思考を一新する~神のことばはあなたの魂に救いをもたらす|聖書的瞑想、詩篇1篇、ローマ12章1節
“また、この世によって同じ形にさせられてはならない。かえって、何が良いことで、神に受け入れられ、完全なみこころかを判別するため、あなたの思いを更新によって変えていただきなさい。”ローマ12章1~2節(ギリシア直訳、新約聖書。金の器社)
今回の記事では、「思いを新たにする」ことについて学んでいきます。思考の一新は、霊的な成長において極めて重要な部分を占めています。なぜなら、神のことばは、私たちの思考の一新が主の御心通りになされていく時に、必ず祝福され、すべてにおいて成功を収めると約束しているからです。(詩編1編)
霊・たましい・体
霊・たましい・体
さて、神のことばは、イエスを信じてバプテスマを受けた人は、すでに復活のキリストの似姿に造り変えられている、と言っています。(ローマ6章5節)しかしほとんど全ての場合において、クリスチャンは洗礼後にも色々な罪を犯したり、様々な問題を通りながら歩んでいるものです。この矛盾をどう考えたら良いのでしょうか?ここで大切になってくるのは、「霊」と「魂」を区別して考えることです。
聖書は、人間が「霊・魂・体」でできている、と教えています。例えば、次の聖句です。
“平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。” Ⅰテサロニケ5章23節
これらの「霊、たましい、からだ」の関係性を踏まえて表現するならば、私たちは「体の中に住み、魂を持つ霊」です。ですから私たちの本質は霊です。
霊の死と復活(再創造)
最初の人のアダムが罪を犯した時、その時にアダムの「霊」は死にました。アダムの肉体の死は、900年以上後におとずれましたが、「霊の死」は即座にやってきたのです。神が予め、「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2章17節)と言われていた通りです。「とき」とは、KJVでは「in the day」と訳されており、まさに食べるその日に死ぬ、ということです。
それ以来、神の似姿としての人の霊的本質は死んだ状態となり、人は魂と体によって生きる存在として歩んできました。ところが、イエスの十字架による贖罪がなされた後は、イエスを信じる全ての人に、この「霊の新生・復活・再創造」が起きるようになったのです。
“あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。” 第一ペテロ1章23節
ですから、今あなたがイエスを本当に主と信じているならば、あなたの本質はすでに「死」から「いのち」に移されています。あなたが何を感じるとして、どう理解しているとしても、本当の姿はすでに「キリストの似姿」となっているのです。ハレルヤ!
“私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。” ローマ6章5節
魂の救い~思考の一新
では、魂はどうなっているのでしょうか?残念ながら、それは霊とは違って瞬時に「新しく」されてはいません。もしも、信じた瞬間に「霊」と共に「魂」も完全に新しくされているのであれば、多くのクリスチャンがこんなにも苦労することは無いでしょう。もっとも、新生によって魂も再創造される場合、人格までもがリセットされることになるので問題が起きるでしょう。ですから神は、死んでいた霊に対しては「再創造」、魂に対しては神のことばによって「一新していく」ように命令を与えているのです。[1]
新生の際、魂には再創造がなされない以上、その中には必然的に、過去の生き方による非聖書的な思考の習慣、苦い感情、傷、など様々なものが残ることになります。このために、イエスを信じた後も、多くのクリスチャンが自分の罪や非聖書的な思いのゆえに誘惑や試練に陥るのです。
しかし、私たちには福音があります。それは、イエスを信じた私たちは、たとえ魂にどんな過去のものが残っているとしても、その魂を「この世や罪の影響下」にではなく、「聖霊の影響下」に置くことができ、神のことばの力によって「魂の救い」を受け取っていくことができるのです。
“ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。” ヤコブ1章21節
ここで「救う」と訳されているギリシア語「SOZO」(ソーゾー)には、「救う、助ける、健全にする、癒す、解放する」という包括的な意味があります。ですから聖書の中では、主が人々を癒したり悪霊から解放したりする際にも、この言葉が用いられています。例えば、長血を患っていた女性が癒された時も、主は次のように語ったのです。
“イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った(SOZO)のです。安心して行きなさい。」” ルカ8章48節
ですから、新約聖書の中で主イエスが「救い主」と言われた時、それは罪からの救いだけを意味してはいないのです。主の救いは、あなたの魂を癒し、解放し、聖めることに対しても、あなたの体を癒して強めることに対しても、同様に働くのです。まさしく、主は私たちを全てから救うのです、ハレルヤ!
