永遠の保証~聖書からの考察: 一度救われた後に、救いを失うことはありますか?


永遠の保証の再考: 一度救われた後に、救いを失うことはありますか?

「一度救われた後に、救いを失うことはありえるのか」この問題は、救いに関わる極めて重要なテーマですが、キリスト教の歴史において、多くの議論が交わされてきたテーマでもあります。

「一度受けた救いは、信者の側の行いや生き方に関わらず、二度と取り消されることがない」という教えは、専門的に「永遠の保証」と呼ばれますが、この教えを聖書に基づいて再考することが、本記事の目的となります。そして、論考を進めて行く前に、このテーマを巡る、二つの重要な点を確認しておきます。

1:議論のあるテーマである
「永遠の保証」は、キリスト教の歴史において、多くの議論が交わされてきたテーマです。この立場を支持する代表的なグループとしては、「カルビン派」を挙げることができ、一方、永遠の保証を否定するグループとしては、「アルミニウス派」を挙げることができます。

今日、カルビン主義の流れを汲む教会は、かなりの数に上ると考えられますが、一方で、アルミニウス主義の流れを汲む教会の数も、決して少なくは無いでしょう。また、これまでに私が確認する限り、世界中のペンテコステ派系の教会においても、永遠の保証を支持していない教会は、ある程度の数に上るはずです。

また、聖書を読み進めていくと、どちらの立場についても、それを支持するような聖句が多数見出されることは事実です。したがって、筆者としては、永遠の保証の是非を巡ってクリスチャンが分裂すべきでは無い、と考えます。

2:重要なテーマである
一方で、信者の側の生き方が救いに影響を与えるかどうかは、全ての信者の永遠の命に関わる重要な問題であり、真剣に考えるべきテーマでもあります。もしも、永遠の保証が真理であれば、救われた後の生き方に関係なく、信者は安心して生活できることになります。

しかし、もしも永遠の保証が誤りであれば、実際には救いが取り消されているにも関わらず、間違った安心感をいだき、罪に対する悔い改めが不足し、結果的に地獄へと落ちている信者が生じていることになります。そして、前者の場合よりも、後者の場合の方が、永遠の視点において、比較にならない程の深刻な結果をもたらすことになります。

ですからこの問題は、全てのクリスチャンが、聖書の言葉そのものから、しっかりと著者である神の意図を汲み取ることが大切です。そして、この教理を巡って、多様な議論があるにしても、筆者としては、自ら聖書を読み直す中で、「この重要な問題について、神は非常にはっきりと警告をしている」という結論に達し、論考をまとめるよう導かれました。

本記事を読む全ての読者の方々が、聖霊に導かれつつ、このテーマに関する神からの語りかけを、はっきりと聖書から知ることができますように。

概観する

永遠の保証について聖書から詳細に論じていく前に、まずは、このテーマが何を意味しており、何が注目すべき点なのかを、簡潔に確認していきたいと思います。

「永遠の保証」とは、一度救われた信者は、その後の歩みに関わらず、二度と救いを取り消されることが無い、という教えです。それが意味するところは、例えば、真にキリストを信じて救われたある信者が、その後の人生で堕落していき、罪の中に生きるようになり、悔い改めずに死んだとしても、その人の救いは取り消されることが無い、ということです。

つまり、その人が救われて天国へ行くかどうかを決定づける唯一の要因は、その人がキリストを「信じ続けたかどうか」ではなく、人生のある段階において、「真にキリストを信じたことがあるかどうか」となります。また、信じた後の生き方が、救いに影響を与えない、ということは、「行い」は、救いとは一切関係が無く、信者に働く神の恵みだけが、全面的に、そして一方的に、その人の救いを決定づける要因ということになります。

もっとも、永遠の保証を教えるからと言って、「罪を犯しても良い」ということにはならず、聖霊の導きに背いて生きるようになれば、神からの厳しい訓練は生じる、とされます。ただし、救いが永遠に保証されている以上、永遠の滅び、という最悪の結果は免れる、ということになるわけです。

一方、永遠の保証が真理で無いとすれば、一度信じて救われた後も、救いを完成させるために、キリストの教えにしたがって生活し続ける必要があることになります。ですから、信じた後に堕落し、かつ悔い改めない場合は、最終的に、救いが取り消されることになります。そして、信仰だけでなく、信者の側の「生き方」、つまり「行い」も、救われるために必要であることになり、信者に働く神の恵みだけでなく、それに応答する信者の「自由意志」も、救いに影響する要因であることになります。

ですから、永遠の保証と関連して注目すべきポイントは、「救いと行いとの関係」や、「救いにおける神の恵みと人間の自由意志のバランス」であることがわかります。以上の要点を踏まえつつ、まずは聖書が救いについて述べる三つの段階について、基本的な点を抑えていきたいと思います

義認・聖化・栄化―救いの各段階の考察

救いにおける三つの段階―義認・聖化・栄化とは

聖書は、人間の救いに、「義認・聖化・栄化」という三つの段階(及び側面)があることを教えていますが、永遠の保証に関する議論においては、それらの段階を混同せずに、きちんと分けて考えなければ、話が平行線を辿りやすくなります。そこで、まずはこれらの各段階についての聖書の教えを、簡潔に確認していきます。

義認

義認とは、神が罪人を義と宣言することを意味しますが、その宣言が可能となったのは、キリストが私達の罪のために十字架にかかり、罪の赦しをもたらして下さったからです。そして、人はだれでも、イエス・キリストを信じた瞬間に、この「義認」の恵みを、神から受けることができます。

「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:22)

