永遠の保証~臨死体験・幻からの考察:一度救われた後に、救いを失うことはありますか?


永遠の保証~臨死体験・幻からの考察:一度救われた後に、救いを失うことはありますか?

前回の記事では、「永遠の保証」が真理であるかどうかを、聖書から考察してきましたが、今回の記事では、現代に世界中から報告されている「臨死体験・幻・預言」から、この教理の是非を考察していきます。

もっとも、聖書の言葉を第一にするクリスチャンにとっては、そのような体験から、教理の是非を判断するのはナンセンスだと思われるかもしれません。そこで、筆者がこの論考をまとめた経緯と意義を、はじめに簡単に説明させていただきます。

言うまでもなく、聖書の教理の正当性は、何より聖書の言葉そのものを土台としなければなりません。ですから筆者は、「永遠の保証」を再考するにあたり、初めに聖書的根拠からの考察の記事をまとめました。そして、一連の考察から、筆者としては、文脈を正しく捉え、著者の意図を正確に汲み取ろうとするならば、神の言葉は、この教理の是非を非常にはっきりと語っていると理解しました。

しかし一方で、色々な神学や考えや思いから、全ての人が同じ結論に達するわけでは無いことも承知しています。専門的に聖書を研究する神学者同士でさえ、このテーマに関する意見の一致が常にあるわけでは無いのです。

では、もしも現代に、イエス・キリストが現れて、この問題に関する答えを、議論の余地もなく、明瞭に語っているとしたらどうでしょうか?神は、既に完成した聖書の言葉に加えたり、変更したりすることはありませんが、聖霊によって、聖書の言葉の解釈を明らかにすることはあるのではないでしょうか?そして、もしもその解釈を明らかにしているのが、本当に神からの霊であり、主なるキリストなのであれば、それが臨死体験であれ、幻であれ、その解釈は慎重な考慮に値すべきものとなるはずです。

もっとも、その幻が本当に神の啓示であるかどうかを、聖書の言葉に基づいて、慎重に吟味する必要があることは言うまでもありません。ですから、本記事の考察においては、臨死体験や幻・預言等に対する筆者の姿勢や、聖書的な吟味の方法、そして実際の体験証言の紹介等、総合的な情報をまとめることにより、読者の方が十分に納得して理解できるよう努力いたしました。もっとも、記事を読んだ上で、読者の方々が最終的にどのような判断をされるかについては、神に委ねたいと思います。

この記事を読む全ての読者の方々に、聖霊による導きと、神の祝福がありますように。

目次

基本的な要点の確認

臨死体験や幻に対する筆者の姿勢

私がかつて所属していた異端の教団では、「死後の世界は無い」という偽りを教えられてきました。そのこともあってか、臨死体験や幻を通した死後の世界の情報については、高い関心を持って探求してきた経緯があり、それらの学びが、自身の信仰の成長に大きく寄与してきたという感触があります。そして、これまでに目を通してきた証の中でも、特に有益だと判断したものについては、当サイトでも、積極的に掲載をしてきました。

そして、広範囲な証言に目を通してきた経験から、臨死体験や幻等に向き合う姿勢として、筆者が重視している二つの点があります。

(1)鵜呑みにしてはいけない:
実際に、臨死体験などの証言の中には、怪しいものも存在します。例えば、ある人の臨死体験では、そこで現れたキリストが、近づいてくると、ブッダやクリシュナ(ヒンズーの神)の姿に変化した、と証言されています。当然のことながら、これは聖書が教えるキリストでは無いので、悪霊による惑わしであったと結論づけられます。

(2)重要な聖書の教えに合致するものであれば、決して過小評価はしない:
もしも、体験者たちが、本物のキリストや天使に出会ったのであれば、彼らの証言は、聖書と同等のものと見做されないとしても、決して過小評価されるべきものでは無いと考えます。なぜなら、彼らの体験が本物であれば、その証言には真理が反映されているはずだからです。(ただし、その場合でも、単一の証言のみでは、体験者の主観や誤解が反映される可能性が生じるため、必ず複数の証言において一貫性があるかどうかを吟味します。)

体験の種類

世界中から報告される膨大な証言

まず、臨死体験や幻・預言によって、死後の世界へ行き、イエスや天使、または悪魔や悪霊に会った、という証言は、昨今、世界中から非常に多く報告されており、それらの体験を多くのクリスチャンが信じるに至っているので、軽視できないテーマとなっていることに疑問の余地はありません。実際に、こうした証を通し、キリストを信じるようになる未信者や、罪の悔い改めに導かれる信者も多く存在しているのです。

例えば、先日当サイトにて、クリスチャントゥデイに掲載された興味深い記事を紹介しました。同記事によれば、イスラム教の背景を持つ多くのキリスト教徒は、夢や幻によって救いへと導かれているようです。

「未伝民族伝道の専門誌「ミッション・フロンティアーズ」(英語)によると、米フラー神学校の世界宣教学部(現・異文化研究学部)がイスラム教の背景を持つキリスト教徒600人を対象に大規模なアンケート調査を実施したところ、25パーセント以上が、夢や幻を見たことで改宗に導かれたと回答した。」-『イエスの夢を見て救われる人々」 親戚の殺害考えていたイスラム教徒、中国のシャーマン、IS戦闘員』(クリスチャントゥデイ)

このような調査結果を踏まえた時に、私たちは普通、「イエスこそ主である!」という信仰へ導かれた元イスラム教徒のクリスチャンによる幻・夢の証を、過小評価したりはしません。なぜなら聖書は、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。(第一コリント12:3)と証言しているからです。

