支配神学〜病気や悪霊への命令は聖書的か? 『新使徒運動はなぜ危険か』の検証①


支配神学〜病気や悪霊への命令は聖書的か? 『新使徒運動はなぜ危険か』の検証①

今回の記事では、異端・カルト問題の専門家であるウィリアム・ウッド氏が書いた『新使徒運動はなぜ危険か』(いのちのことば社)の本の内容について、聖書な視点から、私の見解を語らせていただきます。

私自身は、異端的な教団から出てくる時に、ウィリアム・ウッド先生にはお世話になった経緯がありますので、その働きには感謝をしていますし、今でもウッド先生の異端やカルトの救出活動は支持しています。

『新使徒運動はなぜ危険か』

『新使徒運動はなぜ危険か』いのちのことば社

今回、この記事を書くことを決めた背景ですが、私自身は、この本で取り上げられているような新使徒運動(NAR)のリーダーたちを特にフォローしたり強く支持したりしている立場ではありませんが、本で批判されている内容が、NARのリーダー各人だけに対するものではなく、そこで採用されている教えや神学体系全般に対するものとなっており、その批判が当サイトの内容や、私の周りの友人たちにも及んできていることから、記事で取り上げる必要性を強く感じました。

記事の目的は、批判されている各テーマ(支配神学、預言・啓示等)について、当サイトの立場を示すと共に、著者の調査が及んでいない部分や、見落とされていると思われる視点などを取り上げつつ、聖書が実際に教えている内容を検証していくことです。最後までお読みいただければ、きっと本を読むだけではわからなかった、この問題に対する新たな視点を知る事ができ、問題とされている神学への理解も深まり、誤解も取り除かれる事でしょう。

読者の方々に、神の導きがありますように。

※文調の関係上、『新使徒運動はなぜ危険か』については「本」、ウィリアム・ウッド先生については「著者」と略します。

病気に命じるのは聖書的か

本の内容について

新使徒運動(NAR)の代表的な特徴の一つとされる「支配神学」については、本著の前に書かれた『日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)の第8章において、その基本的な定義と内容が紹介されていましたが、「病気への命令」についての言及はありませんでした。

「支配神学」(Dominion Theology)は、三つの概念に基づいている。1サタンはアダムと エバを誘惑して、地球に対する支配権を奪ってしまった。2サタンからその支配権を奪い返すために、神は教会を用いようとしておられる。3教会が地球に対する支配権を奪い返 し、この世の政治制度、社会制度を征服するまで、イエス・キリストの再臨はない。(82頁)

しかし、本著においては、表紙において「“預言者”と称し病魔ウィルスに『立ち去れ』と命じる怪しい権威」とも書かれている通り、支配神学の適用が「病や悪霊への命令」にも拡大され、批評の対象とされています。

内容を読んでいくと、著者が新使徒運動のリーダーと見做している人々、シンディ・ジェイコブス、ケネス・コープランド、ベテルチャーチのビル・ジョンソン等がコロナウィルスなどの病気や死に権威を持って立ち向かった結果、失敗した事例が引き合いにされ、その権威や力に疑問が呈される流れとなっています。

病気への命令は、新使徒運動の神学なのか

そこで、この本を読んだ読者であれば、このような神学は、NARによって提唱され、流行してきたかのような印象を受けるでしょう。そして現在、病気に対して命じたりするクリスチャンは、基本的に、NARの影響を受けている、と考えてしまうことでしょう。しかし、それは部分的には事実ではありません。

この神学(病気や悪霊への命令)が、昨今の西欧のキリスト教世界において、NARの影響を受けて大きく広がっている、という点は事実でしょう。しかし、NARとは全く関係なく、ただ聖書を純粋に読んだ結果として、このような考えに至るクリスチャンもたくさんおり、私自身もそうなのです。

この教えに関して、私が特に影響を受けて来た人物としては、「The Last Reformation」のトーベン・サンダーガード氏や、「John G Lake Ministries(JGLM)」のカーリー・ブレイク氏等を挙げることができます。彼らの働きは、世界的に大きな影響を及ぼしていますが、その働き自体は、NARとは全く関係がないのです。

JGLMの働きについていえば、その源流は、ジョンGレイク氏(1870 – 1935)にさかのぼりますが、当然のことながら、彼の働きは、現在のNARの台頭よりも遥か前です。

ですから、病気に対する命令は、現代のNARが考案したものではなく、またNARだけが広めてきたものでもなく、単に、現代の新使徒運動において、昔から存在してきたその教えが採用されている、という事なのです。

支配神学「病気への命令」の源流

では、キリスト教の歴史の中で、その神学を最初に教えた人物は誰だったのでしょうか?それは他でもない「イエス・キリスト」でした。イエス・キリストは、すべての病や悪霊に対して、権威を持って命じることによって、癒しや解放を行いました。イエスが権威を持って、それらを行ったことについては、それに反対するクリスチャンは誰もいませんので、これ以上は掘り下げません。

次にイエスは、自分が行ったのと全く同じ癒しを、弟子達も行うことができるよう、十二使徒と、選抜の72人に権威を与え、彼らを伝道に送り出しました。つまり、最初に病気・悪霊への権威を弟子達に教えたのも、主イエスでした。

「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」(マタイ10:1)

「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。2そして彼らに言われた。・・その町の病人を癒やし、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。・・19 確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。20 しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:1〜20)

