啓示や預言に対する聖書的な見方とは?(後半)『新使徒運動はなぜ危険か』の検証④
預言や啓示があっても、それを神からのものと判断する確かな基準は無いのでしょうか?もし本当に無いのであれば、「吟味しなさい」と教える聖書は矛盾している事になります。しかし、その判断基準が実際にあるからこそ、聖書は吟味を命じているのです。
私はこれまでに、聖書研究や、その他色々な預言や啓示(神からではないものも含め)の研究を通し、啓示を識別するための基準が確かに存在する事を発見してきました。その研究のレポートは、過去に「臨死体験・天国訪問・幻・預言等による キリストの啓示は信頼できますか?」というタイトルでサイトの記事として公開しています。
レポートの中に挙げている基準の中でも、特に私が重要だと思うのは、以下の三つの点です。
- イエスを主とする信仰へ導かれているか
- イエスを唯一の救い主なる神としているか
- 預言は的中、あるいは成就しているか
今回の記事では、上記の判断基準を持つべき聖書的な根拠と共に、実際の預言や啓示などの実例も合わせて紹介していきたいと思います。
イエスを主とする信仰へ導かれているか
聖書的な根拠
神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(第一コリント12:3)
聖霊による啓示でなければ、誰も「イエスは主です」という信仰には導かれない、とパウロは断言しています。ですから、もしもある人が、啓示や幻や預言を通してイエスを主とする信仰と救いへ導かれたのであれば、聖書的な基準に基づき、その啓示は「聖霊によるものだ」と判断することができるので、信憑性はとても高くなります。
元無神論者ハワード・ストーム氏の臨死体験
米国の牧師でハワード・ストームという人がいます。彼はもともと無神論者でしたが、その時に臨死体験をして地獄に行き、イエスに助けられた後に天国を垣間見ました。再び目覚めた時には、彼はもはや無神論者ではなく、イエスを神の子と信じるクリスチャンになっていました、ハレルヤ!臨死体験を通して神の愛に目覚めた彼は、その熱意によって、その後牧師の道を選ぶようになったのです。
ハワード氏は、臨死体験中にイエスや天使と交わした多くの会話の内容を、彼の著書『臨死』(リーハイバレー・ジャパニーズ・ミニストリーズ)にて公開していますが、彼が霊の世界で教えられた事柄は、聖書全体の教えと見事に一致していました。
彼の著書には、聖書に書かれていない教えも多く含まれていますが、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」という聖書のことばに沿って考えれば、彼の体験は明らかに、神からのものであったと結論づけることができるでしょう。
イエスを唯一の救い主なる神としているか
聖書的な根拠
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)
「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)
「神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。」(第一ヨハネ4:2)
イエス・キリストが「唯一の救い主・神」であることと、「イエスへの信仰のみによって人は救われる」という救いの唯一性は、聖書の教えの極めて重要な土台となっており、切り離すことの不可能な関係にあります。なぜなら、神ご自身の尊い血によってのみ、完全な罪の赦しがあるからです。そして、これらの教えを真理として受け取る人は、救いを受け取ることになるがゆえに、神にとっては絶対に守るべき教えであると同時に、悪魔にとっては絶対に否定したい教えとなっています。
実際に、悪霊の導きによって出来上がった多くの宗教においては、イエスは尊敬に値すべき霊的な指導者・偉人として認められてはいるものの、「神ご自身」「唯一の救い主」ではないとされています。そして、その必然的な結論として、イエスは救いへの唯一の道ではないとされ、異なる教えに誘導されていくのです。
ですから、主イエスの救いの唯一性は、啓示の信ぴょう性を評価する上で、とても重要な指標であると言えるのです。
元イスラム教テロリスト、アフシン・ジャビード氏
かつて厳格で熱心なイスラム教徒だったアフシン氏は、ある時、悪霊の攻撃からイエスの名によって助けられる経験をしました。しかし、その出来事によって信仰の混乱が生じたアフシン氏は、2週間断食をして神に祈りを捧げました。しかし、2週間後、彼に祈りの答えを与えたのは、アラーではなく、イエス・キリストでした。