さて、「イエスや天使に出会った」とする体験証言の種類としては、大まかに(1)臨死体験によるもの、(2)幻や夢によるもの、(3)体外離脱体験を通して天国や地獄を案内されるもの、の三種類に分類されます。以下に、それぞれの体験に関する、大まかな説明をさせていただきます。

臨死体験

臨死体験とは、意識不明状態や、心肺停止状態において、体験者の霊魂が肉体から離脱し、死後の世界を垣間見る体験を意味しています。実は、臨死体験の証言自体は、人類の歴史上、古代から存在してきましたが、現代は、かつての時代よりも、多くの臨死体験が世界中で報告されるようになっています。

報告が増えている理由としては、(1)インターネット等の情報網が発達したこと、(2)医療技術が発達し、危篤状態から蘇生させる確率が上がったこと、(3)メディアでのクローズアップや、臨死体験の学会等の誕生により、前の時代よりも、体験者が告白しやすい状況が整ってきたこと、などが挙げられます。

既に述べたように、臨死体験自体は、古代から普遍的に存在してきたものですので、その体験が聖書に記録されていない、という事実は、臨死体験の信頼性に影響を与える要素とはなりません。ただし、臨死体験の信頼性は、聖書の啓示に沿って吟味する必要があります。

幻について

幻による神のみ心の啓示は、現代の日本のような文化圏においては、あまり一般的では無いかもしれませんが、世界規模で捉えると、その報告の数は相当数に登り、その中には、多くのイスラム教徒や、知的にハンディキャップのある人々が含まれてきます。

イスラム教徒に対する、幻や夢による啓示が多い背景としては、イスラム教の厳格な戒律によって、彼らに福音が届きづらい環境が関係しています。また、知的にハンディキャップのある人々は、聖書を読んでも、十分に理解することが困難なので、幻など、よりわかりやすい方法で、神はご自身を表されるのです。

筆者の知り合いの方でも、キリストの再臨待望をテーマとした聖会で、キリストの地上再臨の幻を見たと証言する方がいます。

ですから、幻や夢などによる啓示は、紀元一世紀に終わったものではなく、今日においても、神が変わらず用いている伝道方法の一つなのです。

天国・地獄訪問について

天国・地獄訪問とは、神の導きによって、体験者の霊魂が肉体を離脱し、天国や地獄へと案内される体験を表しています。天国訪問については、パウロが第二コリント12章にて記録しており、その体験は、地上で目撃する幻を超えた、体外離脱を伴う「天国訪問」であった可能性があります。(あくまで、可能性として聖書は言及しています)なお、同じような体験を、私が直に知っているある女性のクリスチャンも経験しています。

「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。3 私はこの人が、──それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、──4       パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」(第二コリント12:2~4)

地獄訪問については、聖書に記録がありませんが、天国訪問とセットで報告されるケースも多いです。また、聖書に「地獄訪問」に関する記録が無いとしても、ヨハネの黙示録において、ヨハネが地獄の幻を証言していたり、ルカ16章において、キリストがハデスの光景を詳しく描写していることなどを踏まえると、決して非聖書的なものでは無いと考えられます。

そして、こうした超自然的な啓示全体について言えことは、これらの啓示の内容の多くが、新約聖書で既に啓示されている基本的な骨組みに対し、肉付けをするような(詳細を加えるような)内容である、ということです。

なお、聖書時代だけでなく、現代においても預言が存在するかどうか、という議論については、当サイトの記事「預言者は現代でも存在しますか」にて、詳細を取り上げていますので、ここでは割愛します。

啓示の信頼性を評価するための聖書的基準について

これらの体験の信頼性―つまり、それらの体験が本当に神から来ているものかどうかは、どんな聖書的な基準に沿って、吟味する必要があるでしょうか?以下に、その判断基準として、重要だと考えられる聖句をリストアップしていきます。

(1)その霊が、キリストを告白するかどうか

「1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(第一ヨハネ4:1~3)

霊感の表現の判断方法を説明する文脈において、新約聖書が唯一具体的な基準として挙げているのは、「その霊が、キリストを告白するかどうか」というものです。このヨハネの言葉は、キリストが肉体で来られたことを信じない人々を念頭に語られたものですが、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです」とある通り、ナザレのイエスが人となって来られた神であり、聖書によって預言されていた「主なる救い主」であると告白する霊であれば、それらはみな神からのものだと定義されています。そして、その真理を否定する霊は全て悪霊であると結論付けられています。

(2)体験者が「イエスは主です」と告白するか

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)

「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(第一コリント12:3)

体験者が、ある霊的な体験を通じて、「イエスは主です!」という心からの信仰告白へ導かれる場合、その体験は必ず聖霊によるものだ、というのが、パウロの理解でした。なぜなら、その告白は、体験者が救いへ導かれたことを意味し、救いは神様の御業だからです。

またこの点は、一番目でヨハネが「その霊がキリストを告白するか」と語った基準とも、密接に関連していることがわかります。

なお、私は以前に、聖書以外の啓示宗教の教えにも目を通したことがありますが、それらの啓示においては、「イエスが主である」という点は、一貫性を持って否定されています。共通するのは、それらの霊が、聖書が啓示するよりも、より低い存在としてイエスを定義することです。

たとえば、霊界ではブッダとイエスが仲良くしている、とか、イエスは偉大な預言者だったが神の子ではない、などです。代表的な啓示宗教の教えの内容の比較については、別の記事で詳細をまとめていますので、ここでは割愛いたします。

