永遠の保証~質問への回答: 一度救われた後に、救いを失うことはありますか?
「一度救われた後に、救いを失うことはあるか」救いに関するこの重要なテーマに関する筆者なりの考察を、これまでに合わせて二本の記事を通して、公開してきました。
・永遠の保証~聖書からの考察
・永遠の保証~臨死体験・幻からの考察
まずはじめに、これらの記事を読んでくれた方々、特に、アンケートへの回答を送って下さった全ての読者に方々に、心からの感謝をお伝えいたします。回答の中では、記事を読めて良かった、罪の悔い改めを導かれた、という嬉しいコメントが多々あり、記事の公開が主の導きであったと実感することができました。というのも、一度救われた後に、罪の中を生きるようになったクリスチャンが、記事を通して、聖く生きることの重要性を正しく理解し、悔い改めへと導かれることが、筆者の最大の願いだからです。
また、記事の内容に対する様々な疑問や、丁寧な反論もいただくことができ、改めてこのテーマを熟考する機会ともなりました。そこで今回の記事では、これまでにいただいた疑問や反論に対し、特に重要だと思われるものをピックアップし、聖書から答えていきたいと思います。
アンケート結果と考察
記事を読む前の立場
これまでに、30件の回答をいただきましたが、記事を読む前の段階で、永遠の保証を信じている人の割合は約5割に上りましたが、そうでは無い人の数も、それと同程度の割合でした。あくまで参考値に過ぎませんが、筆者の予想通り、永遠の保証は、必ずしもキリスト教の諸教会の中で、十分な一致を見ている教理では無い、ということがわかります。
つまり、キリストの十字架と復活に対する信仰によって、罪が赦され、救われる(義認)という福音の中心的な要素においては、プロテスタント諸教会の中で一致があるものの、その後の信仰の保持が、救いに影響を与えるかどうか、という点においては、多様な解釈が存在するのです。ですから、この教理に対して、どのような立場をとろうとも、互いを裁くことをせず、最終的な答えは主に委ね、愛による一致を目指していくことが最善だと筆者は考えています。
記事を読んだ後
記事を読んだ上で、過半数の方が、永遠の保証が間違いである、という結論へ導かれましたが、このような結果となった最大の理由は、聖書の言葉そのものが、答えを明らかにしているからだと筆者は考えます。
また、そのような結論へ導かれた多くの方が、恐れをいだくよりも、救いに関する明快な理解を得たことを喜んでおられました。結果として、記事を読んだ時点では恐れを感じた方も少数いらっしゃいましたが、記事で紹介した聖句を正しく理解し、聖霊の導きに人生を委ねるなら、必ず平安が訪れるでしょう。
記事を読む読者の方々を、主が大いに祝福して下さったことを感謝します。神の恵みと平安がありますように。
「これまで「義認」の段階で完全に救われるのかどうかが、ずっと疑問でした。今回の記事のおかけでとてもスッキリしました。教会のメンバーにもシェアして、より理解を深めるため、語り合いたいです。有意義な記事をありがとうございました。」
「今回の記事で、明確に自分の罪を示されました。 告白し、祈りました。途方も無いように感じます。 自分の力ではとても出来ません。しかし、イエスなら出来ると信じます。 記事を紹介してくださり感謝します。ありがとうございました。」
「とても参考になりました。 義認、聖化、栄化それぞれの聖書適用が合う時と合わないときがある訳ですね。 しかし失敗を恐れて小さい人間にならないように注意したい。 ありがとうございます。」
「今日私は大きな罪を犯しました。何というタイミング。神様の愛を感じます。」
栄化に至る条件の警告は、未信者が犯す罪のことである
反論:『栄化に至る条件』とされている箇所は未信者が犯す罪を列挙しており、そこで言いたいのは未信者は御国に入ることはできないということです。真の信者は、たとえそれらの罪を犯したとしても、義認によってその罪は赦されています。
聖書からの考察において、筆者が「栄化に至る条件」として書かれている数々の警告を紹介させていただきましたが、これらの警告は、信者に対するものではなく、未信者に対するものであって、救われた信者には適用できない、という反論がございました。
・参考箇所:栄化~真の信仰と避けるべき肉の行い
この問題は、おそらく今回寄せられた反論の中で、最も重要なものであり、この問題について正確に理解するかどうかが、永遠の保証の是非の鍵を握っている、と言っても過言では無いと思います。
まず、栄化に至る条件として紹介した聖句は、一貫して、「偶像礼拝・姦淫・貪欲等を行う者は、神の国に入れない」としていますが、「神の国に入れない」という警告が、「救われずに滅びる」ことを意味していることは明白です。そのため、永遠の保証を信じる立場としては、これらの警告が、「既に救われた信者」に対するものであってはならないことになります。
しかし、これらの警告が、誰を対象としているのかは、「神学」に沿って読み込むのではなく、第一に「文脈に沿って」理解する必要があります。なぜなら、たとえどのような神学を先に確立し、その神学の解釈に沿って聖句を読み込むとしても、その解釈が文脈に合わなければ意味は無いからです。
