「イエス以外に救いはない」というキリスト教の教えは傲慢ではないですか?


「イエス以外に救いはない」というキリスト教の教えは傲慢ではないですか?「イエス・キリストを信じなければ救われない」「他の宗教に救いは無い」と言うのは傲慢な考えでは無いですか?

「和」を重んじる日本文化の中では、「イエスだけが救いの道である」とするキリスト教の一神教的な教えは、中々受け入れ難く捉えられるものです。おそらく、多くのクリスチャンが、この手の質問を投げかけられ時、答えづらい思いをした経験がある事でしょう。

今回の記事が、「イエス以外に救いはない」という教えに抵抗を感じている人々や、この質問に答えづらいと感じているクリスチャンにとって役立つものとなれば幸いです!

唯一の救いを主張したのは、イエス自身です

「イエス以外に救いの道はない」と言う教えは、なにも、クリスチャンが後になって自分たちの主張を正当化するために考え出したものではありません。それは他でもない、イエス自身が、そして聖書の言葉そのものが、繰り返しはっきりと主張してきたことなのです。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

イエスははっきりと、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」、つまり救われて天国へ入ることはできない、と断言しました。また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言う表現は、英語で読むと、「I am the way, the truth, the life」となっており、全て「the」という定冠詞が付いています。つまり、わかりやすく日本語に訳すと、自分こそが「唯一の道・真理・命」だとする大胆な宣言となっているのです。

ですから、「イエス以外に救いはない」という考えが傲慢だと見なす場合、その矛先はクリスチャンではなく、それを主張したイエス自身に、まず向けられるべきである事がわかります。

イエスは傲慢なのか

普通、私たちの周りで、「私だけが優れている」とか、「私だけが救いの道だ」と言いだす人がいたら、そのような人を警戒した方が良いでしょう。もしも、あなたのFacebookの友人に、そのような人がいるなら、すぐに友達リストから削除する事を、わたしは勧めます(笑)。なぜなら、そのような人は基本的に傲慢であり、語られる言葉が、その人の実態と一致することはまず有り得ないからです。(実際に、そう言う事を主張し、偽善的な宗教を作り出してきた人が山のようにいるので、たくさんの人々が、「宗教」にうんざりしてしまうのです)

ユダヤ教のモーセも、仏教の創始者である釈迦も、イスラム教の開祖のムハンマドも、そのような大胆なことは主張しませんでした。しかし、イエスは確かに、自分が唯一の救い主であり、自分を信じる以外に救われる方法は無いと、はっきりと断言していました。

では、イエスの主張についても、他の多くの宗教家たちの主張と同じように「警戒すべきもの」「傲慢であり非難すべきもの」として扱うべきでしょうか?私から見て、彼の場合、状況が異なっているように思えます。

なぜならイエスは、人類の歴史上、最も多くの人々からの崇敬を集めてきた人物であり、今でも、その人口は世界人口の4分の1程度にも上るからです。また、イエスを証言するために書かれた聖書は、人類の歴史上、他のいかなる書物とも比類にならないほどの、圧倒的なベストセラーとなっています。これらの実績は、イエスの言葉や生き方の中に、「イエスこそ道である」と納得させる何がある事を、明らかに示しているのです。

救い主の証明

では、私たちに「イエスこそ救いの道である」と納得させるものとはなんでしょうか?これについては、たくさんの事を挙げる事ができますが、ここでは、いくつかの決定的な事柄を取り上げてみます。

イエスの出生と生涯は預言されていました

私たちの周りにも、また歴史上の偉大な人物の中にも、「私の出生は、救い主の到来として、予め預言されてきたのだ」と言える人は一人もいません。しかし、イエスだけは違いました。旧約聖書の預言は、人類を罪と死から永遠に救う「救い主」の到来を、繰り返し予告してきました。

その預言によれば、救い主は、紀元元年頃の時代に、ユダヤのベツレヘムの地で、ユダヤ人のダビデの家系に属する、処女から生まれることになっていました。さらに、その救い主は、貧しい人々に福音を伝え、悪魔の束縛と、あらゆる病から人々を解放することになっていました(イザヤ61章)。そしてイエスは、それらすべての預言を完全に成就しました。

時々、「イエスは、預言の内容に合うように人生を生きたのだ」と言う懐疑的な人々がいるかもしれません。しかし、自分の出生の環境をコントロールして誕生することのできる人はこの世に存在しません。また、「預言によれば、救い主はあらゆる病を癒すから、自分はそれをやろう」と言ったところで、そんな事ができる人はいません。しかしイエスは、どんな病気も、言葉一つで、一瞬で癒す事が出来ました。

ですから、イエスに成就した預言の数々は、人間の計画や思惑で成し遂げる事が全く不可能なものだったのです。歴史上の人物の中で、イエスだけが、「私は、救い主となるために、この世に生まれ、その通りに生きたのだ」と言う事が出来たのです。

「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」(ルカ24:44)

参考記事:イエス・キリストは聖書で預言されていた救い主なのか?

