聖書が教える病の癒やしー イエスの名によって病人を癒やす方法とは
神を信じるクリスチャンであれば、聖書に記録されている数々の病の癒やしの奇跡が、架空の話だったと疑うようなことはしません。ところが、同じような奇跡が現代にも起こるのか、という話になった途端に、キリスト教内では意見が分かれます。
筆者は、病の癒やしについて聖書が何と述べているのか、聖書時代と同じような奇跡が今日でも起きるのか、というテーマについて、特にここ1~2年の間、関心を持って調べてきました。そして、ただ机に向かって聖書を読んだり、色々な人の証を聞くだけでなく、自らの実践を通しても、その答えを検証してきました。その結果、現代においても、聖書時代と全く同じような癒やしの奇跡を見ることができること、むしろ、信仰によってそれを実践することが、神の御心である、と理解するようになりました。
もしかしたら、これまであなたは、周りに病気で苦しんでいる人がいた時に、評判の良い病院や、効き目のある薬を紹介していかもしれません。しかし本記事の内容を理解するならば、今後はそれらより遥かに優れた最高の家庭医「イエス・キリスト」を紹介することができるようになるでしょう。そして、イエスの御名によってその人に手を置き、実際に病気が癒やされるのを見ることができるでしょう。
もしかしたら、これまであなたは「聖書時代の数々の奇跡はもう見ることができない」と考えていたかもしれません。しかし、本記事を通して、癒やしに関する聖書の教えを理解し、それを実践するならば、神による偉大な癒やしの奇跡は、今日でも全く変わらずに起こる、ということを知ることができるでしょう。それだけでなく、神の言葉に対するあなたの信仰は増し加わり、福音書に記された数々の奇跡と神の臨在が、よりリアリティを持って迫ってくるはずです。
本記事が、神の癒やしに対する読者の方々の信仰を大いに鼓舞し、励ますものとなりますように。
病の癒やしの重要性を考える
イエスは癒やしと悪霊追い出しを重要視した
聖書によれば、イエス・キリストの公生涯は三年半でした。この三年半という期間の長さをどう考えるのかは人それぞれの感覚によりますが、決して長い期間ではなかったと言えるでしょう。ですから、この短期間の間に、キリストが無駄なことに時間を使ったと考えるクリスチャンはいないはずです。
そして、聖書を読むと、公生涯の中で、イエスが最も注力した活動とは、第一に神の国の福音を語ることであり、第二に病の癒やしや悪霊の追い出しであったことがわかります。つまりイエスは、病人を癒やすことに高い関心を示し、それに多くの時間を費やされたのです。
ではなぜイエスは、病の癒やしと悪霊の追い出しに、多くのエネルギーを使われたのでしょうか?それは、これらの二つの活動が、イエスの救い主として権威、およびキリストの贖いの業に大きく関係していたからです。
例えばマタイは、キリストが行った数々の癒やしが、主イエスによる十字架の業に基づいていることを、イザヤ53章の預言を引用しながら説明しています。
「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。17これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:16~17)
また、神の国の権威と罪の贖いの死を通し、悪魔の業を打ち砕くことは、救い主としてのイエスの重要な役割でした。
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3:15)
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14~15)
ですから、神の国を宣べ伝えなら、癒やしと悪霊追い出しをすることは、キリストにとって大変重要な働きだったのです。
癒やしの土台はキリストの十字架
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:4~5)
上記は、マタイが福音書の8章で、癒やしの根拠として紹介しているイザヤ53章の該当箇所です。クリスチャンであれば誰でも、53章のこの聖句が、キリストの十字架の受難を示した預言であり、私たちの罪の赦しの根拠となっていることに同意されるはずです。
そして、この聖句をよく読んでいくと、4節における「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」や、5節における「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」などから、キリストの贖いの中に、罪の赦しだけでなく、「病の癒やし」も含まれていることに気づかされるのです。
ですから、病の癒やしの重要な根拠は、キリストの十字架であり、それゆえに、私たちは信仰によって、罪の赦しと同じように、病の癒やしも、神から受け取ることが可能なのです*[1]。
極端な見方を避ける
福音書から使徒の働きまでの歴史記録を見ていくと、聖書筆者たちが、イエスや弟子たちが行った奇跡に高い関心を示し、多くのボリュームを割いて記録していることがわかります。実際に、使徒の働きの中で生じている劇的なリバイバルの多くは、癒やしや聖霊の傾注等の奇跡によって生じているのです。ですから、病の癒やしなどの奇跡は、神が、福音宣教やリバイバルのための重要な手段として、実際に用いておられるものなのです。
しかし、ローマ人への手紙以降を確認してみると、病の癒やしに関する教えが比較的少ないことに気付かされますが、それはなぜでしょうか?