ここで私たちは立ち止まって考えなければなりません。もしも、クリスチャンが病気に対して命じる事が非聖書的だと考えるのなら、「十二使徒と七十二人は命じて良いが、それ以外のクリスチャンはダメだ」という考えを明白に証明する聖句を、新約聖書から見出さなければなりません。しかし、私が知る限り、それを明白に証明する聖句は存在しないのです。

むしろ、いくつかの聖句は、イエスが全ての信者に対して、同じことを命令している、という事実を証明します。

マルコ16章〜信じる者に与えられるしるし

全ての信者は病人を癒す

「それから、イエスは彼らに言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。16信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。17信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、18その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。』」(マルコ16:15〜18)

本の中では取り上げられていませんでしたが、実はこの聖句こそ、病気の癒しに関する支配神学の聖書的根拠を検証する上で、最も取り上げなければならない箇所なのです。ここでイエスは、全世界に弟子達を送り出す際に、「信じる人々には次のようなしるしが伴います」と言いました。「使徒には」でもなく、「70人には」でもなく、「牧師には」でもなく、「信じる人々には」と語ったのです。そのしるしとは、イエスの名によって、悪霊を追い出し、新しいことばで語り、病人をいやす、ということでした。

つまり、かつて十二使徒達に対して命じたのと全く同じ命令を、全世界に送り出す全ての信者に与えているのです。このように一連の流れを見ていくと、大変興味深いことがわかります。それは、イエスは、悪霊追い出しと病気の癒しの権威を与えずに、弟子たちを福音宣教に遣わしていることは一度も無い、ということです。

マルコ16章の信ぴょう性

ここで、あるクリスチャンは、「マルコ16章9節以降は、後代に付加された文章だから、正典としての十分な権威は無い」と考えるかもしれませんが、以下に挙げるこの問題の真実を知れば、その考えは覆るはずです。

  • 現存するマルコの福音書のギリシア語写本の数は、およそ1600程度に上りますが、その内、9節以降を含んでいないものは、わずか三つだけであり、他の1600の写本の全ては、9節以降を含んでいます。つまり、99.8%以上の写本は、きちんと該当の聖句を含んでいるのです。
  • 9節意向を含んでいないとされる三つの写本には、バチカン写本、シナイ写本、が含まれており、この二つの写本は、今日、多くの聖書翻訳において重要視されています。ところが、これら二つの写本はどちらも、16章の後半に、不自然な余白や文字密度の減少がある事がわかっています。つまり、実際には、元々その箇所に、文章が書かれていた可能性が高いのです。
  • 初期のキリスト教の著述家たち、バビアス、エイレナイオス、テルトゥリアヌス、ユスティヌス等は、一様にして、マルコ16章の後半を、正典の一部として引用しています。

以上の事実を考慮すれば、マルコ16章後半における大宣教命令、およびそこに書かれた信者に伴うしるしは、イエスの言葉として、十分に信頼に値するものだと理解できるはずです。

キリストと同じわざを行う

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)

ここでもイエスは、「わたしを信じる者」、つまりイエスを信じる全ての信者が、「わたしが行うわざを行」う、と保証なさいました。では、イエスが地上で行ったわざとは何でしょうか?それは、次の聖句に要約されています。

「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、19主の恵みの年を告げるために。」(ルカ4:18〜19)

実際にイエスは、福音を伝えるだけでなく、悪霊追い出しや癒しにもたくさんの時間を使われました。ですから、イエスが「わたしが行うわざ」と語った時に、そこに「解放や癒し」も含まれていると考えるのは、ごく自然なことなのです。

以上の聖句から明らかなことは、主イエスは、彼を信じる全てのクリスチャンに対し、福音を宣べ伝えるのと同時に、イエスの名によって悪霊を追い出し、病気を癒すことを期待しておられるのです。そう、かつての十二使徒達と70人と同様に、です。ということは、全てのクリスチャンは、かつての使徒達と同じように、病気や悪霊に対して命じて良い、という結論が必然的に導き出されるのです。

すでに該当の本を読んだ方々に、一つ、質問したい事があります。あなたは、本を読んだあと、このイエスの大宣教命令に従い、悪霊を追い出したり病人を癒したりするよう励まされたでしょうか?あるいは、その命令に従う事に対し、より躊躇するようになったでしょうか?

私はこう考えています。癒しの原則や方法について、私たちが何を信じるとしても、その解釈は、このマルコ16章のイエスの大宣教命令に従えるよう私たちを励ますものとなる必要がある、と言うことです。

私の場合は、2年ほど前から、病気や悪霊に対して命じることを理解し、マルコ16章にしたがって、それを伝道で実践するようになりました。その結果、多くの瞬間的な癒しや解放によって、キリストの力がその場で働くのを見てきました。イエスのみ名をたたえます!

今、主の恵みにより、神のことばと力に対する私の信仰は、前よりも成長し強くなっているのです。

私は、この記事を読む全てのクリスチャンに心から勧めます。かつての使徒たち、70人がしたように、出て行って福音を宣べ伝え、イエスの名によって悪霊を追い出し、病人を癒してください。たとえあなたが今、病気に対して命じるクリスチャンに対し批判的に考えているとしても、このキリストの命令を実行しようとするなら、その時に、その行動にどのような信仰が求められるのかをきっと知ることになるでしょう。

命じた方が癒されるのか

命じる祈りの効果の適切な検証方法とは

本の中では、NARのリーダーたちがコロナウィルスや病気に対して命じた結果、効果がなかった、といういくつかの事例が示されています。

「これらの数字が明らかに示しているように、シンディ・ジェイコブスやケネス・コープランドの宣言によって、新型コロナウィルスが死滅したわけでもないし、状況が収束に向かったわけでも無い。むしろ、状況は悪化の一途を辿っている。」(13頁)