思考の一新~思いを新たにする
思いを新たにする
“この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。” ローマ12章2節(新改訳2017)
ここからは、神のことばで思いを新たにし、魂の救いを得ていくための方法について、みことばから学んでいきましょう。引用したローマ12章の聖句は、魂の救い・思考の一新について話される時に、実によく用いられる聖句です。大切な聖句なので、是非覚えておいてください。
まず、「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」という言葉に注目しましょう。新改訳2017年版で「心」と訳されるギリシア語「NOUS」は、「知性、思い、考え、さとる、心に抱く」という意味のある言葉ですので、「思い・思考を新たにしなさい」と訳した方が原文の意味に近いです。
「思考」は魂の重要な領域の一つですが、パウロはこの「思い」を神との歩みを通して「新たにしてもらいなさい」と言わず、「新たにしなさい」と言っています。つまり、イエスを信じた後に「自分の思考を一新する」ことは、自分の側の果たすべき役割だということです。
新生の後に、意志を働かせて、神との交わりを持ち、神のことばを食べることは信者の側の果たすべき責任であり、特権なのです。他の誰かにそれを任せることはできません。
そして、私たちがその役割を果たすことを通して、「自分を変えていただきなさい。」とあります。つまり、信者が神のことばによって自分の思いを新たにしていく時に、神が私たちの内側全体を「造り変えて下さる」のです。[2]
救いのプロセスは、神と私たちとの共同作業ですが、大切なことは、何が自分の果たすべき役割で、何が神の側が果たす役割なのかを正しく見分けることです。神の側が果たすことまで自分でやろうとすると「律法主義」に陥り、霊的に疲れ果てることになります。自分が果たすべきことなのに、「神がやってくれるだろう」と考えて何もしないと、「聞いても行わない人」となり、霊的な眠りに陥ってしまうでしょう。
私たちは、神のことばからそれを正しく見分け、右にも左にもそれないように注意しましょう。
“あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。右にも左にもそれてはならない。” 申命記5章32節
思いをこの世と同じ形にさせられてはならない
“また、この世によって同じ形にさせられてはならない。かえって、何が良いことで、神に受け入れられ、完全なみこころかを判別するため、あなたの思いを更新によって変えていただきなさい。”ローマ12章1~2節(ギリシア直訳、新約聖書。金の器社)
私たちの魂が救われていくために必要なことは、つまり魂が癒され、聖められ、主の似姿に造り変えられていくために必要な第一のことは、「この世と同じ形にさせられてはならない」ということです。つまり、「この世の神」である悪魔から来る世の中の考え、風潮等を含むあらゆる汚された情報に、自分を合わせることの無いように、ということです。
この世で生きている限り、私たちは汚された情報に晒されることを全く避けることはできません。金銭欲を刺激する情報、性欲を刺激する情報、プライドや劣等感を刺激する情報、神以外のものを高めさせる情報、それらの汚れた情報にさらされたとしても、「同意しない」「愛さない」ということを心に定めておく必要があります。
“あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。16すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。” 第一ヨハネ2章15~16節
例えば人間の歴史の中で、現代ほど性欲を刺激する情報に人々が囲まれている時代はないと私は思います。コンビニ行けば、そういう雑誌が必ず陳列されていますが、老若男女誰でも行く機会のあるそういう店に、必ずそういうものがある、というのはどういうことでしょうか?普通にネットサーフィンをしていても、全く意図していないタイミングで、突如そういうコンテンツは目の前に出てきます。
先日私は、ある本をAmazonで探しました。その本は友人の救いの証しが掲載されている書籍で、タイトルも内容も全く健全なものでしたが、タイトルを正確に思い出せなかったので、それに近い複数のキーワードを検索していきました。ところが、候補として検索した全てのキーワードにおいて、そのワードを含むアダルトコンテンツが準備されており、検索するたびに、いちいちその表紙が検索の上位に表示されたのです。
全てのクリスチャンは理解する必要があります。これら全ては、人間を堕落させて地獄に落とすために悪魔が仕掛けている大量破壊兵器であり、霊的に見れば、原子爆弾よりも危険視するべきものです。これらのものがたとえ目に入ってきても、それに思いをとらわれず、「調子を合わせない」ようにするためには、聖霊により満たしと、一新されて聖められた思いが必要です。キリストを真に信じている人だけが、それらから心を守ることができるのです。
