イエスによる癒しの奇跡を数多く体験!管理人による実践記録|聖書が教える病の癒し
以前に当サイトでご紹介した「聖書が教える病の癒やし」という記事がありましたが、もちろん私は、このような癒しの方法をただ記事に書くだけでなく、その方法で病人を癒すことを、日常的に実践してきました。そして、特にここ1年〜1年半くらいにかけて、信仰を持って癒しを実践するたくさんの機会に恵まれ、イエスの名によって数多くの癒しを目にしてきました。主の栄光をたたえます!
今回の記事では、これまでに管理人が体験してきた癒しを、一通りリストアップして紹介しつつ、神の超自然的な癒しが現実のものであることを明らかにしていきたいと思います!
どんな信仰と方法によって実践してきたのか
私の癒しの体験談を紹介する前に、私がどのような信仰に基づいて、どんな方法によって実践してきた結果、たくさんの癒しが起きたのかを説明する必要があります。
病の癒しに対する私の考え方が変えられ始めたのは、YouTubeなどで、トッド・ホワイトやトーベン・サンダーガード(The Last Reformation)等の伝道者たちが、ストリートで癒しの伝道を行い、実際に癒しが起こっているのを見始めてからです。彼らは、そのような癒しは、特別な伝道者だけではなく、信じる人には誰にでも可能なのだと教えていました。
それまでは、癒しの奇蹟は、神の御心であれば、時々起こるもの、という程度に考えていました。しかし、ストリートで伝道する彼らが、新約聖書に記録されたのと同じような方法で病に命じ、そして癒しが起こるのを目の当たりにした時、私の考えが変わり始め、「これが事実で聖書的なのであれば、自分もこのような癒しを実践するべきだ。そして全てのクリスチャンは、この素晴らしい神の約束に気づき、実践していくべきだ」と思いました。
その後、ある時に、ダニエル・コレンダやトッド・ホワイトが来日したイベント「Fire Conference」に参加し、その場で多くの癒しが起こるのを目の当たりにしました。しかもその癒しは、ゲストの祈りではなく、参加者同士がペアになり、互いに手を置いて病に対して命じた事により起こったのです。そして素晴らしい事に、私もその時、頭部にずっとあった痛みから癒されていたのです。
その後、代々木公園での奉仕の際に、カンファレンスで起こった出来事を証しし、癒しが必要な人はいないかと聞いたところ、一人の路上生活者が、手を挙げて癒しを求めてきました。どうやら、手術をした時に、腰から足のあたりの皮膚を引っ張ってきたようで、痛みが取れない、という事でした。私が彼の頭の上に手を置いて、二回祈ると、その痛みは完全に消え、戻ることはありませんでした。そして嬉しい事に、後日、その男性は、その癒しを通して神を信じるようになり、洗礼を受けていたのです!
ところがその後、同じような信仰で、車椅子の男性のために祈った時には、その人は癒されませんでした。それがきっかけとなり、再び私の中には、疑いが入り、癒しについてどう考えたら良いのかわからなくなり、しばらくの間、癒しの祈りや伝道からは遠ざかっていました。
ところがその後、今から2年ほど前に、癒しに関して際立った結果を出しているカーリー・ブレイク氏(ジョン・G・レイクミニストリー)の存在を知りました。そして、彼のメッセージを読むことを通して、癒しに対する私の理解や認識は新たにされ、再び癒しの祈りを実践するようになり、周囲の病気の人のために積極的に祈ったり、アウトリーチで癒しを行ったりするようになりました。
参考サイト:聖書的癒しの訓練サイト
癒しについては、クリスチャンの間で色々な考えがありますが、もしも今の時代に、1世紀の使徒たちと同じようなレベルの癒しを行っている人がいるなら、その人の信仰や方法を学ぶ事が近道です。そして私は、上記で紹介したウェブサイトを通して、癒しに必要な信仰と原則と方法を学び、実践するようになりました。その信仰と方法とは、次のようなものです。