それで、この本を読んだ読者の中には、「結局、命じる祈りは効果がないじゃないか」と考える人もいたことでしょう。確かに、この事例は残念なことではありますが、冷静に考えて、少人数の人々の命令や宣言によって国中の病気が死滅する、という奇跡は、イエスも弟子たちも地上生涯で行わなかった業ですので、「効果があるかどうか」を比較する対象のサンプルとしては、あまり適切では無いように思えます。

イエスや弟子たちの場合、基本的には、いつも病人の元へ出向き、手を置いたり命じたりすることによって癒しが起きました。ですので、この問題を正しく検証するためには、「同じようなシチュエーション」において、「癒されなかった事例」だけではなく、「癒された事例」も取り上げる必要があります。加えて、「命じた場合」と「そうでない場合」の効果を、ある程度の時間、相当数の事例から検証する必要があります。(どのような問題の是非を判断する時も、その結果が偏りの無いものとするために、このような手法が不可欠であることは、全ての科学者が同意することでしょう。)

カーリー・ブレイク氏による検証

そして、この命じる祈りの効果を検証する上で、ベストな事例を提供してくれているのが、「ジョン・G・レイク・ミニストリー」の後継者である「カーリー・R・ブレイク」氏です。元々、カーリー氏は自分の娘を病気で亡くした経験もあり、聖書的な病の癒やしの方法を熱心に研究してきた人でした。彼は、アメリカ中の癒やしの本を読み漁り、それらの全てを試してきたことについて、次のように語っています。

「信じてください。恐らく、私の個人的な図書館ほど多い本のコレクションを見たことがある人はほとんどいないと思います。私の息子にきいてください、彼はそれを引越しのために動かすのをたくさん手伝ってくれました。私は癒しについての本はほとんどなんでも持っています。そのうちの98パーセントは使い物にならないゴミです。それでも、それらを持っているのは、他の人たちの意見や考えを知りたいからです。それらを読みながら、その本で彼らの言っていることをすべて行いました。それでも私の癒しの成功率は、15~25パーセントでした。大抵の教会の平均10パーセントと比べればよいほうですが。10人に1人は癒される程度です。なので、私はこれらの本を読んで、それに書いてあるすべてのことを行っていました。」(Devine Healing Technicians training – Session1

しかし、その後にジョンGレイク氏の癒やしのマニュアルを手に入れて、癒やしの方法を「神にお願いする方法」から、「命じる方法」に変えた時に、癒やしの成功率が大きく変わったことについて、カーリー氏は次のように述べています。

「まず最初に私は祈り方を変えました。お願いすることから、命令することに変えましたそれによって瞬く間に癒しの成功率が上がりました。マニュアルを学びつつ、私のしていたことを変えていきました。祈り方を変えた後に私は信じていることを変えました。何故なら、祈った時に得る結果は、私達がその時に信じていることだからです。もしゆっくりとした癒しを信じているなら、段階的な癒しが起きるでしょう。でも、瞬間的な癒しを信じるなら、瞬間的な癒しが起きるでしょう。」(Devine Healing Technicians training – Session1

それ以来、カーリー・ブレイク氏は、イエスの御名の権威による癒やしを、彼のミニストリーにおいて実践し続けてきました。そして、1997年時点での統計によれば*[1]、その前の四年間で、カーリー氏が手を置いて癒やされた人の数は、7万件にも上りました。(計算すると、一日47件の癒やしとなります)

結果的に、カーリー氏のミニストリーにおける癒しの成功率は、94%〜97%もの上昇を記録することになりました。

「私達は、今までに少なくとも7万人のために祈ってきました。そのうち、私はてんかんの為に祈って、癒されなかった人を知りません。知っている限りは、皆癒されています。私達は、ほとんどすべての記録を残しています。その他のある病気に対しては100%の癒しの成功率があります。全体的には、私達の祈ってきた94%から97%の人々は癒されています。ある病気は、他の病気に比べて瞬間的に癒されたりします。」

おそらく現代のアメリカにおいて、癒しに関し、カーリー氏ほど研究し、実践を重ね、多くの人のために祈り、結果を出してきてきた人物は、数えるほどしかいないと言ってよいでしょう。ですから、上記で取り上げた彼の証言は、かなりの信頼に値するものだと考えて良いのです。

今回の本で言及されている、コロナウィルスへの戦いの失敗については、事実なのでしょう。それについては、その原因がなんだったのか、はっきりと述べることは私にはできません。ただし、全体としては、権威に基づく癒しを正しく信じ切って実行した時の結果は、お願いする祈りよりも効果が遥かに高い事が実証されているのです。

(もっとも、ただ命じさえすれば、確実に成功率が上がる、ということではありません。癒しについては、他にも考慮していくべき部分があり、それら全てを踏まえた上で、カーリー氏は上述のような結果を出しているのです。

また、このような点を述べるからと言って、神様に癒しをお願いすることがダメだと考えているわけではありません。他の人のための心からの祈りは、どのような形であろうとも、神の目には良いものだからです。)

神の主権の問題〜命じれば、願い通りの事が起きるのか

著者が考える、支配神学の最大の危険

「支配神学の最大の危険は、神の主権が侵されることだ。基本的には、神に委ねて、神のみこころがなるように祈るのではなく、それが果たして神の望まれることなのかどうか確かめることもなく、すべて自分の思いイコール神の思いとなって、ひたすら命令したり、宣言したりする(注2)。これはまさに、聖書の主要なテーマに真っ向から逆らうことであって、自分ではそのつもりはなくても、神の領域を冒すことにつながり、まさに人間が神になろうとすることなのだ。」(30頁)