筆者の考えでは、その理由はおそらく、病の癒やしなどの奇跡が、救われた信者に対してよりも、救われていない未信者を神に立ち返らせる上で、より重要な意義を持っているからです。一方で、一度奇跡を見て救われた信者にとっては、病の癒やしを受けるより、もっと重要なことがあるのです。それは、キリストのような愛によって生きること、聖く生きること、御言葉の固い食物を味わうことなどです。
実際に、使徒たちと同じようなレベルで奇跡を行うことができたとしても、愛がなければ何の意味もありません。しかし、何の奇跡を行わなかったとしても、そこにキリストのような愛があるのなら、それに勝るものは何もありません。
「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」(第一コリント12:2)
また私たちは、癒やしが起きるからという理由で、神を信じて生きるのではありません。癒やしがあろうとなかろうと、神は創造主であり、救い主であり、私たちが無条件に感謝すべきお方なのです。
ですから、病の癒やしの重要性を認識しつつも、それを過度に重視したり、神に仕える理由にしたりすることの無いよう、私たちは十分に注意する必要があります。
なお、もしも私たちが、聖書を字義通りに解釈し、それを忠実に実践しようとするならば、その歩みは必然的に、癒やしを含める様々な奇跡を伴うものとなるでしょう。なぜなら、新約聖書の命令の中には、奇跡が起きることを前提としているものが複数あるからです。
「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。・・・私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。」(第一コリント14:1~5)
「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。17エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。」(ヤコブ5:16~17)
病の癒やしは全ての信者が行えるものなのか
病の癒やしの奇跡を行えるのは、使徒や伝道者、癒やしの賜物を持つ人々など、特別な油注ぎを受けたクリスチャンだけなのでしょうか?あるいは、キリストを信じる全てのクリスチャンなら、信仰によって癒やしの奇跡を行うことができるのでしょうか?
この点は、キリスト教内で議論のあるテーマですが、筆者としては、「キリストを信じる全てのクリスチャンが癒やしを行える」と信じています。以下に、その理由として考えられる三つの原則を示していきます。
派遣に伴うしるしの原則
イエスは、宣教のために派遣する彼の弟子たちに、病の癒やしに関してどんな命令、あるいは保証をお与えになったのでしょうか?時系列で確認をしていきます。
イエスはまず、十二使徒の任命とともに、彼らに悪霊と病に対する権威を与え、福音伝道へ派遣しました。
「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」(マタイ10:1)
「イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「・・行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)
「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。」(ルカ9:1)
公生涯の終わりの方の時期になると、イエスはさらに七十人を選び、伝道へ派遣しましたが、病や悪霊に対する十二使徒と同じ権威を、彼らにも与えました。
「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。・・9 そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。・・19 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。20 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:1~20)
そして、主は復活以降、彼を信じるすべての者に対し、主の権威に基づいて大宣教命令を与え、十二使徒と七十人の弟子に与えられたのと同様の「しるし」を保証なさいました。その中には、「悪霊の追い出し」と「病の癒やし」が含まれています。
「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。16信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』」(マルコ16:15~18)
一連の聖句を確認していくならば、派遣に伴う「しるし」として、聖書から次のような原則を読み取ることが可能だと言えるでしょう。
- 主イエスは、彼の権威に基づいて弟子たちを派遣する際、神の国の到来とキリストのメシア性を証明するしるしとして、彼らに病と悪霊に対する権威をお与えになる。
- これらの権威は、十二使徒だけでなく、70人の弟子たちや、全世界に派遣される全ての「信じる者」にも与えられる。
ですから、主イエスの弟子たちが、悪霊の追い出しや病の癒やしを「主の権威に基づいて」行うことは、聖書的に自然な方法であると思われます。
また、悪霊追い出しと病の癒やしは、新約聖書の文脈において、常にセットで語られています。ですから、聖書解釈における一貫性の法則を考慮するならば、悪霊追い出しに適用できることは、病の癒やしにも適用できることがわかります。