参考:「臨死体験や天国訪問・幻などによるキリストの啓示は信頼できますか

また、多くの異端やカルトの共通点が、「キリスト論の誤り」にある、という点も、この点を理解する上で重要な点であると考えます。なお、キリストの神性を示す霊感の表現であっても、稀に怪しいものも存在しますので、そういうものによく吟味しつつ、除外していく必要があると考えます。

(3)預言が的中するか

「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記18:22)

霊的な体験の中に、将来に関する事柄が含まれており、その内容が外れる場合は、それは神からのものではない、と判断できます。

「キリストを告白する霊」による啓示の主要要素

要点のリストアップ

世界中で報告されている臨死体験や幻等で、イエスが主であると示されている証言を集め、それらの中で一貫性を持って示されている内容をリストアップすると、次のようになります。

(なお、下記の要素の中で、赤文字で示した箇所は、他の啓示宗教において、「一貫性を持って」否定されている部分です。つまり、赤文字の要素は、サタンにとって、聖書の教えの中で「どうしても否定しなければならない教理」であることが伺えます。それ以外の黒文字の要素は、単に、悪霊の啓示においては、言及されていないという場合が多いです。

【イエスについて】

  • イエスは神であり、神の子であり、救い主である。
  • イエスは唯一の道であり、真理であり、命である。イエスを信じなければ救われない。
  • イエスの十字架は、人類の罪の身代わりである。

【天国について】

  • 天国は本当に存在する。信者がそこで受ける祝福は偉大なものである。
  • 天国は聖い場所であり、汚れた者は、誰もそこに入ることはできない。
  • 天国の王は、キリストであり、全ての天使や聖徒たちが、主を礼拝している。
  • 無数の天使たちが、主を賛美し、地上の聖徒たちのために奉仕している。

【地獄について】

  • 地獄は本当に存在する。滅びた人々がそこで受ける苦しみは想像を絶するものである。
  • 地獄は永遠の場所である。
  • 地獄には、悪霊たちによる拷問、消えない火、苦しみを与えるうじが存在する。
  • 滅びた魂たちは、地上の人々がここへ来ることを全く望んでいない。
  • キリストを信じなかった人は、原則として地獄へ落ちている。
    キリストの福音を聞く前に死んだ人は救われますか?も参照
  • キリストを信じていても、偶像礼拝、姦淫、貪欲、偽り等の罪を悔い改めなかったクリスチャンは地獄へ落ちている。

【携挙について】

  • 携挙が差し迫っており、天国では準備ができている。
  • 携挙されるのは、従順で聖く生きるクリスチャンだけとなる。不従順な信者は取り残される。
    (※おもに、明白な罪を犯し、かつ悔い改めなかった信者の事例が数多く示されている)
  • 幼い子どもも、携挙される。

【大艱難時代】

  • 携挙の直後から、七年間の大艱難時代が到来する。患難時代の苦しみは、想像を越えるものである。
  • また、反キリストがすぐに台頭し始める。彼は世界中のクリスチャンを迫害する。
  • 666を全人類に強要し、従わない人々を拷問にかけ、容赦なく殺していく。
  • 大艱難時代の最後に、キリストが地上に再臨する。聖徒たちも、彼と共に来る。

【聖書の信頼性について】

  • 聖書に書かれている事柄は、全て真実である。神話や比喩では無い。
  • 聖書全体は、神の啓示による神の言葉であるため、誰も変更してはならない。
  • 聖書の言葉を、削除・変更・置き換えをせずに宣べ伝えなければならない。

キリストに語られたとする言葉の要約

こうした体験において、体験者たちは、「キリストによって告げられた言葉」を、証の中で紹介していますが、それらの中で語られる重要な要点を抜き出してまとめると、次のように要約できます。

私の民に告げなさい。
天国では、聖徒たちのための準備が既に完了しているが、私の民の多くは、まだ準備ができていない。
それゆえ、今私が彼らを迎えに行っても、準備のできていない者を天へ迎え入れることはできない。
私は、心を尽くして私を愛する者、私の掟に従順な者、聖く生きる者たちのために迎えに行く。
信仰から離れ落ちた者、二重生活を送っている者たちは、私の父の国に入ることはできない。
彼らは、携挙の後に地上に取り残され、大きな患難を通ることになるだろう。

私の民に告げなさい。
私は神であり、私の栄光は真実であることを。
私は、あなた方のために、十字架の苦しみに耐え、その命を与えた。
誰でも私を信じる者は、罪の赦しを得て、永遠の命を得るだろう。
私を信じない者は、誰一人、ここへ来ることはできない。
たとえどんな善人であっても、私を知らなければ、地獄以外に行く場所は無い。
私こそ、道であり、真理であり、命であり、
私以外には、救う者は誰一人としていないからである。

私の民に、天国は本当に存在すると告げなさい。
なぜなら、多くの者たちが、それを信じていないからである。
そこにおいて、私の子供たちを待ち受ける祝福は、あなた方の想像を遥かに越えるほど大きなものである。

私の民に、地獄が本当にあることを告げなさい。
なぜなら、私の民の中でさえ、多くの者が、地獄を信じていないからである。
そして、私を知らない者だけでなく、私の民からも、多くの者が地獄へ落ちていると告げなさい。
私は彼らに、罪に勝利するための十分な恵みと、悔い改めの機会を何度も与えたが、彼らがそれを拒否したからである。
私は、不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、盗む者、貪欲な者の神では無い。そのような事を行う者は、悪魔に属する者たちであり、誰も、私の父の王国へ入ることはできない。

私の民に、福音を熱心に宣べ伝えるよう告げなさい。
なぜなら、私の民の多くが、伝道を怠っているからである。
伝道を行うことは、非常に重要な任務である。
なぜなら、私が十字架の死を遂げたのは、全ての人のためだからである。

