キリストの再臨に向かうダニエル書の終末時計|聖書預言―終わりの日


救済史における現代の位置

以前に書いたこちらの記事「未来への希望を示す救済史の全体像」では、救済史の全体像を体系的に説明したが、次に私たちが知るべきことは、現代が、救済史の流れにおいて、どこに位置しているのか?という問題である。結論から言うと、現在私たちは、キリスト再臨の「直前の時代」に生きている。

メシアの再臨は、救済史・人類史における決定的な転換点であり、再臨を堺に、人間による統治の時代が終わりを迎え、神による直接の統治の時代が始まり、それが永遠に続くことになる。

つまり私たちは、聖書の重要な預言の多くが成就し、人類の歴史が決定的な転換を迎える、極めて特別な時代に生きているのである。では、現代がキリストの再臨間近の時代であるということに、どんな根拠があるのだろうか?

「ダニエル七十週の預言」キリストの再臨へ向かうタイムテーブル

キリストの再臨へ至るタイムテーブル 70週の預言

七十週の預言は、紀元前6世紀に生きたユダヤ人の預言者ダニエルが、神から啓示されたものであり、メシアの到来とイスラエルの状態に関係する、具体的なタイムテーブルを示した、驚くべき預言である。

9:24 あなたの民あなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の・・後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。

やがて来たるべき君主・・彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9:24-27

490年(七十週)は、二つの期間に区分される

聖書的に見ると、ここでの「一週」とは七年を示すため、七十週は、7 x 60 で、合計490年を表している。また、終末時代に関する聖書預言を調べていくと、救済史のおけるキリストの再臨は、丁度この預言の70週(490年)の最後に生じることがわかる。

預言の内容によれば、490年という期間は、最初の483年(69週)と、最後の一週(7年間)の二つに区分される。最初の69週の起点は、「エルサレムを再建せよ」という再建命令であり、その年から483年後に、初臨のメシアが到来し、その後殺されることになっていた。

キリストの初臨による、最初の69週(483年)の成就

預言通りイエスは、エルサレムの再建命令から483年後に、十字架刑にかけられ、メシアとしての公の活動を終えた[i]。つまり、70週の内の最初の69週までは、これまで完璧に成就したのである。ところがその後、残りの一週(7年間)の時代はまだ来ておらず、空白になっているのだが、それはなぜだろうか?

空白期間の意味と、最後の七週(7年間)の前兆

答えは、この七十週の預言が、「『あなたの民』とあなたの『聖なる都』について」つまりユダヤ人とエルサレムに関するものだからである。イエスがユダヤ人の指導者たちの手で十字架に架けられたことによって、その世代のユダヤ人に対する民族的な裁きが決定し、彼らは紀元70年にローマ軍によって没落し、世界中に離散するようになった。これによって、ユダヤ人の存在がエルサレムという聖なる都から消えた。七十週の預言は、ユダヤ人とエルサレムに関するものであるため、ユダヤ人がその都市から消えている間は、預言のタイムテーブルが進行しないのである。

以降約二千年間に渡り、彼らは国を持たず、世界中を放浪することになったが、1948年のイスラエル建国によって、再び彼らは祖国に帰還することを許された。その後1967年の六日戦争(第三次中東戦争)の後に、イスラエルの領土はエルサレムの広範囲を有するようになり、いよいよ最後の七週が始まる舞台が整ってきたのである。

したがって現代は、最後の七年間が、いつ始まってもおかしくない時代に突入しているのである。

七年間の大艱難時代~悪魔の怒りと神の裁き

七十週の預言の最後の一週(七年間)は、どのような時代になるのだろうか?この期間は、専門的には「大患難時代」と呼ばれる。つまり、人類がかつて経験したことが無いような、大きな患難が全世界に望むのである。まずは簡単に概要を説明しておく。

この時代に大きな患難が起こる一つ目の理由は、悪魔(サタン)が自分の時が短いことを知り、大きな怒りを抱いて、人間社会に災いをもたらすからである。(黙示録12:12)大患難時代の悪魔の力は、特に「反キリスト」と呼ばれる人物の台頭と独裁支配によって、その極みに達することになるだろう。しかし、キリストの再臨によって、彼らの力は打ち砕かれ、一千年の間、人間を惑わすことができなくなる。

二つ目の理由は、不信仰な人々に対する神の裁きが、多くの患難の形で地上に下るからである。ただし、大艱難時代の前期~中期における裁きは、警告的な審判であり、人々には、患難の経験を通して悔い改めて救われる余地が残されている。この時、多くの人びとが神に立ち返ることになるだろう。

しかし、最終的に世界の人々は、神・つまりキリストの言葉に従うグループと、反キリストに従うグループに二分されることになる。反キリストに従う全ての人々は、最終的に神の裁きによって滅びることになる。なお、大艱難時代の裁きは、キリストの再臨の際に最高潮を迎える。(キリスト再臨の際に起きる人間の軍勢とキリストとの最後の戦いが、「ハルマゲドンの戦い」と言われる戦いである)

以上が、大患難時代に生じる出来事の概要である。

なぜ神は人類に裁きをもたらすのか?