マルコ16章の信憑性の問題
専門家による注解の確認
マルコ16章8節以降は、マルコ本人による執筆ではなく、二世紀頃に加えられた付加文章だと言われています。したがって、特に以下の記述について、どう理解するかが、しばしば議論の対象となります。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』」(マルコ16:15~18)
まず、8節以降の付加文章に対するルーテル派の神学博士と、新改訳第三版における注解を以下にご紹介します。
「8節以降については、互いに異なる2種類の終結部をもつ写本群と、終結部をまったく欠いた写本群とが存在します。そしてどちらの終結部も「マルコによる福音書」の元本には存在しませんでした。もし元々の福音書が8節で終わっていなかったのだとしたら、その終わりの部分は失われてしまったことになります。現在私たちの手元に残っている終結部は紀元後100年代に付け加えられた部分です。その箇所には、復活したイエス様が弟子たちの前に出現したことや、弟子たちに宣教命令を与えたことや、その後に天に挙げられたことが語られています。これら重要な内容はすべて他の福音書にも出てくるし、パウロが手紙に書き留めた、イエス様の復活を証しする人々の古くから伝わる一覧表(「コリントの信徒への第一の手紙」15章1~11節)にも語られています。ですから、これから取り上げる箇所は福音書の元本にはなかったものの、聖書の他のさまざまな箇所によってその真実性が保証されている、と言うことができるでしょう。」(エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
ソース:Bible Tool Box「マルコによる福音書16章 全世界に」
以下、新改訳 第三版の注解です。
16:9~20は、他の福音書や使徒の働きの記事に依拠し、付加された箇所であるが、本書の本文の主張と合致している。すなわち、一貫して、不信仰を警戒し、また信じる者に、主は臨在と偉大なみわざをもって応えられることを約束している。」(新改訳 第三版 注解)
上記の注解をまとめると、マルコ16章の8節以降の付加文章については、次のように言うことができると筆者は考えます。
これらの箇所は、確かに後代に付加された箇所だと考えられるが、比較的早い時期(二世紀中)に教会の伝承として記録されてきたものであり、書かれている内容は、他の福音書や使徒の働きの教えとの一貫性が見られるため、正典の一部として十分に信用できる。
代表的な聖書における取り扱われ方
マルコ16章の該当箇所は、現存する幾つかの写本においては省かれていますが、全体としては含むものの方が遥かに多いことが確認されています。そのため、英語圏の代表的な聖書や(KJV, ASV, NIV, RSV)、日本語の聖書(新改訳、新共同訳、口語訳、文語訳)のどれを見渡しても、8節以降をマルコ16章から除いているものは全くありません。この事実は、世界中の多数派の聖書学者が、8節以降の付加文章の真実性を十分に評価していることを意味します。
ですから、弟子たちの派遣に関する諸原則を考察する上で、マルコ16章9~20節を含めることは、聖書的に全く問題無いと思われます。
※なお、仮にマルコ16章8節以降が、他の正典と全く同様の権威を持つと言えないとしても、そこに記録された主の言葉を、「実際にイエスが語った言葉では無い」と断言する根拠は存在しません。
信じる者はキリストと同じわざを行う
「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです」(ヨハネ14:11~12)
「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」(ヨハネ14:20)
イエスは、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行」う、と語りましたが、イエスが公生涯で行った代表的な「わざ」とは、福音を語ること、悪霊を追い出し、病を癒やすことでした。ですから、この約束の意味は、イエスを信じる全ての信者も、主と同じような業を行うことができるようになると解釈することが可能です。
そして、この約束においてさらに注目すべき点は、その約束の根拠にあります。11節を読むと、イエスの行っていた業は、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」という関係を土台にしたものであったことがわかります。この表現は、父と子との間における一体性を示したものであり、互いの中に、互いの命を宿している関係を表しています。つまり、イエスと父なる神の双方の中に、「父・子」という同質の命が存在しているのです。そして、イエスが地上で行った全ての業は、そのような一体化された関係に基づき、父が行った業であった、ということなのです。
そして、20節においては、「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいること」と語られています。「その日」とは、キリストの昇天後、ペンテコステの日に聖霊のバプテスマが与えられた日のことを示しており、その聖霊の傾注によって、父と子との間にある内住の関係が、イエスと彼を信じる弟子たちとの間にも同様に生じるようになったのです。
ですから、イエスがかつて、内住する父なる神によって偉大な業を行ったのと同じように、イエスを信じる全ての弟子たちも、内住するキリストの霊によって、キリストと同じ業を行えるようになる、というのが、ここでの約束の強調点であると考えられるのです。