イエスが、目に見える姿で彼の前に現れた時、神の聖さと、自分の罪深さを感じ、必死になって赦しを求めました。しかし、イエスが彼の肩に手を置いた時、アフシン氏は赦されたことがはっきりとわかり、泣き崩れ、「あなたは誰ですか」と尋ねました。するとイエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」「わたしは、生ける神、イエス・キリストである」と答えました。
この体験を通し、アフシン氏は、「イエスは神ではない」というイスラムの教えから自由になり、「イエスこそ唯一の救い主である」と告白する熱心なクリスチャンへと生まれ変わったのです。
聖書的基準を考慮すると、(1)イエスを神としている、(2)イエスを唯一の救いの道としている、という条件を満たしている他、(3)この体験によってイエスを告白する信仰へ導かれている、(4)神の聖さと、その聖さの前で人が罪を感じ赦される必要を感じること、(5)イエスが罪を赦すお方であること、等の重要な真理が啓示されており、信ぴょう性としては申し分の無い部類に入る証と言えるでしょう。
預言が成就するか
聖書的な根拠
「遠い大昔のことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。10わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。」(イザヤ46:9〜10)
実はこの点は、「確かな基準が持てない」と語る著書自身が、本の中で言及している確かな判断基準です。そもそも、聖書が比類のない書物である事を示す重要な理由の一つに「預言の成就」があります。ですから、「預言の成就」こそ、その預言が神からのものである事を示す最も重要な指標の一つなのです。
本の中では、外れた預言だけが掲載されているので、「結局、現代には本物の預言者はいないのではないか」と思った読者もいた事でしょうが、それは事実ではありません。そのことを示すために、本記事では、実際に成就・的中した預言や預言者を紹介していきたいと思います。
アルフレッド・ハワード・カーター
ハワード・カーター(1891~1971)は、ペンコテステ運動では著名な人物であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの創立メンバーでもありました。彼は、宣教師として、世界中を周って伝道をしましたが、その働きにいつも同行していたのが、レスター・サムラルという人物です。サムラル氏が、カーター氏の宣教に同行するようになったのには、次のような背景がありました。
サムラル氏が、テネシー州のビルで集会に参加している時、神が彼に次のように語られました。
「この集会を終わりにしなさい。アーカンザス州ユーレカ・スプリングスに行き、三州合同のキャンプ集会に出なさい」
サムラル氏がその合同キャンプに着くと、そこの説教者の中にハワード・カーター氏がいました。サムラル氏は、集会後、カーター氏がホテルに行こうとしてそばを通った時、彼の手を掴んで、突然、次のように言いました。
「先生、私はあなたと一緒にどんな高い山々でも行きます。私はあなたと一緒に広大な平原でも行きます。私はあなたと一緒にどこの砂漠にでも行きます。私はあなたと一緒に海の荒波でも通って行きます。あなたが年老いたときも、私はあなたを助け、あなたを愛し、あなたを祝福します。」
サムラル氏は、自分がしゃべったことに気づくと、頭を振って、「私はそんなこと全然しません。私はあなたのことを知りませんし、あなたも私のことを知りません。どうか、私をお赦しください。」と言いましたが、カーター氏は微笑んで、彼を部屋に招きました。
サムラル氏がホテルの部屋に着くと、カーター氏は次のように言いました。
「私は、預言したことを本に書き留めており、私が何を語ったかが誰にでもわかるようにしています。二年ほど前、ロンドンにいた時、私がひざまづいて祈っていると、神は私に、世界の国々に出かけて行って、御霊の賜物について教えよ、と言われました。それから神は、私にこう言われました。
『私は、あなたのために一人のコンパニオンを備えます。彼ははるか遠くからやって来ます。彼は見知らぬ人としてやって来ます。そして彼は、このように言います。「私はあなたと一緒にどんな高い山々でも行きます。私はあなたと一緒に広大な平原でも行きます。私はあなたと一緒にどこの砂漠にでも行きます。私はあなたと一緒にあらゆる海の荒波でも通って行きます。」』