なお、義認とは、罪が取り除かれる段階ではなく、まだ罪を持つ人が、キリストの贖いに基づいて、最高裁判官である神から「無罪宣告」を受けることを意味します。

聖化

聖化とは、義認を受けた信者が、聖霊の働きにより、徐々にキリストの似姿へ造り変えられていくことを意味するものです。信者の内側には、義認を受けても罪の力が残るので、その後の地上生涯全体を通して、徐々に罪から解放され、清められていくプロセスが必要となるのです。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3:18)

栄化

栄化とは、信者の救いが将来的に完成した状態を意味し、それは天において成し遂げられます。そして、栄化された信者は、罪の力から完全に解放され、義の性質が確定するため、それ以降二度と罪を犯すことが無くなります。

「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」(黙示録2:11)

このように、全ての信者は信じた時に「義認」を受け、その後「聖化」のプロセスを経て、地上生涯を終えて「栄化」される時に、救いの完成に至ることがわかります。つまり、全てのクリスチャンは、すでに救われており、救われつつあり、将来救われる、と言うことができるのです。

なぜ区別して論じる必要があるのか

義認・聖化・栄化、という救いの三つの側面を考慮すると、聖書が救いに関して説明する際、「三つの段階全てに関わる救いの本質について述べている場合」と、「これら三つの内のどれか特定の段階について述べている場合」があることに気付きます。そして、ある段階について述べられている事柄が、別の段階には適用できないことがあります。

例えば、その重要な事例として、義認の段階において決して言及されないような事柄が、栄化との関連においては、繰り返し警告されるようなケースがあるのです。(この詳細は、追って取り上げます。)

このような理由から、聖書に基づいて救いを論じる際は、その内容によって、これらの各段階を混同せずに説明する必要があるのです。以上の点を踏まえ、これから「義認」の段階と、「栄化」の段階について、聖書が何と述べているのかを見ていきますが、永遠の保証というテーマとの関連で、特に注目する必要のある「救いと行いの関係」を中心に確認を進めていきます。

信仰義認―行いは関係無い

聖句の確認

「救いは信仰のみによるのであり、行いは関係無い」というフレーズは、プロテスタントの中でも、特に福音派の間でよく語られる表現かもしれません。この考えの重要な根拠は、主にローマ書とガラテア書において、パウロが数章に渡って論じている事柄に基づいています。(他にも、エペソ2章などを挙げることができます。)そして、「信仰」と「行い」を分けた上で、救いを「信仰のみ」と表現する聖句は、新約聖書全体において、おそらくこれらの箇所のみだと考えられます。

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」(ローマ3:27~28)

「もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。」(ローマ4:2)

「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテア2:16)

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

考察

以上に挙げた一連の聖句から導き出せる結論は、次のようなものです。

【1】「信仰」と「行い」を分けた上で、救いの条件を「信仰のみ」と表現するほとんどの聖書箇所は、主に「義認の段階」について論じている箇所です。現に、これらの聖句を元に、ルターによる「信仰義認」の教理が確立してきました。

【2】義認の条件については、これらの聖句において、一貫性を持って、多角的な視点で論じられています。したがって、義認には行いが関係なく、信仰のみによる、という理解は、絶対的な教理として確立するに値します。(参考:「教理の絶対性を主張する際の必須条件」)

【3】これらの聖句の中で、「義認」だけでなく、「救いの本質」について表現していると思われる箇所も存在します。したがって、その点については、他の聖句において、救いや信仰の本質について何と述べているのかを踏まえ、総合的に判断する必要があります。

【4】これらの聖句は、基本的に「義認の段階」について述べたものであり、「栄化の段階」、つまり神の国に入る段階について、焦点を合わせて述べているものではありません。したがって、これらの聖句だけを根拠に、「栄化にも、行いは一切関係が無い」と考えることについては、慎重な態度を持たなければなりません。

補足すべき点

聖書の中には、「救いは信仰による」と述べている膨大な箇所が存在しますが、その点を踏まえ、「栄化には行いは関係無い」とする見方があります。

聖書全体において一貫していることですが、人間の救いは、常に「神の恵み」と「人間の側の信仰」によって完成へと導かれます。つまり聖書は、人間の救いの原則が、「恵みと信仰」であることを一貫して述べています。例えば、以下の有名な聖句は、その原則が明確に述べられています。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

次に、ここで言う信仰とは、どんな信仰であるのかが問題となりますが、その点を理解する上で、無視することのできない聖句が、ヤコブ2章です。ここでヤコブは、14節~26節に渡って、真の信仰と行いとが、決して切り離せない関係にあることを、多角的な視点で論じています。

「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」

またこの点は、聖書の他の箇所とも完全に調和しています。例えば、以下の聖句です。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)

この聖句は、「栄化の段階」について述べたものですが、救いのために求められる信仰が、実際的な行いを伴う「本物の信仰」であることを明白に示しています。そして、「救いに至る信仰とは、行いの伴うような本物の信仰のことである」という点は、聖書全体において、一貫性を持って、多角的な視点で論じられているため、確立された教えだと理解して良いと考えます。

また、このような点を考慮すると、「救いの原則は恵みと信仰である」という教えは、「栄化には行いは関係無い」という主張を擁護するものとはならないことがわかります。なぜなら、真の信仰は、行いと切り離して考えることができないからです。

