神の子どもとなる① 父の愛と恵みを受け取る
“イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。” 第一ヨハネ5章5節
ハレルヤ、イエスを信じる全ての人は、神から生まれた神の子どもです。もはや、神と私たちとの間に隔たりはありません。私たちは全能の神、万物を造られた偉大な創造主を父と呼び、父はご自身の「子ども」として私たちを愛されるのです。
本記事では、神の子どもとなるとはどういうことなのか、神の子どもに与えられた神の愛と祝福と特権がどれほど素晴らしいものなのかを明らかにしていきます。この記事を読む全ての神の子どもたちが、ご自身の愛する子供に注がれた神の豊かな恵みを十分に受け取ることができますように。
神の子どもは神から「生まれた者」
なぜ、イエスを信じた人は、「神の子ども」と呼ばれているのでしょうか?それは、イエスを信じた人に何が起こったのかを知ることによって、確かに理解することができます。冒頭で紹介した聖句にあるように、「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれた」のです[1]。
“風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。”ヨハネの福音書3章8節
ヨハネの福音書では、私たちは「御霊によって生まれた」とも表現されています。この世界において、どんな生命も誰かから「生まれる」なら、その人はその誰かの子どもとなります。それと同じように、イエスを信じたことによって、かつては罪人であった私たちの霊が新たにされ、神によって新しい生命として造り変えられたことにより、実際的に神は私たちを生んで下さったのです。だから私たちは、「神から生まれた者」として、永遠に神の子どもとされたのであり、神は永遠に私たちの父となって下さったのです。ハレルヤ!
“ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”第二コリント 5章17節
“ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。”イザヤ9章5~6節
そして、この「神から生まれた神の子ども」という事実は、神と私たちとの特別な関係を永遠に決定づけました。全ての神の子どもは、神から無条件に、特別に愛される者です。地上生涯の全てを通し、「私は神の子どもである」という真理を固く握りしめて下さい。そうすれば、神の子どもとしてのあなたの勝利は約束されています。
“神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。” 第一ヨハネ 5章4節
父なる神に大胆に近づく
アバ、父
“あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。” ローマ人への手紙 8章15節
神が私たちを子どもとするために与えてくれた「子とする御霊」によって、私たちは神に対して「アバ、父」と呼びかけるようになりました。「アバ」とはアラム語の言葉で*[2]、子供が父親に対して「父さん」「パパ」のように呼びかける言葉です。「父よ、お父様」のような丁寧な呼びかけではなく、親しい間柄で交わすくだけた呼び方です。神から生まれた正真正銘の神の子どもだからこそ、神に対してこのような呼びかけができるのです。
あなたは、自分の父親に対して幼い頃からどのように呼びかけてきましたか?もしも「お父さん」と呼びかけてきたのであれば、天の父に対しても「お父さん!」と呼びかけて下さい。神は、あなたが親しみを込めてご自身に近づくことを願っているのです。
子とするために神がして下さったこと
“こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。”へブル10章19節
イエスの血が流される前の旧約時代には、人は大胆に神殿の聖所*[3]に入ることができませんでした。特に、神殿の「至聖所」と呼ばれる場所は、年に一度、大祭司だけが入ることを許されました。しかも、大祭司は至聖所に入る前に、律法に沿った全ての儀式を正確に行う必要があり、もしも失敗があれば、至聖所に入ることよって死ぬと考えられていました*[4]。罪ある人間が聖なる神に近づくことは、それほど恐れ多いことだったのです。
神殿の垂れ幕は、罪によって神と人との間に生じてきた「隔て」を表していました。しかし、イエスが十字架の上で命を捧げられた時、エルサレムの神殿内で驚くべきことが起こりました。神殿の聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が、「上から下に」真っ二つに裂けたのです。
“しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。38すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。”マルコ15章37~38節
人がそれを裂いたのであれば、下から上に裂けるはずです。しかし、その幕が「上から下に裂けた」ことにより、神ご自身がイエスの血を受け入れ、超自然的に垂れ幕を裂かれたことが明らかにされたのです。こういうわけで、イエスの血によって神に近づく全ての人は、もはや恐れることなく「大胆に」神に近づくことができます。罪によって神と私たちとを隔てていた「垂れ幕」は、イエスの血によってもはや存在しなくなったからです。神ご自身がその道を開いて下さったのです!
“ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。“ ヘブル人への手紙4章16節
神があなたをご自分の子どもとするために、どれほどの犠牲を払ったかを考えて下さい。人間の母親は、出産の時に大きな苦しみを経験します。しかし神の子どもの父親は、出産の激痛を上回る「独り子の命の犠牲」を通し、あなたを生んだのです。神にとってあなたは、「お腹を痛めて生んだ子」ならず、「命をかけて生んだ子」なのです。
そのようにして、神は私たちをご自分の子どもとして下さいました。子どもであるなら、大胆に神に近づけます。外から帰ってきて玄関を開け、「お父さん、ただいま!」と言って大胆に父親の懐に飛び込む子どものように、私たちは天の父に近づくことができるのです。
あなたはイエスを信じましたか?信じているならば、あなたはすでに神の子どもです。今、イエスの血を携えて、恐れずに父なる神の懐に、大胆に飛び込みましょう!
「お父さん、ただいま!イエスの血によって、私をあなたの子どもとしてくれてありがとう。私は永遠に、あなたの子どもです。」
父は子供を無条件に特別に愛される
放蕩息子のたとえ話
神は、ご自身から生まれた子どもを、無条件に特別に愛されます。人間の場合でも、親は子供を無条件に特別に愛します。それは自分から生まれた子どもだからです。特に、子どもがまだ小さい時には、親は見返りを求めず、ただ子どもの世話をし、愛情を注ぐことに集中します。たとえ、子どもが親に反抗したりするようになっても、親は簡単に見捨てたりはしません。
同じように、天の父も子どもが罪を犯したり、一時的に神に反抗したとしても簡単に見捨てたりはしません。むしろ、天の父こそそのようなお方です!そんな父の愛を美しく表現しているのが、ルカの福音書15章に出てくる「放蕩息子のたとえ話」です。その話では、放蕩の生活をするために父の家を出て、父親の財産を湯水のように使い果たす息子が登場します。やがて飢饉が起こり、食べる物に事欠くようになった息子が我に返り、父の家に帰って雇人の一人にしてもらおうとします。
ところがその父親は、息子を雇人の一人にしたり、厳しい処罰を与えたりすることなく、むしろその帰りを大喜びで迎え、すぐに息子としての地位を回復させるのです。たとえ子どもが背いても、その息子に対する父の愛は変わらなかったのです。神は、あなたをそのような愛で愛されています。
父は、息子を雇人の一人にはしませんでした。あるいは最も優秀な雇人を、代わりに息子にすることもしませんでした。それは考えられないことでした。なぜなら息子としての地位は、経験や能力によって勝ち得ることができないものだからです。息子とは父親にとって特別な存在であり、その立場は、父親から生まれる、ということを通してのみ得ることが可能だからです。
雇人と主人との関係は、雇用契約であって、その関係はその人が仕えなくなった時に消滅します。しかし、親と子の関係は、子供の能力や働きに基づくものではなく、ただ子供を産んだ親の無条件の愛に基づいているのです。
今、私たちが「神から生まれた子供」であることを喜びましょう。そして、自分が能力や働きによってではなく、ただ神の無条件の愛によって、神から特別に愛される子供とされたことを受け取りましょう。
“この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”エペソ2章8~9節
もし行いによって、努力によって神の愛を得ようとするならば、あなたは神の雇人のままです。行いが無ければ神から愛されないと考えるなら、あなたは恐怖の奴隷です。その律法主義を、その恐れを、今このパワフルな真理によって打ち砕きましょう!
「天のお父さん、私は奴隷ではなく、あなたから生まれた神の子どもです。あなたから特別に愛されています!」
“あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。“ ローマ人への手紙8章15節
神に守られた放蕩娘~元悪魔崇拝者、ジョン・ラミレスの証
かつてニューヨークにおいて高位の悪魔崇拝者として活動していたジョン・ラミレス氏は、ある日マリアという友人の女性から依頼を受けました。マリアの話によれば、彼女の夫が同じ職場の女性と長く不倫をしていたので、その女性を呪い殺してもらいたい、ということでした。
呪いをかけるための値段としてジョンが提示したのは100万ドルでしたが、ターゲットの女性がクリスチャンだとわかると、ジョンは次のように答えました。
「そういうことだったら、喜んで無料でやってあげるよ。僕は教会に行くあいつらみたいな偽善者は嫌いなんだ。生涯忘れない教訓を教えてやるさ。」
ジョンは、そのクリスチャンと言われる女性を殺すことを決意し、彼女に呪いをかけました。そして、その女性の悲報を聞くのを待ち遠しく思っていましたが、何カ月経っても、悲報は届きませんでした。すると、ある夜、殺しの計画は中止されたと告げる悪魔の声をジョンは聞きました。彼は怒って、悪魔に理由を尋ねました。
(以下、彼の著書『悪魔の大釜からの脱出』からそのまま引用します。)
「なぜ今になって中止しなくてはならないんだ?あと数日もしないうちに彼女はどうせ死ぬんだろう。僕は中断はしたくない。彼女を殺せ。僕の評判がかかっているんだから。彼女には死んでもらうしかない」
すると大きな声で悪魔が言ったのです。「だめだ!彼女の神が彼女には手を出すなと言ったのだ」と。僕はこのことにびっくりしました。彼女は不貞行為を犯していたにも関わらず、神の驚くほどの優しさとイエス・キリストの愛により、神は彼女に慈悲をかけたのでした。
神が彼女を守るための囲いを彼女の周りに築き、エスピリティズモやパロ・マヨンベの地獄からの悪魔たちは、誰も彼女に手出しができなかったのです。これが本当の愛だったのです。今、僕も救われた身となって、神の愛が想像を超えるものであることを知っています。それは神の愛から離れてしまった人たちへも同じく注がれています。
ジョン・ラミレス著『悪魔の大釜からの脱出』Kindle版No.3220 ~ 3256.
