ウィリアム・ウッド氏からの意見書|支配神学〜病気や悪霊への命令は聖書的か?


ウィリアム・ウッド氏からの意見書|支配神学〜病気や悪霊への命令は聖書的か?

当サイトでは、過去に合わせて4本の記事を通して、ウィリアム・ウッド氏の著作『新使徒運動はなぜ危険か』の内容を聖書から検証してきました。またそれらの記事は、当サイトだけでなく、HAZAH(日本のリバイバルのためのクリスチャン・ジャーナル)でも連載されてきました。

そしてこの度、ウィリアム・ウッド氏からHAZAHへ、私が書いた記事の内容に対する意見書が提出され、その内容と、その意見書に対する私からの返答文が、両方同時にHAZAH誌6月号に掲載されました。「支配神学:病気や悪霊への命令は聖書的か?」というテーマにおいて、双方の立場とそれぞれの聖書的根拠を理解する上で、有益な内容となっていると思いますので、当サイトでも記事としてご紹介させていただきます。

ウッド氏からの意見書~序論

日下部様

あなたの書かれた「支配神学:病気や悪霊への命令は聖書的か?」という記事を読ませていただきました。とても難しい問題に真っ向から取り組もうとされていることがよく分かりました。私も高校生の時から約20年間、悪霊や病気に対して命令する神学を実践していた者です。あなたと同じように、何度も奇跡を体験しています。しかし、牧会経験を積んで行くうちに、自分の信仰のあり方について考え直さなければならなくなりました。それは、自分が祈った(命令した)人がすべて、必ずしも瞬間的(奇跡的)に癒される訳ではないという現実を見たからです。この問題をどう理解すれば良いか、色々と考え悩みました。

勿論、私が教わった支配神学には、明白な答えがありました。もし、癒されない人がいるとすれば、それはその人に信仰がなかった(足りなかった)からだ、ということです。しかし、色々な方々の霊的ケアをして行く中で、この単純な答えで片付けられない問題もあることが分かって来ました。祈りを求めて来る方々は皆、信仰を持っています。信仰がなければ、私に祈りを求めることはしません。私自身も、主の癒しのみわざを期待して、祈ります。しかし、実際問題として、奇跡的に癒される方もいれば、癒されない方もいるのです。これが癒しのミニストリーを行なっているすべての人が認めざるを得ない現実なのです。

私が長い牧会経験の中で学習したこと

あなたも多くの奇跡を見ていると書いておられますが、癒されない方も多くいらっしゃるはずです。私は牧会者として、癒されない方々のその後の霊的状態がとても心配になりました。彼らに対して、「あなたが癒されないのは、信仰が足りないからです」と言うのは簡単なことですが、無責任すぎる対応ではないかと感じました。更に、彼らを深く傷つけることになると分かっていたからです。実際に、そのように牧師から言われて、神に対する信仰を失ってしまった方々を、私は知っています。そこで、私は支配神学について再考することにしました。祈りつつ、聖書を綿密に調べたり、多くの事例を考慮したりして、次の結論にたどり着きました。

  • クリスチャンは確かにキリストから霊的権威を与えられた者として、福音を宣べ伝え、病人のために祈らなければならない。
  • 神のみこころは、すべての病が癒されることだが、その病がいつ、どのような形で癒されるかは、神の主権の中にある。瞬間的(奇跡的)に癒される人もいる。しかし、病院での治療によって治る人もいる。また、地上にいる間に癒されずに天に召される人もいるが、その人も必ず、天の御国において、すべての苦痛から解放されて、健康な状態になっているはずだ(黙示録21:3-4)。

私の結論に対して、日下部さんは疑問を感じるかも知れません。「聖書に反する」と思われるかも知れませんが、信仰を持っていても癒されない人がいるというのは、私たちが経験する現実であるだけでなく、聖書にも裏付けられています。使徒パウロは「肉体のとげ」から解放されませんでした(2コリント12:7-10)。病気のためにトロピモをミレトに残さなければなりませんでした(2テモテ4:20)。また、テモテに対して、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、またたびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」と戒めています(1テモテ5:23)。使徒ヨハネも、その第3の手紙の中で、「あなたが…健康であるように祈ります」とガイオに言っていますが、そのことはガイオが病弱な人であったことを暗示しているのではないかと考える聖書学者がいます。

