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神がいるなら、なぜ苦しみや悪が世の中に存在するのですか? | TRUE ARK

神がいるなら、なぜ苦しみや悪が世の中に存在するのですか?

人生の中で大きな苦しみに直面した時、私たちは、思わず次のように問いかけるものです。

「なぜ、こんなに苦しまなければならないのか?」
「なぜ神は、黙っているのか?」

この質問は、歴史を通して多くの人が抱えてきた普遍的な問いであり、真剣に考える価値があります。そして、苦しみが存在する真の理由と、その苦しみを終わらせる神の計画について、聖書は重要な答えを与えてくれています。

読者の方々が、本記事を通し、この質問に対する答えを見出し、慰めと希望を得ることができますように。

苦しみの存在は神がいない理由になるか?

「神が本当にいるなら、世の中にこんな苦しみは無いはずだ」

もしも、この記事を読むあなたが、このような理由ゆえに神を信じておられないのでしたら、逆に次のように考えてみて下さい。

「もしも愛の神がおられないのなら、どうして世の中に、たくさんの愛や喜びが存在するのか?」

もしも、世の中の苦しみを神がいない証拠と見做すのであれば、世の中に存在する喜びを、神がいる証拠と見做すことも可能であるはずです。つまり、悪いことだけに目を向けるのではなく、良いことにもちゃんと目を向けた上で、神の存在を考える必要があるのです。

実際に、当たり前のことを当たり前と思わず、日々の人生で、命の恵みに感謝することは、人として大切なことではないでしょうか?そして、当たり前のことに感謝できるようになれば、神の存在について、もっと違った見方ができるようになるはずです。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、
光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」
(ヤコブ1:17)

とはいえ、愛情深い神がおられるなら、なぜ世の中にこれほど多くの苦しみが存在するのか、この点を考えることは、とても大切です。そして、苦しみが存在する理由を知るためには、苦しみがどのように始まったのかを、まずは確認する必要があります。

苦しみはどのように始まったのか?

苦しみが始まった経緯

日本人の大半が信じているように、もしもこの世界が進化によって成り立ったものであれば、「苦しみがどのように始まったのか」という質問は、あまり意義深いものではありません。偶然と自然淘汰の末、結果としてこのような世界になった、としか言いようが無いからです。しかし、聖書は苦しみの真の原因について、次のような重要な答えを与えています。

この世界には、永遠の昔から存在し続けてきた神がおり、その神は、地球と全ての生命を含む万物を創造されました。そして、全ての生命の中でも、人間は愛情深い神に似た性質を持つ者として造られ、永遠に神の子供として、神と共に生きるよう定められていました。また、最初に造られた人間夫婦―アダムとエバは、エデンの園という楽園に住まわされ、あらゆる苦しみから守られていました。

神は、二人が永遠に生きられるよう、「善悪の知識の木からは取って食べないように」という命令を与えました。ところがある日、悪魔がエバを誘惑したために、彼らは禁じられた木から取って食べてしまいました。こうして彼らは、神に背き、エデンの園から追放されたのです。そして、二人が犯した罪によって、この世界には罪と死が入るようになり、彼らの子孫である私たち全てに、その影響が及ぶことになったのです。以上がこの世界に苦しみが始まった経緯として、聖書が教えているものです。

悪魔は蛇を通してエバを誘惑した

自由意志

ここで「なぜ神が愛であるなら、悪を創造したのか?なぜ、悪が生じるように世界を造ったのか」という疑問がよく投げかけられます。実際に筆者も、このような質問を、過去に何度か周りから受けたことがあります。そして、この質問の鍵を握るのが「自由意志」です。

神の重要なご性質は、「愛」と「義」です。そのため、神はいかなる悪も行うことはできません。しかし、人をご自身に似た性質を持つ者(神の像)として造ることにより、善悪を識別し、自由に選択できる能力「自由意志」をお与えになったのです。

そして、最初の人間夫婦が、この自由意志を神への愛のためではなく、神への反逆(自己への愛)のために用いたために、今のような苦しみが生じるようになったのです。つまり、神は悪を創造したわけではなく、自由意志を持つ人間を造り、その人間が悪を選択してきたために、苦しみが生じるようになったのです。

