ての裁きが完了した後に、満を持してイエス・キリストが地上に再臨する。―黙示録19章。

彼は、地上の全ての国民を完全な正義によって裁き、神の御国の祝福に入る人々と、永遠に滅ぼされる人々とに分ける。そして、大患難時代の殉教者たちや旧約時代の聖徒たちを復活させ、千年王国の統治を開始するのだ。―マタイ25章、黙示録20章。

携挙に備える

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。 36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:34-35)

携挙の時―それはいつでも起こり得る

携挙―つまりキリストの空中再臨と信者の栄化は、いつでも起こり得る。それは三十年後かもしれないし、十年後かもしれないし、・・明日かもしれない、ということだ。もしも明日、キリストが再臨するとしたら、あなたは本当に彼を迎える準備ができているだろうか?

本記事では、携挙に関する色々な点を取り上げたが、最も重要なこととは、あなたが今、キリストの再臨の備えができているか?ということに尽きる。イエス・キリストは、最初の到来の際、世を裁くためではなく、世の罪の身代わりとして、苦しみの死を負うために来られた。

しかし、二度目の地上への到来の時は、そのようではない。彼は「王の王、主の主」として威厳に満ちた栄光を伴い、世に完全な裁きをもたらすために来られる。それは全ての信じるものたちに永遠の命の報いを与え、神を拒否する全ての者に永遠の裁きをもたらすためなのだ。

まだ信じていない方々へ

もしも、この記事を読むあなたが、また神を信じていないのであれば、是非この機会に、心を開いて聖書を学び、キリストへの信仰を持つようお勧めしたい。

神はあなたを誰よりも深く愛しており、あなたが罪の裁きを受けることが無いよう、自ら世に来られ、その裁きを身代わりとして受けた。あなたがキリストの十字架による罪の赦しを信仰によって受け取り、イエス・キリストを救い主として受け入れるなら、あなたの全ての罪は赦され、携挙の時に救われる者として、これからの人生を確かな希望を持って生きるようになるだろう。

既に信じているクリスチャンへ

この記事を読むあなたが、既に救われたクリスチャンであれば、聖なる花嫁として、花婿を迎える準備が整っているのかどうか、自問自答しなければならない。私たちは、史上最高の結婚式に、その花嫁として招待されているのだから、その歓喜に満ちた婚礼に向けて準備をし、身を清く整えるべきなのだ。

あなたの中に、キリストに対する真の信仰があるならば、隣人を愛し、神の義に沿って正しく歩み、聖なる者として罪から離れているはずである。もしも、クリスチャンとしての歩みがそのようなものとなっていないのであれば、自分の中に本物の信仰があるのかどうか、正しい信仰に歩んでいるのかどうか、自問自答してみよう。

そして今、私たちは改めて初代教会の信仰に立ち返り、主の再臨の待ち望みつつ、互いに励まし合っていく道を歩むべきなのだ。

10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。 11 不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。

12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」 14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。

15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。 16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。(黙示録22)

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脚注

[i] 旧約聖書の時代に登場するラッパには二つの種類「ショーファール」と「ハツォーツラー」があるが、キリストの再臨の時に響くラッパではこれらの区別は無く、どちらにもギリシア語の「サルピンクス」(σάλπιγξ) という訳語が使われている。

[ii] 聖書の預言解釈では、1日が1年を示唆する場合がある。―民数記14:33-34、ダニエル9:24-27。ハネムーンの七日間と大患難時代の七年間との関連性については、絶対とは言えないが、示唆する可能性のあるものとして見ることはできる。

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