命令は人にプレッシャーを与える

以上のような理由から、私は病人に対して、「癒されよ」と命令することを止めました。「あなたのみこころの通りに、最善をなしてください」と祈ることにしています。そして、祈った後、上記のように、癒しに関して神のタイミングと方法があることを伝えます。これも、私の45年に及ぶ牧会経験の中で学習したことですが、病人に対する命令は、相当なプレッシャーを与えます。命令ですから、治らなければなりません。今すぐに治るという以外のチョイスはないのです。また、命令された本人は、自分が今、神に喜ばれない状態にあると認識します。ですから、癒しが現われない場合、本人は肉体的な苦しみに加えて、精神的に苦しむことになります。「神の命令なのに、どうしてその通りにならないのか」とか、「ずっと神のみこころに反した状態にある私は、駄目な信仰なのか」とか、「神様に見捨てられたのだろうか」と、非常に悩む訳です。

一方、「あなたが最善と思われるタイミングと方法によって癒してください」と祈られた方は、どのような結果をも、神のみこころとして喜び、すべてのことに神の目的があると受け止めることができます(2コリント12:9-10参照)。

キリストと弟子たちはどうだったか

勿論、あなたから「でも、キリストも弟子たちも病人に命令したのではないか」と言われることは分かっています。イエス様は神の御子として、父なる神のみこころを完全に御存じでした。ですから、病人に対して、「癒されなさい」と命令されたのでしょう。しかし、イエス様は必ずしも、すべての病人を癒された訳ではありません。例えば、ベテスダの池で、38年間、足が不自由だった男を癒されましたが、彼以外の病人は癒されていません。大勢の病人がそこにいたのにもかかわらず、です(ヨハネ5:1-9)。また、ペテロやヨハネも、神の霊感を受けて新約聖書を書いている人物なので、私たちよりも霊的にレベルの高い領域に達していたと言えるのではないでしょうか。だからこそ、美しの門にすわっていた男に対して、「イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言えたのではないでしょうか。つまり、彼らは、この人が癒されることが神のみこころだと聖霊に示されて、そのように命令をした、ということです。ついでに述べておきますが、キリストは確かに弟子たちに霊的権威を与えましたが、「治るように、病人に命令しなさい」とおっしゃったことは一度もありません。

私の言わんとすることは、このことです。もし、あなたが誰かのために祈る際、この人が奇跡的(瞬間的)に癒されることは神のみこころだという100%の確信があるなら、命令しても構いません。しかし、実際問題として、あなたはすべての病人に対して、「あなたは必ず、奇跡的に癒される」と保証できますか。あなたのこれまでの癒しの成功率は100パーセントですか。癒されなかった人がいるなら、あなたは具体的に、その人にどのようなアフターケアをしていますか。もし、あなたの命令した通りに奇跡が起こらなかった場合、きちんと責任を取って、本人に謝罪をしてください。

「みこころだと思って、癒されるように神の名によって命令しましたが、みこころではなかったようです。私の勘違いでした。申し訳ありません。」

これができれば、つまずく人の数がかなり、減るのではないでしょうか。とにかく、「神の御名によって命令する」という行為の責任の重さを感じていただきたいと思います。神の御名によって語っておきながら、その通りにならなかった人の罪は重大であると、聖書は述べています。

申命記の警鐘

「『ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。』あなたが心の中で、『私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか』と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」」(申命記18章20―22節)。

ここに明記されているように、主の御名によって語ったことが実現しないということは、極めて重い罪です。それは、人々につまずきを与え、神の栄光を傷つける行為だからです。

カリー・ブレイクさんの話

記事の中で、日下部さんはカリー・ブレイクさんの話に言及しておられます。彼はジョン・G・レークの弟子だったということですが、レークさんは65歳の時に、心筋梗塞で亡くなっています。私も神学校の時に彼の話を聞いて、「凄い信仰の人だ」と思いましたが、彼でさえ、病気に勝てないことがあったのです。私はブレイクさんのことは全く知りませんが、確かに言えることは、人間である以上、彼もいずれ病気になり、やがて死ぬということです。

使徒パウロの経験

「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から取り去ってくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(2コリント12章7―10節)。

ここでまず、注目すべき点は、パウロがサタンの使いに対して命令しているのではなく、「私から取り去ってくださるように」、主にお願いしていることです。次に、パウロの期待した通りの答えが与えられなかったことが重要なポイントです。三番目に、パウロは自分の願いに反した答えを、神のみこころとして受け入れています。ただ受け入れているだけでなく、そのことに神の深い目的があったと理解したのです。パウロの肉体のとげが取り去られなかったことによって、パウロは高ぶりの罪から守られました。また、いよいよ、自分の弱さの中で、キリストの力を体験するようになったのです。