栄化―真の信仰と避けるべき肉の行い

聖句の確認

栄化の段階とは、神の国に入って救いが完成し、罪から完全に解放されることを意味しますが、この段階に至る条件ついて聖書が述べる時には、聖書全体の一貫性を持って、「避けるべき行い(禁止事項)」が示されています。つまり、義認の段階においては、「信仰」と「行い」を分けた上で、「信仰のみ」が要求されているのに対し、聖化~栄化に至る段階においては、一貫して「肉の行いを避ける」ことが要求されています。この点は、多くのパウロ書簡や福音書等、また聖書全体で一貫しており、動かすことのできない教えだと言えます。

そして、栄化に至る条件について述べる箇所で、「信仰」と「行い」を分けた上で、「行いは関係無い」と説明する聖句を、私は一つも見つけることができません。

※なお、以下のご紹介する聖句の多くは、救済論において、「栄化」ではなく、「聖化の勧め」としてリストアップされるものです。しかし結果的に、それらの聖句が「栄化に至る条件」を明示している、という点に着目し、ここで挙げさせていただきました。

「27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:27~30)

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテア5:19~21)

「9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(第一コリント6:9~10)

「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」(エペソ5:5~6)

「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。」(コロサイ3:5~6)

「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6 また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。7 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。」(第一テサロニケ4:3~7)

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。15 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、」(ヘブル12:14~15)

「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。」(ヘブル13:4)

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21:8)

「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。」(黙示録22:15)

上に挙げた一連の聖句は、重要な聖句のリストアップですが、聖書全体を網羅するなら、他にもたくさんの同じような警告の聖句を挙げることが可能です。そして、一連の聖句から導き出せる結論は、次のようなものです。

考察

【1】栄化の段階、つまり神の国に入るかどうか、霊的に生きるか死ぬか、に関して言及する聖句をリストアップすると、非常に多くの箇所において、不信仰や重大な罪を避ける必要のあることが示されています。そしてこの点は、聖書全体に渡り、一貫性を持って、多角的な視点で論じられているため、動かすことが不可能な教えであると言えます。

【2】(A)文脈を考慮すると、義認を受けた信者に向けた警告となっている聖句も多く存在します。(B)そして「義認を受けているかどうか」に関係無く、肉の行いをする者は神の国へ入れない、とする聖句も多く存在します。(C)一方「義認を受けていれば、これらの警告は適用されない」という条件を付す警告は存在しません。*[1]

【3】聖書の明白な教えによれば、真の信仰と行いとは、決して切り離すことはできませんが、その点は特に、ヤコブ2章全体で詳細に論じられています。そのため、栄化の段階について述べる聖句において「避けるべき行いが要求されている」という事実は、言い換えれば、「義認を受けた後に、真の信仰を保持することが要求されている」とも言えます。

「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)

補足事項

上に挙げた一連の聖句の中で、救われた信者に対する警告となっているものが多い、という点ですが、例えば、以下のガラテア5章の聖句です。

「ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテア5:21)

パウロはこの警告の対象を「あなたがたにあらかじめ言っておきます」と明確にしており、書簡全体の文脈において、その「あなた方」は、救われたクリスチャンであることを前提としています。

また、この警告は、15節の「互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」という忠告からの流れにおいて、語られています。つまり、ガラテア5章19~21節は、文脈上、救われたクリスチャンに対する警告として、意味が明瞭な聖句となっています。

聖書解釈学のルールにおいては、明瞭な聖句は不明瞭な聖句に優先して解釈することができますが、既に明瞭な聖句に対し、他の意味を探すことはできません。

また、山上の垂訓に含まれる数々の警告に関しても、一連の教えはイエスの弟子たちを対象に語られていますので、信者に対する警告となっている、という事実は否めないと言えるでしょう。

救いに関してパウロが語ったこと

一連の聖句を踏まえ、諸教会に宛てたパウロ書簡を確認していくと、「義認・聖化・栄化」という救いの各段階について、パウロは次のような点を、おおよそ全ての開拓する教会において、重点的に語っていたことが伺えます。

(1)あなた方は、恵みと信仰によって、救われた。行いによるのではありません。(義認)

(2)しかし、勘違いしてはなりません。あなた方が救われたのは、キリスト・イエスにあって、良い行いをするためであって、以前のような罪深い生活を送るためではありません。(聖化)

(3)よく覚えておきなさい。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、盗む者、貪欲な者などはみな、神の国を相続することができません。(栄化の条件)

このように見ていくと、パウロは、義認については一貫して行いの必要性を避けて論じていますが、栄化の段階については、一貫して「避けるべき行い」について言及をしていることがわかります。そして、これら「避けるべき行い」は、モーセの律法に基づくものではなく、「キリストの律法」に関わる部分だと言えます。

神の守りと信者の自由意志について

神の守りの永遠性と完全性

神の守りの永遠性と完全性は、「永遠の保証」を肯定する上で、考慮されるべき重要な点ですが、聖書は確かに、救われた信者に対する神の守りが、永遠で完全であることを述べています。そして、この点は、以下に挙げる聖句だけでなく、聖書全体の教えとの一貫性が見られるため、議論の余地の無い真理だと考えて良いでしょう。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:29)

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(ヨハネ14:16)

信者の側の自由意志

では、神の守りが完全であるのだから、たとえ信者がどのような罪を犯して悔い改めないとしても、その守りは永遠に完全に働くのでしょうか?聖書は、その問題について、別の側面を明らかにしていると考えられます。

「わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。」(黙示録3:11)

イエスはヨハネ10章において、「だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません」と語りましたが、一方で、黙示録3章において「自分の冠をだれにも奪われないように・・しっかり保ちなさい。」と警告しています。ここでの「冠」とは、新約聖書・および黙示録の文脈上、「命の冠」のことを表します。

