神はなぜ人が地獄で永遠に苦しむことを許すのか?聖書の疑問

聖書は、悔い改めない罪人の最終的な運命が「地獄での永遠の火の苦しみ」であると教えている。この教えは、複数の聖書箇所によって明白に裏付けられているが、その裁きのあまりの悲惨さに、多くの人の頭を悩ました問題でもある。

聖書は、神が愛であると教えているが、なぜ愛の神が、人が永遠に苦しむことを許されるのだろうか?私たち人間が罪を犯すとしても、それはせいぜい「数十年」のことである。それなのに、なぜ神は人が「永遠に」、しかも「火に焼かれる」ような苦しみに遭うことを許すのだろうか?

この想像もつかないような悲惨な裁きとを考える時、聖書の言葉を字義通りには理解せずに、次のように考える人は決して少なくは無い。

  • 地獄は存在しない。なぜならその教えは神の愛とは調和しないからだ。
  • 地獄はあるが、それは永遠ではない。永遠の苦しみは、神の愛とは調和しないからだ。
  • 神が愛であれば、そんな苦しみを容認するはずが無い。したがって、神は愛ではなく、むしろ冷酷な恐い存在である。

では、これらの疑問や考えに対して、聖書からどのように答えることができるのだろうか?

聖書は明らかに永遠の裁きを教えている

自分の考えや感情よりも神の言葉を優先する

この問題を考えるにあたり、最初に踏まえるべき前提は、「自分の考えや感情」よりも、聖書の言葉を通して示された「神の意図」に注目する必要がある、ということだ。なぜなら、知識や知恵や視野において、全知全能の神と大きな隔たりのある人間が「正しい」と思えることが、必ずしも神の「正しさ」と一致するとは限らないからだ。

したがって、もしも聖書の言葉の意味を踏み越えて、自分の考えを優先して聖書を理解するなら、最終的には神の言葉の真理を信じようとしているのではなく、自分の信じたいことを信じるようになってしまうのだ。

では、以上の重要な前提を踏まえ、まずは聖書が永遠の裁きについて何と教えているのか、確認をしていきたい。

金持とラザロの話―ルカ16章

「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。  16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。  26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』」(ルカ16:23-26)

聖書の中で、死後の世界について最も明瞭に描写している聖書箇所であり、天国(アブラハムのふところ)に行ったラザロと、ハデス(地獄)に落ちて火で焼かれる苦しみに遭っている金持との対比が語られている。

この箇所では、永遠に関する言及はないが、「私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできない」という言葉から、死んだ後に悔い改めて天国へ行く機会が存在しないことが示されている。

つまり、一度地獄へ行ったならば、永遠にそこから天国へ行くチャンスは無いのだ。

復活の預言:永遠の生命と憎悪―ダニエル12章

「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。3 目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。」(ダニエル12:2-3)

終わりの日に生じる復活の預言であり、復活によってあらゆる人々の運命が「永遠の生命」と「永久に続く恥と憎悪」に分けられることが示されている。

永遠の苦しみ―黙示録14章

「9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」(黙示録14:9-11)

この聖句は、大患難時代に獣の刻印を受ける人が直面することとなる永遠の裁きについてだが、ここで表現される裁きの内容は、他の救われずに死んだ全ての人々にも、同様に適用されることとなる。この点は、黙示録20章で啓示された「白いみ座の裁き」から洞察ができる。

「13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:13-15)

他にも裁きの永遠性については、複数の聖書箇所があるので、参考までに挙げておく。

  • マタイ25:41-46
  • 第二テサロニケ1:7-9

なぜ地獄のような場所が存在するのか?