本の内容を読んでいくと、この一文が、支配神学に対する著者の考えを簡潔にまとめた内容となっていることがわかります。

著者の視点によれば、あらゆる物事や出来事は、神の主権の中にあるので、それに対して、クリスチャンが持つべき基本的な姿勢は、神に委ねて、神のみこころがなるように祈ることであって、権威を持って命じたりするのはもっと控えるべきだ、というものです。もっとも、前後の文章を注意深く読む限り、著者が権威によって命じることを完全否定しているわけでは無いことはうっすら感じ取れますが、いづれにしても、命じることに対しては、とても消極的な態度であることが伺いしれますし、読者に対して与える印象もそのようなものとなっています。

次に、「それが果たして神の望まれることなのかどうか確かめることもなく、すべて自分の思いイコール神の思いとなって、ひたすら命令したり、宣言したりする」という表現から、この指摘が、極端な支配神学の支持者や教師に対するものであることがわかります。

実際に、この指摘の通り、聖書から御心をきちんと確認することもなく、とにかく命じたり宣言したりすればそのようになると考えるクリスチャンがいるなら、それは危険なことです。しかし、病気に対して命じたり、復活を命じたりするクリスチャンの全てがそうでは無い、という事実も、同時にしっかりと伝えておかなければなりません。そうでなければ、上記の引用文を読む多くの読者は、「病気に命じたりするクリスチャンは皆このような極端な信仰を持っている」と考えてしまうからです。

御心であれば、命じるのは主権に服することとなる

実際に、著者が批判するNARのリーダーたちがどうであれ、私自身や、私が学びの参考としてきた教師たちは、権威を用いる前に、神の御心が何なのかという検証を十分に行なっています。

そして、すでに確認してきたように、神が弟子たちに望んでいることは何なのかと聖書から確認すると、それは明らかに、福音を宣べ伝えると共に、権威によって悪霊を追い出し病気を癒すことです(マルコ16章)。ですから、命じれば悪魔は追い出され、病気は癒されるのが基本的な神の御心だと考え、それを期待して実行することは、神の主権や御心を無視するものではなく、むしろその主権に忠実に服することなのです

どこまでを命じて良いのか

一方、何でも命じればよい、と考えても、確かに著者の指摘する通り、神の主権や、神中心の考えが脅かされていくことになるかもしれません。イエスは、ある文脈において「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:22)と言われましたが、聖書全体の文脈を考慮すれば、その「何でも」の意味が、「御心にかなうもの」という範囲に限定されていることは明らかだと思います。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:33)

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

ですから、何が神の御心なのか、という吟味を聖書的に行うことなしに、イエスの名を用い、その権威によって何でも命じようとすることは、確かに良いことではありません。しかしながら、ある状況において、権威を用いて命じることが神の御心であると判断できるなら、その御心に沿って、イエスの名において命じることこそ、神の主権に服することであると、私は信じます。

なお、聖書から吟味した結果、何が御心の範囲なのかについて、クリスチャンの間で異なる見解は生じ得るでしょう。そのような場合でも、聖書的な解釈の範疇に含まれそうなものであれば、安易に互いを批判することを控え、お互いの考えを尊重し合うことも大切なのではないかと思います。

次回以降の記事では、復活やその他の奇跡についても取り上げていきたいと思います。

感想や質問などあれば、ぜひコメント欄からお寄せください。

脚注

[1] このコンテンツの元のメッセージが語られたのは、1997年です。

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11件のフィードバック

  1. ともこ より:

    ウイリアムウッド先生がコメント書いておられることが本当だなとしみじみ感じました。私も40年以上キリスト業界にいますし、ずっといろんな教理もみてきたクリスチャンです。その中で思うことは、癒しについては多様な考え方や理解があります。
    一番大事なことは福音を伝え実践していくこと。
    イエスご自身が、癒しや奇跡をイエスご自身とお父さん、また十字架の福音より
    大きくは「強調しない」という点です。ここに引き続きフォーカスしていきます。

  2. ヒガ より:

    ウッド先生のお気持ちもよく分かります。
    私も、癒しの確率や、瞬時に癒されなかった場合について最初は考えました。
    しかし癒しについての学びを重ねるごとに考えが変わりました。

    約100年ほど前、ジョン・G・レイクの癒しの確率は100%近かったようですね。
    しかもスポーケン市の病院が潰れてしまうほど。
    5年間で10万人を癒したという結果が出ています。
    彼の場合は、癒される相手に信仰が無くても関係なく癒していたそうです。
    ということは、癒す側だけの信仰で癒しは起きると言えます。
    さらに、彼のヒーリングルームでは、瞬時にだけではなく1か月の期間をかけて癒しを祈り続けることもあったようです。
    それによって1か月後にはほぼすべての人が癒されていたようですから、”瞬時に”ではなくても癒されたという結果に違いはありません。
    その信仰に見倣ったカリーブレイクも、現在100%に近い確率で癒しを行っているようです。
    カリーブレイク氏も、癒される側の信仰は関係なく、
    完全に癒やす側の信仰のみで癒しを行えると言っているとのことです。