もしも、義認を受けた信者の霊的命に対する神の守りが無条件であれば、信者がしっかりしていようと、していなかろうと、命の冠は保たれます。しかしイエスはここで、冠を奪う者(悪魔)が存在し、彼に奪われないためには、信者がそれをしっかり保つ必要があるとしています。

つまり、救われた信者には、神の側の完全な守りが働くのと同時に、自分の冠を奪われないように保つ責任があることも示されているのです。

また、以下の聖句においても、信者が自分の意志によって、キリストにとどまることも、離れることも可能であることが示されています。

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。6わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」(ヨハネ15:4~6)

ここでイエスは、信者に対し、「わたしにとどまりなさい」と語り、もしとどまらないのであれば、投げ捨てられ、焼かれてしまう、と忠告しています。もしも、神の守りが、信者の霊的状況に関係無く、無条件に働くのであれば、信者はキリストから離れることは不可能です。

しかし、イエスはこの文脈において、信者がキリストの内にとどまらず、離れることも可能であることを述べています。以上の点を総合して考えると、救われた信者の上には神の完全な守りが働きますが、その後も、信者が自由意志によって、神の守りから離れることが可能だと理解できます。つまり、救いの完成に至るためには、神の恵みと、信者の信仰の保持の両方が必要とされているのです

例えば、イエスはご自分を「羊飼い」だと語りましたが、もしも羊が、囲いの中にいるなら安全です。しかし、もしも羊が羊飼いを信頼せず、自らその囲いから出る道を選ぶなら、もはや羊飼いの守りを期待することはできなくなります。

また、救われた信者が持つ冠は、神の絶対的な力によって守られていますが、もしも信者が、自らそれを投げ捨てるなら、話は変わってきます。現に、黙示録に登場する7つの教会では、多くの信者が、キリストから離れているか、離れつつあることが示されているのです。

信仰の保持の必要性~救いの完成に至るために

ここでは、栄化に至るために「信仰の保持」が必要であることについて、さらに複数の聖句から、その原則を確認していきます。

罪の告白~光の中を歩む方法(第一ヨハネ1章)

キリストを信じて救われた後も、人は依然として罪を犯しますが、その罪から清められるためには、「罪の告白」が必要であることが、以下の聖句によって示されています。

「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。8もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。9もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:6~9)

【1】この聖書箇所は、もし私たちが光の中を歩んでいるなら、御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめる、としています。つまり、御子の血によって全ての罪からきよめられるためには、光の中を歩む必要がある、としています。

【2】「罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており」とありますが、文脈上、ここでの罪とは、信者となった後に犯す罪です。ですからヨハネは、どんな信者でも、信じた後に何らかの罪を犯すことを認めています。

【3】繰り返される「もし」という表現からわかることは、信じた後に犯す罪がきよめられるためには、「罪の告白」が必要であることがわかります。一方、この聖句は、罪を告白しない信者に、罪からきよめられる保証が無いことを明らかにしています。

ですから、全体の文脈を考慮すると、救われた信者が、光の中を歩み、御子の血によって全ての罪から清められるためには、「罪の告白」が重要な条件となっていることがわかります。

十字架と復活の福音(第一コリント15章)

「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(2~5節、新改訳)

「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。」(口語訳)

「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」(新共同訳)

「救われるために信じるべき福音は何か」と考える時に、新約聖書全体の中で極めて重要な聖句が、上記で引用した、第一コリント15:2~5です。ここで注目すべきは、2節の「この福音のことばをしっかりと保っていれば」という部分であり、文脈を正しく考慮するならば、(1)福音を正しく信じ、(2)その福音をしっかりと保っていれば、(3)救われる、と書かれていることがわかります。

つまり、パウロがここで述べているのは、栄化に至る方法―神の国に入る方法についてであり、そのためには、福音を正しく信じた後に、それを固く保つが必要がある、としているのです。

なお、この聖句は、福音と救いの関係を論じる重要な箇所なので、パウロは読者が誤解しないよう、ちゃんと言葉を選んで正確に説明したと思われます。そして、その重要な文脈においてパウロは、栄化に至るために、ただ信じるだけでなく、福音を保つ必要があることを明らかにしているのです。

もっとも、この聖句を「福音を正しく信じる人は、必ずそれを保つということだ」という風に解釈する方もおられるかもしれませんが、信じた後に堕落したり、偽りの教えに流されたりする信者の実例が、聖書中の至るところに存在するので、断言は難しいでしょう。

また、私たちが誰かに、第一コリント15章に基づいて神の国に入る方法を語る時に、「この福音を信じるだけで救われる」と教えているでしょうか?あるいは、パウロが語った通りに、「この福音を正しく信じ、しっかりと保つなら、救われる」と正確に教えているでしょうか?