- 病の癒しはキリストの贖いに含まれており、神の約束である。(イザヤ53章)
- 全ての信者は、信仰を持って病人に手を置くことにより、癒しの奇蹟を行う事ができる。(マルコ16章)
- 癒しをする時は、神のお願いするより、病や症状に対して命じる方法を用いる。(イエスや弟子たちはいつも命じていた)
では、以上の信仰と方法を用いることによって、私がこれまでにどのような癒しの奇蹟を経験してきたのか、一通りリストアップしていきたいと思います。
癒しの奇蹟のリストアップ
ここからは、ここ1年半ほどで私が経験してきた癒しの奇蹟を、覚えている範囲で、出来るだけリストアップしてご紹介します。あくまで覚えている範囲なので、忘れてしまったものや、細かいのも入れていくと、実際にはもう少し多くなります。
またここでは、私が一人で祈って癒された事例だけでなく、皆の祈りで癒された事例や、一緒に伝道している時に友人が祈って癒された事例も含めて紹介していきます。(どのパターンに属するかは、文章を読めばわかるように説明してあります。)
自分の体への癒し
- 頭痛:1週間以上続いていたが、ある聖会で癒やしの祈りを受け、一回で癒やされる。
- 花粉症:11歳で深刻に発症。以来、毎年薬を飲まずにはいられなかったが、2019年は信仰によって癒しを受ける取ることを宣言し、約一ヶ月かけて徐々に癒され、最終的には完全に癒やされた。途中、友人にも電話で祈ってもらっている。
ペットのうさぎ
- 心臓の機能低下:1年以上、心臓の機能低下を助けるための薬「ピモベハート」を毎日服用していたが、継続的な祈りで気がついたら癒やされており、薬を止める事ができた。(ちなみにこの薬は、死ぬまで止めてはならないと医者から言われていた。)
- スナッフル:鼻炎のようなものだが、継続的な祈りで十分に回復した。
- 鼻涙管閉塞:炎症によって鼻涙管が詰まる症状。悪化すると死を招くことも。約4回の祈りで、次の日に癒やされる。なお、同じ症状を過去に何度か経験していたが、病院に行かずに癒やされたのは初だった。
その他
- KYさんの首:治療をしていて、中々治らなかったが、一回祈ると痛みが消える。
- KYさんの花粉症:二回祈ると、症状が大幅に改善する。
- KYさんの首~背中の痛み:スポーツの前に祈り、その後に症状が完全に改善されたことが確認できた。KYさんは、いつもスポーツをした後に、首から肩が痛く、自分で祈っても中々治らないので、病院へ行こうかと考えていた。
- ホームレスの男性A:手術で皮膚を引っ張ってきた部位(腰や足のあたり)が痛かったが、二回の祈りで症状が消えた。それがきっかけとなり、Aさんは神を信じるようになった。
- SKさん:定期的なてんかんで悩まされていたが、一回の癒やしと悪霊追い出しの命令で、症状が消えて癒された。
- OKさん:生まれつき、心臓の血管が一本足りないことが原因で、定期的に胸のあたりの痛みに襲われていた。医者から薬をもらっていたが、完治の見込みはなく、それが原因で仕事を失っていた。最初に一回祈り、一週間後に症状に変化がなかったので、もう一回祈ると、2週間後には痛みが消えて薬が不要となった。後に、OKさんは神を信じた。
- YKさん:腰痛があったが、1〜2m離れた距離から手をかざして祈ると、瞬間的に腰の痛みから癒された。
- HAさんの咳:一度祈って、翌日あたりに治る。
- HAさんの足の痛み:二回ほど祈って、翌々日くらいに大幅に改善する。
- KEさんの坐骨神経痛:一年半にわたって痛みに悩まされてきたが、その場の数回の祈りで、9割の症状が癒やされる。
- HMさん:四十肩が3回の祈りで大幅に癒やされる。
- NMさん:キリストの十字架による癒やしを伝えた後、幼い時からの虐待による心の深い傷が、大幅に癒やされる。この方の場合、自身の信仰によって受け取ったという側面が大きい。
- YSさん:花粉症の癒しのために祈り、一度の祈りで大幅に改善される。