行って、あなたがここで見たことを、ことごとく語りなさい。
私は、速やかに、私の民を迎えて行くであろう。

以上にリストアップした要素は、キリストの神性を認める全ての証において、極めて一貫性を持って示されています。

「キリストを告白する霊」による言葉の紹介

参照資料について

次に、こうした証言の中で、「永遠の保証」に関わる部分を、複数の証から抜き出し、実際にご紹介いたします。なお、筆者はこれまでに、様々なサイトや書籍を通して、こうした証言に目を通してきましたが、今回の記事において紹介する証の主な引用元は、情報源が統一できて用いやすいという理由から「エターナル・ライフ・ミニストリーズ」が発行する以下の書籍を選びました。また同出版社の著作の他にも、インドの有名な伝道者サンダー・シングの著作からも引用させていただきます。

・『クリスチャンへの警告』第1~17集 ※「警告」と略す
・『再臨・携挙・永遠』 ※「再臨」と略す

【エターナル・ライフ・ミニストリーズについて】
この出版社は、「キリストを告白する霊」による霊的体験を多数紹介する働きをしています。紹介されている証の多くは、同団体独自のものではなく、他にもYoutubeやウェブサイトや書籍等、世界中の様々なメディアで広く紹介されているものが多いようです。ですので、同団体の書籍を読むと、世界中でどんな体験報告が流布しているかがわかる、という構図になっています。

なお、同団体の神学的立場に対し、批判的な見方をするクリスチャンが少なからずいることを知っていますが、既に述べた通り、本記事の資料として用いる『クリスチャンへの警告』等における同団体の役割は、あくまで既に存在する証の翻訳に留まっている、という点を加えておきます。(*[1] 同団体に対する筆者の見方はこちらで説明しています

マイケル・トーマス・サンボ(ナイジェリアのクリスチャン)

2003年4月28日、タラバ州タクム地区で開かれた、ディーバー・ライフ聖書教会でのイースター聖会で、主イエスによる天国・地獄への訪問を体験する。その後も、数回に渡って、天国・地獄訪問を許された。

「(淫行を犯して悔い改めずに死んだクリスチャンに対して主が語られた言葉)『汚れているもの、あるいは、忌むべきことを行うもの、あるいは、偽りを行ったり愛したりするものは、何も決してそこに入ることはありません。それゆえ、人よ、あなたは天国に入ることはできません。』イエス様は、ヤコブ1:27を引用なさいました。
『父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。』(ヤコブ1:27)」(警告2、65頁)

「他の人々が他の様々なことを言っていても、聖さ無しには、誰も主を見ることはないことをしっかり知っておきなさい」(クリスチャンへの警告 第2集,114頁)

フレディ・ルアノ(エルサルバドルのクリスチャン)

かつて12歳の時に福音を受け入れていたが、その後の生活において、傲慢で偽善的で反抗的で偽りを言う者になっていった。そして1981年のある時、高熱と、悪魔の攻撃によって死に、臨死体験で地獄へと落ちていった。地獄に到着すると、彼は死の悪霊に向かって、自分が神の子供であると主張したが、『もしおまえが神の子供なら、神は、俺がおまえをこの場所に連れて来るのを決して許さなかったはずだ』と返された。しかしその後、神の介入によってフレディは助けられたが、キリストは次のように彼に語った。

『あなたはなぜ、私をあなたの父だと言うのですか?・・もしあなたが私の子どもであるとすれば、あなたは私のことばに耳を傾け、私の数々の命令を守り、聖い生活を送っているはずです。私の子どもたちは、人を殺す者、淫行する者、偶像を礼拝する者、冒涜する者、酒に酔う者たちではありません。彼らは、魔術を行わず、自慢、うわさ話、口論をせず、分裂を創り出すこともありません。そういうことを行う者はみな、彼らの父である悪魔に属しているのです。』」(クリスチャンへの警告 第3集,46~56頁)

「イエス様はこう言われました。『彼らに告げなさい、私は彼らが私の言葉を、それが書かれている通りに、どんな変更も、削除も、あるいは置き換えもなしに宣べ伝えることを願っていることをです。』・・・(クリスチャンへの警告 第3集,46~56頁*以下に続く箇所も含む)

続けて、主イエスは、次の数々のみことばをもって、彼のメッセージをフレディに確証していった。

◆「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」(第二歴代誌7:14)

◆ヤコブ4章全体:「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。5 それとも、聖書は意味もなく語っていると思いますか。「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。6 神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われています。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」7              ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。」(4~8、一部抜粋)

◆エペソ5章全体:「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。4 また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。5 このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。6 だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。」(3~6:一部抜粋)

◆エゼキエル7章全体:「8 今、間もなく、わたしは憤りをあなたに注ぎ、わたしの怒りをあなたに出し尽くす。あなたの生き方のとおりにあなたをさばき、あなたのすべての忌み嫌うべきわざに報いる。9 わたしはあわれみをかけない。惜しまない。忌み嫌うべきことが、あなたの中にあるうちに、わたしはあなたの行いのとおりに報いる。このとき、あなたがたは知る。わたしがあなたがたを打つ主であることを。」(8~9:一部抜粋)

◆エゼキエル18章全体:「丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、月のさわりのある女に近寄らず、7だれも虐げず、質物を返し、物をかすめ取らず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に衣服を着せ、8 利息をつけて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、9 わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守って真実を行う。このような人が正しい人であり、この人は必ず生きる──神である主のことば・・・24 しかし、正しい人が正しい行いから離れ、不正を行い、悪しき者がするようなあらゆる忌み嫌うべきことをするなら、彼は生きるだろうか。彼が行ったどの正しいことも覚えられず、彼が犯した不信と陥った罪のゆえに、彼は死ななければならない。」(6~9、24:一部抜粋)