次回の記事で、大艱難時代の詳細を明らかにする前に、神の裁きの意図について、説明をしておく必要がある。

所有権について

神が、従わない全ての者を裁く、ということに関して、反感を覚える人は多いかもしれない。この点を理解するために大切なことは、神が「万物の創造主」だという認識を持つことである。全ての美しい地球環境、またそこに存在する全ての生命に対して所有権を持っているのは、究極的には神である。

人間社会でもそうだが、所有権を持つ人が、その所有物に対して権限を持っているのは、当然のことだ。。例えば、あなたがアパートの大家である場合、家のルールに従わない住人を追い出すのは当然のことだと考えるだろう。

では、私たちが住んでいるこの地球も、実は「創造主」という大家が存在するアパートだとしたらどうだろう?この場合も、ルールに従わない人間が追い出されるのは、当然のことだと考えるはずである。

神の愛と人間の存在目的

ただし、神がルールに従わない人間を無慈悲に追い出す冷酷な存在だと考えてはならない。神は愛であり、神が人間に求めていることは、神の愛に応え応じることなのだ。人間は神との愛の関係を持つように創造されたのであり、それを否定することは、自身の存在目的を、自ら拒絶することを意味する。

だから、神の否定は、最終的に、神の創造物である自分の存在そのものを否定することになるのである。

これから世界で起こること―大患難時代、キリストの再臨

参考記事

聖書の学び会用資料

 

 

脚注

[i]

七十週の預言の起点である「エルサレムの再建命令」をどこにするのか?また、69週の終わりをキリストの公生涯のどこに位置づけるのかは、神学者の間でも意見が分かれている。

当サイトでは、この神学的な問題を深く考察した結果、議論の原因が、今日の一般の歴史が採用している、ペルシャ帝国の不確かな年代にあると見ている。

ペルシャ帝国の年代の算出は、二世紀の天文学者・著作家のプトレミー(プトレマイオス)による「推測」を土台としており、彼自身は、その年代の見積もりの正当性を主張しているわけではない。つまり、現代の世界で一般的に採用されているペルシャ帝国の年代表の正確性は、実際には保証されていないのだ。

さらに、プトレミーの推測に基づいたペルシャ帝国の年代表は、聖書の預言のタイムテーブルと、完全には符号しない部分が生じる。その事実が、七十週の預言に関して、神学者の間で未だに議論が絶えない原因となっているのである。

 

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11件のフィードバック

  1. no name より:

    当サイト内でシオニズムに関する記事がないので、聖地問題について解説いただけると助かります。イスラエルによる聖地併合に対して否定的な見解が多いですが、マイク・ポンペオのような福音派シオニストが支持するトランプ政権下で、ネタニヤフは西岸地区併合を進める考えです。

    • true-ark より:

      記事のご提案に感謝です。近代のイスラエルの領地に関する諸問題は、中々複雑な部分があり、当サイトの管理人も、まだそれを正確に説明しきる十分な知識が無いため、記事にはしておりません。ただし、聖書的には、今でもユダヤ人にとって、イスラエルの地は重要であり、実際に、旧約聖書の幾つかの預言の成就と見られるようなしるしも、現代のイスラエルに見られます。ただ、最終的に、イスラエル人があの土地を完全に自分たちのものとするためには、政府や人間の権威によるのではなく、彼ら自身が、イエス・キリストを彼らの救い主として認める時が来なければならない、と理解しています。

  2. Coocan より:

    クリスチャンでも、地獄の存在、rapture=携挙 を信じられないという人はいます。神が愛であるのなら、なぜ人を地獄の業火で永遠に苦しめられるのか、この世界を滅ぼされるのか。という疑問です。

    また、イエス・キリストを信じないから、という理由だけで、この世で貧しさや病で苦しんでいる人、また、善良で、殺人など大きな罪を犯したわけではない人が地獄にいくのはおかしい、というのも、人間の観点からみたら正しく納得できる理由づけだと思います。

    でも神様は、人間が作りあげた存在ではないので、人間が考える道徳心や、善悪の基準は通用しないのだな、と最近ようやく理解できるようになりました。

    神様はLOGIC(論理)ではない、人知をはるかに超えた存在です。自分がすでに持っている思考の枠組みや判断でとらえず、聖書を読みすすめていくことがポイントなのではないかと最近思うようになりました

    • true-ark より:

      ハレルヤ!とても重要な観点をご理解されてらっしゃいますね。確かに神の基準は、地上の人間には理解しがたい部分もあります。私はその理由が、人間の視野に限界があるからだと考えています。いづれ神の元に生き、真理の全貌を理解するならば、私たちはより深い意味で、神が義であることを理解するのでしょう。以下の記事は、まさにこの問題について答えるために書きました。
      http://true-ark.com/bible-faq-hell-suffering-reason/

  3. 幸福の機会 より:

    因みに、最後の審判って近いのかな?と最近は恐々としています。シリアやイラクで武装勢力が好き放題、アメリカを筆頭に空爆の繰り返し、果ては生活の場も経済や流通も壊れて生活できなくなった難民がEU諸国に流れ込む。その人らは仕事になかなか就けないし、難民が犯罪を犯すのも珍しくない。
    有史以来、今ほどヨーロッパと中東が混沌としている状態は初めてではないかとも思います。
    そもそもの中東混乱だって、イラク戦争から加速したもので、もう全く容認できない。アメリカの大統領も自身がクリスチャンと前置きした後で戦闘行為の正当性を声明したり、果てはバチカンの教皇までもが現状は有事であって既に世界大戦は始まっていると人々の恐怖を煽ったり。

    私如きが言うには恐れ多いですが、主がこの有様を見たら、地球まるごと最後の審判にかけるしかないな、って思ったとして、それは何ら疑問は無いですよ。

    この混乱の度合いから言って、イエスやヨハネ等、人類の行く末を実際に垣間見たのかも知れないし、この混沌を実際に見えもしない悪魔が何らかの所業で起こしているとも否定しきれない。
    そのくらい、世界は狂ってる。

    主の起こした数多の奇跡など瑣末な記憶になってしまうくらい、現状の人間の所業は酷い、醜い。

    一生懸命働いて、疲れて帰って、家族に迎えられて美味しい食事をして風呂に入ってみんなで寝る。たったそれだけの事を、なんで世界中で出来ないのか?

    私は結局、この世界は嫌いなのかも知れません。

    • true-ark より:

      http://true-ark.com/sermon-mount-intro/#list
      上記の山上の垂訓の中で「幸いなひとたち」を読んでみて下さい。
      嘆き悲しむ人は幸いです」とありますが、まさにあなた様は、その幸いな人に当てはまっています。

      このような罪が蔓延る世界の中で、私たちの唯一の希望となるもの、それが来るべき神の御国「千年王国」です。
      そして、その前に主がこの地上に裁きをもたらす「大患難時代」は、そう遠くは無いと感じています。

      是非、一連の記事を読み進めてみて下さいね。

      ※ペンネームは、シンプルなもので統一を頂ければ幸いです。

  4. 幸福の機会 より:

    主の愛が人知を超えた永遠不滅のものであったとしても、今の社会に裁きを下すのはそれほどおかしいとは思えないです。
    生ける人も死ぬ人も全てが裁きにかけられ、善良な人が天国へ、そうでない者は地獄の業火に。
    まあ、そういう事もあるかも知れない。

    残念ながら、私は犯罪的も無く、そこそこ真面目に働いてはきたけど、人を傷付けたり不道徳な事をしたりとすっかり汚れてる。キリスト教徒ですらなく、どちらかと言えば仏教徒でしかも大して信心深くもない。

    正直怖いですよ、地獄。
    でも多分、それが怖いから敬虔なクリスチャンになってこれからを悔い改める、とかはちょっと自分のやるべき事ではないな、って思います。

    寧ろ、民族、国境、人種、言語、信仰を問わず、善良な人は確かにいます。それも多く存在している。
    上記の差別無く、善良な人であれば全て主が救ってくれる事を願いますし、私が考える全能の創造主とはそういうものです。

    例えば私がクリスチャンになって善行を重ねて天国に行っても、善良そのものなのにクリスチャンではないからといった理由で地獄に落ちる人がいたら。
    考えたくもない。そこが天国かも疑わしくなってしまう。少なくとも、その天国にいて尚、真っ黒い悲しみで永遠に頭を上げられなくなる。

    アジアの貧しい国を旅行すると、私はよく都市部を離れて農村部を見て回るんです。
    都市部に住ん人達も朝から晩まで働いて立派ですが、農村部の人達の大らかさ、親切さと言ったら素晴らしいものです。
    でも気になる事があって、子供は元気に笑ってそこら中にいるんですが、どうやら学校に行ってない。
    行ったとしても週に一回とか二回とか?

    貧しい国の貧しい人は永遠に貧しくあるように作られているんです。
    生活費が足らなかったり、そもそも仕事にありつけなかったり、家族が病気になったり(東南アジアの多くは医療保障とか無いです)、もうスグ借金塗れですよ。

    学校なんか生かせる余裕は無い。それどころか若い娘は泣く泣く都市部に行くんです。性産業に身を投じに。

    信仰も含めて勉学の尊さを知る機会など無い。
    私はそういう人らが地獄の業火に焼かれるはずがないと信じています。

    • true-ark より:

      最近投稿した記事で以下も参照していただきたいのですが。
      http://true-ark.com/bible-faq-hell-suffering-reason/

      お気持ちとてもよくわかります。だからこそ、聖書を学んでいく時に、とても重要な点があります。それは、神がどのようなお方かを十分に知る前に、自分の中で「こうあるべきだ」「こうあって欲しい」という何らかの信条があると、それが邪魔をして真実に到達できなくなる可能性がある、ということです。つまり、最終的には、疑問に感じる点については、神の正しさを信じるよりも、自分の正しさを信じてしまうわけです。

      是非、一度お考えをまっさらな状態にして、ご紹介した本に目を通してみて下さいね。

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