- CTさん:同じく花粉症の癒しのために祈り、一度の祈りで大幅に改善される。
- ある美容室の店員さん:その場の数回の祈りで腰の痛みから癒される。
- 和食料理の店員さん:その場の二回程度の祈りで、腰の痛みから癒される。
- Yさん:その場の数回の祈りで腰の痛みから癒される。
- Sさん:悪霊の攻撃と思われる首回りの痛みや頭部の締め付け、呼吸の苦しさなどがあった。数回の病の霊の追い出しの命令で、全て癒される。
- Sさん:脳の血管の損傷により体の半分に麻痺が生じる。数回の祈りで、5割程度の麻痺の症状が癒される。
- 手首の痛みがあった女性:手首の痛みで、家事などに支障が出ていたが、ヒーリングのセミナーで祈ったら、翌日には痛みから癒されていた。
- 体の痛みがあった男性:集会の祈りの奉仕でこの男性に祈った時、体に広範囲な痛みがあると言っていたが、祈った後、すぐに癒された。
- KAさんの祖母:肺炎で酸素飽和度が85−90%まで低下していたが、私と友人の遠距離からの祈りで数値が正常に戻り、最終的には癒やされた。
DHTTセミナーにて
JGLM(ジョン・G・レイクミニストリー)主催の癒しのセミナー(DHTT)にて、癒しの祈りの時間があり、祈りの奉仕を担当した。私が奉仕をさせていただいたグループでは、次のような癒しが起きました。また他の複数のグループにおいても、たくさんの癒しが起きました。
- 白内障:白い濁りが消えて癒やされる。
- 強迫性障害:20年以上の過度な潔癖症が癒やされる。
- 頭の圧迫とめまい:おそらく悪霊によるもので、追い出して癒やされる
- 頭の圧迫と頭部周辺の不調:おそらく霊的なもので、ほぼ癒やされた。
- 手のしびれ:一度の祈りで癒やされる
- 脊椎の側弯症:若干の改善。左右の足のアンバランスは調整された。
参考記事:DHTT(神癒技術者訓練)セミナーの報告|キリストによる多くの癒やしが起こる
新宿歌舞伎町のオールナイトアウトリーチ(野外伝道)
友人と新宿の歌舞伎町でオールナイト伝道を決行し、その日に13人、合計20箇所程度の部位が、全てその場で癒やされた。(その日の癒しの7割以上は、同行した友人が祈って起きている)
もっとも驚かされた癒しは、足が負傷していた男性に友人が祈った時に、その足が瞬間的に癒されたことだ。癒された男性は「すげー、すげー」と、とても驚き、周囲にいた友人たちに、「みんなも祈ってもらいなよ!癒されるから!」と声をかけ始めていた。その男性は、その場で信仰告白することはできなかったが、「心に覚えておく」と言い、共にその場で祈ることができた。
ハロウインの渋谷でのアウトリーチ
2009年10月31日、ハロウィーンで盛り上がっている渋谷に、クリスチャンの有志7人で集合し、伝道を行った。
「告白したい罪はありますか?」「痛いところありますか?」「愛が必要な人」と書いたカードを掲げて、歩いていった。すると、歩行者天国となった道玄坂の中央で、たくさんの仮装した人々が関心を示し、次々に罪を告白してきた。私は、「あなたがどんな罪をもっていようとも、神の前に完全に赦される方法を教えます」と伝え、「キリストが、あなたを愛し、あなたの全ての罪を身に負って、死んで下さった。この十字架を受け入れるなら、あなたの罪は赦される」と語り、一人一人を悔い改めの告白へと導いた。こういう事が立て続けにあり、たくさんの人を、悔い改めと十字架の救いを受け入れる祈りへと導くことができた。
また、「痛いところありますか?」と書かれたカードを掲げながら歩いていた友人たちのグループは、体に不調があると訴えた人々を、片っ端から、その場でイエスの名によって癒やしていった。その日、私たちが祈ったほとんどの人は、その場で劇的に癒やされた。
ある人は足を捻挫しており、包帯を巻いていたが、友人が祈ると一瞬で癒やされたことがわかり、すぐにジャンプをして喜びを現した!(この場面の動画を撮っておきたかった!)
