12. 主の祈り―日ごとの糧、赦し、悪からの救い|山上の垂訓の解説

【主の祈り(後編)】 山上の垂訓の解説(11)

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主の祈り マタイ6:9-15

9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

私たちの日ごとの糧を今日もお与えください

「日ごとの糧」を与えられていることに感謝する

「日ごと糧」とは、今日一日の間、身体に必要なものを表し、食物を含める、生活を支えるための様々なものを意味している。

なぜ、これらのものを、神に与えてくれるよう願い求める必要があるのか?それは、私たちの命と、身体を支えるあらゆる自然界のものは、全て神が人間に与えているからである。多くの人は、まるで命を支えているのが、自分の力、あるいは人間の力だけによるものだと勘違いをしているが、それは全くの誤解である。

万物を創造したのは神であり、私たち人間は、日々神から与えられる恩恵無くしては、一秒たりとも、命を支えることはできない。日ごとの糧を神に祈り求める時にはいつでも、それらのものが、神から来ていることに感謝すべきである。

※創造論について詳しくはこちら「日本人の多くが誤解している生命の真実~進化論と創造論~」

富を求める祈りではない

もう一つ重要な点として、この祈りは、富を求める祈りではない。もし富を求める祈りなら、「日ごとの」とは言わず、「たくさんの」とか「一年分の」という風に、イエスは教えたはずである。確かに神は、特定の目的に沿って、地上の富によって人間を祝福する時もあるが、一方で、富は多くの場合、罪ある人間の心を堕落させる方向へ導いてしまう。なぜならば、人は富を蓄積し出すと、次第に富に信頼を置くようになり、神が命を支えていることを忘れ、傲慢になるからである。それを裏付けるかのように、聖書の中においては、金持ちは決して喜ばしいものとして描かれてはおらず、むしろ「あるもので満足するように」教えられている。(ヘブライ13:5)

「日ごとの糧をきょうもお与えください」、この言葉の意味を理解し、このような祈りによって生きる人は、日々神に生かされていることを忘れず。神の恵みと導きを信頼して生きる、へりくだった人間へと変えられていくだろう。

私たちの負いめをお赦しください。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

私たちの負い目「罪」とは?

日本では、たとえ罪を犯したとしても、その罪を神に赦してもらう必要を感じる人は少なく、罪の概念に対する認識も低い。このような日本人の感覚を生じさせている理由として、進化論や物質主義の影響は否めないが、ここで一度、聖書が教える「罪」の定義をはっきりさせなければならない。

一般社会で「罪人」と言えば、法律を守らない人や、周りに迷惑をよくかける人をイメージするが、そのような基準は、全知全能の神の基準からは、程遠いものである。まず、神は人の外面の行為だけでなく、心の動きも問題にする。たとえあなたが人を殴ったことが無くても、人を恨んだことがあれば、その時点で神の前では罪なのである。

さらに、聖書が教える罪の本質的な定義は、創造主なる神を信頼して生きないこと、人間や偶像など他のものを信頼して生きる全ての生き方を意味している。聖書における罪の定義をはっきりと理解すれば、この世界に罪人だと言えない人間が一人もいないことがわかるだろう。

ではなぜ、神を信頼しないことが罪になるかというと、そもそも人間は、創造主なる神に100%依存した存在であり、その神の導きを信頼して生きるよう造られているからである。したがって、神を信頼しないで生きることは、人間の本質的な存在意義を否定することに繋がるのである。

罪がなぜ問題なのか?