聖書が教えるところによれば、地獄という場所は、地上のどんなところよりも悲惨な領域だ。いくら人が神に背いたとはいえ、なぜそこまでの苦しみの場所が用意されているのか?その詳細な理由については、当サイトの聖書の教えシリーズの最終章「聖書が教える死後の世界」の記事の中の「神はなぜ地獄の苦しみを許すのか?」の中で説明をしているが、以下に簡単に要点を書き出していく。

この問題を理解するための二つの鍵は、「人間の自由意志」と「神の良い賜物」となる。

自由意志

当サイトの記事「最初の人間の創造」で説明している通り、人間には「神のかたち」として、自由意志が与えられているので、神に従うか背くかを自らの責任で選ぶことができる。神は、全ての人に永遠の命を与えたいので、一人一人の人生にふさわしい導きを与える。

しかし、最終的に各人が神を拒絶し、地獄へ行くことを選択するのなら、その決定に介入することはない。人の自由意志による選択を尊重することは神の側の責任であり、神の愛の一部でもあるのだ。

神から来る良い賜り物

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(ヤコブ1:17)

父なる神からくる「すべての良い贈り物」とは、この世界で私たちの心を喜ばせる全てのものである。それには、人の心に喜びをもたらす地球上のあらゆる美しい自然環境であり、またそれらを通して私たちが感じる、愛・喜び、平安、希望、といった感情も含まれる。

この真理は、私たちが自由意志の選択によって神を拒否した時に、神からもたらされる全ての良い贈り物をも拒否するという事実を、私たちに教えている。その結果として生じる世界は、神に属していた全ての良い贈り物が全く存在しない場所となり、愛、喜び、平安、希望の代わりに、憎しみ、悲しみ、恐怖、絶望だけが存在するようになる。

神は拒否する人は、神の良い特質と相反する世界を自ら選び取ることになる―これが、地獄という苦しみの場所が存在する理由だ。

地獄は悪魔のために用意された場所

イエス・キリストは、地獄の火が、元々「悪魔とその使いたちのために用意された」ものだと教えている。

「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」(マタイ25:41)

では、悪魔とその使いたちでない人間が、なぜそこへ一緒に入らなければならないのだろうか?その理由は、全て罪を犯す人々は、「悪魔に従っている」という真実があるからだ。

罪による堕落~サタンと人間の反逆」で説明している通り、最初の人間夫婦は、悪魔の声に従って、罪を犯すようになった。彼らは「神の声」ではなく、「悪魔の声」に従ったのだ。それ以降の歴史において、人が犯してきたあらゆる罪は、同じ悪魔の声に従ってきた結果である。

神の法だけでなく、人間社会の道理でも言えることだが、私たちが誰かに従う選択を自らするなら、その指導者の主張の責任の一端を担うこととなる。それと同じように、人が悪魔の声に従うのなら、悪魔の主張の責任を、悪魔と共に担うこととなり、その運命を共にすることとなってしまうのだ。

なぜ地獄は「永遠」なのか?

地獄が存在する理由について理解できたとしても、ではなぜそこでの苦しみが「永遠」で無ければならないのだろうか?人がどんなに罪を犯すとしても、せいぜい数十年なのに、それよりも遥かに長い永遠という時間に渡って裁きを受け続けるのは、正義と公正を愛する神の性質とは矛盾するのではないか?

せめて、限られた期間だけ苦しみを受けた後、「霊魂が消滅する」という選択肢は無かったのだろうか?

霊魂の永遠性

聖書は、死後の裁きが永遠であると教えている一方、「途中で意識が消滅する」ということは示唆していない。聖書は霊魂の不滅性を明らかにしているのだ。

では、なぜ人の霊魂に消滅という選択肢が無いのか?その理由はおそらく、霊魂には「消滅する」という性質が無いからなのだろう。その性質の内容や理由については、聖書の中には詳細な説明はなく、霊魂の創造主である神にしかわからないのかもしれない。そもそも霊魂については、未だ科学では未解明の分野であり、神に「なぜそのように造ったのか?」と疑問をふっかけたところで、文句のつけようもない。

ただし、そもそも時間という概念が、私たちが生きるこの物理的な空間と関係していることは科学でも解明されてきており、霊魂の活動領域である霊の世界において時間という概念が存在しないことは、多くの臨死体験者の証言からも明らかだ。またそれらの情報は、「神は霊である」「神は永遠である」と証言する聖書の言葉とも矛盾は無い。