信じて求めるものは何でも与えられる
「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。『なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。』イエスは言われた。『あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。』」(マタイ17:19~20)
「イエスは答えて言われた。『神を信じなさい。23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』」(マルコ11:24)
ここでご紹介する二つの聖句は、信仰に関する重要な原則を、イエスが弟子たちに教えている場面です。どちらの場合も、「まことに、あなたがたに告げます」という前置きから始めることにより、語られる言葉が重要な真理であることを、弟子たちに印象づけています。
そして、上記の二つの聖句から、信仰に関して読み取れる原則は「疑わずに信じて祈り求めるものなら、何でも与えられる」というものです。
信じて祈りもとめる時に、「疑わずに」求めるのが重要であることは、主の弟のヤコブも、次の聖句で強調しています。
「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」(ヤコブ1:5~7)
そして、イエスは、疑わずに祈り求めるものは、「何でも」与えられる、と語りましたが、この約束は、「神のみ心にかなう事柄」「神の栄光に繋がる事柄」を大前提としていると、筆者は考えます。根拠は、以下の聖句です。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)
「14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(第一ヨハネ5:14~15)
では、この「何でも与えられる」という約束の中に、病の癒やしは含まれるのでしょうか?上記で引用した聖句のマタイ17章を再度確認してみましょう。
「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。『なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。』イエスは言われた。『あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。』」(マタイ17:19~20)
イエスは、「何でも与えられる」という約束を、「弟子たちが信仰によって悪霊を追い出せる」と説明する文脈で語っています。そして、既に本記事で確認してきた通り、福音書の文脈では、悪霊追い出しと病の癒やしは、多くの場合セットで語られており、常に同じ主の権威に基づいて行えることが示されています。
ですから、「解釈の一貫性」を考慮するならば、「何でも与えられる」という約束には、病の癒やしも含まる、と考えることができます*[2]。
病の癒やしをどのように行うべきか
重要な原則を確認する
筆者はこれまでに、癒やしの奇跡に関する多くの証に目を通してきました。また、自身が癒やされたことや、周りの人のために祈って癒やしが起きたことも多くあります。そして、これらの経験を踏まえ、実際に癒やしを行う時、また受け取る時に重要だと思われる共通の原則は、「キリストの十字架という土台」、そして「癒やしが実際に起きるという信仰」だということが見えてきています。ですから、神から癒やしを受け取る時に、必ずしも「このようにやらなければならない」という単一の方法があるのではなく、重要な原則を抑えていれば、様々な方法で癒やしを受け取ることができるのです。
「信仰」という側面において理解しておくべきことは、私たちが病人に手を置いて祈る時に、「神は時々癒やされるかもしれない」と信じて行うのと、「神は癒やして下さる」と信じて行うのとでは、結果が大きく変わってくる、ということです*[3]。私たちが神から受け取れる恵みの量は、私たちの信仰に応じて、変わってくるものであり、これは癒やしだけでなく、信仰生活のあらゆる側面に適用されていきます*[4]。
そして、祈る側か、祈られる側のどちらかに、癒やしへの十分な信仰があれば、癒やしは実際に働くようになります。ですから、信仰のあるクリスチャンが、信仰の無い未信者へ祈る時には、祈る側の自分の信仰が大切なのだということを理解しておく必要があります。もっとも、双方の側に信仰があった方が、そうでない場合よりも、神の喜びは大きくなることでしょう。
また、癒やしの土台がキリストの十字架である以上、必ずしも誰かに祈ってもらわなくても、自分自身で癒やしを受け取ることも可能です。これについては、以前に当サイトでご紹介したヨーマンズ博士の証が参考となるでしょう。博士が、彼女の家に迎えたほとんどの重病の患者は、聖書の中の癒やしの言葉を何度も告白することによって、癒やしを受け取ることに成功したのです。
以上の点を踏まえた上で、これから、実際に癒やしが行われた聖書の記録を確認しつつ、効果的な祈りの具体例をご紹介させていただきます。
弟子たちが行った癒やしの方法
クリスチャンは、病の癒やしをどのように行うべきでしょうか?多くの場合、病気の人がいると、癒やしのためにその場で長く祈ったり、天の父に「癒やして下さい」とお願いしたりしますが、聖書の記録は、そのような方法を示しているでしょうか?