あまりにもたくさんの人が癒やされたので、私たちは、途中から癒やされた人の数を数えるのをやめた。この日は最終的に、およそ10人が、救いの祈りへと導かれ、非常にたくさんの病人がその場で片っ端から癒やされた。
「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」(マタイ4:23)
いつもどのように祈っているか
重要な原則
まず祈る際、というよりは病に対して命じる際に、「イエスの名」を必ず用いることは大前提です。この「イエスの名」に、権威と力が存在するからです。
それ以外には、特に「このような言葉を用いた方が良い」という定型文や公式が存在するわけではありません。それよりも、祈る私たちが、どのような信仰によって言葉を放つのか、の方が重要です。なぜなら悪霊は、あるいは病気は、私たちの言葉ではなく、「イエスの名」と、その名に対する「私たちの信仰」に反応するからです。
「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」(使徒3:16)
どのような言葉で病気に命じるのか
ただし経験上、ある程度、自分の中に「病気に対してこのような言葉を持って命じる」という定型文のようなものが、幾つかある方が良いと思います。その方が、どんなシチュエーションにおいても、ためらうことなく、速やかに祈ることができます。(実践を始めて間もない、自分の「祈りの型」のようなものを身につけていない人は、慣れていないので、祈りの時に発する言葉がしどろもどろになりがちです。)
私の場合は、「イエスの名によって癒されよ!」(In the name of Jesus, be healed!)とシンプルに言う方法が、自分の中の定型文のようなものになっています。たとえば、腰の痛みのある人がいる場合、次のように言う事ができます。
- 「イエスの名によって、腰の痛みから癒されよ」(あるいは、癒されるように)
- 「腰の痛みよ、イエスの名によって消え去れ」
- 「イエスの名によって、腰の痛みから自由になれ」
他にも、イザヤ53:4〜5に基づいて、「キリストの打ち傷によって、腰の痛みから癒された」と、信仰の言葉を放つこともあります。
以上は、あくまで私が実際に用いている言葉のサンプルに過ぎませんが、いづれにしても、自分の中で、しっくり来る言葉の型を、ある程度決めておくのは良い事です。その上で、その場で聖霊に聞きながら、示される言葉や方法などがあれば、それを自由に用いるのが良いでしょう。
繰り返し祈り、その場で癒しを確認する
これまでの人生で、その場で起きる瞬間的な癒しを見た事のないクリスチャンは、とても多くいると思いますが、その理由は、幾つか考えられます。
第一に、もしも私たちの中に、「瞬間的な癒し」に対する信仰が無ければ、それは起こり辛くなるでしょう。聖書にも「自分に言った通りになると信じるなら」と書いてあるので、瞬間的な癒しを期待するなら、そのように信じた方が良いことがわかります。
「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」(マルコ11:23)
第二に、その場での瞬間的な癒しが起こるまで、何度も祈らないことも原因です。祈ったあと、その場で癒されないことを恐れて、症状が消えたかどうかを確認せず、立ち去ってしまった経験はないでしょうか?気持ちはよくわかります(笑)。しかし、もしもその場で確認をして、一回の祈りで癒されていなかったら、二度〜三度と祈ることによって瞬間的に癒されていたかもしれない、と言う事がとてもたくさんあるのです。
私の場合も、もちろん1回目で完全に癒されればそれに越したことはないのですが、祈った後、その場で症状が消えたかどうかを確認し、症状が消えていなかったら、恐れることなく、その場で何度も祈る、ということがよくありました。そして、そのような方法で実践したからこそ、その場での瞬間的な癒しを見る事ができた、という事例がとても多くありました。
例えば、1回目の祈りの後、「どうですか?最初の時と比べて、痛みは消えたり減ったりしましたか?減った場合、何割くらい減りましたか」と言う感じで確認をしていきます。(相手や状況によっては、「正直に言ってくださいね」と補足する場合もあります。)そして、痛みが完全に癒されていなかったら、もう一度祈ります。
そして、それを繰り返していく内に、2割〜5割〜9割、と言う感じで、徐々に症状が消えていくのです。(もっとも、病気の内容によっては、その場で確認できないようなものも多々あるので、その場合は、しっかり祈った上で、神様に委ねます。)
手を置く必要はあるか?
聖書は、癒しを行う際の基本的な型として、病人に手を置くことを勧めています。ですので、マルコの福音書の16章でも、「病人に手をおけば」と書いてありますし、使徒たちも、実際に病人に手を置いて病を癒している事例があります。
ですので、状況が許すのであれば、病人に手を置いて、病が去るように祈ったり命じたりするのは良いことです。私たちが信仰を持って手を置くことにより、神の癒しの力が、手を通して流れていくからです。
では、いつでも手を置かなければならないのか、と言うと、必ずしもそうではありません。実際に、イエスや使徒たちも、手を置かないで、その場でシンプルに発する言葉一つで、病気を癒している事例が多く存在するからです。
私たちが教会で祈る時には、「病人に手を置く」のは普通のことなので、そうする事ができますが、教会の外で、ノンクリスチャンのために祈る時には、いちいち「手を置いていいですか」と言うのは、煩わしくなる場合があります。ですので、そのような状況下では、手を置かずにただ言葉を放ったり、あるいは手をかざしたりしながら、「癒されよ!」と言えば良いのです。