    また、私の知り合いで、脊柱側弯症だった方がいますが、
    彼は普通に歩くこともできなかったのに、癒しを信じて数か月毎日自分自身の身体に命じて祈り続けたようです。
    その結果、脊柱側弯症が完治して今では元気に歩いています。

    瞬時に癒される場合もあり、ある一定の期間をかけて癒される場合もあります。
    実は諦めないで祈り続けることも信仰のようです。

    「御心ならば癒してください。」という祈りはよく耳にしますが、
    そこに信仰が働いているのかは疑問です。
    それは癒されなかった場合には御心でなかったという言い訳が前置きとして存在するからです。
    「もし癒されたら嬉しいです。癒されなくても御心でなかったと諦めます。」と最初から言っているようなものです。
    心のどこかに「もし」という気持ちが見え隠れしているのであれば、それは癒されたらいいなという程度ではないでしょうか。
    疑いながら祈っていては、その祈りは聞かれないでしょう。ヤコブ1章
    だからこそ病気に対して命じることには信仰が必要になります。
    癒されると信じているからこそ命じることができます。
    また、瞬時に癒されなくても、祈ったからには必ず身体に何らかの変化が生じていることは確実であると信じて継続的に祈り続けることも信仰です。
    ウッド先生のご意見は「瞬時に」にこだわり過ぎてしまったことによって生じた疑問だと思います。

    また、ジョンGレイクは、
    パウロの肉体のとげは、病気ではないと言い切っています。

    クリスチャンは、癒されない場合にこれは私の肉体のとげだと言います。
    そう言ってしまえば、それは癒されないと信じているようなものですから癒しを諦めていることにもなるでしょう。
    パウロの肉体のとげについて、一般的に言われている「病気」とは違う解釈ができることは、
    癒しの確率を上げるうえで非常に重要なのかもしれません。

    以上のことから、
    私個人の現段階での理解として、
    ①100%近い確率で癒しを行うことが可能。
    ②瞬時にではなくても徐々に癒されていくケースも有る。
    ③諦めずに祈り続けることも信仰である
    ④癒される側に信仰が無くても、命じて祈る側の信仰のみで癒すことが基本。

    それによって、
    癒されなかった場合には「癒し手の信仰の欠如が原因」であることを前提にするならば、
    癒しを求めてきた方が、その結果に気落ちしてしまう必要は全くないことになります。

    私は、上記4つのスタンスによって、信じて祈り続ける原動力を得ています。

  3. Fujita.H より:

    私は聖書に書いてある通り、病気に対して命じる権威を神様が与えて下さったことに感謝している者です。「お願い」と「命令」はとても違います。
    癒されない人に気を遣うあまり、この権威を放棄するのはもったいないと思います。
    たとえば、医師は患者を治すために全力を尽くします。医療で救えない人もいるから、あなたにも
    ほどほどにします、とは言わないのではないでしょうか。
    ただ、この権威を使って病人を癒す人が、その誉を自分のものとしていくと、カルトになると思いますので、神様からいただいた権威を正しく使うことは大切だと思います。
    癒されなかった人は信仰が足りなかったからとは思いません。最終的には神様がなさることで、
    永遠の命を約束下さった神様は、この世でもこの世の生を終えた後でも守ってくださることを
    信じています。実は3年前、母を病気で亡くしました。神の癒しを信じていましたが、母は天に
    召されました。たいへんショックでしたが、神さまが悪意のある方ではなく愛の神であることを
    自分に言い聞かせ続けました。悲しみと共に神様からの慰めもたくさんいただきました!
    true-ark様の上に、ウッド先生の上に神様のご加護がいつもありますように祈ります。

  4. 日下部様
    あなたの書かれた「支配神学~病気や悪霊への命令は聖書的か?『新使徒運動はなぜ危険か』の検証①」を読ませていただきました。とても難しい問題に真っ向から取り組もうとされていることがよく分かりました。

    私も高校生の時から約20年間、悪霊や病気に対して命令する神学を実践していた者です。あなたと同じように、何度も奇跡を体験しています。しかし、牧会経験を積んで行くうちに、自分の信仰のあり方について考え直さなければならなくなりました。それは、自分が祈った(命令した)人がすべて、必ずしも瞬間的に癒される訳ではないという現実を見たからです。この問題をどう理解すれば良いか、色々と考え悩みました。勿論、私が教わった「支配神学」には、明白な答えがありました。もし、癒されない人がいるとすれば、それはその人に信仰がなかった(足りなかった)からだ、ということです。しかし、色々な方々の霊的ケアをして行く中で、この単純な答えで片付けられない問題もあることが分かって来ました。祈りを求めて来る方々は皆、信仰を持っています。信仰がなければ、私に祈りを求めることはしません。私自身も、主の癒しのみわざを期待して、祈ります。しかし、実際問題として、奇跡的に癒される方もいれば、癒されない方もいるのです。これが癒しのミニストリーを行なっているすべての人が認めざるを得ない現実なのです。

    あなたも多くの奇跡を見ていると書いておられますが、癒されない方も多くいらっしゃるはずです。私は牧会者として、癒されない方々のその後の霊的状態がとても心配になりました。彼らに対して、「あなたが癒されないのは、信仰が足りないからです」と言うのは簡単なことですが、無責任すぎる対応ではないかと感じました。更に、彼らを深く傷つけることになると分かっていたからです。実際に、そのように牧師から言われて、神に対する信仰を失ってしまった方々を、私は知っています。そこで、私は「支配神学」について再考することにしました。祈りつつ、聖書を綿密に調べたり、多くの事例を考慮したりして、次の結論にたどり着きました。