早速、イエスの弟子たちが、実際にどのように癒やしを行ってきたかを、聖書から確認していきます。
「すると、ペテロは言った。『金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」(使徒3:6)
「ペテロは彼にこう言った。『アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。』すると彼はただちに立ち上がった。」(使徒9:34)
「ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、『タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。』」(使徒9:40)
「大声で『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は踊り上がって歩き出した。」(使徒14:10)
「たまたまポプリオの父が、熱病と下痢とで床に着いていた。そこでパウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった。」(使徒28:8)
残念ながら、弟子たちが癒やしを行った時の言葉遣いや様子を、具体的に記録している箇所は、あまり多くはありませんが、上記の歴史記録から、ある程度のことはわかります。
(1)彼らは、実際に癒やしを行うタイミングにおいては、「起きなさい」「立ちなさい」という命令口調を用いています。つまり、主に与えられた権威に基づいて、シンプルに言葉を発しています。これは、国家から権威を与えられた警察官が、犯罪者に向けて「止まりなさい」と言っているのと似ています。
(2)癒やしを行う前段階において、主に祈る時があったようです。彼らは、疑うことなく、「主は癒やしてくれる」という信仰を持って祈ったはずです。そうでなければ、「起きなさい」という表現が口から出てくることは無かったはずです。
「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」(ヤコブ1:6)
(3)事前に祈ったとしても、癒やしを行うタイミングにおいては、病に命じたり、手を置いたりしています。
つまり、聖書に記録されている癒やしの具体例の多くは、「神への癒やしのお願いの祈り」ではなく、「病に対して命じる」方法なのです。
もっとも、聖書の原則を踏まえれば、病の癒やしのために、神に祈ることは良いことであり、実際にそのような祈りによって、病が癒やされる事例はたくさんあります。
ただし本記事では、聖書に実際に記録されている「病へ命じる方法」に注目し、そのような方法で病の癒やしを実践することについて、もう少し掘り下げて説明していきたいと思います。
癒やしの実践において理解しておくべきこと
病や悪霊に対して命じる時は「どんな言葉使いを用いるか」や「どれだけ大声を出すか」よりも、「誰として言うか」の方が重要です。なぜなら、悪霊がクリスチャンに聞き従う理由は、信者の言葉遣いにあるのではなく、信者の名前が「天に書き記されている」ことにあるからです。
「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)
もっとも、たとえ天に名が書き記されていても、癒やしを行うクリスチャンの側がそれを信仰によって認識していなければ、権威を行使できない場合があります。その点は、かつて十二使徒のメンバーが、イエスから権威を与えられていたにも関わらず、悪霊を追い出せなかった事例からわかります。(マタイ17:19~20)
ですから、実際に主の御名によって癒やしや悪霊の追い出しを行う時は、自分の名が天に書き記されていることを認識し、信仰をもって、落ち着いて命じることができるでしょう。
では、病の癒やしにおいて「イエスの御名の権威によって命じる方法」を実践した時に、どんな効果の違いが表れるのか、その具体例を以下にご紹介させていただきます。
実践した人々の記録
実際に、病の癒やしを「神にお願いする」方法から、「イエスの御名によって命じる」方法へと変えた場合、癒やしの結果にどのような変化が表れるのでしょうか?ここで、病の癒やしに関する際立った実績を持つ、二人のクリスチャンをご紹介します。
ジョン・G・レイク
20世紀初頭のペンテコステ運動で活躍したリーダーの一人で、「ジョン・G・レイク」という人がいました。病の癒やしに関するレイク氏の実績は際立ったものであり、レイク氏と彼が訓練した弟子たちによって行われた「レイクのヒーリングルーム」では、およそ10年間の間に、25万件以上の病気の癒やしが記録されました。(計算すると、一年あたり25000件、毎日68件の病の癒やしが記録されたことになります。)
そして、そのレイク氏が行っていた癒やしの方法とは、イエス・キリストの御名の権威によって、病気に対して去るように命じることでした。
カーリー・R・ブレイク
レイク氏のミニストリー「ジョン・G・レイク・ミニストリー」を受け継ぎ、現代にその働きを展開しているのが、「カーリー・R・ブレイク」氏です。カーリー氏は元々、自分の娘を病気で亡くした経験もあり、聖書的な病の癒やしの方法を熱心に研究してきた人でした。
彼は、アメリカ中の癒やしの本を読み漁り、それらの全てを試してきたことについて、次のように語っています。