そこで今回は、該当の聖句を一つ一つ取り上げ、文脈を確認しながら、その警告の対象者を特定していきたいと思います。
ガラテア5章
「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテア5:19~21)
パウロはこの警告の対象を「あなたがたにあらかじめ言っておきます」と明確にしており、書簡全体の文脈において、その「あなた方」は、救われたクリスチャンであることを前提としています。
また、この警告は、15節の「互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」というガラテアの信徒たちへの忠告の流れにおいて、語られています。つまり、ガラテア5章19~21節は、文脈上、救われたクリスチャンに対する警告として、意味が明瞭な聖句となっています。
さらに、ガラテア書の警告を、未信者に対する警告ではなく、救われた信者に対する聖化の勧めとして書かれた、と考える人は少なくありません。例えば、『聖書教理ハンドブック』では、ガラテア5:19~21でリストアップされている「肉の行いへの警告」を、次のような形で紹介しています。
「彼(パウロ)は、私たちはある種の罪を避けなければならないと警告して、聖化の消極的面を強調している。」*[1]
第一コリント6章
「それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(第一コリント6:9~10)
この警告が語られた理由は、当時のコリントの信徒たちの間で、「互いに不正を行い、だまし取っている」という状況があったからで、その点は8節においてはっきりと示されています。ですから、ここでの警告の対象者は、コリントの兄弟たちであって、彼らがそのような行為を続けるならば、神の国を相続できなくなる、というものだったのです。
なお、新改訳第三版の注解でも、この警告が、救われた信者に対するものであることを念頭に説明されています。
「コリントの信徒は、そのような以前の異教徒の生活からきっぱりと分離した者であるはずである。彼らは、洗礼(バプテスマ)を受けて以前の罪を洗われ、聖なる者(神の所有である者)として取り分けられ、義と認められて神との新しい関係に入ったはずである。罪への逆戻りから身を引かせるために、パウロは、神の国を継ぐことの出来ない者になるなとの警告と共に、この恵みの出来事に目を留めさせようとしている。」
エペソ5章
「3あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。4 また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。5 このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。6だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。」(エペソ5:3~6)
パウロはまず、3節の中で、「聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません」と助言していますが、彼らがそうすべき理由を、5節以降で言及しています。それは「淫らな者、汚れた者、・・はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができ」ないからだとしています。
ですからパウロは救われた信者に対し、これらの重大な罪を犯すなら神の怒りが下って神の国を相続できなくなるから、避けるようにしなさい、と語っているのです。
第一テサロニケ4章
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6 また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。7 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。」(第一テサロニケ4:3~7)
パウロは、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」と語りましたが、その理由を「なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです」としています。ですから、この警告の対象者は、未信者ではなく、救われた信者であることがわかります。なお、ここでの「さばき」の意味が、地上での裁きのみならず、「神の国を相続できなくなる裁き」であることは、他の書簡の警告の内容からも明らかです。
そして、「私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいた」と語られていることからも、パウロはおおよそ開拓する全ての教会において、救われた信者に対し、この警告を重要なものとして語っていたことが伺えるのです。