もしも、前者のように教え、「保つならば」という表現を省いてしまっているのなら、救いに関するパウロの理解と間に、何か大きなギャップがあることを考え直してみる必要があるかもしれません。

ヘブライ人への手紙における一貫性のある警告

聖句の確認

ヘブライ人への手紙は、多くの箇所において、栄化の段階に至る基準を述べていますが、書簡全体において、一貫して「もし~ならば」という条項を多く用いています。つまり、栄化に至るためには、救われた信者の側にも、自由意志にもとづく「信仰の保持」という責任があることが、一貫して示されているのです。

「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」(ヘブル3:6)

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」(ヘブル3:12~14)

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、5 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。7 土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。8 しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます」(ヘブル6:4~8)

「26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。28 だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」(ヘブル10:26~29)

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。15 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、」(ヘブル12:14~15)

考察

【1】もしも、真に救われた者が、最終的には必ず恵みの内に留まるのであれば、なぜこの手紙の筆者が、「もし~なら」という表現を書簡全体で多く用いて、救われた信者に警告を発したのか、という点に疑問が残ります。

【2】永遠の保証を信じる場合、ヘブル6章や10章の警告は、霊的な死ではなく、肉体的な裁きを意味する、という説明になる場合があります。ただし、それらの聖句で言及されているような信仰から堕落する人々は、不信仰になるだけでなく、ほとんどの場合、罪の中に生きるようになります。

そして、聖書は明瞭な一貫性をもって、不信仰の人や、肉の行いをする人が神の国に入れない、と警告していますので、それらが「肉体的な裁きのみ」を意味すると、断言することは難しいはずです。

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21:8)

「だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。」(ルカ9:26)

【3】もしも、ヘブライ人への手紙の著者が、永遠の保証を固く信じていたのであれば、「もしも、信仰を保つなら、救われる」というような表現を書簡全体で用いた可能性は、非常に低かったはずです。

「御霊にある者の命」と「肉にある者の死」の対比(ローマ8章)

8章1節の解説

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ロマ8:1)

この聖句は、永遠の保証を肯定する際や、一度信じた人が神から裁かれることがあり得ない、ということを示すために、よく用いられる重要な箇所です。そして、信者と救いの関係を考える上では、1節だけでなく、8章全体の文脈がとても重要となってきます。

まず、8章1節は、ビザンチン型テキスト(TR)を底本として訳されたキングジェームズ版(KJV)では、次のようになっています。

「There is therefore now no condemnation to them which are in Christ Jesus, who walk not after the flesh, but after the Spirit.」(KJV)

「こういうわけで、今は、肉にではなく、霊に従うキリスト・イエスにある者が、罪に定められることは決してありません。」(下線部は筆者による私訳)

KJVの聖書においては、「キリスト・イエスにある者」の定義が、「霊に従う者」だとされていることは注目に値します。もっとも、TRとRVのどちらの底本の方がより正確であるか、という議論はありますが、どちらにしても、8章の流れを考慮すると、RVには無い「肉にではなく、霊に従う」という追加文は、文脈を正確に捉えたものであることが理解できます。

8章の要約

8章の1~13節は、「キリスト・イエスにある者」(In Christ)と、肉にある者(In the flesh)の対比です。以下の要約の内容を、本文と照らし合わせて、よく吟味してみてください。

キリスト・イエスにある者は、御霊の原理によって、罪と死の原理から解放された人です。彼らは、御霊に従って歩む者であり、その人には律法の要求が全うされ、命と平安が与えられています。一方、肉にある者とは、肉に従って歩む者であり、その人には罪と死の原理が働いており、その思いは神に反抗しています。

以上の要約を踏まえ、8章では、キリスト・イエスにある「命」と、肉にある「死」が対比されているわけですが、ここで、これらの「命と死」が、肉体的な命と死のことか、霊的な命と死のことなのかを確認することが重要です。

命と死の意味

2節では、「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」とありますが、もしここでの「いのち」が、肉体的な意味だとしたら、全ての信者は、既に肉体的にも永遠の命を持っているはずです。ですから、ここでの「いのち」は霊的な命を表しています。

また、10節では、「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」とあります。もしも、ここでの「死」が、肉体的な死のことであれば、地上の全てのクリスチャンの肉体は、既に死んでいることになります。ですから、ここで論じられている命と死も、2節と同様に、霊的な命と死であることがわかります。

このように見ていくと、ローマ8章で論じられている「命と死」は、「霊的な命と死」のことであることがわかります。そして、それを踏まえて、13節の内容を確認します。

肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」

パウロははっきりと、救われたローマのクリスチャンたちに対して、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ」と断言しています。つまり、手紙の読者である信者たちが、たとえ霊に従うことによって、「キリスト・イエスにある者」(In Christ)となっていても、もし堕落し、肉に従うようになれば、彼らは「肉にある者」(In the flesh)となり、霊的に死ぬ、というのが、8章の文脈でパウロが警告している内容なのです。

また、この警告の内容には、パウロが他の多くの書簡で弟子たちに警告した内容との一貫性が見られます。

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきますこんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテア5:19~21)

ですから、ローマ8章全体の内容は、文脈を考慮して丁寧に読み進めていくと、永遠の保証を支持するものではなく、むしろ永遠の保証を否定するものであることがわかります。

死に至る罪(第一ヨハネ5章)

ローマ8章で論じられている霊的な命と死の問題について、同じことを語っていると考えられるのが次の聖句です。

「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」(第一ヨハネ5:16)

ここでヨハネは、兄弟―つまり救われた信者が、「死に至る罪」を犯すことがあると述べていますが、第一ヨハネ5章の文脈を考慮するならば、ここで論じられているテーマも、肉体的な生死ではなく、霊的な命と死であることがわかります。

「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(第一ヨハネ5:12)

ですから、ヨハネはここで、救われた信者である兄弟が、霊的に死んで滅びる可能性について、はっきりと語っているのです。

旧約聖書の事例

これと同様の原則は、旧約聖書の時代から、一貫して聖書中に見出されます。例えば、歴代のイスラエルの王の中には、はじめは忠実に仕えていても、後に堕落し、そのまま死んでいく王がたくさん登場します。代表的な例として、サウルやソロモンが挙げられます。