◆エゼキエル33章全体:「11 彼らにこう言え。『わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』
12 人の子よ、あなたは自分の民の者たちにこう言え。『正しい人の正しさも、その人が背いたときには、それが彼を救うことはない。悪しき者も、その者がその悪から立ち返るときには、その悪につまずき倒れることはない。正しい人でも、罪ある者となるとき、自分の正しさによって生きることはできない。13 わたしが正しい人に「あなたは必ず生きる」と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正を行うなら、彼の正しい行いは何一つ覚えられず、自分の行った不正によって死ななければならない。14 わたしが悪しき者に「あなたは必ず死ぬ」と言っても、もし彼が自分の罪から立ち返り、公正と義を行い、15                その悪しき者が質物を返し、かすめた物を償い、不正を行わず、いのちの掟に従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。16         彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公正と義を行った彼は必ず生きる。』(11~16:一部抜粋)

◆エレミヤ7章全体:「ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。』」(23:一部抜粋)

◆「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)

◆「彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」(ヨハネ8:39)

◆「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)

◆「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。18 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」(第一ペテロ4:17~18)

◆「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21:7~8)」

あるウェスレー派の女性(記述者:ロバート・ヤング牧師)

1841年の臨死体験で、神により天国と地獄を案内される。

■天国で人々が携わっていること・・あの言及された宣教師たちや、そのほかの幸せそうな霊たちは、彼女のそばをすべるように通って行った際、優しく笑みを浮かべて、自分たちは彼女がどこから来たかを知っており、もし神の恵みに忠実であるなら、まもなく彼らと一緒にいられるようになると話しました。」(クリスチャンへの警告 第10集、10頁)

ベルナルダ・フェルナンデス(クリスチャン女性)

主イエスによって、天国と地獄を案内される。

「私は彼にこう尋ねました。『この地獄にはクリスチャンたちがいるのでしょうか?』
彼はこうお答えになりました。『そうです。なぜ、そうなのか、わかりますか?彼らは、私を信じていましたが、私の言葉にしたがって歩んでいませんでした。神の宮にいる時だけ、自分の牧師や自分の家族の前にいる時だけ立派に振る舞うクリスチャンが、おうぜいいます。私の父の目は、どんなことも見ておられ、あなたがどこにいても、彼は全てのことばを理解しておられるのです。私の民に告げなさい。彼らは、私の父の御前でも、悪魔の前でも、また、世の前でも、聖い生活をするべき時であると。悪魔に私の民を非難する権利を持たせてはいけません。また、この世に私の民を指差せてはいけません。今は、聖さと献身を求めるべき時です。』」(再臨・携挙・永遠、29頁)

カルメロ・ブレーンズ(スペイン系アメリカ人、牧師)

1982年に起きた事故による臨死体験で地獄へ落ちるが、主によって救出される。

「彼はまた、私をある場所のそばに連れていきました。そこには、牧師たちや伝道者たちや宣教師たちや、大勢の信者たちがいました。彼らは、様々な理由で、そこにいました。・・そこには一人の宣教師もいました。彼は、アフリカで、ある宣教団体を開設するためにお金を募りましたが、そのお金を半分しか使いませんでした。彼は、残りのお金を自分のために取りました。そして、今は彼はその場所で憐れみを求めて懇願し、自分のお金ではないそのお金を返すためにもう一度チャンスを求めて懇願しているのです。」(再臨・携挙・永遠、63項)

オルガ(ロシア人、クリスチャン)

1996年、19歳の時、突然の天使の来訪によって、地獄の淵へと案内される。

地獄の淵で見ることを許された一人の男性について。この男性は、地上にいた時に、婚前交渉を行って姉妹を妊娠させてしまったが、その事実を明らかにした姉妹を「偽り者」だと非難し、教会から追い出した。以下、その男性自身による証言。

主は、私に悔い改めるよう呼びかけられ、この姉妹のところに戻って行き、彼女を受け入れるようにと語られました。私は彼女と罪を犯していたので、彼女と結婚するという約束を彼女にしていたのです。ところが、私はそれを果たしませんでした。私は人々の前で恥をかきたくなかったのです。その後、しばらくしてから、この姉妹の涙のために、私は自分の命を絶ったのです。』彼は、地獄に行きました。なぜなら、彼は悔い改めなかったからです。」(クリスチャンへの警告 第3集、24~26頁)

ジェニファー・ペレツ(クリスチャンの少女)

1997年、15歳の時、臨死体験で、天の神の前で有罪判決を受け、地獄を垣間見る。

「私がよく見ると、私の前に父なる神様が見えました。ただし彼の御顔は見えませんでした。彼の栄光の輝きのためにです。それは、とても大きく、とても明るく、天国中を輝かせて、明るくしていました。彼の栄光はどんなものをも輝かせていました。そこには太陽はなく、月もなく、星もなく、彼がその光でした。私は確かに彼の体を見ました。そして彼の体は御子とともにおられました。彼らはお互いの内側で一つとなっておられ、彼らはいっしょでした。彼らを別々に見ることも可能でしたが、彼らは一方が他方の内側におられ、彼らはいっしょでした。・・・私がそこで主の御前にいると、彼は私に私の人生の映画を見させてくださいました。始まりから今に至るまです。彼は私に、その最も重要な部分は、私が救われた後に、私がした様々なことであると語られました。私は私の友人たちに、自分はクリスチャンだと話していましたが、実際には私は自分のクリスチャンとしての実を現してはいませんでした。そして彼は私に、私は地獄に行くことになっていると語られました。」(クリスチャンへの警告 第3集、74頁)