テレビを見ると、よく「暮らし向きの自慢」をしている人がいます。豪華な家に住み、優雅な生活を送る人を見た時に、あなたは「羨ましい」と思いますか?もしも「羨ましい」とあなたが思い、「自分もこんな生活がしたい」と口にする時に、あなたの心は「この世の神」に対して扉を開き始めることになります。なぜなら、あなたの心が「キリスト」を一心に見つめておらず、あなたの目が、この世のどんな富にも勝る「キリストの宝」を見てはいないからです。「地上にではなく、天に宝を蓄えなさい。そこに、あなたの心もあるのです」というキリストのことばを一心に見つめているなら、この世でどんな優雅な生活をしている人を見ても、決して羨んだりすることは無く、悪魔に対して扉を閉ざし続けることができるようになるでしょう。
“自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。 20自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。 21あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。” マタイ6章19~21節
聖書的瞑想(黙想)~神のことばを思い巡らす
主のおしえを口ずさむ
“幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。 2 主のおしえを喜びとし 昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。 3 その人は 流れのほとりに植えられた木。 時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。” 詩篇1篇1~3節
この聖句は、私の大好きなことばの一つで、自分でもよく暗唱しています。神のことばは約束しています。もしも私たちが悪から離れ、主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむなら、全てにおいて栄える(成功する)ことをです。素晴らしい約束ではありませんか、ハレルヤ!
このみことばの中で、今回注目したいのが「昼も夜もそのおしえを口ずさむ人」という箇所です。「口ずさむ」と訳されているヘブル語の「hagah」には、「つぶやく、思い巡らす、想像する、瞑想する、」という意味があります。KJVでは「Meditate」と訳されており、「瞑想・黙想」とも訳せるのです。「瞑想」は、現代にはスピリチュアルを信仰する人々やビジネスマン等、幅広く普及していますが、実はその原点は聖書にあるのです。
では、聖書的な瞑想とは何か?それはただリラックスして心を無にすることではありません。主の教えを喜びとし、その教えを思い巡らすこと、その思い巡らしの中で口ずさむこと、なのです。(思い巡らすことと合わせて、主の前で静まるのも良いことですので是非行って下さい)
みことばを読んだり聞いたりした後にそれを「思い巡らす」プロセスは、消化にたとえると「よく噛む」ことに似ています。食事をかまないで食べると消化に悪く、食事の栄養を十分に吸収できないのと同じように、神のことばを思い巡らさないでただ聞いたり読んだりしただけで終わらせるのであれば、十分に霊的な栄養を吸収をすることができないのです。
最近では『聞くドラマ聖書』のアプリやYouTubeの影響もあり、聖書やメッセージを「聞くだけ」で終わらせてしまう人が増えています。もっとも、これらのアプリや動画にもそれ相応のメリットがあるので、聞ける時間があればぜひ活用していただきたいのですが、それだけで終わらせることにはデメリットもあることは理解しておくべきです。
聞くだけでなく、聖書を読むことの重要性
例えばYouTube等で配信される動画コンテンツは、「あまりよく理解できていないのに、理解できたように錯覚させる」効果があります。これは、例えば礼拝で語られるメッセージについても同様のことが言えます。動画や音声を聞いている間は、聞いたことの意味を自分のペースで丁寧に思い巡らしたり、熟考したりすることができないからです。
ですから、メッセージを聞いた後に、語られた言葉や聖句を振り返り、改めて聖書の該当箇所を自分のペースで丁寧に読むことが大切です。私たちの目標は、私たちの考えや思いの全てが、主の御心と一致していくことです。毎日神のことばを食べ、それをよく噛んで消化していくなら、神の考え・思いを自分の思いとしていくことができ、思いの変化が口にする言葉の変化を生み出し、行動の変化を生み出し、周りの環境の変化を生み出します。そして、これら全ての変化に神の御心が現れていくので、私たちは全てにおいて栄えるようになるのです。
