絶望からの救い|中野信三(大阪府出身)
私は今から約20年前、大学2年生の時に洗礼を受けました。入学と共に大学チャペルに通い始め1年が経っていました。確かに洗礼を受けたものの、しかしイエス・キリストについての確信はありませんでした。 その後長い間、自分はクリスチャンと思っていましたが、頭で理解していただけでした。知識としてのキリスト教は知っていても、心では実のところキリストに背を向け、受け入れていなかった。それは単なるお飾り、ファッションでしかなかったのです。昔風に言えば「似非クリスチャン」、今風に言えば「なんちゃってクリスチャン」でした。今から数年前までそんな状況が続いていました。
うつ病からのいやし
今から7年前、それまでの人生の様々な出来事が重なりうつ病になり、5年ほど孤独と絶望の中をさまよった後、不思議な力によって回復し、再び社会に復帰するという経験をしました。
それは晩秋の美しい日のことでした。礼拝後、礼拝堂近くの紅葉真っ盛りの銀杏の木の下で、敷き詰められた黄色い絨毯とその上にひらひらと降り積もる銀杏の落葉を眺めていると、突然、空から何か暖かいものが舞い降りてきてからだ全体を包み込みました。と同時に、長らく不安と孤独に占領されていた心がふっと軽くなり、エネルギーがじわじわと湧き上がってくるのが感じられました。
今から振り返ってみると、それは聖霊の働きだったのだと思います。その時から、ひたすら自分の身に起こったことを理解すべく、(慌てて)イエス・キリストについての学びを始めました。今では、全ての中心にイエス・キリストがおられます。
暗闇から光へ
聖霊により再び生きる希望が与えられた後、それまでの暗闇の中から光の中へ、絶望から希望へと、人生が全く異なるものへと変えられました。あまりに長い間孤独の中にいましたので、とにかく人に会えるのが嬉しくて、どちらかというと人見知りする性格だったのに、積極的に人と交わるようになりました。
その後、神は様々な手段を通して多くの出会いと仲間を私に与えてくださいました。その過程で久しく失っていた自尊心を取り戻し、教会を中心とした地域社会の中で人々との繋がりを感じつつ、平安のうちに生きがいをもって生活できる喜びが与えられました。更には、自分の力を発揮できる新しい働き場所を与えてくださいました。長らく、独り暗闇の中を彷徨っていた私にとって、いったいこれ以上何が必要でしょうか。まことに、神の奇しき恵みは、私には十分です。
真の交わりのある教会
代々木公園チャペルには、まず、キリストの御名による真の意味での交わりの場になってほしいと思います。そこでは、人の優劣や序列は一切ありません。少しばかり持つ者が、何も持たない者と共に、限られた時間ですが、キリストを通して出会い、交わるという場であってほしいと思います。奉仕する側は奉仕することによって恵みを与えられ、奉仕される側も同様に恵みを与えられる、そしてその中心には、イエス・キリストがおられる、そのような場であってほしいと思います。神の目に全ての人間は尊いのですから。
キリストとの出会いを
野宿をしておられる方々に対して、私は時おり畏敬の念を覚えます。私がうつ病を患い引きこもっていたとき、ひたすら、不安と孤独と絶望の中に捕われていました。「もう何もかもおしまいだ」、「どうにでもなってしまえ」と、自暴自棄に陥り、自分を信じられなくなっていました。しかし、代々木公園で出会った野宿者の方々の中には、もちろんそのような方々もおられるかもしれませんが、中には、穏やかな表情で、前を向いて生きておられる方が少なからずいらっしゃいます。自分にはできないことです。そのような姿に、人間に秘められた強さを垣間見る思いがします。
絶望の真っただ中にあった私は、聖霊をとおしてキリストに出会い、人生が180度転換しました。呪いと嘆き、諦めの対象であった人生が、喜びと祝福と希望にあふれるものに変わりました。すべて、神の恵みによります。地位や名誉、持ち物の多寡などは関係ありません。いや逆に、低ければ低いほど、貧しければ貧しいほど神の恵みは受け入れやすいと思います。野宿者であるなしに関わらず、一人でも多くの方々が「代々木公園チャペル」を通して、キリストに出会い、キリストを受け入れ、この計り知れない恵みに与れることを心から願っています。
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