キリストの福音を聞く前に死んだ人は救われますか?―聖書の疑問

キリストの福音を聞く前に死んだ人は救われますか?―聖書の疑問

この問題は、特に多くの日本人にとって頭を悩ます問題だと言えるだろう。日本にキリスト教が初めて伝来したのは、16世紀以降のことであり、それまでの日本人はキリスト教について聞いたことが無かった。

ザビエルの布教に始まり、一時は日本全国の信者も75万人程度にまで急増したものの、厳しい迫害の時代の到来によって信者数は激減した。そして、明治政府が1873年に禁教令を廃止してから、再びキリスト教の布教が開始されたが、信者数の大きな増加はなく、現代でも国内におけるキリスト教人口は、1%未満に留まっている。

このような背景を踏まえれば、歴史上の多くの日本人は、キリストについて聞くことなく、人生を終えたことになる。もしも、聞いた上で拒否して救われなかったのであれば納得ができるが、聞く機会も無かったのに、それによって救われなかったというのは納得の行くものではない。

では、この問題について、聖書は何と答えているだろうか?

実際に救われたかどうかは神にしかわからない

大前提として、亡くなった人が救われていたかどうか、つまりその人が死後に天国へ行ったのかどうか、という問題については、私たちの側では断定的なことを言うことはできない。なぜなら、死んだ人の霊魂が実際に天へ行く姿を目撃したりすることができないからだ。

例えば「救われていない」と考えられる人が、実際に死の直前で救われて天国へ行った、という場合もあるだろう。イエスが十字架にかかった時も、隣にいた犯罪者は、死の直前で、イエスに対する信仰を告白して、救われている。(ルカ23:43)

また、イアン・マコーマックというサーファーは、ダイビング中にクラゲに刺された毒で瀕死状態になっていたところ、自分のために祈っている母親の姿と、山上の垂訓の主の祈りの聖句が目の前に映し出された。主の祈りを唱え終わった時、彼は昏睡状態に陥り、臨死体験で天国を垣間見てイエスに出会ったが、彼の地上での罪は、最後の祈りによって赦されていたことが示された。

同じようなことは、死の直前の段階において、誰にでも起こり得る。だから、人が死後どこへ行ったのか、という問題については、神のみが知っていることであるため、私たちの側で断定的な事を言うことは控えるべきだろう。

以上の前提を踏まえた上で、福音を聞かずに亡くなった人々の救いについて、聖書が述べている原則を解説していく。

キリスト教伝来前の時代

この問題を考えるにあたり、ざっくりと各地域による「伝来前の時代」と「伝来後の時代」に分けて考えると良いだろう。前期の場合は、そもそもその地域の人々が、キリスト教について聞くことが不可能だった。日本では、ザビエル以前の時代が、それにあたるだろう。後期の場合は、聞くチャンスはあったかもしれないが、結果的に聞く機会が与えられなかった、ということになる。

まず、全ての人には、救いを得るために必要な啓示が神から与えられている、と聖書は述べている。この、全ての人に与えられている啓示のことを、専門的には「一般啓示」と言う。

「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:19~20)

この聖句によれば、神の永遠の力と神性とは、世界の創造以来、被造物によって明らかにされてきた。つまり、神はご自身の存在を、自然界の創造物―宇宙の星々や地球上のあらゆる被造物を通して、人間に示してきたのだ。また、「彼らに弁解の余地は無い」とあることから、人は誰でも、心を開いて自然界を観察する時に、それらを造られた神の存在に気付くことができるのだ。

だから、ザビエル以前の日本人を含め、世界中のキリスト教伝来前の地域の人々は、この一般啓示へ応答し、神を信じる人生を送ったかどうかによって、救いが確定した可能性が高い。

なお、キリスト教伝来前の時代であっても、契約の民であるイスラエルについては、「特別啓示」によって神の律法を与えられていたので、その啓示に従って信仰の道を歩んだかどうかが、救いの基準となっているはずである。

※「特別啓示」とは、「一般啓示」とは異なり、神からの具体的な語りかけを伴う啓示のことである。イスラエル人は、まさに特別啓示を与えられてきた民族だった。

キリスト教伝来後の時代

次に考えたいのが、キリスト教伝来後の地域において、「福音を聞かずに亡くなった人」についてである。このケースにおいて、まず抑えておきたいのは、神は予め、救われるべき人が誰であるのかについてご存知だ、ということである。だから神は、救われる可能性のある人の元へは、様々な方法を通して、キリストの福音を伝えることができるのだ。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4)

例えば、以下の使徒の働きの聖句では、パウロの一行が、キリストと聖霊の導きにより、マケドニヤに福音を聞くべき人がいることを幻によって示されている。つまり、神は救われるべき人がどこに住んでいるのかを知った上で、ピンポイントで伝道者を送っているのである。

「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」(使徒16:6~10)

そして、現代においても、未開の地に行く宣教師に、同じようなことが起きることがある。

また、迫害下の地域や、イスラム圏の国々など、現実的に福音を聞くことができない環境に置かれる人々もいるが、そういう場合は、イエス自ら、幻やその他の方法で人々に現れ、信仰へ導くケースもある。

例えば、1967年に起きた六日戦争後、イスラエルのユダヤ人の間では、キリストが幻によって現れるケースが多くなり、誰にも伝道されていないのに、メシアを信じるユダヤ人が増え、伝道団体ができた、というケースがある。

また、イスラム圏の国々では、キリスト教の布教が禁止されているケースが多いが、近年多数のイスラム教徒に対し、イエスが超自然的に現れて信仰へと導く、ということが起こっている。

元イスラム教徒の証(当サイト)
元イスラム教徒の証(別サイト)

このようなケースを踏まれば、キリスト教伝来後の地域においては、多くの場合、救われるべき人の元には、何らかの形で福音が伝えられている可能性が高い。(もちろん、全てのケースにおいてそうとは限らないが)

結論

キリストの福音を聞かずに亡くなった人の救いに関して、本記事で考察した点をまとめると、次のようになる。

キリスト教伝来前の地域においては、自然界を通した一般啓示に応答したかどうかが、救いの基準となった可能性が高い。

一方、キリスト教伝来後の地域においては、一般啓示が適用されるようなケースもあるだろうが、基本的には、救われる人の元には、何らかの形で福音が伝えられていた可能性が高い。つまり、福音を聞かずに亡くなった人は、聞いても救われなかった人であった可能性がある。

現代の日本においてはどうだろうか?確かに、キリスト教人口は1%未満だが、禁令下にあるわけではなく、福音に触れる機会は誰にでも開かれていると考えて良いだろう。

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