無条件の愛をはきちがえない
新生した神の子どもは、まず神の無条件の愛をしっかりと受け取ることが大切です。それは、私たちの行いや罪深さに関わりなく注がれる神からの愛です*[5]。このような愛を受け取らなければ、神の子どもとしての歩みに、様々な霊的不健康が生じていく可能性があります。
ある人は、その愛を受け取れないがために、心の中に神への恐れや不安が生じ、信仰生活が不安定になります。また、神の愛を受け取れないゆえに、その愛によって本来満たされるべき心の場所を、人や娯楽や様々な世のもので埋めようとし、罪に陥ってしまいます。ですから、祝福と喜びに満ちた神の子どもとして歩んで行くためには、神の愛を十分に受け取っていくことが大切なのです。
ただし、「神の愛と恵みは無条件なのだから、多少不従順な生き方をしても大丈夫」と考え、開き直って罪に陥ってしまうのも問題です。使徒パウロも、クリスチャンがその点を誤解しないよう、次のように注意しています。
“それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。”ローマ人への手紙6章1~2節
神の教えを正しく理解し、神の無条件の愛を受け取るならば、その愛は私たちの歩みに不従順をもたらすものとはならず、むしろ従順をもたらすものとなるはずです。「私の罪の赦し、全ての汚れから聖めるために、父なる神がこんなにも大きな犠牲を払って下さったのだから、もうこれからは罪の中に生きることは止めよう」と思えるはずです。
もし、あなたが旧約聖書の時代の人であったならば、律法に違反する罪を犯した場合、羊などの動物の犠牲を捧げなければなりませんでした。あなたの罪によって、一匹の動物を死に渡さなければならず、あなたは目の前で動物の命が絶たれ、血が流されるのを見届けなければなりませんでした。これが、「罪の報酬は死です」(ローマ6章23節)という聖書のことばが意味するところなのです。
しかし、動物の犠牲は何度捧げられても、あなたの罪を完全に贖うものではなかったので、最終的に神は、自ら人として地上に来られ、あなたの罪の赦しのためにご自身の命を捧げられたのです。あなたがそれを、霊の目で見届ける時、自分に対して注がれた神の愛の大きさと、罪を犯すということの意味の両方を知ることになるでしょう。そして、これからの人生を罪の奴隷としてではなく、神の子どもとして生きたいと心から願うようになるはずです。
脚注
[1] ペテロの手紙第一 1章23節では、”あなたがたが新しく生まれたのは、・・生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。” と書かれています。「神のことば」とは、イエス・キリストのことです。このように、聖書は私たちが三位一体の神「父・子なるイエス・聖霊」から生まれたことを明らかにしています。
[2] 一世紀当時のユダヤ人の多くは、アラム語を公用語として用いていました。
[3] へブル10章19節において「聖所」と訳されているギリシア語は、神殿の中にあった聖所と至聖所を包括する言葉です。
[4] 万が一、大祭司が至聖所に入って死んだ場合、そこに入れるのは大祭司だけなので、誰も死体を外に運べないことになってしまいます。それで、至聖所に入る大祭司の腰には紐がつけられ、万が一死んだ場合でも外に体を運べるようにしていた、という話があるほどです。
[5] 新約聖書では、このような無条件の神の愛を、「アガペー」というギリシア語で表現しています。日本語とは違い、ギリシア語では「愛」を表す複数の言葉があり、他にも友人関係の友情を「フィリア」、家族間の愛を「ストルゲー」、異性間の性的な愛情を「エロス」と表現したりします。
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