なお、神は同じような自由意志を、人間だけでなく、「天使」にも与えましたが、その天使の中で最初に堕落し、エバを誘惑した者のことを「悪魔」(サタン)と呼びます。

【参考記事】
創造論と進化論―どちらが人類誕生の真実か
アダムの創造から始まる本当の人類史
罪による堕落―サタンと人間の反逆

罪の結果―苦しみの内容

悪魔と人間が犯した神への反逆行為は、どのような苦しみをこの世にもたらしたのでしょうか?ここでは、その具体的な点を確認していきます。

霊的・肉体的な死

「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)

「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3:19)

罪を犯した人間は、最初に神に背いた時に、まず霊的に死ぬようになりました。霊的な死とは、命の源である神との関係の断裂を意味するものであり、それによって人間は、聖なる神との自由な交流を持つことができなくなりました。人類は、歴史的に様々な宗教を通して神に近こうとしてきましたが、そうする必要が生じた原因は、霊的な死による神との断裂があるからなのです。

また、霊的な死の結果として、人は肉体的にも老化と死を迎えるようなりました。老化やそれに伴う様々な病気、そして肉体の死は、人間に多大な苦しみを与えてきましたが、その根本的な原因は罪にあるのです。

自己中心

アダムとエバは、反逆した責任を神から問われた時、それぞれ自分の罪を棚に上げ、責任転換をしたようです。

すると、[神は]仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3:11-13)

責任転換とは、自己中心的な考えによってなされるものです。残念ながら、二人は神に対して罪を犯すことにより、「自己中心性」を持つようになり、神と隣人への完全な愛によって生きることができなくなったのです。また、彼らから生まれる全ての人間も、生まれながらに同じような罪の性質を持つようになりました*[1]

人類の歴史上、絶えず生じてきた争い、貧困、犯罪などは、この自己中心性という罪によって生じてきた苦しみなのです。

土地の呪い

「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」((創世記3:17)

最初の人間アダムには、地上を支配する権利が与えられていましたが(創世記1:28)、彼が罪を犯したことにより、地上全体には祝福ではなく呪いが生じるようになりました。その結果、土地の生産性は低くなり、食物を得るために必要とされる労働は、堕落前よりも増大することになりました。

また、かつてのエデンの園では、神の守りと祝福によって苦しみが存在することがありませんでしたが、罪によって生じた呪いによって、神の守り*[2]は地上から取り去られました。ですから、自然災害や不慮の事故等、一般的に人間側の責任では無いと思われているような苦しみも、実は人間が神に背いたことによって生じるようになったのです。

悪魔(サタン)による支配

アダムは「食べてはならない」という神の声ではなく、「食べれば自分も神のようになる」(創世記3:4)という悪魔の声に従いましたが、この行為は、アダムに与えられた地上の支配権が、悪魔に奪われたことを意味しました。聖書が、悪魔を「この世の支配者・この世の神」と描写しているのはそのためです。

「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(第一ヨハネ5:19)

「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(第二コリント4:4)

悪魔は、神と正反対の存在であり、憎しみ、怒り、偽り、等が、その重要な性質となっています。また、悪魔は目に見える姿で人を支配するのではなく、見えない世界から、人の罪の性質に働きかけ、神に従わないよう、悪を行うよう導くことによって、人々を支配します。

この世界には、しばしば人の仕業とは思えないような残虐な戦争や事件が生じますが、それらは人間の罪だけでなく、悪魔の働きが大きく関係したものだと言えるでしょう。

また、悪魔は神の前で人間の罪を訴える者であり、特に神への信仰を持つ人々の動機を試すために、苦しみを生じさせるような場合もあります。(ヨブ記を参照)

なお、悪魔がこの世を支配しているからといって、この世界を完全に支配しているわけではありません。彼の力は、あくまで本当の支配者である神によって制限されているからです。また悪魔が、この世に対して大きな力を持っているのは、この世の多くの人々が悪魔に従っているからです。もしも人々が悪魔の存在を知り、その声に全く耳を傾けなくなれば、悪魔の力はすぐにでも失墜することでしょう*[3]

なぜ、これほど長く苦しみが続いているのか

これまでに見てきた通り、あらゆる苦しみ原因は、神ではなく、人間や悪魔の側にあります。しかし、なぜ神は、これほどまでに長い間、苦しみの存在を許し続けているのでしょうか?