コロサイ3章
「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。」(コロサイ3:4~6)
4節において「主の再臨によって、私たちも栄光を受ける」と語った上で、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」としています。つまり、キリストの再臨によって栄光を受ける望みこそが、信者が罪から離れるべき重要な理由なのだとしています。
ですから、ここでの警告も、救われた信者に対するものであることが明白です。
ヘブル人への手紙13章
「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。」(ヘブル13:4)
まず、ヘブル人への手紙が、救われた信者を背教の罪から守ることを目的として書かれたことは明白です。そして、警告の一部として、「寝床を汚してはいけません。」と語り、その理由として、「なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれる」からだとしています。
ですから、この警告は、救われた信者に対するものであることが明白です。
結論
このように、パウロが語った数々の警告を、文脈に沿って読むと、それらの警告の全てが、「救われた信者」を念頭に語られたものであることがわかります。さらに、これらの警告をしっかりと語ることを、パウロは大変重視していたことも伺えます。
もしもパウロが、救われた信者が、二度と救いを失うことが無いと固く信じていたのであれば、これらの警告を繰り返し語ることはあり得なかったと考えられます。
旧約時代の信仰者たちは、そもそも救いを得てはいなかったのではないか
質問:「サウルは旧約時代の人物ですので、サウルのみならず、当時はまだ誰も、救いを得ていない、と私は考えます。旧約においては、義とみなされたアブラハムも含め、誰も「救いの実質」は得ておらず、「救いの約束」を得たのみと理解しています。ヘブル11:40に「彼らが私たちと別に全うされることはなかった」とあるのは、そのことではないでしょうか。
ですので、イスカリオテ・ユダもイエスの十字架死と復活以前の人物であり、救いを「失った」のではなく「得られなかった」のではないでしょうか。ヘブル6:4~8などは彼のことを念頭に記述しているのであろうと思っています。
「人は信仰によって義とされる」という原則は、聖書全体において適用されると考えられます。パウロは、この信仰義認の原則を、アブラハムに適用しているからです。
しかし、義とされた人が、神との関係においてどのような状態に置かれるかは、旧約時代と新約時代との間に、相違があると考えられます。そして、この場合の救いを、「神から罪が完全に赦される」という意味において用いるならば、確かに旧約時代の信者たちは、救いの実質を得ていないかもしれません。一方で、「天に名が記される」ことについては、十字架以前の時代から適用されるはずです。事実、選抜の七十人の弟子たちは、その時点で、天に名が記されていたからです。
ですから、一度天に名が記された後に、それが消去される事例がある、という点については、サウルやユダの事例は、考慮することができると思います。もっとも、現時点では、天に名が記されることと、救いの実質を得ることの関係を十分に説明できないので、筆者の仮説程度にとどめていただければと思います。
また別の点として、新約時代になり、救いの実質を得た信者であっても、旧約時代と同様に、堕落する可能性が十分にあることが、黙示録2~3章やヘブル書を読むと、よくわかります。ですから、真に救われた後に、悔い改めずに堕落し、救いを失う危険性については、聖書ははっきりと警告しているものと考えています。
参考箇所:信者の側の自由意志
「永遠の保証の否定」は、十字架の価値を引き下げる
反論:義認とは、過去形で一度限りの救いであり、それは神の御前で無罪宣言を頂くものです。イエスキリストは私たちの過去・現在・未来のすべての罪を贖うために十字架にかかってくださいました。ですので、義認された後に犯す罪に関しても、既に十字架の血によって贖われております。それを否定することは、イエス様がしてくださったことの価値を著しく引き下げることになると思います。
この点については、キリストの贖いと、罪の赦しの関係性に対する解釈の問題があると言えそうです。ご指摘の通り、キリストの十字架は、全人類の全ての罪を贖うものでした。しかし、実際にその赦しを受取ることができるのは、全人類ではなく、その十字架を心から信じて受け入れた人だけとなります。ですから、罪の赦しとそれに伴う救いとは、常に神の恵みと信仰によってもたらされることがわかります。
「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(ヘブル9:12)
では、義認を受けた信者が、その後に偶像礼拝を犯した場合、悔い改めの告白をしなくても、「キリストの十字架は、過去・現在・未来の全ての罪を贖ったのだから私は既に赦されている」と言えるでしょうか?
