1. 幸いな人たち|山上の垂訓の解説

幸いな人たち

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幸いな人たち(マタイ5:3-12)

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。s
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

ここでは、幸いな人の8つの特徴が順番に挙げられ、続いてその人達が受ける祝福の種類が列挙される。しかし、これらの言葉は、一貫して一つの真理を表している。それは「神を信頼して生きる人の状態」と、それに伴って受けることになる「祝福(報い)」である。

そして、ここで語られている「幸い」とは、人間の視点における「幸い」ではなく、神の視点における「幸い」である。私たちは、イエスのこれらの言葉を聞く時に、人間の観点と、神の観点が時に大きく異なることに気付かなければならない。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」とある。「心の貧しい」とは聞き慣れない表現だが、この言葉の意味は「卑しい」とか「心の狭い」などの、消極的なものではない。自分という人間の小ささを知り、自分の正義や力に寄り頼むのではなく、神の正義と力に寄り頼んで生きる人の姿、その心を表している。

実際のところ、人間は小さな存在である。この世界に注がれる神の恩恵無くしては、瞬く間に消え去ってしまう儚い存在だ。力においても、知恵においても、多くの人は自分のことを必要以上に考えすぎているかもしれない。自分の心の貧しさを知る人は、謙虚な人となり、神の偉大さを本当の意味で理解する。そのような人は、やがて天国を相続するがゆえに、幸いなのである。

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

「悲しむ人」とは消極的な人のことではない。この文脈においては、「罪に対して敏感な性質」のことを指している。世の中では、一般的に「ポジティブシンキング(前向き思考)」が奨励されている。勿論、物事の良い面を見ることは決して悪いことではない。しかしだからと言って、自分の内にある罪の性質から目を背け、そのことを悲しまないでいることは、大いに間違っている。神の清さの前に、自らの罪深さを認め、悲しむことができなければ、人は自分の生き方を変えることはできない。

また罪による悪い結果は、自分だけでなく、この社会のあらゆる場所で表れている。例えば、戦争や差別などは、その最たるものである。もし、これらの問題に対して悲しみを覚え、その解決を神に委ねるならば、その人はやがて神から慰めを受けることになる。

※日本人には、自分が罪人だという認識が無い人も多い。もしこの記事を読む読者で、そのように考える方がいれば、是非この山上の垂訓のメッセージを最後まで読んで欲しい。新しい発見ができるだろう。

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

「柔和」とは、性質や態度が物柔らかであることを意味する。しかし、それは決して弱いという意味ではない。その人は、心の内に神への揺るぎない信頼を持っており、どんな試練にも耐え忍ぶことができる。

また柔和な人は、不公平な評価を周りから受けたとしても、取り乱すことは無い。なぜなら、その人は自分のアイデンティティー(自己認識)を全知全能の神によって得ているので、その神が自分を常に正しく評価してくれることを知っているのである。結果として、その人は、自己主張や自己弁護からは解放されることになる。

柔和な人の最たる例は、イエス・キリストである。彼は違法な裁判で冤罪に定められたにも関わらず、黙って十字架に向かっていった。柔和な人は、やがて復活の命に与り、地を永遠に相続することになる。

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

「義に飢え渇く」とは、神の前に、正しくあろうと努力する人を表している。多くの人は、世俗の人間社会における価値基準によって、認められようとする。しかし、社会が私たちに求める基準や価値観は常に変化をし、それは時に私たち裏切る。

しかし、変わること無く、揺れ動くことの無い神の前に、正しくあろうと努める人は、決して裏切られることはなく、いかなる状況においても、満ち足りて平安を得るようになる。

あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

「憐れみ深い者」とは、周りの人々の痛みや悲しみを思いやり、その必要に応えようとする人を意味している。イエスは、とても憐れみ深い人だった。彼は貧しい人や病で苦しんでいる人々のところへ、積極的に足を運び、彼らを癒やされた。イエスのこの態度は、クリスチャンだけでなく、全ての人が互いに示すべき模範だと言える。

人は誰でも、自分のまいている物を刈り取ることになる。他の人に憐れみを示す全ての人は、いずれ神から憐れみを受けることになる。神は憐れみの行いを愛されるからだ。

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

「心のきよい者」とは、行為だけでなく、心の動機も純粋な人を意味している。イエスの時代のパリサイ人の多くは、偽善的な傾向が強く、敬虔な行いをしていても、心の動機は不純だった。誰でも、心の中に自己中心的で、不純な傾向を持っている。私たちの人生や一つ一つの行動が、どのような動機によって支配されているのかを吟味することは、あまりにも重要なことだ。神は、全ての人の心の動機を知っているからだ。

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

「平和をつくる者」とは、単に平和的な人を意味しているわけではない。平和な関係を作ろうと、積極的に努力する人を意味している。

そのような人は、悪に対して悪で返すことはしない。むしろ、善い行いによって、悪を征服するように努力する。また、正義の基準を曲げることはしないが、他の人との必要以上の争いを回避するために、時には自分が持っている権利を進んで放棄することができる。

また、平和を作る点で良い働きをしたマザー・テレサは、かつてこのような名言を残した。「世界平和のためにできることですか?家に帰って家族を愛してあげてください。」もし私たちが世界の平和を望むなら、まずは自分の家族や友人など、周りにいる人々との関係を平和なものに修復する必要がある。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

「義のために迫害されている者」とは、神の正義を求めた結果、周りから悪く言われたり、攻撃されたりしている人を意味する。この社会で、正しい行為を貫くことは、決して簡単なことではない。時には何かを失うこともある。

義のために迫害を受ける人は、人の目には可哀想な人に見えるかもしれないが、神の目にはそうではない。その人には天国での報いが約束されているからである。

わたしの名のために迫害される人は幸いである。天においてあなたがたの報いは大きい。

続けてイエスは、「わたしの名のために迫害される人は幸いである」と語った。クリスチャンは、様々な時代や場所で、歴史的に迫害されてきた。中には命を失った者も多くいる。実際に、イエスの直弟子であった十二人の多くは、殉教していった。

しかし、イエスはそれらの者たちに対して、「喜びおどりなさい!」と語った。それは、天国における彼らの報いが非常に大きいからである。私たちは、この地上での生涯だけを見て、物事の価値を判断するべきではない。死後の世界も視野に入れた、永遠の観点で人生の価値を計り、生きる必要がある。

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