    ① クリスチャンは確かにキリストから霊的権威を与えられた者として、福音を宣べ伝え、病人のために祈らなければならない。
    ② 神のみこころは、すべての病が癒されることだが、その病がいつ、どのような形で癒されるかは、神の主権の中にある。瞬間的(奇跡的)に癒される人もいる。しかし、病院での治療によって治る人もいる。また、地上にいる間に癒されずに天に召される人もいるが、その人も必ず、天の御国において、すべての苦痛から解放されて、健康な状態になっているはずだ(黙示録21:3-4)。

    私の結論に対して、日下部さんは疑問を感じるかも知れません。「聖書に反する」と思われるかも知れませんが、信仰を持っていても癒されない人がいるというのは、私たちが経験する現実であるだけでなく、聖書にも裏付けられています。使徒パウロは「肉体のとげ」から解放されませんでした(2コリント12:7-10)。病気のためにトロピモをミレトに残さなければなりませんでした(2テモテ4:20)。また、テモテに対して、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、またたびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」と戒めています(1テモテ5:23)。

    以上のような理由から、私は病人に対して、「癒されよ」と命令することを止めました。「あなたのみこころの通りに、最善をなしてください」と祈ることにしています。そして、祈った後、上記のように、癒しに関して神のタイミングと方法があることを伝えます。これも、私の45年に及ぶ牧会経験の中で学習したことですが、病人に対する命令は、相当なプレッシャーを与えます。命令ですから、治らなければなりません。今すぐに治るという以外のチョイスはないのです。ですから、癒しが現われない場合、本人は肉体的な苦しみに加えて、精神的に苦しむことになります。「神の命令なのに、どうしてその通りにならないのか」と非常に悩む訳です。一方、「あなたが最善と思われるタイミングと方法によって癒してください」と祈られた方は、どのような結果をも、神のみこころとして喜び、すべてのことに神の目的があると受け止めることができます(2コリント12:9-10参照)。

    勿論、あなたから「でも、キリストも弟子たちも病人に命令したのではないか」と言われることは分かっています。イエス様は神の御子として、父なる神のみこころを完全に御存じでした。ですから、病人に対して、「癒されなさい」と命令されたのでしょう。しかし、イエス様は必ずしも、すべての病人を癒された訳ではありません。例えば、ベテスダの池で、38年間、足が不自由だった男を癒されましたが、彼以外の病人は癒されていません。大勢の病人がそこにいたのにもかかわらず、です(ヨハネ5:1-9)。また、ペテロとかヨハネも、神の霊感を受けて新約聖書を書いているので、私たちよりも霊的にレベルの高い領域に達していたと言えるのではないでしょうか。だからこそ、美しの門にすわっていた男に対して、「イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言えたのではないでしょうか。つまり、彼らは、この人が癒されることが神のみこころだと聖霊に示されて、そのように命令をした、ということです。ついでに述べておきますが、キリストは確かに弟子たちに霊的権威を与えましたが、「治るように、病人に命令しなさい」とおっしゃったことは一度もありません。

    私の言わんとすることは、このことです。もし、あなたが誰かのために祈る際、この人が奇跡的(瞬間的)に癒されることは神のみこころだという100%の確信があるなら、命令しても構いません。しかし、実際問題として、あなたはすべての病人に対して、「あなたは必ず、奇跡的に癒される」と保証できますか。あなたのこれまでの癒しの成功率は100パーセントですか。癒されなかった人がいるなら、あなたは具体的に、その人にどのようなアフターケアをしていますか。

    余談になってしまうかも知れませんが、日下部さんはカーリー・ブレイクさんの話に言及しておられますね。彼はジョン・G・レークの弟子だったということですが、レークさんは65歳の時に、心筋梗塞で亡くなっています。私も神学校の時に彼の話を聞いて、「凄い信仰の人だ」と思いましたが、彼でさえ、病気に勝てないことがあったのです。私はブレイクさんのことは全く知りませんが、確かに言えることは、人間である以上、彼もいずれ病気になり、やがて死ぬということです。

    日下部さんとそれほど深い交流があったとは言えないかも知れませんが、とても有能な兄弟だと見ています。だからこそ、このようにあなたの記事を読んで、それに対するコメントを書いています。もう少し、バランスの取れた信仰を持ってください。自分こそイエス・キリストの命令に従っていると思っておられるようですが、今の内に軌道修正をしないと、証しになるどころか、多くの人々につまずきを与えてしまう恐れがあります。
    「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように』」(マタイ6:9-10)。
    これも、私たちが守るべき命令だと考えます。

    ウィリアム・ウッド
    2021年1月6日(水)

    • 三島 より:

      客観的で冷静で説得力のある考えをお持ちの方だと思い、コメントを読んで100%同感・同意しました。
      異言や癒しの祈りができる人は、癒しや奇跡が起きた話はするが、それが起きなかった人の事は触れません。
      異言や癒しが出来る人に、「毎日祈っています。」と言われても、こちらとしては全く変化がなく空しさしか感じないできました。
      信仰が足りないからだ等々の聖書の言葉を引用するのは簡単ですが、藁をも掴みたい切実な気持ちでいる人には絶望的な気持ちにさせられ躓きの原因のひとつにもなりえる。
      そこでイエスの祈りです。
      あなた方に必要なものは天の父はご存知であるから、あなた方はこのように祈りなさい。
      と教えられた「主の祈り」が最後に書いている事が結局はすべてのように感じるんですよね。
      ★私たちのひごとの糧を今日もお与え下さい。
      私たちを試みに合わせないで悪い者よりお救い下さい。
      国と力と栄えとはとこしえにあなたのものだからです。
      アーメン。