他には、以下のエゼキエル書の聖句は、同様の原則が示されているわかりやすい例です。

「丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、月のさわりのある女に近寄らず、7だれも虐げず、質物を返し、物をかすめ取らず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に衣服を着せ、8 利息をつけて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、9 わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守って真実を行う。このような人が正しい人であり、この人は必ず生きる──神である主のことば・・・24 しかし、正しい人が正しい行いから離れ、不正を行い、悪しき者がするようなあらゆる忌み嫌うべきことをするなら、彼は生きるだろうか。彼が行ったどの正しいことも覚えられず、彼が犯した不信と陥った罪のゆえに、彼は死ななければならない。」(エゼキエル18:6~9、24)

エゼキエル書は、当時、背信のイスラエル人に対して、肉体的な裁きが及ぶ時期に書かれた預言書です。そのため、上記の預言の警告は、第一義的には、肉体的な裁きを意味しているとも考えられるでしょう。

しかし、新約聖書において、イエスやパウロは、神の掟に背く罪を犯し、悔い改めないことは、肉体的な死だけでなく、霊的な死をももたらすことを明らかにしました。ですので、上記の警告は、霊的な死にまで及ぶものであることが、聖書全体の教えからはっきりと理解できます。

永遠の保証では説明困難な聖書中の事例

悪霊追い出しと救いの関係

新約聖書の記録を考察していくと、悪霊追い出しは、救われた信者にしか行うことができない行為として、一貫性を持って示されています。

(1)天に名が書き記されたことを意味する

七十人の弟子たちが、イエスの名によって悪霊を追い出したことを報告すると、イエスは喜びを持って、「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と語りました。つまり、悪霊の追い出しができたことの重要な根拠が、彼らの名が天に書き記されている(救われている)ことにある、という点が示されているのです。

「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)

(2)信じる者のしるし

ここでは、非常にわかりやすく、悪霊追い出しが、救われた信者のしるしであることが示されています。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、」(マルコ16:17)

(3)聖霊の働きの証拠

有名なベルゼブル論争の箇所ですが、イエスは、彼の権威によって悪霊どもを追い出す行為は、神の国の到来を意味し、聖霊の働きであることを断言されました。すると、救われていない未信者が、キリストの名によって聖霊の働きを伴う悪霊追い出しができるとは考えにくくなります。彼らには、聖霊の内住が無く、神の子供でも無いからです。聖霊の働きは、聖書的には、救われた信者の行いに伴います。

「また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(マタイ12:27~28)

(4)悪魔に立ち向かいなさい

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

ヤコブは、救われた信者に対して、「悪魔に立ち向かうよに」と励ましました。私たちが立ち向かった時に、悪魔が逃げ去る理由は、私たちが神の子供となっており、内住の聖霊があるからです。もしも、私たちが救われていない罪人である場合、悪魔に立ち向かった時にどうなるのかは、次の聖句で明らかにされています。

(5)悪霊の反撃に遭うユダヤの祭司長スケワの七人の息子たち

使徒19章には、救われていないユダヤ人の祈祷師たちが、イエスの御名による悪霊追い出しを実践していますが、悪霊たちからの反撃に遭っています。このように、新生していない人が、主の御名によって悪霊追い出しをすることは危険であり、不可能であると考えられます。

「ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。14 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。15 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。16 そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。」(使徒19章)

このように、「悪霊追い出しが、救われた信者のしるし」であるという考えは、新約聖書の5つの聖句において、一貫性を持って、多角的視点で論証されていますので、動かしがたい教えであることがわかります。(まだ他にも、その事実を示す箇所が存在します)

そして、その点を踏まえて、以下の二つの事例を考えると、新約聖書には、一度救われてから、救いを失っている人々が複数登場します。

ユダの滅び

まず、主イエスを裏切ったユダが、救われずに滅びたことは、ほとんどのクリスチャンの間において、周知の事実であると思います。

「人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」(マルコ14:21)

「わたしは彼らと一緒にいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうち誰も滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは聖書が成就するためです。」(ヨハネ17:12)

そこで、永遠の保証を支持する立場においては、「ユダははじめから救われていなかった」という説明となります。しかし、問題となるのは、ユダが間違いなく、救われた信者のしるしである悪霊追い出しを行っていた、という点です。

七十人の弟子たちにそれができたのであれば、それ以前から、十二使徒の全員が悪霊追い出しをできたことは、言うまでも無いことです。聖書には、ユダがそれを行った記述はありませんが、イエスは十二使徒全てに、悪霊追い出しの権威を与え、彼らを町々に派遣していますので、彼にそれができたことは、間違いありません。

加えて、七十人の弟子たちが皆救われていたのに、救われていないユダを、他の七十人よりも上の地位である十二使徒に選んだこというのは、ユダヤ的な「大から小へ」の論理からは、かなり考えづらいと思われます。

もっとも、「ユダは救われていた」、と断言することはできませんが、以上の点を考慮すると、「初めから救われていなかった」と断言することも不可能です。しかし、もしも「永遠の保証」を信じる場合、「ユダは最初から救われていなかった」と断言しなければならなくなります。

山上の垂訓―奇跡を行う者たちへの警告

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:22~23)

ここで、主イエスから「わたしから離れて行け」と裁きの宣告を下されている人々は、イエスの名によって悪霊を追い出していました。また、「あなたの名によって奇蹟をたくさん行った」とあるので、少数ではなく、たくさんの悪霊追い出しを行っていたことが伺えます。つまり、彼らは救われたクリスチャンであった可能性が極めて高いです。