聖霊は神のことばと一致して働く
では、聖霊はどこにいますか?聖霊は、あなたが神のことばを喜びとし、思い巡らす時に、あなたの内で働いて下さるのです。なぜなら聖霊はいつでも、神のことばと共に、イエスと一致して働くからです。あなたの思いが、常時神のことばで満ちていく時に、聖霊もあなたの思いの中に満ちていき、あなたを変えて下さるのです。
だから、キリストのことばで思いが満たされているならば、悪霊の入り込む余地がなくなるので、その人の品性は神のかたちに整えられていきます。逆に言えば、もしも私たちの思いがキリストのことばで満たされていないと、満たされていない領域を悪魔に利用される危険があります。
実際に、ある時ペテロはこの点で失敗しました。
“それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。32イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」” マルコ8章31~33節
この時にペテロは、「神のことを思わないで、人のことを思って」いました。つまり、彼の思いは神と一致していなかったのです。だからこの瞬間、サタンはペテロの思いに入り込み、ペテロを通してイエスを試みることができたのです。私たちの思いが神によって満たされていないと、このようにいざという時に、悪魔によってその思いを利用されてしまうのです。
ですから、神のことばの勧めに従い、日々主のことばを思い巡らし、良いことに目を留めていきましょう。
“キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。” コロサイ3章16節
心に植えつけられたみことばを素直に受け入れる
“ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。22 みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。” ヤコブ1章21~22節
ここでヤコブは、思いを新たにして魂の救いを得ていく上で大切なことを伝えてくれています。一つ目に注目したいのが「心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。」という箇所です。あなたがすでに新生しているのであれば、神の福音のことばはすでにあなたの心に植え付けられています。それは、「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。」(エレミヤ31章33節)と書いてある通りです。
しかし、植え付けられた神のことばは、さらに根を深く下ろし、その木の幹は成長し、たくさんの枝が出て、生い茂っていかなければなりません。そのためには、神のことばを日々「素直に受け入れていく」ことが必要です。一新されていない私たちの思考は、度々神のことばと衝突するものです。
あなたには、ついつい人に頼ろうとするところがありますか?その場合、あなたの思いは「あなたがたは君主を頼みとしてはならない。救いのない人間の子を。」(詩篇146篇3節)というみことばと衝突するでしょう。
あなたは、ついつい自分を誇りたくなりますか?その場合、あなたの思いは「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」(エレミヤ9章24節)というみことばと喧嘩をすることでしょう。
あなたは、ついついポルノを見たくなりますか?その場合、あなたの思いは「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。」(マタイ5章27~28節)というイエスのことばと夜通し格闘することになるでしょう。
あなたには、赦せない人がいますか?その場合、あなたは思いは「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」(マタイ6章12節)と衝突し、これほどまでに重要な祈りを、心から神に捧げることができなくなるでしょう。
もしも、あなたの思いが神のことばと衝突し続けるのなら、聖霊はあなたの魂に救いをもたらすことは決してできません。あなたが自分の思いを、神のことばよりも高めるならば、神はあなたを助けることはできません。だから、神の前にへりくだり、素直にみことばを受け入れる必要があるのです。
肉体は男性だけど「自分には女性としてのアイデンティティ・感覚がある」という人がいます。あるいは、肉体は女性だけど、「女性を好きになってしまう」という人がいます。昨今、LGBTの問題は世界中のクリスチャンの間で論争の的になっているようですが、神のことばが言っていることは実に明快です。
“こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。”ローマ1章26~27節