「信じてください。恐らく、私の個人的な図書館ほど多い本のコレクションを見たことがある人はほとんどいないと思います。私の息子にきいてください、彼はそれを引越しのために動かすのをたくさん手伝ってくれました。私は癒しについての本はほとんどなんでも持っています。そのうちの98パーセントは使い物にならないゴミです。それでも、それらを持っているのは、他の人たちの意見や考えを知りたいからです。それらを読みながら、その本で彼らの言っていることをすべて行いました。それでも私の癒しの成功率は、15~25パーセントでした。大抵の教会の平均10パーセントと比べればよいほうですが。10人に1人は癒される程度です。なので、私はこれらの本を読んで、それに書いてあるすべてのことを行っていました。」(Devine Healing Technicians training – Session1)
しかし、その後にレイク氏の癒やしのマニュアルを手に入れて、癒やしの方法を変えた時に、癒やしの成功率が大きく変わったことについて、カーリー氏は次のように述べています。
「まず最初に私は祈り方を変えました。お願いすることから、命令することに変えました。それによって瞬く間に癒しの成功率が上がりました。マニュアルを学びつつ、私のしていたことを変えていきました。祈り方を変えた後に私は信じていることを変えました。何故なら、祈った時に得る結果は、私達がその時に信じていることだからです。もしゆっくりとした癒しを信じているなら、段階的な癒しが起きるでしょう。でも、瞬間的な癒しを信じるなら、瞬間的な癒しが起きるでしょう。」(Devine Healing Technicians training – Session1)
それ以来、カーリー・ブレイク氏は、イエスの御名の権威による癒やしを、彼のミニストリーにおいて実践し続けてきました*[5]。そして、一番新しい統計によれば、過去四年間で、カーリー氏が手を置いて癒やされた人の数は、7万件にも上ります。(計算すると、一日47件の癒やしとなります)
教会の歴史における癒やしの記録
本記事では、マルコ16章の大宣教命令を含む複数の聖句から、イエスを信じる全ての者は、病の癒やしを行うことができる、という点を説明してきましたが、実際に、大宣教命令を信じ、実行してきた歴史上のクリスチャンたちは、そのような奇跡を体験してきたのでしょうか?
既に、レイク氏やカーリー氏の際立った癒やしの実例を紹介してきましたが、最後に、教会史の伝承も踏まえ、より広範囲な証言をご紹介していきたいと思います。
教会史において
以下の一連の文章は、T・J・マクロッサン*[6] の著書『肉体の癒やしと贖い』からの抜粋です。
※訳文は、エターナル・ライフ・ミニストリーズ『神のいやし Q&A』(ゴードン&フレッダ・リンゼイ共著)113~116頁 からの抜粋です。
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殉教者ユスティヌスは、第二世紀に生きた人であり、当時の偉大な指導者および学者の一人でした。彼はこう述べています。
世界中にいる、またあなたの町にもいる数え切れないくらいの大勢の、悪魔につかれた人々に対して、我々クリスチャンの多くの者が、ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられたイエス・キリストの名によって悪霊を追い出しており、いやしを行ってきたし、今もいやしを行っており、頼るすべのない人々に奉仕し、人々から悪霊を追い出している。彼らは他のあらゆる悪魔払いによっては治らなかった人々であり、また呪文や薬を使っていた人々である」(第二弁証論 第六章)
西暦200年、イレナエウスは、当時の教会に、奇跡を行う御力が存在していたと述べています。
「真理の内にいる彼の弟子たちは、彼から恵みを受けて、彼の御名によって数々の奇跡を行っている。そして彼らは確かに悪霊を追い出している。病人に手を置いて彼らをいやしている人たちもいて、彼らは健康にされている。しかも、私が述べたように、死んでいた人々もよみがえっており、何年も私たちの間にとどまっている。」(イレナエウス 異端反駁論 第一巻 第三十二章)
オリゲネスによると、これと同じ奇跡を行う御力が西暦250年にも教会に存在していました。
「そしてある人々は、この信仰を通して驚くべき力を受けたことを、彼らが行っている治療によって証明している。彼らは助けを必要としている人に対し、万物の神の名とイエスの名とを唱え、神のなさってきたことも少し述べている。というのも、このようにして、大勢の人々が大きな災いや、人間にも悪魔にもいやすことのできない数え切れないほど多くの他の病から自由にされるのを、私たちも見てきたからである。」(オリゲネス ケルソス反駁論 第三巻 第二十四章)
クレメンスによると、教会はこの同じ奇跡を行う御力を西暦275年にも経験しました。
「だから、彼ら(若い奉仕者たち)は断食と祈りにより、とりなしをしなさい。学識あることばを上手にきちんと並べることによってではなく、いやしの賜物を受けた者として確信をもって神の栄光のためにしなさい」(書簡 第十二章)
モプスエステのセオドール(西暦429年)は、こう述べています。
「私たちの間にいる大勢の異教徒たちは、どんな病気を持っていようとも、クリスチャンたちによって癒やされている。私たちのただ中で、そういう奇跡がとても多くある。」
A・ボスト師は、かの有名なツィンツェンドルフが、1730年に語った言葉を引用しています。
「望みに反して信じることこそ、奇蹟の賜物の土台である。そして使徒時代の数々の力が現されている、というこの証しは、我らの愛する教会に負うものである。我々には否定できない証拠がある。・・ガンや結核のように治すことのできない病気で病人が死の苦しみの中にいた時、ただ祈りや一つの言葉によってそれらの病気が癒やされている。」
これらは、奇蹟のいやしが教会時代を通じて起こってきたことを記録している膨大な量の証拠のほんの一部なのです。