      ★罪のない正しい人は一人もいない
      神はすべての者を哀れむために不従順の中に閉じ込めた。
      とも書いている箇所など、神の救いは一筋縄では理解できないものがありますよね・・・

    • true-ark より:

      ウッド先生、丁寧なご返信をいただきありがとうございます。

      まず驚いたことは、ウッド先生が、かつて20年間も、「病への命令」の実践者であったことです。書籍の中にも、このご返信で書かれているようなご自身の詳しい体験が書かれているなら、支配神学の実践者を含め、きっともっと多くの読者の方々の理解を得ることになるかと思いました。

      ウッド先生が、これまでの実践経験を踏まえて、癒しについての確固たる考えを持っていることはわかりました。ただ、だからと言って、病気に対して命令をする人々を、そこまで強く批判する必要があるのでしょうか?なぜなら、聖書は癒しについて、いくつかの原則を示しているだけで、決して多くのことを教えてはいないからです。聖書は、癒しが起きたことに関する歴史記録を福音書〜使徒の働きで多く載せていますが、一方で「ではどのような方法によって病人を癒すのか」「癒されない場合、どんな原因が想定されるのか」という問題については、明白に体系化された教えがほとんどないのです。

      このような理由から、クリスチャンの間で、癒しについていろいろな考えが出てくることも、多少無理はないのだと私は思います。ですから、聖書が明白に体系的に教えていない事柄について、「絶対にこうだ」と強く考え、他の考えを全く否定する必要はないと思うのです。

      コメントを読んだ上で、ウッド先生が病気への命令をやめた理由として、以下の三つがあることがわかりました。そして、これら三つの点について、私は違う考えを持っていますので、そのことをご説明させていただきたいと思います。

      1:命じるなら、その場で100%癒されなければならない
      2:癒されない場合、祈られた人の信仰が問題とされなければならない。
      3:そもそも、キリストは弟子たちに病気に命じるように教えたと、聖書に記録されていない

      (1)命じるなら、その場で100%癒されなければならない
      確かに、聖書の記録では、病気に対して命じられた場合、そのほとんどが、その場で瞬間的に癒されています。しかし、その場で癒されかった事例も記録されています。それはマタイ17章で、弟子たちは、てんかんの病をもたらす悪霊を、彼らの権威によって追い出すことができませんでした。しかし、失敗した弟子たちに対してイエスは、「命じるならその場で確実に追い出さなければならないから、今後は命じたりしないように」とは言いませんでした。主は、権威を行使するための弟子たちの信仰が薄かったことを問題視したのです。

      いづれにしても、聖書を読む限り、癒しや解放が失敗する場合、それは不信仰を見直すべき理由とはなっても、権威によって命じる行為自体を否定する根拠とはなっていない、と言うのが、私がここで抑えたいポイントです。(癒しが起きない原因の全てが不信仰だと考えている訳ではありません)

      また、その場で100%という点についてですが、これはウッド先生も経験されていると思いますが、一度ではなく、何回かの祈りや命令を通じて、癒される場合もあるのではないでしょうか?マルコ16章でも、「病人に手を置けば癒されます」とは書かれていますが、「手を置けばその場でどんな時でも完全に癒されます」とは書いていませんので、そこまでの定義や期待をする必要はないと思います。(もっとも、その場での瞬間的な癒しを信じた方が、そうでない時よりも、瞬間的な癒しは起きやすい、ということはあると思います)。

      ですから、「その場で完全に癒されないことがある」と言う事実が、命じる行為を否定する根拠とはなりづらいと思います。

      (2)癒しの原因を祈られる人に向けることについて
      「彼らに対して、『あなたが癒されないのは、信仰が足りないからです』と言うのは簡単なことですが、無責任すぎる対応ではないかと感じました。」

      癒しが起きない場合、常に癒されない人の信仰の問題にするのは、無責任だと私は思いますし、私はそのようにはしません。聖書の記録を確認していくと、通常、癒しが起きるためには、祈る人か、祈られる人のどちらかの信仰が必要です。つまり、相手の信仰がなくても、こちら側に信仰があれば、癒しは起きます。(もっとも両者に信仰がある方が良いことは言うまでもありませんが)

      ですから私の場合、癒しの祈りをする時には、相手の信仰ではなく、自分の信仰に着目しますし、癒されない場合は、相手の不信仰を問題にする前に、まず自分の信仰を確認します。(もっとも、一番大事なのは、イエスの御名そのものです)

      また、癒しがすぐに起きない原因は、他にも色々とあると思いますし、心の傷等を抱えている人は、それが原因で、なかなか癒しがスムーズに行かないこともあると思います。(あるいは、一時的に癒されてもすぐに戻ってくるなど)

      癒しがすぐに起きないことついての私の考え方は、以下の記事でも説明していますので、ご興味があれば、合わせてご参照くだされば幸いです。
      https://true-ark.com/nar-2-dt/#i-8

      (3)そもそも聖書には、キリストが弟子たちに病気への命令を指導した記録が無い。
      「キリストは確かに弟子たちに霊的権威を与えましたが、『治るように、病人に命令しなさい』とおっしゃったことは一度もありません。」