エイブラハム・ジョージ(アメリカ・アラスカ州)

2005年11月29日の臨死体験において、主イエスによって天国と地獄を案内される。

「(地獄の中で)主は私に、ユピック語を話す三番目の人をお見せになりました。彼は説教者でした。『私にもう一度チャンスをくれ!私はずっと主に仕えてきたし、牧師としての働きを生涯してきた。なぜ私がここにいるのだ?』彼はこれを三度言いました。その三度目の後、主は彼にこうお答えになりました。『あなたが地上で生涯ずっと私に仕えてきたと言ったのは、その通りです。しかし、あなたは一人の人物を憎んでいました。そして、あなたがその一人の人物を憎んだ時、私を憎んだのです。あの裁きの日まで、あなたはずっとここにいます。そして、それから、あなたは火の池の中へ投げ込まれることになります。』
マタイ6:14~15はこう言っています。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(クリスチャンへの警告 第10集、35~36頁)

アバデヨ・アデムジニ(ナイジェリアのクリスチャン)

2015年8月2日の臨死体験で、天国を垣間見、主から自分の教会の霊的状態を示される。

さらに主は、大勢の人の名前が、初めは『命の書』に書き込まれていたのに、この世の心配や追求のために、主の来臨のための備えをすることを忘れてしまい、彼らの名前は『命の書』から削除されていると言われました。(黙示録3:5)
彼らは、地上のもの、『何を食べようか』とか、『何を飲もうか』とか、『何を着ようか?・・これら全てのもの』(マタイ6:31,33)を祈り求めていながら、『神の国と彼の義を第一に探し求め』続けることを忘れています。」(クリスチャンへの警告 第10集、100頁)

ノンコリソ・ジェレカ(南アフリカ共和国のクリスチャン女性)

元高位の悪魔崇拝者であり、その当時の活動を詳細に記録している。

「だれかが死にかかっている時、私はその人物が聖いかどうかを調べるべく送られました。もしその人が聖くなかったら、私は彼の名前を私たちの書物に書き込みました。そうして、裁きの日に彼が私たちと一緒に地獄で焼かれるようにするためです。」(クリスチャンへの警告 第16集、44頁)

「クリスチャンであっても、魔術師たちによって用意された薬などを使っているなら、私たちは神の前でその人を非難し、「彼は、創造者を礼拝する代わりに被造物を礼拝している」と言っていました。・・もしあなたが、イエス様にではなく、そういう薬に信頼を置くなら、あなたは罪を犯しているのです。そういう薬には、私たちか魔術師たちのいずれかによって賦与されている悪霊どもがいるのです。私たちはすぐにあなたの名前を私たちの書物に書き込みます。なぜなら、あなたが私たちに属しているからです。」(クリスチャンへの警告 第16集、52~53頁)

オスシツェ・ムシ(ボツワナ共和国、聖書教師・預言者)

2010年以降、主イエスにより、幾度も天国・地獄へ案内され、再臨・携挙・終わりの時代などに関する幻やメッセージを与えられている。また、全ての訪問体験を、詳細に記録している。

「多くの人が地上で不注意な生活を送っています。私がこの地獄の体験をあなたにさせたのは、あなたが彼らに警告をするためです。
私の道から離れた、あの背教者に警告しなさい。
二重の生活を送っている、あの者に警告しなさい。
あの不信者に警告しなさい。彼らは地獄の火の危険の中にいます
彼らに告げなさい。だれ一人、あの火の炎を一瞬でも耐えることのできる者はいない、と。
彼らに告げなさい。罪人は誰も私の国に入ることはないと私のことばが言っている、と。
もし彼らが悔い改めて自分の道を変えなければ、天の御国に入ることは決してありません
彼らに告げなさい。彼らの道を速やかに改め、悔い改めて彼らの罪から立ち返るように、と。
私は天から聞いて、彼らの罪を赦しましょう。
もし手遅れになる前に私のもとに急いで来るなら」(クリスチャンへの警告 第6集、127頁)

「私は来ようとしています。
幸いなことよ、霊的に目を覚ましていて、最後のラッパが吹かれる時にそれを聞くことになる人々は。
私の到来は、突然で、取り消すことのできないものとなります。
その後は、同じままのものは何もなくなります。
この世により、あなた自身を汚してはなりません。
あなたの服をきれいで清らかに保っていなさい
あなたがたの頭を上げなさい。
上に目を向けていなさい、あなたがたの贖いが近づいているからです。』」(クリスチャンへの警告 第6集、91~92頁)

サンダー・シング

サンダー・シングは、かつてインドを中心に世界中で活躍した有名な伝道者で、神に対する純粋で献身的な信仰で知られていた人です。サンダーが行くところ、どこにおいても神の臨在が現れ、彼の衣に触れただけで癒される人が続出するほどだったので、「パウロの再来」とも言われていました。

彼は、多くの時間、生けるキリストと直接的な交わりを持ち、その著書の中で、主との多くの会話を記録しています。

「弟子ー主よ、わたしは、平和と幸せが去ってしまったような気持ちになることがあります。これは、自分の隠れた罪によるものですか。それとも自分にはわからない何か他の理由によるものですか。

