創世記1章 人は神のかたちに造られた~天地創造の六日間

創世記1章は、主なる神が、天と地を六日間で創造したことが記録された素晴らしい章です。それは、聖書全巻の最初の1章であり、そのあとに続く全てのストーリーの土台です。それゆえに、創世記1章をどう理解するかは、聖書全体の理解に関わる重要な問題です。神をどのように理解するかに関わる大切な問題です。

あなたは、創世記1章を字義通りに信じているでしょうか?つまり、主なる神が、本当に万物をたったの六日間で造ったと信じているでしょうか?もし信じているなら、あなたは本当に幸いです。そのことをあなたに啓示したのは、血肉ではなく、創造主である父なる神です。(マタイ16:16~17)

創世記7章1~16節

神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

(創世記 1章24~31節)

私はどのように創造主を信じたか?

一週間は、七日間です。ではなぜ、一週間は七日間なのでしょうか?その理由は、神が天地を六日で造り、七日目に休まれたからです。ぜひ、このクイズを色々な人にしてみて下さい。多くの人は、「そんなの信じられない」と答えるでしょう。「では、一週間が七日間である他の理由を答えてもらえますか?」と返してみて下さい。おそらく誰も答えることができないでしょう。なぜなら、その唯一の答えは「神が天地を七日間で造られたから」だからです。

神は、本当にこの世界をたったの六日間で創造されました。もっとも、クリスチャンの間では、それが字義通りの六日間なのか、比喩的な六日間なのかは議論があります。しかし、出エジプト記で神がイスラエルの民に十戒を与える時に、七日目に安息日を与えるのは、神が六日で天地を創造し、七日目に休まれたからであると語られました。つまり、神ご自身が、天地創造の七日間を、字義通りの七日間として明白に聖書で示しているのです。

「七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。11それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」(出エジプト20:10~11)

神が、本当にこの世界の全てを創造されたということを理解すると、その力、知恵、知識の深さと強大さに驚かざるを得ません。それは私たちの理解を完全に越えています。

二十代の前半で、進化論と創造論を始めてまともに比較した時、私はいかに進化論が無理のある仮説なのかを知りました。全ての生命は、偶然に生じたと考えるには全く無理があるほどに、あまりにも複雑で精工に設計され、造られていることを知ったからです。

その時、神の創造に対する全き確信が、私の中に芽生えました。私は、心の底から、神がこの世界の創造主であることを信じ、その真理を認めました。そして、私の全存在、全人生が、神の力と愛に完全に支えられ、依存してきたことを悟りました。私が、主なる神を「主」と認めた瞬間でした。「神様、これからの人生は、あなたが私を造られた目的通りに歩んでいきます。」私の霊が、自然とそのように応答したのです。

もっとも、その時は私はエホバの証人でした。しかし、私が神と向き合い始めたのは、神を信じ始めたのは、明らかにその時からでした。以来、どんな悪霊も、どんな人間も、私からその真理を奪うことはできませんでした。

神が世界を造られた証拠

なぜ私は、この世界が神によって造られたと確信しているのでしょうか?まず、聖書には次のようにあります。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」(ヘブル11:3)

聖書が明らかにしている通り、その確信の最大の根拠は、神から与えられた信仰なのです。その信仰によって、私は「この世界が神のことばで造られたことを悟」ったのです。

サンゴ礁、魚

では他には、どんな根拠があるでしょうか?色々ありますが、今回の記事では、一つだけ、わかりやすい視点でお話をしたいと思います。神は、鳥や魚や動物や人間に、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」と語られました。それは、生命の重要な特徴の一つです。神が地球上に造った全ての生命には命の力が宿っており、自己増殖を繰り返すことによって種として生き延び続けることができます。しかし、命の無いものには、そのような性質がありません。

さて、「このような生命は最初には地球に存在せず、原始の地球の海の中で偶然にそのようなものが誕生し、それが進化して今に至った」と進化論は説明しています。それは本当でしょうか?実際には、それは今日の誰もが実際には認識している一つの重要な事実と矛盾します。それは、「命は命からしか生み出されない」ということです。これまでの歴史に存在してきたどんな人間も、命の無いものが命を生み出しているのを見たことも、証明したこともありません。なのに、「大昔の地球ではきっとそのようなことがあったのだろう」と信じるなら、それは科学ではなく根拠のない憶測であって、おとぎ話なのです。

実際に、それが確率的にも全くあり得ないことに気付き、進化論者から創造論者になる科学者も多くいます。また、同じ事実に気付く著名な科学者の中には「生命は地球で誕生したのではなく、宇宙から来たのだ」と言い始める人さえいます。DNAの二重らせん構造を発見してノーベル賞を受賞したフランシス・クリック、天体物理学者フレッド・ホイル、著名な進化論者であるドーキンズ等がそうです。しかし、宇宙起源説を唱えても、「ではその宇宙から来た生命はどのように誕生したのか」という同じ問が生まれ、問題が先送りになるだけです。

ほとんどの日本人は、アダムとエバの話がおとぎ話だと考えています。しかし、本当にそうでしょうか?ほとんどの人間は、命は命からしか生み出されない、という事実を事実としても、感覚的にも理解しています。そして、聖書は語ります。「命の神が、全ての命を創造した。」この方が、誰もがはっきりと理解している法則と一致します。むしろ、アダムとエバに命の神が命を与えたという方が、誰もが理解している事実と一致するのです。

このように考えると、進化論という名のおとぎ話が、いかに私たちの目を見えなくさせてしまっているのかがよくわかるのではないでしょうか?