ではなぜ罪人であることが問題で、神に赦してもらう必要があるのだろうか?まず、人間は創造者の意図に反して罪ある生活を送ることによって、自分や周りの人間を日々傷つけている。そして最も重要な問題として、神の心を傷つけているのである。

また、罪に対する報いは死であり、その最終的な結末は、永遠の裁きである。したがって、罪の問題を解決しないまま、今の地上での人生を謳歌したとしても、それは風前の灯であり、死後の世界において悲惨な結末が待っている。全ての人間は、創造者に心を向け、生き方を改め、罪を赦してもらう必要があるのだ。

赦されるための方法、赦すための方法

では、どうやって、神から罪を赦してもらうことができるのだろうか?ここでイエスは、神に赦しを乞う時に「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」と言うように教えている。つまり、神からの赦しを受け取るためには、自分自身も、自分に負い目がある人を赦す必要がある、ということである。

多くの人は、他人の罪を赦せない、という問題を抱えている。しかし、神はどんな人間よりも憐れみ深く、悔い改めて赦しを乞う人間を、誰でも惜しみなく受け入れる。真に神からの赦しを受け取った人は、その神の愛と憐れみに感動し、自分の周りの人間を快く赦せるようになる。神の偉大な赦しは、この世界に平和をもたらす上で、必要不可欠な真理なのである。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください

霊の世界の構造と戦い

この祈りの意味を理解するためには、はじめに霊の世界の構造について知る必要がある。聖書は極めて霊的な書物である。それは私たちに、神の存在を教えつつ、私たちの目には見えない霊の世界で、一体何が起きているのかを明確に教えている。霊の世界では、神の勢力に敵対する悪魔の勢力が存在し、悪の勢力のトップは「サタン」と呼ばれる悪魔である。

敵対しているとはいっても、悪魔の力が神に拮抗しているわけではなく、神の目的の実現に向けた過程において、一時的にその活動を許されているに過ぎない。時が来れば、悪魔は神の御子イエスの力によって、滅ぼされることが定まっている。

悪魔とその配下の悪霊たちは、一人でも多くの人間に罪を犯させ、地獄へ連れていくことができるよう、日々地上世界において様々な形で働き続けている。彼らがとりわけ標的にしているのが、イエスに従うクリスチャンであり、彼らはクリスチャンが油断をしている時に、罪を犯させようと、その隙を常に狙っているのである。

霊の世界における神の力と悪魔の働きについては、こちらの動画で興味深い情報が提供されている

試みの意味~心は燃えていても、肉体は弱い~

「私たちを試みに会わせないで」とは、この世で試練に遭うことが無いよう神に求める祈りなのだろうか?聖書は、神に従う人々が、この世で例外なく試練に遭うことを明確に告げており、そのような試練は、信仰者を精錬するために喜ばしいものとして教えている。したがって、「試みに会わせないで」とは、試練に全く会わないように、という祈りではないことがわかる。

私たちは、たとえどんなに心が燃えていようとも、常に肉体的な限界を持っている。例えば、イエスがゲッセマネの園で祈っている間、弟子たちのペテロとヨハネ・ヤコブは、目を覚ましているようにと忠告されていたにも関わらず、三度も眠りに落ちてしまっていた。それを見たイエスは、「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と語り、彼らに肉体的な限界があることを示した。(マタイ26章)

もしも私たちが、自らの肉体的な限界を越えて、誘惑や試練を受けるとしたら、どんなに頑張っても自分の力だけでは対処することはできない。悪霊たちが狙っているのは、まさにそういう類の隙である。信者が霊の戦いにおいて勝利するためには、「試みに会わせないで、悪からお救いください」というこの祈りによって、神からの守りを願い求める必要があるのだ。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン

主の祈りの最後は、頌栄(キリスト教における神への賛美・祈祷文のこと)で結ばれている。ここだけ括弧で括られている理由は、聖書の最古の写本には、この句が含まれていないからである。

「国と力」とは「全能の支配」を意味し、「栄え」は栄光を表す。主の祈りは、神の御名の栄光を求める祈りで始まり、頌栄で結ばれる。

神の言葉を学び理解する全ての者は、常に変化するこの世界の流れに、心が取り乱されることはない。なぜなら、神の言葉・つまり聖書の学びを通して、究極的に万物を支配し、信じる者全てに永遠の報いを与える、神の実在を知っており、やがて地上に実現する神の御国とその栄光を見ることを確信しているからである。

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