キリストー 一、不従順による場合も確かにあるが、わたしが子供たちを一時離れるようにみえるため、彼らが心寂しく落ち着かなくなる場合も確かにある。このような状態にある間に、わたしは彼らの本当の姿、決定的な弱さを明示し、わたしを離れては干からびた骨同然であることを教えることができる。それは、彼らが憩いと平和ばかりの中で自分たちの本来の状態を忘れ去り、自分を神と思い込み、慢心によって地獄の刑罰に落ちたりしないためである。・・・心を低くし謙虚に創造主であるわたしの中に生きるときに、彼らは天の永遠の幸せを楽しむのだ。」(サンダー・シング『インドー永遠の書』254頁)

「永遠の保証」を肯定する証は存在するか

今回の論考にあたり、国内において、こうした霊的体験の証に最も詳しいと思われる「エターナル・ライフ・ミニストリーズ」(『クリスチャンへの警告』の出版元)に問い合わせを行いました。問い合わせ内容は、キリストの神性を認める霊的体験の中で、逆に「永遠の保証」を肯定するようなものを目にしたことがあるか?というものです。

同団体からの回答は、「『一度救われたら、救いを失うことはない』という内容のものは、一つも無い」ということでした。

また、私自身、同団体で紹介されているもの以外の様々な証にも目を通してきましたが、やはり「永遠の保証」を肯定する内容のものは、一つも見つけることができませんでした。

そして、本レポートでご紹介した証は、あくまで、世界中で数多く存在する「永遠の保証」を否定する体験証言の、氷山の一角に過ぎないのです。

まとめ

一連の考察から明らかにされたこと

最後に、一連の調査からわかった事実を、以下にまとめます。

【1】重要な聖書的基準に合致する「臨死体験報告・幻・預言・体外離脱体験による天国・地獄訪問等の証」が、現代、世界中で多く存在する。

【2】それらの証を調査すると、キリストの神性だけでなく、イエスが道・真理・命であること、イエスの十字架が罪の贖いであること、大艱難の前に携挙があること、大艱難の終わりに地上再臨があること、聖書全体が神の啓示であること、天国・地獄が永遠の場所であること、等の他の重要項目においても、見事な一貫性と、聖書の教えとの一致がある。また、それらの項目は、他の啓示宗教において、一貫して否定されている項目でもある。

【3】体験者たちは、これらの霊的体験を通過することによって、「イエスを主と告白する」「罪を悔い改める」「キリスト・神の言葉に対する信仰を強める」という変化を経験している。

【4】これらの体験報告において、「永遠の保証」は一貫して否定されており、逆にキリストの神性を示す霊的体験において、「永遠の保証」を肯定するものを見つけることができない。また、それらの体験報告は、宗教や宗派・国や地域、民族を越えて、あらゆる人々から届いている。したがって、「永遠の保証」の正当性を擁護するためには、現代に存在するあらゆる霊的体験報告のほとんどを「悪魔によるもの」と断定する必要が生じる。

【5】これらの霊的体験によれば、イエスにとって、「たとえ救われた信者であっても、聖さを保たなければ天に入ることができない」(永遠の保証の否定)という教えは、全ての信者の永遠の救いに関わる重要な問題であり、世界中で警告すべきメッセージとなっている。

【6】これらの霊的体験において、キリストが永遠の保証を否定する場合、聖句を引用したり、聖句をベースに語られている場合が多くある。そして、取り上げられている聖句を文脈に沿ってよく読むと、語られる内容と一致する解釈が決して不可能ではない、という点が見えてくる。

本記事の「臨死体験・幻」などからの考察や、前回の記事「聖書からの考察」を通して、読者の方々は、どのような結論へと導かれたでしょうか?

筆者としては、前の記事も含めた、一連の考察を踏まえた上で、その結論は明らかだと考えています。なぜなら、繰り返し語られている聖書の明白な警告の数々、そして、一貫性のある幻・預言からの考察等、考慮すべきあらゆる情報の全ては、永遠の保証を否定しているからです。

しかし、筆者としては、最終的にこの記事を読む読者の方々が、それと異なる結論へと導かれるとしても、その考えを裁いたりせず、尊重したいと思います。

記事を終えて:筆者の感想

一連の記事を公開するにあたり、改めて内容を読み返してみて、筆者の心の中には、その公開を躊躇する思いが生まれたりもしました。その理由は、これらの記事の内容は、救われた信者に対し、少なからずの「恐れ」を生じさせるものだからです。

実際のところ、永遠の保証が正しく、一度救われた人が、決して救いを失うことが無いのであれば、どんなに良いことでしょうか。私は、数多くの地獄の体験証言に目を通してきた経験から、本当にそう思うのです。一度救われてさえいれば、いかなる行いにも関わらず、絶対に地獄行きを回避できるのであれば、その教えは本当に安心をもたらすものではないでしょうか?

だから、今回紹介してきた「キリストが語った」とされる言葉の中で、厳しい印象をもたせる文章を部分的に削除し、全体をもっとオブラートに包むような内容にしたい、という思いにも少しばかり駆られたのです。

しかし、もしも私がそのような事をすれば、主の語りかけを忠実に伝えていないことになります。キリストが心を尽くして警告しているメッセージに、混ぜものを加えていることになります。それは、私にとってはあり得ないことです。私は、決して読者の方々に「間違った安心感」を与えるべきではないのです。私の仕事は、神の御心を忠実に伝えることであって、それ以上のことについては、聖霊がなされることだからです。

また、もしも本記事が、読者の方々にある程度の「恐れ」を生じさせるものだとしたら、「ヨハネの黙示録」はどうなるのでしょうか。控えめに言っても、神の裁きを厳粛に表現したヨハネの黙示録は、決して生易しいものでは無いはずです。しかし、使徒ヨハネは、人間的な感情よりも、神に従うこと、神の言葉を忠実に伝えることを選びました。

