預言や啓示に対する聖書的な見方とは?(前半) 『新使徒運動はなぜ危険か』の検証③
前回までの記事では、病気や悪霊に命じる「支配神学」の聖書的な根拠について検証してきましたが、『新使徒運動はなぜ危険か』において批判されているもう一つのテーマは、「新しい啓示・預言」に関するものです。
内容としては、支配神学の場合と同じく、新使徒運動(NAR)の主だった人々がコロナのパンデミックを預言できなかった事や、彼らが外してきた預言を取り上げ、その預言者としての権威に疑問を呈しつつ、現代における預言の存在そのものを完全に否定する、と言う流れです。加えて、預言を認めるならば、それは正統的な信仰ではない(プロテスタントでない)、とまで主張されています。
NARのリーダーへの批判に留まるならば、それはある程度、彼らの個人的な問題に収まりますが、預言を認める人はプロテスタントではない、とまで主張が拡大されてくると話は変わってきます。
預言を認めることは本当に非聖書的なのか、もしも預言や啓示が実際にあるならば、それらをどのように考えるべきなのか、本記事ではこうした点について、聖書から明らかにしていきます。
著者の主張
まずは、預言に関する著者の主張を整理していきます。
「宗教改革」におけるプロテスタントの三大原理の一つとして「聖書のみ」がある。「聖書のみ」とは、人が救われ、クリスチャン生活を送るために必要な教えがすべて聖書に含まれており、新し啓示によって補わなければならない不足は何一つない、という意味だ。こうして、プロテスタント信仰を堅持するクリスチャンは、今日までの五百年間、聖書以外の啓示(預言)を認めていない。そのようなものは全く不要である、という立場だ(注1)。したがって、「預言カフェ」は明らかにプロテスタントのミニストリーではないということになるが、「ここはキリスト教会(プロテスタント)が運営する珈琲専門店です」と宣伝している。(51頁)
著者の考えによれば、プロテスタントが伝統的に大切にしてきた「聖書のみ」とは、聖書以外の一切の啓示や預言を否定することを意味するので、預言を認めたり行ったりするクリスチャンはプロテスタントではない、ということです。
では、プロテスタントではないなら、異端だということなのか、あるいはプロテスタントではないが異端というほどでもないから、何か他の定義を作った方がいいのか。どちらの意味なのかは明らかにされてはいませんが、本の内容全体を考慮すれば、「異端的な信仰だ」と主張されたいのだと思われますし、少なくとも読者に与える印象はそのようなものとなっています。
本を読み進めていくと、著者がこのように考える根拠として、二つの理由が見えてきます。一番目の理由とは、「預言や新しい啓示があるのなら、それは聖書に書き加えられるべきだ。」というものであり、次のように説明されています。
今も「預言」という形で神からのみことばが与えられると本当に信じている人がいるなら、その預言を聖書に書き加えるべきだ。しかし、彼らはそのようなことをする勇気などないだろう。「ダニエル書」などのように「〇〇書」と、実名で聖書に載せるなら、世界中の聖書学者から厳しく追及されることになるだろう。その問題点、矛盾点を指摘されることになるだろう。結局、現代版の「預言者たち」は、その責任が負えないから、また「預言者」としての権威が地に落ちてしまうから、「神からのメッセージだ」と主張しておきながら、決して聖書に書き加えることはしないだろう。その意味では、モルモン教のほうが正直だと言えるかもしれない。創立者のジョセフ・スミスの啓示である「モルモン書」などを、神のことばとし、聖書と同等の権威があることをはっきりと教えているからだ。(58頁)
二つ目の理由とは、たとえ預言があっても「神からの啓示かどうかを判断するための確かな基準が持てない」のだから、そのような不確かなものを広めるべきではない、というものです。
聖書に書かれていないことを「神からの新しい啓示」として語るなら、それは完全にアウトだ。結局、聖書から逸脱しているかどうかというのは、あくまで解釈の問題で、人によって様々な見解が考えられる。それでは、神からの啓示なのかどうかを判断するための確かな基準が持てない。「何でもあり」という話になってしまう。(58頁)
一連の著者の考えを踏まえ、今回は以下の五つの点に沿って、この問題を考えていきたいと思います。
- 「聖書のみ」を預言に適用するべきなのか?
- プロテスタントでなければ異端なのか?
- 預言があるのなら、聖書に書き加えるべきなのか?
- 預言や啓示について聖書はどのような見方を教えているのか?
- 預言が神からのものかを識別する基準は本当にないのか?