しかし、彼らは何らかの不法行為に加担したために、キリストから退けられ、救いを失ったと推測できます。

サウル王の死

神は、変わることの無いお方なので、「恵みと信仰」という人間を救いへ導く原則は、聖書全体において一貫していると考えられます。ですから、「永遠の保証」が真理である場合、その原則は旧約聖書の時代にも有効であるはずです。

しかし、永遠の保証ではどうしても説明が困難な事例が、初代イスラエルの王・サウルに見出されます。

サウルは、神ご自身がイスラエルの王として選び、油を注いた人物であるため、その時点で救われていなかった、とは全く考えられません。もし救われていなかったのであれば、既に救われていた他のイスラエル人から選ぶことはいくらでもできたはずです。

しかし彼は、後に堕落しましたが、聖書には、彼が堕落した後に、どのように悔い改めずに死んでいったのかがはっきりと説明されています。彼は、ダビデを終始迫害し、彼に手を貸した祭司たちを殺したり、死ぬ前に占いの罪に加担したりしました。

そして、彼が死に至るまでの過程において、これらの重罪を悔い改めた形跡が全くありません。聖書の明瞭な警告によれば、このような罪を犯す人は、悔い改めなければ必ず滅びることになります。少なくとも、彼が救われて死んだ、と断言することは、かなり難しいと考えられます。

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21:8)

また、サウルの他にも、旧約聖書には、明らかに救われたと考えられるのに、人生の最後で堕落して死んでいく王や信者たちの事例がたくさん記録されています。これらの事例においても、上記の警告を踏まえると、彼らが救われたと断言することは、かなり難しいことがわかります。

衣を汚したサルデスの教会の信者たち

「また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。・・・だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。・・・しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」(黙示録3:1~5)

黙示録3章のサルデスの教会への勧告では、行いが悪く衣を汚した信者と、衣を汚さなかった信者とが対比されています。そして、注意深くこの箇所を読むと、「彼らは白い衣を来て、わたしとともに歩む」「命の書から名前を塗り消さない」という祝福の約束は、衣を汚さなかった信者に対してのみ語られています。

そして、行いが死んでいた衣を汚した信者は、同じ祝福に与るために、悔い改め、主の掟を堅く守るようにと勧められています。

永遠の保証を支持すると考えられる聖句

ここでは、永遠の保証を支持するためによく引き合いに出される聖句を取り上げ、それらの意味について返答していきます。

義と認めた人たちには栄光をお与えになりました

「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8:30)

ここで言及されている、「義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」という表現ですが、この「栄光」とは、「栄化」のことを表している、と解釈される場合があります。そして「お与えになりました」という過去形の表現が用いられていることから、神の目には、義認を受けた人の栄化が、既に過去形で完了しているのだから、救いが取り消されることはあり得ない、と説明されます。

この一連の解釈の大前提は、この聖句で言及される「栄光」が、「栄化」を表している、という解釈にあるわけですが、そう断言することはかなり難しいと筆者は考えます。なぜなら、信じて義とされたクリスチャンは、神の子供とされ、キリストの体に連なったことにより、既に計り知れない栄光を与えられているからです。

「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1:6)

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3:18)

パウロが「栄化の恵み」を指して、「栄光」という言葉を未来系で表現することはしばしばありますが、一方で、既に信者に与えられている栄光の恵みを指して、「栄光」を過去形で表現する時もあるのです。ですから、ローマ8章30節で、既に信者に与えられたとする「栄光」は、「栄化」のことではない可能性も十分にある、と言えるのです。

肉は滅ぼされても霊は救われる

「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(第一コリント5:5)

異邦人の中にも無いほどの不品行を犯す信者を破門にする必要がある、とパウロが忠告している文脈ですが、彼を破門にする理由は、その人をサタンに引き渡すことによって、彼の肉体の命が滅ぼされたとしても、霊的には救われるためだとしています。そのため、この聖句は、永遠の保証に有利に働く聖句だと考えられています。

ただし、この聖句の解釈として、もう一つのパターンが考えられます。以下、新改訳第三版の注解を引用します。

「その刑罰の目的は滅ぼすことにはない。彼が罰を受けて死ぬとしても、死ぬ前に悔い改めの思いを与えられて神に立ち返り、永遠の命を獲得するのが目的なのである。」

客観的に見て、上記の解釈も、決して否定できるものでは無いと思えます。なぜなら、そもそも不品行を犯している人に処罰を下す重要な理由は、その人が悔い改めに導かれるためだからです。現に、第二コリント2章では、その人に下された処罰が功を奏し、教会全体が彼に赦しと愛を確信させる段階に進んでいたことが伺えます。(第一コリント5章で言及された人と同じだと断定はできませんが、文脈上、可能性は高いのでは、と考えています)

「もしある人が悲しみのもとになったとすれば、その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度──というのは言い過ぎにならないためですが──あなたがた全部を悲しませたのです。6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、7       あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。8 そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。」(第二コリント2:5~8)

また、同じコリントの信徒への手紙(第一)の6章や、他のパウロ書簡で一貫性を持って語られている警告を踏まえると、以下の聖句と調和するのは、二番目の解釈です。

「9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(第一コリント6:9~10)

結論

要点のまとめ

本記事の論考の中で、聖書から明らかにしてきた内容の要点は、次のようなものです。

  • 聖書は、義認の段階に関しては、行いが不要であることを一貫して述べているが、栄化の段階については、一貫して、不信仰や肉の行いを避けるよう警告している。
  • 聖書は、救われた信者に働く神の恵みが永遠で完全であることを述べているが、一方で、救われた信者が、自由意志によって、神の恵みから離れることも可能だと教えている。
  • 救いの完成に至るためには、神の恵みだけでなく、信者の側の信仰の保持も必要であることを、聖書は一貫して述べている。
  • 悪霊追い出しの条件やサウル王の死など、永遠の保証では説明が困難な事例が複数存在する。