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また、T・J・マクロッサンは、彼の別の著書『Bodily Healing in the Atonement”』で、キリストの贖いに肉体的な癒やしが含まれていることについて、次のように述べています。
「どんな学者でも、癒しが贖いに含まれていないと言う人は、身体的な癒しが贖いの中に含まれていないと言う人は、2種類のうちのどちらかの人である事を証明します。その人は学者でなくて、ギリシア語もヘブル語も知らないか、それか、その人は嘘つきです。」
現代において
カーリー・R・ブレイク
ここで、再度本記事でご紹介したカーリー・R・ブレイク氏の経験を取り上げますが、その理由は、彼が癒やしに関する際立った豊富な経験とデータを持っているからです。カーリー氏や彼の仲間の奉仕者たちは、ミニストリーを始めてから、これまでにおよそ7万人のために祈ってきました。そして、病気の種類によって、癒やしの成功率に多少の違いはあるものの、全体として、94%~97%の人は癒やされている、と証言しています。
「私達は、今までに少なくとも7万人のために祈ってきました。そのうち、私はてんかんの為に祈って、癒されなかった人を知りません。知っている限りは、皆癒されています。私達は、ほとんどすべての記録を残しています。その他のある病気に対しては100%の癒しの成功率があります。全体的には、私達の祈ってきた94%から97%の人々は癒されています。ある病気は、他の病気に比べて瞬間的に癒されたりします。」
デイブ・ヘイズ
彼は、かつて無神論者で、ある時にレフト・ビハインドを読んで救われたクリスチャンです。その後、ある時からデイブは、病人のために祈って癒やされる夢や幻を、何度も繰り返し主から示されるようになります。
彼は、救命士をしているので、仕事で会う様々な患者に、それを実践し始めました。そして、何百人に祈っても、癒やしは全く起きませんでしたが、主は彼に、癒やしの夢を見続けさせました。すると、ある時を境に、癒やしが実際に起こるようになり、その後、癒やしの成功率は上がっていき、今では、祈った人が誰でも癒やされる、という信仰を持つに至っているようです。
- 「癒しを祈る救命士」Praying Medic’s interview with Sid Roth
- 「癒しにおける信仰と疑い」Praying Medic-Faith and Doubt in Healing
デイブ氏の経験から学べることは、たとえ癒やしの祈りを実践してすぐに結果が伴わなくても、信じて前に進み続けるならば、扉は開かれていく、ということです。実際に、彼と同様の経験を持つ人を、他にも複数挙げることが可能です。
結論
本記事を通して、読者の方々が、「自分も聖書に書かれているような病の癒やしを実践したい」と思われたのなら、それは本当に素晴らしいことです。
病の癒やしを実践していく上で、第一に重要なことは、癒やしの土台がキリストの十字架にある、ということを聖書からしっかりと理解し、キリストが救い主であると同時に、癒やし主でもある、ということを知ることです。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:4~5)
「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」(第三ヨハネ1:2)
そして、もしもあなたが、主を信じて救われたクリスチャンであれば、あなたは既に聖霊によって油注がれた神の子供であり、新しく造られた者であり、癒やし主であるキリストと一体となっています。
「私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。」(第二コリント1:21)
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5:17)
「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」(ヨハネ14:20)
ですから、かつて主イエスが、内住の父なる神によって偉大な業を行ったのと同じように、あなたも、内住するキリスト・イエスによって、病を癒やし、悪霊を追い出すことができるようになっているのです。
12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです」(ヨハネ14:12)
そして、あなたが本当に信じてそれを行う時に、その信仰が、神の偉大な恵みの力を引き出し、その言葉通りの癒やしが実現していくのです。
24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』」(マルコ11:24)
もしも、周りの家族や友人の中に、病気で悩んでいる人がいたら、本記事で学んだことを活かし、積極的に祈ってみて下さい。そして、たとえ何回か祈って、すぐに結果がでなくても、諦める必要はありません。時には、継続的に祈り続けることによって、徐々に癒やされていくこともあるからです。大事なことは、あなたが信仰によって、その一歩を踏み出していくことです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(マタイ7:7~11)
神を信じ、病人に手を置く全てのクリスチャンを、神が豊かに祝福してくださり、イエス・キリストの御名による癒やしが実現しますように。
なお、病の癒やしに関して生じる次のような様々な疑問については、次の記事で取り上げようと考えています。
- イザヤ53章は、肉体の癒やしのことを述べてはいない
- 癒やしがいつでも神の御心だとは考えられない。
- 実際に癒やされないケースがあるが、どう考えたら良いか?