使徒パウロは、こういった点で、信者が誤った考えを抱くことのないよう、おおよそ彼が開拓する全ての教会において、次のような警告を与えていました。
「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」(エペソ5:5~6)
ですからパウロは、義認を受けてさえいれば、その後にどんな罪を犯しても裁かれないとは考えていなかったようです。彼は、信じた後に犯す罪の赦しを受け取るためには、それに伴う信仰と悔い改めが必要だと考えていたようです。
最後に要点をまとめます。キリストの十字架は、全人類の全ての罪を贖うものでした。ですからこの十字架に基づき、一度義認を受けた信者が、その後に再び堕落しても、キリストが再び十字架にかかる必要はありません。なぜなら、主の贖いは永遠に有効であり、過去・現在・未来の全ての罪を含むものだからです。
ただし、罪を犯した信者の側には、二千年前に据えられた罪の赦しを受け取るための、信仰と悔い改めが求められてくるでしょう。こうして、恵みと信仰の原則は、信者の救いの完成にまで及ぶのです。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)
永遠の命が途中で失われるのなら、永遠の命ではない。
反論:永遠のいのちは、御子を信じた瞬間から始まっておりますので、もしそれが取り消されてしまうのでしたら、『永遠』のいのちではなくなってしまいます。
この問題は、「永遠の命」という言葉に対する解釈の問題があると言えそうです。つまり、聖書がその「永遠」を、いかなる状況においても「永遠に保たれる」、という意味において教えているのか、もしくは神と共に生き続ける人にとって、それが永遠となることを教えているのかです。
例えば、サタンやアダムは、元々「永遠の命」を持っていましたが、彼らが堕落したことによって、その永遠性は取り去られました。ですから、彼らに与えられていた永遠の命とは、永遠の命の源である神との交わりの中に生きることを前提としたものでした。
それと同様に、聖書は、イエスを信じる人に、永遠の命が与えられると教えていますが、一方で、偶像礼拝や姦淫を行うことによって、神の恵みを拒否する信者が、その命を失うことを警告しています。
「ですから、この警告を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたにご自分の聖霊を与えてくださる神を拒むのです。」(第一テサロニケ4:8)
ですから、永遠の命という言葉における永遠性は、永遠の命の源である神を拒まず、その恵みの中に生きることを前提としたものだと解釈することは、十分に可能だと言えるでしょう。
もしも永遠の保証が間違いであれば、救われる人は一人もいないでしょう。
そんなことは全くありません。神は、救われた信者が聖く生きることを重要視しておられますが、もしも、それを命令する神が、私たちに聖く生きるための十分な恵みを与えないのなら、神は嘘つきであることにならないでしょうか?救われた信者に与えられる聖霊の恵みによって、私たちに聖く生きるための十分な力が与えられるからこそ、神は「聖く生きなさい」と私たちに語りかけておられるのです。
「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:14)
「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:8~9)
もっとも、救われたクリスチャンが、その全生涯を通じて、主イエスのように「完璧に聖く生きる」ことは不可能でしょう。しかし、信じたあとに犯す罪も、「悔い改めの告白」によって、何度でも赦していただける恵みを、キリストによって神は私たちに与えて下さいました。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)
ですから、バテシバとの姦淫やウリヤの殺人等の重大な罪を犯したダビデであっても、悔い改めによって、神様から忠実な人としての評価を受けているのです。
「ダビデの家から王国を引き裂いて、あなたに与えた。しかしあなたは、わたしのしもべダビデのようではなかった。ダビデはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。」(Ⅰ列王14:8)