カーター氏は続けて、サムラル氏が道で彼に言った言葉を全部引用し、最後に次のように言いました。
「私と一緒に旅をしていただけますか?神は私に一人のコンパニオンを約束なさいました。私はあなたのことを知りませんが、神はあなたのことをご存知です。もし神があなたのことをご存知なら、私はそれで十分です。」
こうして、カーター氏とサムラル氏は、世界中の国々に宣教をして旅をするようになりました。そして、高い山々、広大な平原、砂漠、海の荒波を通って行き、カーター氏が書き留めていた預言の内容は、全てその通りになったのです[1]。
レスリー・キーゲルによる暗殺計画の預言
当サイトでも以前に紹介したスリランカの預言者レスリー・キーゲル氏は、その預言の信憑性が世界的に広く知られている人物であり、フォースクエア教団のグローバル・カウンシルの委員長も務めています。
記事の中では、スリランカの大臣の暗殺計画を預言した出来事について、次のように紹介しています。
本書の中で紹介されていた預言の証の中でも、特に興味深かったものは、レスリー氏が、同国の大臣の暗殺計画を預言した記録だ。(126〜127頁)ある日の朝、レスリー氏は、スリランカ政府の大臣の車が爆破される幻を神から受けた。そして大臣と連絡を取り、「三日以内にそれが起こること、しかし心をイエスに向けるなら守られること」を告げた。
その後、三日以内に、大臣の補佐官が、大臣に対して車の爆破による暗殺計画を企てていた事が明らかになったのだ。言うまでもなく、大臣はレスリー氏に感謝の意を表した。
本の中では言及されていませんが、この預言の成就・的中は、大臣と彼の周りの人々に対して確かな証となり、その影響はその後も広がっていきました。
ショーン・ボルツ、大統領への預言
大統領の心を動かした神からの預言
最後に、本の中では預言を外したことを批判されているショーン・ボルツ氏ですが、ここではあえて、彼の素晴らしい預言の実例を紹介したいと思います。
本で書かれていることは一旦脇に置いた上で、まずは以下の証をお読みください。
(内容を簡潔にするために、要点以外は省いています。)
ショーン・ボルツが、南米に旅行していた時、ある国の大統領に会うよう頼まれた。その大統領は評判が悪く戦争好きの独裁者だった。ショーンは気乗りしなかったので断ろうとしていたが、昼寝をしている時に見た夢を通し、大統領への神の愛を受け取り、会いに出かけた。そして、ショーンが大統領に会った時、彼は神から示された二つの事を告げた。
「『神は○○○に関してはサポートできないとおっしゃっています』それは五つの単語からなる暗号のようなものでした。僕がその言葉を言うと、彼の後ろに立っていた二人の男性が息を飲み、大統領はこの二人の男性、僕、武装した兵士以外の人たちは部屋から出るようにと命じました。」
最終的は、その単語が戦争に関する暗号だった事がわかり、大統領はその戦争をしないよう、悔い改めに導かれた。
「大統領はこう答えました。『神が賛成してくださらないのなら、あなたが最初に述べたことはしない。これは戦争に関するもので、色々な政治事情が絡んでいるのだが、君が口にしたのは我々の暗号だったのだ。』」
続けてショーンは、神から示されたもう一つの事を告げた。
「『もう一つ神から聞いたことは、娘さんの八歳の誕生日パーティーで、馬のせいで彼女に起こったことについてです。神はあなたをお赦しになったので、もう赦しを乞う必要はないとおっしゃいました』と僕が言うと、・・ 彼は目に涙を貯めて・・しばらくうずくまってから『神が私のことを赦してくださったと信じられるかは分からない。家族に対して自分がした罪を赦してほしいと、毎日神に祈っているんだ』と言いました。
最後に、ショーンが大統領のために祈り終えると、大統領はショーンの手を握って抱きしめ、感謝の意を表した。[2]
ショーン・ボルツの大統領への預言は、秘密の戦争計画を明らかにし、それを思い留まるよう悔い改めに彼を導きました。そして、家族への罪と赦しを明らかにする事によって、神の実在と愛を大統領へ確信させました。まさに、聖書的な預言であり、聖霊によらなければあり得ない内容だと言えるでしょう。
ショーン・ボルツは偽預言者なのか
では、今回紹介したような信ぴょう性のある大統領への預言がある一方、コロナウィルスの収束に関する預言が外れたことについて、どのように考えるべきなのでしょうか?