神のかたち

神のかたちとは何か?

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:26~27)

さあ、天地創造の六日目になりました。六日目は、非常に忙しい日です。なぜならこの日に、神は植物を除く、他のあらゆる地上の生物を創造されたからです。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」とある通りです。そして、その万物の創造の最後に冠として造られたのは、「人間」でした。神は、人間だけを「われわれの似姿に造ろう」と言って造られたのです。

神がここで「われわれ」と言っているのは、神が三位一体の神だからです。唯一の神は、「父・子・聖霊」というそれぞれの人格的な主体を持つかたちで存在する、この真理は、聖書全体を通して啓示されています。

では、「神のかたち」とは何でしょうか?です。あなたは何かに似せて、何かを作ったことがあるでしょうか?例えば、お菓子を作る時に、うさぎに似せて~、カメに似せて~、という感じで、形を真似て作ることがあります。また、鳥に似せてこの飛行機を作りました、とか。ハコフグに似せてこの自動車を作りました、ということがあります。これは本当にそうであり、ハコフグや鳥の体が持つ精密で素晴らしい機能を真似て、飛行機や自動車を作る、ということがあるのです。

では、話を戻しましょう。人間は誰に似せて作られましたか?神ご自身です!つまり、この地球上で人間だけが唯一の、神ご自身の姿にデザインされている、いわば被造物の中の「神モデル」なのです。これは、驚くべき真理です。

外側も内側も似せて造られている

では、人間が「神のかたち・似姿」なのであれば、それはどの程度そうなのでしょうか?よく、このことが説明される時に、「それは神の内的な性質が似せて造られているということだ」と言われます。それは事実ですが、それだけではありません。例えば、次の聖句を読んでみて下さい。

「また私は、御座に着いておられる方の右の手に巻物を見た。それは内側にも外側にも字が書かれていて、七つの封印で封じられていた。」(黙示録5:1)

天での礼拝の場面ですが、ここで登場する父なる神は、「座って」おり、「手」があります。「座っている」ということですから、その体の形状は、人間のような姿であるはずです。そうでなければ、椅子にフィットしません。そして右手と左手があります。当然「足」もあり(出エジプト24:10)、顔もあります。つまり人間は、その外見からして、「神の似姿」に造られているのです!

そして、「内的性質」も神に似ています。神が愛であるように、人間も他者を愛することができ、「神が義」であるように、人間も善悪を識別し、正しいことを選択する能力を持っています。神が創造性に富んでおられるように、人間にも創造性があり、色々な芸術的な営みをすることができます。

それゆえに神は、ご自身のかたちに造られた人間に、地上の全ての生き物を支配するよう命令を与えることができたのです。何かを治め、管理するためには、神のような知性や識別力が必要だからです。

神の特質(神性)神と人との決定的な違い

では人間と神との違いは何でしょうか?人間は神の性質は持っていますが、神の「特質」~つまり唯一の神だけが持っている特質(神学的には神性という)は持っていない、ということです。神の特質とは、全知全能、永遠性、偏在(全ての中に存在する)などです。そして、これらの特質ゆえに、神だけが創造主・救い主・裁き主、となることができるのです。

神のかたち

皆様は、2016年7月に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた大量殺傷事件「相模原障害者殺傷事件」を覚えているでしょうか?犯行を行った植松被告により19人の障害者が殺され、27人が重軽傷を負う、という大きな事件で、日本中で話題となりました。現在までに、この事件に関する本も何冊も出ているほどです。

植松被告は、なぜそのような大量殺人を行ったのでしょうか?彼は、障害者施設の勤務の経験者でしたが、その経験を通して「重度障害者は生きている意味がない。人を不幸にさせるだけだ。」と考えるようになったことが、殺人を行った理由でした。そして、この植松被告の考えと犯行は、日本中の人々に「生命とは何か?生きるに値しない生命はあるのか?」という根源的な問いを投げかけたのです。

あなたはどう思われますか?もしも進化論を信じているのなら、それは「生命とは突然変異と自然淘汰の結果、存在するようになった」ということであり、究極的には、生命に「普遍的・絶対的な意味は存在しない」ということになるでしょう。

しかし、人が神に造られたのなら、そこには被造物としての意味があり、神がその絶対的な意味を決めておられるのです。そして、生命の源である神は、聖書を通して、私たちに命の意味、人間という存在の意味について明らかにしてくれました。全ての人は「神のかたち」であり、それゆえに障害を持っていても、路上で生活していても、生まれる前の胎児であっても、全ての人は「神に似姿として極めて尊い存在」なのです。もしも、植松被告がこの真理を知っていたら、彼は殺人事件を起こさなかったでしょう。もしも日本中の人々がこの真理を知るならば、中絶は無くなるでしょう。ホームレスは差別されなくなるでしょう。うつ病は激減するでしょう。あらゆる依存症は無くなっていくでしょう。

誰が何と言おうとも、社会があなたに対してどのような評価をしようとも、創造主である神ご自身があなたを尊い命として見ておられ、あなたを愛しているのです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

生ける神が、この真理をあなたの心に満たして下さいますように!

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