このように、神の言葉は、救われた信者が、従順と悔い改めを伴う謙遜な生き方によって、「聖く生きる」ことが可能であることをはっきりと示しているのです。そして、古い契約の時代でさえ、神の民が主の目にかなう生き方ができたのであれば、新しい契約の恵みに与るクリスチャンは、なおのこと、それにふさわしい生き方をすることができるはずです。
参考箇所:「救いについてどう考えることができるか」
悪霊の追い出しは、イエスを信じないパリサイ人でも行っていた。
反論:悪霊の追い出しを、救われた人のみが行えると結論付けておられますが、それは早計かと思います。当時のパリサイ人たち(救われていたか不明)も悪霊の追い出し自体はしておりました。口の聞かない悪霊の追い出しはメシアしかできない、ということが、逆に口の聞ける悪霊であれば、メシア以外でも追い出せるということを論証しています。ですので、悪霊の追い出しができることを救われている証拠だとの前提を置いて、その後の議論を展開されておられることは結論をミスリードしていることにつながっていると思います。
・該当箇所:悪霊追い出しと救いの関係
鋭いご質問だと思います。確かに、福音書の記録や、ユダヤ教の文献等を考慮すると、イエスの弟子でなかった人々も、特定の種類以外の悪霊については、これらを追い出していたことが伺えます*[2]。
「また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。」(マタイ12:27)
では、パリサイ人たちが行っていた追い出しと、イエスや彼の弟子たちが行っていた追い出しの違いは何でしょうか?それは、その追い出しが、「イエスの名」によるものであるかどうかです。実際に、前の記事において紹介した複数の聖句では、「イエスの名による悪霊の追い出し」が、救われた信者のしるしであることを確かに説明しています。
ですから、ある人が「イエスの名によって」悪霊を追い出せるのならば、その人は救われている、と言うことができるはずです。そして、救われた信者がイエスの名によって悪霊を追い出すなら、追い出す悪霊とのコミュニケーションは不要であり、どんな悪霊に対しても有効です。そこが、パリサイ人たちの追い出しとの大きな違いだと言えるでしょう。
なお、救われていない人が、イエスの名によって悪霊を追い出せるのか、という点については、それを試すことには危険が伴う、ということを聖書は示していると思います。実際に、追い出しをする人自身に、キリストに対する信仰が無ければ、その権威は有効に働きませんし、場合によっては、返り討ちに遭う可能性もあるからです。
※この点はあくまで、永遠の保証では説明がし辛い事例の紹介であり、これだけを元に、永遠の保証が否定されるとは考えておりません。
臨死体験や幻を考慮するのは体験主義ではないか
「体験主義」とは、霊的な体験に、聖書の言葉と同等・あるいはそれ以上の権威を与えることと定義できるでしょう。そして、もしも筆者が、永遠の保証に対する立場の根拠を、霊的な体験のみに置いているのであれば、それは問題です。しかし、このテーマについて、筆者は何よりも「聖書的な考察」を土台とし、論考を進めていますので、「体験主義」では無いと断言できます。
また、霊的な体験に重きを置きすぎる態度には注意する必要がありますが、同時に、霊的な体験を軽視しすぎる態度にも注意する必要があります。実際に神は、色々な霊的体験を通して、人を救いへ導くことが多々あるからです。そして、周りの人々がどのような目でみようとも、実際に臨死体験や幻によって救いを導かれた人にとっては、その体験は紛れもなく、神から与えられた、人生を変える出会いだったのです。
また聖書には、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(第一コリント12:3)と書かれていますが、今回紹介した全ての臨死体験や幻の証は、イエスを主なる神として啓示する内容のものです。
ですから、私たちの側がどう考えるかにかかわりなく、聖書自身が、これらの体験が神からのものである、と証言しているのです。
脚注
[1] ハロルド・リンゼル、チャールズ・ウッドブリッジ共著『聖書教理ハンドブック』(いのちのことば社)244頁
[2] イエスの弟子でないユダヤ人たちが行っていた悪霊追い出しとは、まず悪霊とコミュニケーションを取り、名前を聞き出し、次にその名前を唱えて、出ていくように命じる方法だったようです。
【最近のコメント】