「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示録22:18~19)

そして、結局のところ、本記事で紹介した啓示であれ、ヨハネの黙示録であれ、その中で示されている真理と聖と義の基準については、聖書全体において、繰り返しはっきりと書かれてきたことなのです。

「16 主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。17 高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、18 邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、19 まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いをひき起こす者。

20 わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。21 それをいつも、あなたの心に結び、あなたの首の回りに結びつけよ。22 これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。

23 命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。」(箴言6:16~23)

今日において、キリストが世界中でこのようなメッセージを繰り返し警告しているのは、私たちに対する神の愛と憐れみのゆえです。彼は、多くの人々が、神の言葉を侮り、不注意に生活し、間違った安心感を抱いて生きているために、滅びへと向かっているのを毎日見ており、その悲しみゆえに涙を流されているのです。

「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。22 彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。23 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル18:21~23)

「41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、42 言われた。『おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。・・やがておまえの敵が、・・おまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(ルカ19:41~44)

もしも、あなたが今、罪の中を生きているのなら、もしも悔い改めていない罪を聖霊に示されたのであれば、速やかに、神の前に祈り、その罪を告白し、悔い改めて下さい。主は真実な方ですから、イエス・キリストにあって、全ての罪からあなたを清めて下さいます。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)

また、本記事によって、多少なりとも恐れを感じてしまった方々には、次のことをお伝えしたいと思います。それは、私たちが神の御心について、正しく、バランス良く理解することができれば、その歩みは必ず「恐れや不安」ではなく、「平安と希望」をもたらす、ということです。神の言葉には偽りは無いからです。

「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。」(イザヤ48:18)

また、神があなたに「聖く生きなさい」と命じているのに、あなたに聖く生きるために必要な力を与えない、ということがあるでしょうか?どんな将軍でも、自分の部下に戦闘を命じる時に、戦いに必要な武器を与えるのと同じように、神はあなたが、地上生涯を忠実に歩むことができるよう、完全な恵みを与えて下さるのです。

「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6~7)

だから、「私にはできない」という信仰を終わりにし、むしろ勇気を持って「イエス・キリストの名によって、私にはできる」という信仰へと変革させ、それを口で告白し、行動して下さい。神は、あなたが信じた通りの恵みの力を、必ずあなたにお与えになるでしょう。

「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:20)

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:13~14)

最後に、今回多く引用させていただいた『クリスチャンへの警告』の中から、特に印象深かった箇所をご紹介し、本記事を閉じさせていただきます。

行って、人々に告げなさい。誰かが天国に入りたいと願うなら、私、イエスは、彼が天国に来るために必要とするどんな恵みをも彼に与えます。しかし、誰かが地獄に行きたいと願うなら、サタンが彼に、彼がそこに来るために必要とするどんなサポートでもすぐに与えるでしょう。」(警告2、82頁)

耳を持っている者は、イエス・キリストが彼の教会に語ることを聞きなさい。幸いなことよ、地上の生活のプライドと肉の欲から離れる者、また、この堕落した世界の、世俗的で、不敬虔で、世的な道と、あの堕落した者であるルシファーとを棄てる者は。」(警告11、93頁)

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脚注

[1] 「エターナルライフ・ミニストリーズ」に対する代表的な批判の二つは、キリストによるものとされる多数の啓示の紹介と、ケネス・ヘーゲン氏の書籍の紹介、だと言えるでしょう。(1)啓示の紹介という点についてですが、筆者が実際にそれらの書籍に目を通す限り、啓示の信頼性を評価する際の聖書的基準に合致しているものがほとんどです。この点については、過去に同団体にも問い合わせを行いましたが、何でもかんでも紹介しているのではなく、ちゃんと内容を吟味した上で紹介をしている、という回答をもらっています。 (2)ケネス・ヘーゲン氏は、一般的に、「繁栄の神学の父」と呼ばれ、厳しい批判を受けている人ですが、その問題について、同団体は、事実と異なる批判に対し、返答する記事を多数公開しています。(ヘーゲン氏への的はずれな批判)実際に筆者は、同団体が発行するケネス・ヘーゲン氏の書籍を数冊読んだことがありますが、クリスチャンの繁栄について、偏ったことを教えるものではなく、むしろ、非常にバランスの取れたものでした。こうした理由から、筆者としては、以上に挙げた二つの点についての同団体の立場について、聖書的に問題の無いものと判断しています。ただし、同団体が発行する全ての書籍に目を通したわけではありませんので、その点はご承知下さい。

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5件のフィードバック

  1. バーマン より:

    エターナルライフ・ミニストリーズへのメールでの問い合わせは、どうやってしましたか?書籍を購入しようと思っているのですが、「保護されていない通信」サイトであるため、入力したくありません。

  2. O.M より:

    赤ちゃんクリスチャンとは具体的にはどのような状態なのでしょうか?御言葉を聞いて喜びを感じるならば、もう赤ちゃんクリスチャンではありませんか?それとも赤ちゃんクリスチャンが大人のクリスチャンになるには聖霊のバプテスマが必要なのであり、福音派の牧師は赤ちゃんクリスチャンなのでしょうか?

    • true-ark より:

      ご返信遅くなり申し訳ございません。赤ちゃんクリスチャンとは、一般的な意味で理解すれば良いと思います。つまり、まだイエス様を信じたばかりで、神の御心を正確に捉えたり、その教えに沿って十分に行動することができなかったりする段階です。

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