イエスは死者の中から復活しました

イエスは、自分が人類の罪の身代わりとなって死んだ後、三日後に復活すると預言していました(マルコ8:31)。またそれは、旧約聖書の中でも、何百年も前から、救い主に関して予告されていたことでした(イザヤ53章)。そしてイエスは、十字架上で蘇生が全く不可能なほど傷ついた状態で死んだのち、三日後に完全な不死の姿で復活しました。そのような復活を遂げた人物は、歴史上、イエス以外には存在しません。

加えて、イエスの復活は、曖昧なものではなく、全く完全で明瞭なものでした。そして、復活に関する聖書の記録は、歴史記録として全く信頼に値するものである事が、歴史を通して、多くの専門家たちによって証明されてきたので、今日、誰もそれを否定する事が出来なくなっています。

「パウロの記述は、歴史的資料が、その信頼性を認められるのに必要な、全ての事実を有している」ドイツの歴史家、ハンス・フォン・ハウゼンによる、聖書の復活の伝承に対するコメント

死後の命の状態や希望について説くことは誰にでも出来ます。しかし、イエスだけが、死後の希望に関する自分の主張が真実である事を、身を持って証明したのです。

「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

参考記事:キリストの復活は事実か

 

では、今回の質問をもう一度振り返ってみましょう。イエスは、「私だけが、救いへの唯一の道」だと断言しました。もしも彼が、その言葉通りの人物でなかったのであれば、彼は「傲慢な詐欺師」か「気ちがい」であったことになります。

しかし、もしもイエスの生涯の中に、「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と断言できるほどの十分な根拠が見出されるのであれば、彼は、その言葉通りの人物だったということになるでしょう。

そしてその答えは、あなたに確かな希望を与え、永遠の運命を決定づけるものとなるのです。

ぜひ、聖書を読んでみてください。そして、イエスについて知ってください。そして、彼が単なる傲慢な詐欺師だったのか、あるいは彼の言葉通りの人物〜救い主なのかを試してみてください。

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6件のフィードバック

  1. はなこ より:

    私は2年くらい前に救われました。その前は汎神論や普遍的救済などのニューエイジ的な教えを信じその世界観で生きていました。

    救われる前、聖書の唯一の神、イエス様だけが唯一の救いである、という福音を聞いたときは、なんて傲慢で上から目線なんだろう、と、やっぱり思いました。笑 自分のプライドフルな肉の部分が邪魔をして真理から遠ざけようとしたんですね。

    もし同じように感じている方がいらっしゃいましたら、一度聖書を全部読むことをおすすめします。

    わたしは聖書を読んで本当に良かったです。毎日、今も、これからもずっと読んでいきます。

    • true-ark より:

      ご無沙汰です、コメント感謝です。ニューエイジなどやっている人から見たら、「イエス以外に」という教えは傲慢に感じますよね。最近、また翻訳された、以下の動画もおすすめですね。はなこさんの歩みが祝福されますように!
      https://www.youtube.com/watch?v=w1wDLQj7QAI

  2. 犬山 より:

    こんにちは!

    私は『イエス様しか救いの道がない』という教えが傲慢、というよりも、
    その福音を伝えるクリスチャンの態度が(私自身含めて、ですが…)
    傲慢に思えてしまいます。
    最近、特にそのことに葛藤を覚えていました。

    神様の憐みと恵みによって、周りの人に先んじて救われましたが、
    イエス様をまだ知らない人に対して、
    まるで自力で救われたかのような振る舞いだったり、
    また、クリスチャンのブログなどでの上目線的な物言いだったりを
    時折見かけます。
    最近はそのような場面に遭遇すると、
    「ああ、自分もそんなところがあるよな、これじゃダメだな」と、
    反省しつつ祈りつつ、自分の福音を伝える態度を見直しております。

    様々な教団や教会に足を運びましたが、『自分達だけが真理を知っている!』
    という、なんとも言えない空気が苦手です。

    いつも有益な記事をありがとうございます。
    感謝です。

    • true-ark より:

      貴重なご意見ありがとうございます。確かに、クリスチャンは、その手の傲慢には気をつけるべきですね。いつも、自分が謙遜な思いを持っているか、自分自身の内面を神の前で正す必要があると感じます。内側にあるものは、どうしても外側に出ますね。自分も、気をつけていきたいと思います。

      • 嶌猫 より:

        初めまして。教会はイエス様が来られた2000年前から大きく変わってしまいました。教会(建物)を教会と呼び、牧師さんの話を日曜日の一時間だけそこに座って聞いて、讃美歌を皆で2~3曲歌う。それがクリスチャンだと信じこまされてきました。礼拝最後に祈祷し、ランチのあとはもはや、神の話、今日の説教の話すら話題にもしません。そして日曜日以外は、月~土まで神様とは関係のない生活を送ります。だから罪を犯しても、一時悔い改めても、清くなり人生が変えられることはなく。そうした伝統が世界中に定着しましたが、聖書にはそれは書かれてはいませんでした、つまり人間の作った伝統です。人の作った伝統ではなく、神様と直接繋がってほしいと神様は言っておられると思います。宗教の箱から抜け出し、本当のキリストの弟子になってほしいと思っておられると思います。ラスト・レフォメーション(TLR)というドキュメンタリー映画をYoutubeでご覧になったことがありますか。聖書に書かれているような、使途行伝にある初期の教会に戻るような動きがあります。なんかおかしいと思って、宗教の箱を抜け出した人々が世界中に大勢います。お勧めですので、ぜひご覧になって下さい。神様はどんなものでも、神様と関係の無いものから、私たちが解放されるのを願っておられると思います。

        • true-ark より:

          コメント感謝です。TLRの動画は、ある程度目を通しています。とても励まされますよね!
          当サイトでも、同じ立場で記事を書いたいますが、私自身も、学ぶだけでなく、福音を伝え、悪霊を追出し、病をいやすことをライフワークにしています。そして、ここ一年くらいでも、たくさんの結果をみてきました。今後も、その手の情報をたくさんサイトで掲載して行こうと思います。主の栄光が称えられますように!

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