19. 求めよ、さらば与えられん。聖書の黄金律|山上の説教の解説

求めよ、さらば与えられん、黄金律

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求めよ、さらば与えられん。黄金律(マタイ7:7-12)

7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

誰に何を求めるのかを正しく理解する

7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

「求めよ、さらば与えられん」、この言葉は、イエスの教えの中でも、特に有名な名言の一つだが、その教えの意図が、大きく誤解されている場合が多い。

典型的な誤解として挙げられるのが、この教えが、自己実現の達成の法則として用いられる例だ。確かに、社会的成功などの自己実現を求め続ける人には、それなりの結果が伴うことも多い。しかし、「自己」に対して、「自己の実現」を求めるそのような教えの用いられ方は、イエスの言葉の意図とは方向性が全く異なる。

求めよ、の正しい解釈は、「神に」対して、「神の実現」を、求めることにある。またその祈りは、求め続け、探し続け、叩き続けるような、継続したものであることも重要だ。

「神の実現を求める」とは、神の御心が地でも行われるようにと祈ること、神の御心にかなう願いを祈り求めることを意味する。

「14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(第一ヨハネ5:14-15)

神の御心と調和する祈りの内容として、具体的にどんなものがあるかは、山上の垂訓シリーズで既に取り扱った「主の祈り」の解説の中で、詳しく載せているので、そちらをご覧いただきたい。

聖書によれば、神は全ての人間を、目的をもって造られた。その目的とは、人が神と共に歩み、パラダイスで永遠を過ごすことだ。したがって、私たちの人生における真の成功とは、神が意図したその目的と調和して生きることであり、各人がどれだけ神の御心に沿って生きれるかは、継続した祈りを通して、御心を求め続けるかどうかによって、大きく変わってくる。

神に求め続けるべき理由とは

9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

なぜ私たちが、神に求め続けるべきなのか?イエスはその理由を、ラビ的教授法「大と小の対比」を用いて説明している。この教授法は、「小に関して真理なら、大に関しても真理だと言える」という形式の論法だ。(その逆も方法も用いられる)

ここでの「小」とは人間の父親であり、「大」とは天の父を意味している。そして、罪人である人間の父親でさえ、子どもの求めに応じて必要なものを与えるなら、まして罪の無い完全な天の神は、信仰を持って求める人に良いものを与えないはずがない、というのが、イエスが教えた意図だ。

パンと石、魚と蛇の対比

ここで、「パンと石」「魚と蛇」がなぜ対比されているのか、その理由を簡単に説明しておく。当時のユダヤではパンが主食だったが、パンを焼いて取り出す時に、周りについている灰の色は石にそっくりだったのだ。

また、イエスが頻繁に宣教していた地域のガリラヤ湖では、魚と一緒に海蛇が取れた。もしも、幼い子供が安易に魚を取ろうとすれば、海蛇と間違えて怪我をすることもあっただろう。

つまり、パンと石、魚と蛇は、外見は多少似ているが、中身は全く違うものを表している。しかし、不完全な人間の父親でさえ、子供がパンや魚を求める時に、間違って石や蛇をあげたりはしないのだから、まして愛と義において完全な神が、信者が求めるものを豊かに与えないはずはないのだ。

聖書の黄金律

12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」とは、その言葉通りの意味であり、要は「相手が求め必要としているものを進んで与えるように」という教えだ。

そして重要な点として、イエスが弟子たちにこのように命じた根拠は、天におられる父が、子どもが必要としているものを確かに与えてくれる善い方だということにある。神がそのような憐れみ深い方であるからこそ、その子どもたちも同じような心を持って生きるべきなのだ。

「律法と預言者」とは、旧約聖書全体を表すのに用いられる表現だ。つまりイエスは、「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」という教えが、聖書全体の教えを要約した、極めて重要なものだと語ったのだ。

実際にイエスのこの教えは、人間関係の倫理基準における「黄金律」としても知られる有名な言葉となっている。似たような教えは、他の主要な宗教にも見られるが、能動的な積極的命令として語ったのはイエスだけだ。

孔子:「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(『論語』巻第八衛霊公第十五 二十四)

ヒンドゥー教:「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(『マハーバーラタ』5:15:17)

イスラム教:「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」(ムハンマドの遺言)

相手が何を必要としているのかを理解し、それを進んで与えるためには、私たちの心の中に「愛」が無ければならない。だからこそイエスは、十字架の前に、弟子たちに次のような掟を与えた。

「34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)

使徒パウロも、ローマ人への手紙の中で、愛の重要性を語り、隣人愛こそが、律法を全うするものであると教えている。

8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(ローマ13:8-10)

黄金律を実践するために大切なこと

黄金律は、とてもシンプルな教えだが、それだけに奥深く、罪を持った人間同士の間で実践するのは、決して簡単なことではない。私たちが、この掟に沿って、互いに愛し合うためには、神との関係が非常に重要なのだ。

繰り返しになるが、イエスはこの掟を、子どもに必要なものを与える天の父の存在を念頭に語った。恵み豊かな父によって日々愛されていることを知り、心がその愛によって満たされているからこそ、私たちは本当の意味で、この黄金律「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」という言葉を実践していくことができるのだ。

「信仰によって神の恵みを受け取り、神との永遠の関係を築くこと」これこそが、キリストの教えを実践していくための大切な土台となるのだ。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

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  1. よくある誤解:自己実現の法則を教えたものではない。
    *自己実現とは、自分に対して、自己の実現を求めるもの
  2. 正しい理解:神に対して、神の御心の実現を求めるもの
    *自己実現とは全くベクトルが異なる。
    *より正確には、求め続ける、探し続ける、という継続した祈りの重要性を説いたもの。
  3. どんなことを求め続けることができるのか?
    *主の祈りで既に語られている。
    *真の成功とは、人生の目的が、神の目的と調和すること。
    *神の目的は絶対的に実現するが、各人の人生が神の目的と調和して成功するためには、自由意志によって継続した選択を続けることが重要。
  4. 求め続けるべき理由は、神は人間の父親よりも良い方だからだ。
    • ラビ的教授法―小から大の対比、罪人である人間お父親でさえ、子どもに石や蛇を与えたりはしない。
    • 罪の無い天の父は、子どもが必要としているものを確かに与えてくれるはずである。
  5. ただし、求めるものが、父のみこころに適ったものであるように注意する必要がある。

 

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