      確かに、そう言う記録は聖書にありませんが、権威を与えて送り出され、主イエスと同じことをするよう要求される時点で、「命じる」と言う行為は弟子たちにとって必然的なものとなったはずです。聖書の記録上、弟子たちが行ったほとんどの癒しが、命令によって起こったのは、そのことを示唆してはいないでしょうか。

      仮に、イエスが癒しの方法について何も指導しなかったのなら、弟子たちは、普段のイエスの方法を真似るしかなかったことでしょう。また、もしもイエスが「癒しの際は、神にお願いしなさい」と指導したのなら、弟子たちはいつでも、神にお願いしていたことでしょう。

      こうした背景を考慮すると、やはり、当時の弟子たちにとって、命じて癒すことは、普通の行為であったと考えられると思います。つまり、たまたま聖霊によって強い確信が与えられ、その時だけ命じた、とうよりは、日常的に命じて癒しを行なっていた、と言う方が、種々の背景を考慮すると、しっくり来るのです。

      なお、聖書を読むと、悪霊が病の原因となっているケースが実際に多くあることがわかりますが、そのような場合はなおのこと、神にお願いするのではなく、病気やその病気をもたらしている悪霊に命じる必要があると私は思います。

      かつて、スミス・ウィグルワースが、虫垂炎で苦しんでいた時、教会の人が彼のために祈り続けても、一向に癒されませんでした。しかし、ある男性が彼の家に来て、権威によって命じた瞬間、虫垂炎をもたらしていた悪霊が去り、スミスは癒されました。(スミス・ウィグルワースも、NARとは関係がありませんが、彼も癒しを行う際、いつも命じていました)

      犯罪者を逮捕する権限を与えられた警察官は、目の前で犯罪を犯す悪人を見たら、わざわざ警察署に電話をかけて助けを求めたりはしません。すでに与えられた権威に従って、その場で悪人に命じ、逮捕して犯罪を止めませます。これと同じようなことが、私たちクリスチャンにも当てはまると思います。

      私たちは言わば、霊的な警察官であり、犯罪を犯す悪霊どもや、敵の策略を打ち壊す権威と責任が与えられています。だからこそ、目の前で病気やその他の様々な悪魔の攻撃を見つけたら、権威によって命じ、それを打ち壊す必要があると思うのです。(なお、全ての病気が悪魔から来るものだとは私は考えていません。)

  5. おせち料理 より:

    いつも素晴らしい記事を、ありがとうございます。FB友のHです。
    この本の存在は知っていましたが、精神的余裕がある時にしか読めないと思っていてまだ読んで
    いないのですが、知っている範囲で感じたことがあります。
    ウイリアム・ウッドさんは小さい時からウィスコンシン州の教会に集っていたそうなので、基本的
    な思想がルター派カルバン主義なのかもしれないと思いました。というのはカルバン主義の人は
    他者に対する批判がとても厳しい宗派だからです。

    カルバン主義の一番おかしい所は「もともと、神に救われる人は決まってて、その人は必ず信者に
    ならなければいけない(神の恵みを受ける人は、決まっている)」といったものなので、冷静に
    考えればそれこそ、14万人しか救われないと信じるエホバの証人に似た極端さを持っています。
    すべての人に神の恵みがあるとは、とても考えられないのかもしれません。
    又、癒しや奇跡のために祈らないし、聖霊などという言葉も語られない宗派です。罪の許しに
    ついても幼児洗礼で罪が赦されると教えるので、聖書の土台となる「神への悔い改め、新生」に
    ついての考えも弱いと言えます。

    なぜこんなに癒しの祈りを行うリーダーたちを批判的にばらり捉えるのか、もしかしてこの著者の
    信じておられる神学にその原因があるのかな?と思いました。もちろん罪や悪の問題があれば、
    互いに指摘したり必要な批判もありますが、その動機がすごく大切だと思うのです。

    true-arkさんのおっしゃるように、兄弟姉妹として尊敬し愛し合い、違った考えを批判だけせずに
    学び合って教え合って、高め合うのが、キリストの教えでないかな?と私も思います。
    何よりもまず「互いに愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」と言われた主を
    キリストとし、共に信じて従っているなら、それが難しくはないはずだからです。
    とりとめのない文章になりました・・・。

    • true-ark より:

      お読みいただきありがとうございます!
      本に書いてあるところによれば、ウッド先生は、もともと極端な支配神学を教える教会に属していたようですので、その時の反動はあるような気がします。

      多くのムーブメントにおいて、その根幹が聖書的であっても、極端に走る人々、本来の純粋な教えを曲げるリーダーたちが現れるものです。その結果、必ず一定数の被害者や、傷つく人々が生じて、その人々や被害の相談を受ける人々が、そのムーブメントを批判することになります。しかし同時に、そのムーブメントから益を受け、劇的な成長を遂げる人々もまたたくさんいるわけです。

      このあたりをバランス感を持って理解し、何より聖書に忠実にあろうとするなら、結果は良いものになると信じています。

  6. まさる より:

    KANさんの記事に、励まされました。ありがとうございます。

    この本の著者の働きにより、助け出されてる人もたくさんいると思います。

    僕は、この本を読んで、悲しくなったけど、クリスチャン同士、違いはあれど、そこに目を留め過ぎず、共通の土台であるイエスに目を留めて歩みたいなと思いました。

    • true-ark より:

      お読みいただきありがとうございます!
      おっしゃる通り、極端な信仰によって生じた影響に対し、この本の存在がブレーキのような役割になり、守られる人々もいることかと思います。
      しかし、何より聖書は何と言っているかに着目し、ある程度の違いは尊重していく事が大切だと、私も思いました。

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