多くの場合、LGBTの方には癒しや解放が必要ですが、神からの助けを得て本来の肉体と一致したアイデンティティと性的指向の回復を得るためには、当人がまず神の前にへりくだり、「神様、私は自分の感覚や指向ではなく、あなたのことばが正しいことを認め、それを素直に受け入れます。私を造り変えて下さい。」という祈りの態度が必要です。そうすれば、神のことばがあなたの魂に癒しと回復をもたらして下さるでしょう。
みことばを行う人になる
“みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。24 眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。” ヤコブ1章22~25節
みことばを聞くだけでなく、実際に行う必要があります。神のことばは、まず聞いたり読んだりすることによって「食べ」、それを思い巡らすことによって「よく噛み」、行うことによって「消化」する必要があります。ですから、もしも聞いても行わないなら、その人はせっかくの最上級の霊的食物である神のことばを、消化不良で吐き出しているようなものです。それを繰り返していては、いつまで経っても霊的栄養が内なる人に行き渡らず、霊的栄養失調になってしまいます。
聖書が「隣人を愛しなさい」と語っても、実際にあなたの隣人を愛することをしなければ、いつまで経っても「愛する」ことの本当の意味を悟ることはできないでしょう。
聖書が「病人に手を置けば癒されます」と言っても、実際に病人と出会った時に手を置いて祈らないなら、その言葉の意味と素晴らしい恵みを体験することはできないでしょう。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(ルカ9章23節)という言葉によってイエスに従おうとしても、いつも主の願いよりも自分の願いを優先していては、イエスに従う、ということの本当の意味を悟ることはいつまで経ってもないでしょう。
韓国に、ヒヨック兄弟(Brother Heyok)という伝道者がいます。彼は、世界中でクルセード行い、癒しや解放を伴うキリストの福音を宣べ伝えている神の人ですが、クルセード等の集会を開く時は、いつも自身のミニストリーが費用の全てを負担しています。昨年の10月、多額の費用がかかることを知りながらも、彼は神の導きにより、韓国で一万人規模のクルセードを行いました。しかし、費用が多額であったため、支払日の期日の直前まで、ミニストリーには支払うお金が全くありませんでした。
ところが、ヒヨック兄弟が神を信頼し続けていると、直前にある人から正確な金額が振り込まれたのです。ハレルヤ!彼が世界中でミニストリーを行う時に、このような形で神のことばを信頼して行う、ということを学び続けているのです。
そしてヤコブは、「こういう人は、その行いによって祝福されます。」と言っています。「祝福されます」と訳されているギリシア語「Makarios」には、恵まれた、幸福な、うらやむべき、という意味があります。神のことばを聞いてそれを行う人は、祝福され、恵まれ、幸福になっていくのです。
日々、神との交わりを持ち、神のことばを素直に食べて下さい。食べるだけでなく、そのことばを思い巡らし、実際に行う人になりましょう。神に感謝し、全ての悪から離れ、罪を悔い改め、善を行い、神の御心を追い求めましょう。
私自身、これらのことをいつも思いに留めて生きてきました。もちろん、たくさんの失敗もしてきましたが、これらを追い求めることに妥協はしてきませんでした。今、私は幸福であり、恵まれており、祝福されています。この神の約束が真実であると証言できます。神に栄光を帰します。ハレルヤ!
脚注
[1] 魂とは、まず第一に全ての人間に与えられている「命」の領域です。創世記2章7節に、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるもの(たましい)となった。」とある通りです。新約聖書では、個々の生命に与えられている魂のいのち(プシュケー)と、神から霊によって与えられるより本質的・根源的・永遠性を持ついのち(ゾーエー)とは区別されます。そして、この魂には、知性、感情、意志(知・情・意)があり、個々の人間の人格を形成しています。
[2] ※思いに対して「新たにする」と訳されるギリシア語「Anakainosis」(アナカイノシス)には「更新、再び新たにする、リノベーション」という意味があり、前のものと全く違う形に変容することを意味してはいません。一方、「変えていただきなさい」と訳されるギリシア語「メタモルフォウマイ」には「変身、変革、変換」の意味があり、全く造り変えられることを意味しています。
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