第一に、確かに、コロナウィルスの件については、その預言が神からのものだったと確証することはできないでしょう。しかし、それは彼の預言者としての働きが未熟であった事を示すものであっても、彼の預言のミニストリーの全てを否定するものとはならないと私は考えます。
なぜなら、預言者や、預言の賜物を行使する人々が、ある時期においては正しく神の声を聞けていても、途中から、何らかの理由により、聞き間違えたり、異なる声を聞いてしまったりする事もあり得るからです。
ショーン・ボルツ氏が、そもそも預言者として有名になったのは、パフォーマンスではなく、彼の預言のミニストリーが、神の実在と愛を明らかにするものとして、多くの結果を出してきたからです。ですから、コロナウィルスに関する預言の失敗を取り上げて、その預言のミニストリーの全てを否定する必要はないと思います。
なお、ショーン・ボルツは自分の語る預言を絶対的に信頼するようにと教えてはおらず、その言葉を受け取るかどうか、各自吟味するようにと注意を促しており、外れた事が明らかになる場合は、当事者の元へ行き、謝ったりもしているようです。
預言者は国家に影響を与えるべきではないのか
「私はトランプ大統領の政治的立場や政策の是非を問題にしているのではない。新使徒運動が一国の大統領にさえ影響を与えていることを憂慮しているのだ。もし科学的な根拠ではなく、神からのものとされる『啓示』に基づいて、政治的判断を下すなら、それは極めて危険なことであり、大混乱を引き起こすに違いない。」46頁
ここで、本の中で著者が危惧していた問題の一つ、「預言者が一国の大統領に影響を与えるのは危惧されるべき」という点を考えたいと思います。
聖書を読むと、預言者の多くは、基本的に国の指導者に影響を与える人物として描かれています。士師記のサムエル、ナタン、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、ヨナ、など、挙げればまだまだいますが、彼らは皆、国全体や国のリーダーに影響を与えるべき、神から任命されていた人々でした。ですから、危惧されるべきなのは、預言者が一国のリーダーに影響を与えることではなく、その預言者が本物の預言を語る人物なのかどうか、だと言えるでしょう。
著者が恐れている通り、もしもその預言者が偽りを語る預言者であり、かつリーダーがその指示に従うのであれば、その影響は深刻なものとなります。しかし、預言者が神からの真の預言を語り、リーダーがその預言に注意を払うなら、その影響は素晴らしいものとなるはずです。
預言が神からのものか判断ができない場合
ここまでにご紹介した啓示や預言を吟味するための聖書的な基準を踏まえても、預言が神からのものかどうか判断がしづらいような場合もあります。そのような場合は、聖書全体の教えを踏まえ、さらに幾つかの基準を設けると良いでしょう。
例えば、(1)その預言は、神に栄光をもたらすものとなっているか、(2)キリストの十字架の意味を明らかにしているか、(3)聖書の霊感性を肯定しているか、(4)罪に対する悔い改めに導くものとなっているか、などです。他にも、聖書がはっきりと語っている内容と照らし合わせ、明らかに違うことを語ったりするものは、退けることが必要です。
そして、全てを考慮した上でも、はっきりとわからないようなこともあります。ある場合には、その預言が成就するかどうかについて、じっくりと物事の進展を見守らなければならないかもしれません。
そのような時は、性急に判断せずに、心に留めておき、静かに時を待つのが良いでしょう。
結論
これまでに、預言に対する聖書的な見方の様々な側面を考察してきましたが、最後に、重要な要点を簡潔にまとめ、この記事を終えたいと思います。
- 第一に、私たちクリスチャンは、現代に語られるどんな預言や啓示よりも、すでに書かれた聖書の言葉を重視すべきです。
- 第二に、啓示や預言は現代でも確実に存在しますが、それらを無条件に受け入れるべきではなく、聖書的な基準に照らし合わせて、各自吟味する必要があります。
- 第三に、啓示や預言を識別するための判断基準を、聖書は明らかにしています。それは、その内容が、イエスを主とする信仰へ導くものか、イエスを唯一の救い主・神としているか、預言は成就(的中)するか、というものです。
- 第四に、吟味の上、確かに神からの預言だと判断できるのであれば、それは良いものですから、心を開いて耳を傾けることができます。
読者の皆様の上に、神をより深く知るための知恵と啓示の御霊が、豊かに与えられますように(エペソ1:17)
脚注
[1] レスター・サムロール著『信仰の先駆者たち』(エターナル・ライフ・ミニストリーズ)24~26頁を参照。(会話の言葉部分についてのみ、著書から直接引用しています)
[2] ショーン・ボルツ著『神の通訳者』(リーハイバレー・ジャパニーズ・ミニストリーズ)
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