余談になってしまうかも知れませんが、私の働きのサポーターの中に、難病(脳脊髄液減少症、線維筋痛症、眼球使用困難症など)と戦いながら神学校で勉強し、牧師を目指している方がいます。勿論、主の癒しを祈り求めていますが、改善が見られません。しかし、その前向きな姿勢、勇気ある生き方によって多くの人々に大きな励ましを与えています。その方に、「失敗者」というレッテルが貼られてしまうのでしょうか。

支配神学の問題を考える時に、パウロの語った「高ぶり」という言葉が一つのキーワードになると思います。かつての私もそうでしたが、支配神学を純粋に信じている人は、「自分の命じた通りになるはずだ」と思っています。それ以外の結果を認めません。この頑なな態度の背後に、人間の高慢な心が潜んでいるような気がしてなりません。

コロナ・ウイルスによって暴露された問題

コロナ・ウイルスによって、支配神学の根本的な問題点が暴露されたと、私は思っています。それは、神は必ずしも人間の命令や要求どおりに働かれる訳ではない、ということです。聖書が明記しているように、主権者なる神はご自分の定められた時に、ご自分のみこころにかなったことを行なわれるのです。私の著書に書いているように、支配神学を推奨する多くの「使徒」や「預言者」は、コロナが死滅するように命令しましたが、何も起こりませんでした。この事実に対して、日下部さんは、「少人数の人々の命令や宣言によって国中の病気が死滅するという奇跡は、イエスも弟子たちも地上生涯で行なわなかった業ですので、『効果があるかどうか』を比較する対象のサンプルとしては、あまり適切ではないように思えます」と書いておられますが、これは屁理屈ではないでしょうか。純粋に支配神学を支持している人々は、キリストや弟子たちの行なったわざよりも大きなわざを行なうことができると信じています。また、言うまでもなく、イエスの御名によって命令すれば、どんな病気やパンデミックにも打ち勝つことができると確信しています。だからこそ、少人数の「使徒」や「預言者」だけでなく、インターネットで彼らをフォローする何百万人ものクリスチャンも一緒になってコロナ・ウイルスの死滅を命令・宣言した訳ですが、結局、何も起こりませんでした。逆に、その命令や宣言はコロナ・ウイルスを広めてしまったのです。そうです。私もかつて支配神学を実践していた人間なのでよく分かるのですが、油注がれた神の器が病気に対する命令をすれば、その病気は治った(死滅した)と信じなければならないし、行動によってその信仰を表さなければなりませんでした。例えば、薬を捨てるとか、メガネや補聴器を処分するとかいうようなことです。では、今回のコロナ禍の中で、人々はどのように信仰を表明したのでしょうか。マスクの着用を拒み、礼拝の中でソーシャル・ディスタンスをとらなかったことによってです。そのために、大勢の牧師やクリスチャンがコロナに感染し、死亡しているのです。米国のマスコミが注目するほどの社会問題になりました。

最後の一言

日下部さんとそれほど深い交流があったとは言えないかも知れませんが、とても有能な兄弟だと見ています。だからこそ、このようにあなたの記事を読んで、それに対するコメントを書いています。もう少し、バランスの取れた信仰を持ってください。自分こそイエス・キリストの命令に従っていると思っておられるようですが、今の内に軌道修正をしないと、証しになるどころか、多くの人々につまずきを与えてしまう恐れがあります。

「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように』」(マタイ6:9-10)。

これも、私たちが守るべき命令だと考えます。

 

ウィリアム・ウッド
2021年4月20日(火)

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1件の返信

  1. 桑原義門 より:

    「神の御名によって命令する」という行為の責任の重さ」は全くウッド師の指摘通り。支配進学、繁栄の神学に立つ方々は自分たちが何を行っているか根底で理解できていない。ウッド師の警鐘と指摘はもっともである。
    ただ最後のコビッド19に対する「マスクの着用」「ソーシャル・ディスタンス」を養護するような言い回しは「今日的に読む」方々には雑すぎる。2021年の時点ではウッド師も理解できていなかったと思うが、マスクで防ぐことは不可能。それ以上にマスクでの弊害が健康、人的交流で2023年の今も起きてることを忘れてはならない。

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