啓示・預言〜言葉の定義
本記事を進めていくにあたり、まずは啓示・預言などの言葉をどのような意味で用いるかを明確にしておきます。
「啓示」の定義:神や超越的存在によって、人間に明らかにされる真理やその他の情報全般を意味します。聖書の中では、イエス・キリストによって表された福音が、最も重要かつ根幹をなす啓示ですが、聖書とは別に、聖霊によって各々の信者に与えられる超自然的な情報も、「啓示」の定義に含みます[1]。(第一コリント14:30)
啓示が伝えられる手段:神はこの啓示を、幻、夢、言葉、体外離脱体験[2]などの手段を通して人に与えます。
預言の定義:預言とは、幻や夢などを通じて神から預かった啓示を他の人へ伝えることを意味します。加えて、預言をする人が受ける啓示は、基本的に他の人へ伝えることを目的として、神から与えられます。なお、預言の場合とは異なり、神が他の人へ伝えることを意図せず、個人的に与える啓示もあります。
預言者とは:預言者とは、神からの啓示を他の人に伝えるよう任命された人のことであり、その人の奉仕の職務に関係します。預言者として任命された人は、普通、一時的ではなく、ある程度継続的に、神からの啓示を受け取ります。なお、預言の賜物がある人が、必ずしも預言者であるとは限りません。賜物があることと、預言者としての職務に任命されることとは、別の問題だからです。
「聖書のみ」とは
「聖書のみ」が生じた背景
プロテスタントの三大原理の一つ「聖書のみ」と言う考えは、そもそもカトリック教会の伝統への否定を意識して生じたものであり、「預言」を否定するために生じたものではありません[3]。以下のウィキペディアの説明は、その事を上手に要約しています。
「聖書のみ(せいしょのみ、Sola scriptura)は、信仰義認、万人祭司と並ぶ、宗教改革におけるプロテスタントの三大原理の一つ。 ローマ・カトリックの「聖書と聖伝」に対して、プロテスタントは聖書のみを主張する。 ローマ教会が外典を付加するのに対して、プロテスタントは66巻である。」
その意味はあくまで、66巻からなる聖書のみを最終的な権威とし、他のいかなる要素(伝承や伝統、教皇の権威等)も、その権威と同等に置かないことを意図しているのです。ですから、聖書時代以降の預言を「聖書のみ」の否定と考えるかどうかは、あくまで「聖書のみ」や「預言」に対する解釈や適用の問題なのです。
預言を認めるプロテスタント教会はあるのか
では、実際に預言の肯定は「聖書のみ」を否定することにはならない、と考えるプロテスタント教会はあるのかというと、かなり多くあるのです。
例えば、プロテスタントの聖霊派の中で最も多くの信者を抱えるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団では、教職者による多少の解釈の違いはあれど、全体として預言の存在は認められています。他にも、日本チャーチ・オブ・ゴッド教団、日本フォースクウェア福音教団など、挙げればまだまだ出てきます。このように、今日のプロテスタント教会で預言を認める教会の数は決して少なくはないのですが、なぜそうなっているのかと言うと、多くの教職者が「預言の存在は『聖書のみ』の否定とはならない」と考えているからです。
ですから、「聖書のみを信じるプロテスタントは預言を否定しなければならない」と本当に強く主張する場合は、プロテスタント教会のリーダーの多くを集め、公に話し合う場を持つ必要があるでしょう。
プロテスタントだけが正統なのか
今回の書籍における預言や預言者に対する批判は、「プロテスタントであるかどうか」を土台に話が展開されていましたが、この点については、少し視野を広げて「プロテスタントは、数あるキリスト教の宗派の一つである」という事実を抑える必要があります[4]。
確かに日本国内においては、カトリック以外の多くのクリスチャンがプロテスタントとして認識されていますが、世界的に見れば、プロテスタント以外のキリスト教系の宗派は他にもあるからです。ウィキペディアの「キリスト教諸教派の一覧」というページで紹介されている以下の図を見ると、そのことがよくわかります。
西方教会の中だけでも、カトリック、聖公会、プロテスタント、アナバプテスト、復興主義等の5つの流れがあり、東方教会も踏まえると、さらに色々なグループが存在しています。
私がここで伝えたいことは、聖書的な信仰を持つ全てのクリスチャンがプロテスタントに属しているわけではなく、また属している必要があるわけでも無い、と言うことです。ですから、あるクリスチャンの信仰が異端的であるかどうか、非聖書的であるかどうかを論じる際は、「プロテスタントではこうだから」ではなく、あくまで「聖書に何と書いてあるか」をベースに考える必要があるのです。
そして、たとえあるクリスチャンがプロテスタントではなかったとしても、その人が神の家族であることに変わりはありません。ですから私たちは、聖公会の人も、カトリックの人も、アナバプテストの人も、東方教会の人も、同じ神の家族だと認識できますし、機会があれば、共に主にある交わりができるのです[5]。最も大切なことは、私たちがプロテスタントであるかどうかではなく、真にイエス・キリストを信じ、神の子どもとされているかどうかだからです。
預言があるなら聖書に書き加える必要があるのか
ほとんどの預言は聖書に加えられていない