自由意志への尊重

ここで再度、人間に与えられた自由意志の重要性を考える必要があります。神は人間に、善悪を識別して選択できる自由意志という賜物を与えました。この事実は、人間の側に、選択した道に沿って生きる権利と、その歩みが招く結果を受け止める責任の両方があることを意味します。

ですから、神が一度、人間にこのような権利と責任を与えた以上、いつでもその歩みに介入し、苦しみを取り除いていくことは、人が持つ自由意志への違反行為となるのです。

また、人が人格的な成長を遂げるためには、自らの選択に責任を持ち、良い事であれ、悪い事であれ、そこから教訓を学ばなければなりません。人類が、個人としても、全体としても、そのような積み重ねを経て成長することを、神は望んでおられるのです。

例えば、多くの子供は、ある時期に反抗期を通りますが、そのような時期には、親が子供のためを思ってどんな助言をしても、聞かない場合が多いものです。その子供が、親の愛情や助言の意味を本当に理解するためには、大抵の場合、教訓を学ぶための多くの時間を必要とします。

それと同じように、全ての人の父親である神も、長い時間をかけて、人がその歩みを悔い改めて、神の愛情に心を開く時を、首を長くして待っているのです。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(第二ペテロ3:9)

人生は苦しみだけではない

確かに、世の中には考えもつかないような苦しみが生じる時もあります。しかし、私たちの人生を全体として捉えるならば、いつでも苦しみがあるわけではなく、むしろ、それに勝る良いこともたくさんあるのです。

また、苦しい状況に直面した時に、消極的な見方を持つのか、あるいは積極的な見方を持って成長の糧とするのかは、私たちの選択次第です。神から与えられた自由意志によって、私たちには、どんな環境においても、より良い生き方を選ぶ自由が与えられているのです。

またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(ローマ5:2-4)

さらに神は、私たちがこの世での苦難を乗り越えることができるよう、様々な助けや励ましを与えて下さいます。誰でも神を信頼するなら、苦しみの中においても、豊かな平安と確かな希望を持って生きることができるのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

神は苦しみを終わらせる

神は何度も介入してきた

神がこれまでに、人類の歩みを忍耐強く見守ってこられたとはいえ、悪の存在を全く見過ごしてきたわけではありません。むしろ、ある時代の人々の歩みが、引き返せない程悪くなる時には、悔い改めに必要とされる十分な機会を与えた後、厳粛な裁きをもたらしてきました。

聖書の記録においては、バベルの塔や、ソドムとゴモラに対する裁きを、その典型として挙げることができますが、最大の裁きは、全地球規模的なものであったノアの大洪水でした。その洪水は、ノアの時代の人々があまりにも悪くなったために、地上の悪の一掃を目的とし、神が起こしたものでした。

そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。(創世記6:13)

悪が一掃される時

聖書は、キリストが再び来る時(再臨)に、ノアの時代と同じような、全地球規模的な裁きが生じることを予告しています。

「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:38)

そして、キリストの再臨は、「神の国」が地上全体を支配する時代の幕開けとなります。もはや、悪が世界を支配することはなくなり、神がもたらす平和が、世界に満ちることになるのです。

「2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(イザヤ2:2-4)

【参考記事】
聖書預言は信頼できるのか?
救い主・終わりの時代の預言一覧

終わりに

最後に、私たちが直面する苦しみを、神がどのようにご覧になっているかについて、知っておくべき大切な点があります。神は、世の中の苦しみを、ただ天から傍観してきたわけではありません。むしろ、私たちが苦しむ時、神もその痛みをご覧になり、同じように苦しんでこられたのです。

それだけでなく、苦しみに対する最大の答えとして、今からおよそ二千年前、自ら人の姿をとって地上に生まれ、私たちと同じように、人としての苦しみを経験されました。そして、人として生まれた神であるキリストは、十字架刑という多大な苦しみを伴う死を経験されました。それは、私たちを罪から救うため、その罪を背負い、身代わりの死を遂げるためだったのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4:19~20)


脚注

[1] この生まれながらに持つ罪を「原罪」と呼びます。この原罪があることによって、あらゆる人は、本質的に自己中心の性質を持つようになったのです。

[2] ここで取り去られた「守り」とは、自然災害や不慮の事故などから人類を「完全に」保護する守りのことです。ある程度の地球環境と人類の営みを保つための守りは、今でも与えられていると考えて良いでしょう。

[3] なお、悪魔の力は、キリストの十字架によって、本質的には既に失墜しており、神から永遠の有罪宣告を受けています。ただし、キリストが再び来る時までは、裁きまでの猶予期間として、ある程度の活動を許されている状態です。

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