以上の点から、霊魂の永遠性については、「そのような性質だから」ということ以外に、確かな理由を説明することができない。その理由は、人間の理解が及ばないことが、まだあまりにも多いからだ。

永遠の愛に対する永遠の裁き

神に背く人が永遠の裁きを受ける理由は、その人が神の「永遠の愛」を退けるからだ。

「主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)

神の愛が永遠の愛であることは聖書の中にもはっきりと示されているが、その愛が裁きの永遠性の根拠となることについては、筆者はとあるキリストの啓示から、そのヒントを得ている。その啓示は、マイケル・トーマス・サンボというナイジェリア人のクリスチャンが、キリストから直接示されたものだ。

それは2003年の出来事で、彼が23歳の時であり、タラバ州タクム地区で開かれたディーバー・ライフ聖書教会のイースター礼拝でのことだった。以下に、関連のある重要な箇所を引用する。

「わたしは全世界の罪のための最終的な生贄となったのです。もし、わたしがその人のために死んでいない罪人が誰かいるとすれば、わたしはその人のために死ぬために、もう一度来たはずです。しかし、わたしは全ての人のために死んだのであり、すべての人のために最終的な贖いの代価を払ったのです。・・・わたしはこのすべてのことを、人間に対するわたしの永遠の愛のゆえに行ったのです。それなのに、人間はわたしに邪悪と反抗をもって報いているのです。・・・

わたしは、永遠の滅びをもって人間を滅ぼすことになります。わたしが人間に、わたしの永遠の愛を示したのに人間がそれを拒んだ以上、わたしは人間を永遠の滅びをもって滅ぼすことになるのです。」

それでも理解できない場合

これまでの内容で、「なぜ神は人が地獄で永遠に苦しむことを許すのか」という質問に対して、考えつくあらゆる視点から、その理由を説明してきた。しかし、それでもまだ、永遠の裁きの理由について、十分に理解できない、と感じる方がいるかもしれない。そして、実はこの記事を書いている筆者自身も、その一人なのだ。

しかしわたしは、今は永遠の裁きの深い理由について十分に理解できなくても、やがて神の前に立ち、より深いレベルで神を知った時、その十分な理由を理解できるようになると、深く信じている。それは盲目的な信仰ではなく、確かな根拠に基づく信仰だ。

キリストによる証言

ほとんどのクリスチャンは、イエス・キリストの人格に対して、全くの信頼を置いている。実際、キリスト教徒でない多くの人々でさえ、キリストの人格については、その信頼性を疑うことは中々無い。そのイエスは、唯一の神が、「唯一の善い方」であると明言した。

「またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」(ルカ18:18)

天使たちの証言

私たちの中に、「自分は聖書に登場する天使たちよりも義において正しく考え生きている」と言える人は一人でもいるだろうか?

天使たちは、例外なく神の特質を人間よりも深く理解しており、義人と罪人がたどる永遠の運命についてもよく理解している。その天使たちの全ては、天国において唯一の神を次のように賛美しているのだ。

「また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」 14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」(黙示録5:13-14)

また、大患難時代に神の裁きをもたらす御使いは、次のように宣言している。

「16:4 第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。 5 また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。 6 彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」(黙示録16:4-6)

今、この地上での人生において、私たちが神の永遠の裁きの理由を十分に理解できないとしても、それは仕方無いかもしれない。それは、神の裁きが間違っているからではなく、私たち人間の知識と理解に制約があるからだ。

しかし、神の義はキリストの十字架と復活(福音)によって、既に全世界に十分に啓示されており、私たちはその福音と聖書の言葉を通して、今この時であっても、神を信じ、永遠の命を得ることができる。

そして全ての人は、やがて全能の神の前に立ち、神の愛と義と聖さを目の当たりにした時に、神がいかに正しい裁き主なのかを、はっきりと知るようになるだろう。

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