今も「預言」という形で神からのみことばが与えられると本当に信じている人がいるなら、その預言を聖書に書き加えるべきだ。しかし、彼らはそのようなことをする勇気などないだろう。「ダニエル書」などのように「〇〇書」と、実名で聖書に載せるなら、世界中の聖書学者から厳しく追及されることになるだろう。その問題点、矛盾点を指摘されることになるだろう。結局、現代版の「預言者たち」は、その責任が負えないから、また「預言者」としての権威が地に落ちてしまうから、「神からのメッセージだ」と主張しておきながら、決して聖書に書き加えることはしないだろう。
実は聖書的に考えると、現代において預言があっても、それを聖書に加える必要は全くありません。なぜなら、主イエスや使徒たちが生きていた紀元1世紀に語られた預言でさえ、その中で聖書に加えられた言葉はほんのごく僅かだからです。実際に、もしもそれらの預言を全て聖書に加えなければならなかったとしたら、長すぎて聖書を読み切れる人が誰もいなくなっていたことでしょう。
イエスは多くの預言を語られましたが、その内記録されたのは、ごく一部です。
「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」(ヨハネ21:25)
十二使徒たちやパウロは、その特別な油注ぎのゆえに、生涯にわたって数多くの預言をしたはずですが、彼らの預言でさえ、聖書に記録されたのはごく一部です。
コリントの教会では、多くの預言がなされていましたが、彼らが語った預言は聖書に全く記録されていません。(第一コリント14章)テサロニケの教会でも、たくさんの預言がなされていたようですが、それらも全く記録されていません。(第一テサロニケ5:20)ピリポの娘たちは、全員預言をしていましたが、彼女たちの預言も一切記録されていません。(使徒21:9)他にも、聖書に登場しない多くの預言者が1世紀に存在していましたが、彼らの預言も聖書に含まれませんでした。
このように、1世紀になされた預言でさえ、ほとんど正典として記録される必要が無かったのであれば、まして現代になされる預言が正典に加えられる必要のないことは明らかです。
多くの預言が聖書に加えられなかった理由
では、なぜそれらの預言の多くは聖書に加えられなかったのでしょうか?その理由は、誤りの無い霊感を受けた神のことばとして正典に加えられること自体が、そもそも極めて特別なことだからです。神は、ごく少数の使徒たちや弟子たちに特別な油注ぎを与え、新約時代の教理の土台を構成することに関わる重要な預言や情報を託しました。その結果、彼らが書いた書物が、神の導きによって正典として選ばれていったのです。
ですから、それ以外の全ての預言は、同じ神のことばであっても、聖書に加えるほどの特別性は無いので、あえてそうする必要は全くありませんし、むしろ加えてはならないのです。内容という意味においても、ほとんどの預言は、その時代の国家や教会や個人に対して語られたものなので、後代に残される必要性は大きくなかったことでしょう。
結論として、正典にふさわしい預言や記録は、聖書時代においてすでに完結したと私は信じています。したがって、それ以降〜現代に語られるどんな預言や啓示に対しても、聖書と同等の権威を持つものとして見ることはありません。
しかしそれは、現代に語られる預言を、無条件に否定することを意味するものではありません。それらの預言を一切無視するようにではなく、「吟味するように」というのが、聖書で明らかにされている教えだからです。そして、預言を認めるプロテスタント教会の多くの信者も、きっと同じように考えていることでしょう。
預言や啓示に対する聖書的な見方とは
聖書と同等の権威を与えない
ここからは、上記で明らかにした啓示や預言に対する私の立場の根拠を、もう少し丁寧に説明していきます。啓示や預言に対する聖書的な見方として、第一に注意しなければならない点は、それらに「聖書と同等の権威を与えない」ということです。なぜなら、もしも聖書以外の啓示を「聖書と同等の権威のあるもの」と見做し、その新しい啓示に聖書と矛盾する内容が含まれているのなら、結果的に、それを信じる人は非聖書的な信仰に導かれていくからです。
事実、モルモン教をはじめ、多くの異端やカルトは、そのような新しい啓示によって生じてきているのです。ですから、異端・カルト問題を専門とする著者が、その点に厳しく警戒しているのは想像に難しくありません。
また、啓示ではありませんが、紀元1世紀のユダヤ教では、口伝律法が、旧約聖書と同等の権威を持つようになっていました。その結果、彼らは口伝律法で定められた安息日の規定をイエスが守っていないからという理由で、救い主を見分ける事に困難を覚えたのです[6]。
ですから、どのような啓示や預言があっても、より確かな聖書の言葉を常に重視することが大切です。ペテロでさえ、自分が見聞きした主の栄光と神の御声よりも、記された聖書の言葉を重視したからです。
「この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』18 私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。19また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。」(第二ペテロ1:17~19)
預言に対する「吟味」と「積極的応答」
聖書の権威を踏まえた上での、その他の啓示や預言に対する聖書の教えは、「危険だから全く退けるように」ではなく、「吟味するように」です。