実際に、私が体験してきた癒しの中でも、手を置かずに癒された事例はとても多くあります。すでに本記事で紹介した新宿や渋谷のハロウィンのアウトリーチでも、ほとんどの癒しは、手を置かず、ただ手をかざしただけで瞬間的に起きたのです。
終わりに
癒されなかった事もある
ここで紹介したたくさんの癒しの奇蹟の舞台裏では、その場で癒しを見ることのできなかったケースもたくさんあります。アウトリーチに出かけて、祈って、その場で瞬間的な癒しを見る事ができなかった事も、普通にあります。でも、その場で癒されなかったからといって「癒されなかった」と断定することはできません。実はその後、時間差で癒されていた、という事もあり得るからです。
例えば、わたしの友人が、首の痛みのためにある人のために祈った時に、その場では癒されなかったが、翌日になってみると癒されている事がわかった、という事も以前にありました。
また、家族や友人の癒しのために、今でも継続的な祈りを捧げているものもあります。すぐに癒されなくても、継続的に、諦めずに祈っていくことで癒される、ということを知っているからです。
癌になった友人のために、皆んなでたくさんの祈りを捧げても、癒されずに召されてしまった、という事も経験しました。その時は、さすがに内心落胆しましたが、そんな時、ふとネットサーフィンをしていて、目に留まったブログの記事に私は慰められました。その記事では、「癒しの入っている鉢」を手にした天使たちに関する幻が紹介されており、たとえ癒しが起きなくても、癒しのために捧げられた祈りや、流されてきた涙が決して無駄ではない事が示されていました。それらの祈りや涙は、全て天にある「巨大な癒しの鉢」の中に集められており、その鉢が一杯になる時に、地上にかつてないほどの偉大な癒しが注がれるというのです。
参考記事:癒しの御使い
その時、この幻の信ぴょう性を入念に調べた訳ではありませんでしたが、その内容は、私に慰めと励ましを与えるのには十分でした。
実際に、癒しの伝道者として活躍しているような人たちの体験談を聞いていくと、過去に、どれだけ祈っても癒されない時期を通った事がある、と言う話をよく聞きます。しかし彼らが、諦めずに、その信仰によって歩み続けた結果、ある時にブレイクスルーが起きて、偉大な奇蹟が起こり始めているのです。
諦めずに進み続ける
もっとも、癒しに関する私の信仰の拠り所は、何よリも聖書そのものであり、たとえ、自分の体験や、目に見える現象が、聖書の言葉と一致しないように見えても、ただ素直に、信じ続けることを通して、やがて自分の体験が、聖書の言葉と一致していくと信じています。幸いな事に、そのような信仰によって実際に歩み、それを体験した先駆者たちが、現代の私たちにはたくさん備えられているのです。
ジョン・G・レイク、スミス・ウィグルワース、カーリー・ブレイクなど、彼らの証に目を通していくならば、ただ癒しに関する聖書の言葉を信じ、諦めずに進み続ける信仰の大切さを学ぶ事ができるでしょう。
そして、私がそのような信仰によって進んできた結果、たとえ時々癒されないような事があったとはいえ、一方でたくさんの癒しを目の当たりにし、人々が解放され、救われていくのを見る事ができたのです。このような奇蹟の数々は、私が癒しに関する聖書の言葉を字義通りに信じ、実践しなければ、起きなかった事なのです。またそのような癒しは、私だけでなく、私と同じような信仰を持って実践している私の周りの友人たちの間でも、実際に起きてきた事なのです。
もっとも、ここで紹介した癒しの証は、まだまだほんの僅かなものです。今後も諦めずに、この信仰によって進んでいく時に、神は更なる偉大な癒しと解放の奇蹟の数々を経験させてくれると信じています。
この記事を読む読者の方々で、まだ癒しの奇蹟を経験していない方がいるなら、今はっきりと伝えさせてください。あなたにも同じ事ができます!なぜなら聖書は、この約束は、特定の牧師や伝道者だけに対するものではなく、イエスを信じる全ての人に対するものだと語っているからです。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、18蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17〜18)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)
これらの聖書の約束を素直に信じ、病人のために実際に祈り始めるなら、あなたも同様の結果を得ていくことになるのです。まずは、普段の生活の中で、病気の人に出会うことがあれば、積極的に祈ることから始めてみてください。「神様、どうかこの病気を癒して下さい」ではなく、信仰を持って「イエスの名によって、癒されよ」と言い、あなたの信仰の言葉を解き放ってみてください。
そしてその場で、癒しが起きたかどうかを確認し、すぐに症状が改善されなくても、二度、三度、五度、と、症状が改善されるまで、繰り返し祈ってみてください。すぐに結果が出なくても、たとえ何度祈っても癒されない事があっても、諦めずに進み続けて下さい。あなたの信仰と祈りは、神の前で、決して無駄になることはないからです。
父なる神と、主イエスの名に、全ての栄光がありますように!
関東近辺で、癒しの祈りの実践を経験されたい方がいれば、ぜひお問い合わせ下さい。アウトリーチや癒しの祈りが実践できる機会があれば、ご紹介したいと思います。
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