救いについてどう考えることができるのか

一連の考察を経た上で、筆者としては、聖書が「永遠の保証」を教えてはいない、という結論に達しました。つまり、全てのクリスチャンは、福音を正しく信じて救われた時に(義認)、無条件で救いの完成が保証されるのではなく、その信仰を保ち、聖く生きることによって(聖化)、神の国に入ることができるのです(栄化)。

「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(第一コリント15:2、新改訳)

もっとも、神は、恵みによって私たちを義とするだけでなく、信仰を保ち、聖く生きるために必要な力をも、豊かに完全に与えて下さいます。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

ですから、救われた信者にとって、キリストの教えに従って生きることは、決して重荷とはならないはずです。むしろその生き方は、全ての信者に対し、平安を与えるものとなるはずです。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)

むしろ、真に救われたクリスチャンは、悪から離れ、神のみ心を行うことによって、祝福され、幸せになることができるのです。

「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」(ヤコブ1:25)

また、たとえ信じて救われた後に、罪を犯すとしても、私たちがその罪を告白し、悔い改めるなら、神は真実で正しい方ですから、全ての罪から私たちを清めて下さいます。

「9もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)

しかし、もしも私たちが罪の中に生き、悔い改めようとしないなら、キリストは、その人が罪から立ち返るために、聖霊によって悔い改めを促したり、厳しい訓練を与えたりすることでしょう。

「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は淫らな行いを悔い改めようとしない。22 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。」(黙示録2:21~22)

「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:19~20)

しかし、それでもなお、その人が神に背いて生きようとするならば、その人は神の恵みから落ち、神の国を相続することが不可能になると、聖書ははっきりと警告しているのです。

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21:8)

では、救いに関する全ての教えを踏まえ、最終的に私たちにとって、最も重要なこととは何でしょうか?その真理は、次の聖句に要約されています。

「イエスは彼に言われた。『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38   これが、重要な第一の戒めです。39『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37~40)

「13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。14 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」(伝道者12:13~14)

読者の方々へのお願い

最後までお読みくださりありがとうございました。本記事の結論が、確かに聖書の教えに沿ったものであるかどうかは、是非読者の一人一人の方々が、自ら聖書を読み、祈りの内に考えていただければ幸いです。

そして、もしも本記事の内容が、救われた信者に悔い改めを促し、聖く生きる動機を与える上で、有益な内容だと感じて下さった場合は、是非この記事をシェアし、周りの仲間たちと分かち合ってみて下さい。

また、記事を読んだ上で、正しい聖書の教えかどうかの確証が持てない場合は、是非、お近くの牧師先生方や、聖書に精通している仲間たちに相談し、この記事の内容を分かち合ってみて下さい。

また、「永遠の保証」については、聖書的根拠の再考のみならず、「臨死体験・幻・預言からの考察」も行っていますが、このもう一つの記事の内容は、この問題をより深く理解する上で役に立つものとなるはずです。是非、合わせて読まれることをお勧めいたします。(数日以内に公開します。)

 

最後に、本記事を読んだご感想を、下記のアンケートフォームにて受け付けております。簡単に終わる内容ですので、お時間がありましたら、どうぞご協力いただければ幸いです。

脚注

[1] なお、この点において、永遠の保証を支持する立場からよく引用されるのは、ローマ8章1節ですが、この聖句に対する考察は、本レポートの後半で取り上げています。

あわせて読みたい

6件のフィードバック

  1. TAKA より:

    貴殿のサイトに導かれたことを神様に感謝。
    分かりやすく説いてくださりありがとうございます。
    主の祝福がありますように。

    • true-ark より:

      ご購読ありがとうございます、TAKA様の学びが、引き続き神様に祝福されますように!

  2. O.M より:

    なるほど、ありがとうございます。

  3. O.M より:

    なぜ、神は救われたあとに救いを失う人を天地創造の前から選び、救いに定めたのでしょうか?

    • true-ark より:

      救われた後に、失う人がいるとすれば、それは神がそう定めたのではなく、自らがその道を選んだのです。この問は、救いに選ばれた人だけでなく、選ばれずに滅びていく人々についても適用される深遠な問だと思います。なぜ神は、滅びる可能性のある人々を、創造されたのでしょうか? 神は全ての人を愛して創造されましたが、人間が自分の道を選ぶことができるようにされました。最終的に救われる全ての人は、自分の意志でその道を選択したのであり、滅びくいく人々も、例外なく、自らその道を選んだのです。この点に関するより深い理解は、当サイトの聖書の教え講座や、以下の書籍がおすすめできます。
      https://true-ark.com/lifestory-howard-storm/

  4. fujiwar より:

    西郷隆盛さんが敬天愛人を常に言われていたので、興味が有り調べてみました。西郷隆盛さんは、陽明学を学ばれていた様ですね。陽明学は、キリスト教によく似ています。だから江戸の初期、弾圧されたのでしょうね。陽明学は知行一致です。心で思う事が、即行動と成る。従って心は鏡の様に曇らせてはいけない。人には春風の如く、自分には厳しく等々、非常に参考に成りました。キリスト教を違う角度から眺められ、とても良かったです。この問題は、陽明学では、心がすべて、信仰がすべて。なぜなら行動も伴っているからと言うでしょうね。偉そうに失礼しました。

true-ark にコメントする コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です