1世紀末のクリスチャンの間では、聖書には記録されていない多くの超自然的な幻や啓示がありましたが、使徒ヨハネは「使徒や預言者が受けた啓示以外は退けるように」ではなく、「吟味しなさい」と教えました。
「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」(第一ヨハネ4:1)
コリントの教会でも、多くのクリスチャンが預言の賜物を用いていましたが、パウロは吟味しなさいと教えました。
「預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。・・31だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。」(第一コリント14:29~31)
加えて、「だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです」という表現から、「危険だから警戒しよう」という消極的な態度ではなく、「励ましのために行いなさい」という積極的な態度を奨励している事がわかります。
以下の聖句においても、パウロは彼を通して伝えられる神の啓示とは別に、信者の一人一人が、神をより深く知るための啓示の霊を受けられるようにと祈りました。
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」(エペソ1:17)
このように聖書は、吟味の上、信者の一人一人が預言によって励ましを受けたり、啓示によって建て上げられたりする事を奨励しているのです。
なぜ啓示や預言が必要なのか
では、なぜパウロは、使徒たちの教えだけでなく、信者の一人一人にも神を知るための啓示の霊が与えられるようにと祈ったのでしょうか?その理由は、弟子たちの成長のためには、聖書だけでなく、その聖書をより深く理解するための「超自然的な聖霊の助け」が必要である事を理解していたからです。
確かに聖書は、真の神からの啓示を収める正典としては完全であり、信者を整える神のことばとしては十分なものです。(第二テモテ3:16~17)しかしその完全性は、聖霊による助けがある事を大前提としているのです。
私たちは、聖書のより深い理解のため、牧師や教師、仲間の信者の助けを必要としますが、彼らに油を注ぎ、必要な言葉を与えておられるのは、聖霊による超自然的な導きによるのです。(エペソ4:11)また同じ聖霊が、ある時にはそれぞれの信者へ内的確信や平安を与え、別の時には幻や夢・預言などを与え、神への理解を助けるのです。
そして、このような視点で見る時に、「預言」や「啓示」は、「教師や牧師によるメッセージ」と同じく、信者を助けるための聖霊の超自然的な働きの一つである事が理解できるはずです。それらは、聖書と同等に置くためにあるものではなく、聖書の理解を助け、私たちを成長させるための神の備えなのです。
私自身、これまでに色々な預言や啓示を知る事を通して、聖書に対するより深い確信が与えられてきました。そしてその確信が、当サイトを作り始める大きなきっかけとなったのです。
ー後半へ続く
脚注
[1] 聖書以外の聖霊による啓示のことを、「啓示」ではなく「啓明」とする見方(神学)もありますが、その言葉が多くのクリスチャンにとって馴染みが無いことと、実際に聖書が「啓示」と言う言葉に幅広い意味を持たしていることを踏まえ、本記事では神から超自然的に与えられる情報全般を「啓示」と呼びます。
[2] 体外離脱体験については、現代多くの証がありますが、聖書の中でも、パウロが見た幻が、体外離脱体験を伴うものであった可能性を示唆する記述が見られます。
「私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。」(第二コリント12:2)
[3] もっとも、宗教改革が起きた時代は、預言等の超自然的な賜物はほぼ消滅していたと考えられるので、その点が議論になることはなかったはずです。
[4] ワグナーが提唱する新使徒運動(New Apostolic Reformation)の「Reformation」とは、改革を意味するので、客観的に見れば、その言葉を使っている時点で「自分たちは宗教改革に源流を置くプロテスタントではない」と主張していることになります。ですので、彼らの働きを批評する際に、プロテスタントの信条を土台に論じる必要は無いでしょう。
[5] 共に主にある交わりをするとしても、相手の信条の全てに同意する必要があるわけではありません。どんな宗派や教団や個人でも、多少の理解の違いはあるものだからです。また、相手がクリスチャンであれば何でも、どんな宗派でも良いのか、と言うと、そうではなく、それも聖書に基づいて考える必要があります。確かに聖書は、「滅びをもたらす異端」に警戒するよう注意を促しています。(第二ペテロ2:1)そしてその異端の特徴とは、イエスが主である事を否定したり、放銃な生活を奨励したりする事、などです。他にもありますが、長くなるので本記事では割愛します。
[6] もっとも、彼らがイエスを認めなかった重要な理由は、彼ら自身から出る偽善によるものでしたが、過度に肥大した口伝律法の権威は、明らかに彼らの目を塞ぐ要因となっていたはずです。
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