- 誰もが癒やしを行えるわけではない。
- 権威による癒やしは、神の権威を侵害する行為ではないか?
脚注
[1] イザヤ53章において、病の癒やしが罪の赦しと同列に置かれている、という点から、罪の赦しにおけるのと同様の原則が、病の癒やしにも適用できることがわかります。イエスを信じる全ての人は、神から無罪宣告を受けて「義」とされますが、それは「罪の影響」から解放され始める段階であり、その時点で罪の影響が完全に消えることを意味してはいません。同じように、信じる人は、神の前で「癒やされた」と宣言されますが、それは、癒やしが働き始める段階を意味し、その時点において必ずしも「完全に癒やされる」ことを意味してはいません。もっとも、一般的な原則として、聖さに関する高い信仰を持つ人が、そうでない人よりも高いレベルで聖められるのと同様に、癒やしに関する高い信仰を持つ人は、そうでない人よりも高いレベルで神からの癒やしと健康を受け取ることになるでしょう。また、新生によって過去の罪の性質から劇的に改善する人がいるのと同様に、新生によって劇的な癒やしを経験する人もいるのです。なお、忘れてはならない点として、全てのクリスチャンは、人としての完全な聖さと健康を、地上生涯においてではなく、神の国に入る段階で受け取ることになるのです。(これらのテーマに関するより詳しい解説は、次の記事でするつもりです。
[2] なお、信仰によって悪霊の追い出しと病の癒やしが行える、という点は、「一般的な原則」として有効なものであると筆者は考えています。例えば、悪霊の追い出しに関して言うと、本人が解放を望んでおり、神に助けを求めている状態であれば、追い出しはスムーズに働きますが、本人が悪霊を欲している場合は、たとえ信者の側の信仰があっても、困難な場合があると思います。同様に、病の癒やしについても、本人が心の奥底で癒やしを望んでいなかったり、死期が近かったりする場合は、癒やしが働きづらい、というケースがあると見ています。なお、以上の見解は、あくまで現段階において、筆者が得ている答えであって、決して断言するものではありません。
[3] もっとも、「時々癒やされるかもしれない」と信じていても、癒やしが起きる時は起きます。
[4] これは、神が各信者に与える恵みの量に違いがある、ということではありません。恵みの量は等しく与えられますが、信者の側の信仰の程度によって、受け取れる量に違いが生じる、ということです。
[5] 参照元のサイトでは、カーリー・ブレイク氏が、「全ての病は悪魔に属するものだ」と表現をしている箇所がありますが、それは彼が、「全ての病気の原因は悪魔によるものだ」と理解している、という意味では無いようです。なぜなら、病気の原因は悪霊だけでなく、当人の生活習慣であったりする場合もあるからです。ただし、全ての病気は、悪魔がこの世界にもたらした堕落以降に生じてきましたので、そのような意味において、「病気は悪魔に属するものだ」と説明しているようです。
また、筆者の考えとして、病の癒やしに関するカーリー氏の教えの基本的な部分を支持していますが、サイト上でなされている全ての教えに必ずしも同意しているという意味ではございませんので、予めご承知下さい。
[6] T・J・マクロッサンは、ギリシア語とヘブル語の教授であり、長老派の教会の牧師任命において、ギリシア語やヘブル語の試験を監督した人でもあります。
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