人は行いによって義と認められる、とはどういう意味ですか?信仰義認と行いの関係|ヤコブ2章
パウロはローマ2章で「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」と明白に述べています。一方、ヤコブは「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」と言っています。どっちなんだ?!と突っ込みたくなうような聖書の教えの一つですが、聖書は決して矛盾していません。その理由を簡潔に説明していきたいと思います。
※上記の動画は本記事の解説動画ですが、若干ざっくり解説しています。記事の中では、より丁寧に説明していますので合わせてご視聴・ご拝読下さい。
ヤコブの手紙 2章14~26節
“私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。
ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。
同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。” ヤコブの手紙 2章14~26節
真の信仰(生きた信仰)とは
まず、ヤコブがこの手紙で説いている真理とは、「生きた信仰」と「死んだ信仰」の対比です。聖書が言っている「信仰」とは、ただ「唯一の神が存在している」という事実を認めることではありません。神の存在を認めても、そのお方に従わないのであれば、それは「死んだ信仰」です。そのような信仰であれば、悪霊どもも例外なく持っています。
「汚れた霊どもは、イエスを見るたびに御前にひれ伏して『あなたは神の子です』と叫んだ。」(マルコ3:11)
ですから、聖書が言っている「信仰」とは「生きた信仰」のことであって、それは「唯一の神への心からの信頼」であり、神への従順という行いを生み出すのです。
義と認められることと救い、二つの段階を理解する
ヤコブは「人は行いによって義と認められる」ということを説明するために、アブラハムの事例を引き合いに出し、「『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」と説明しています。この点から何がわかるでしょうか?
第一に、ヤコブはアブラハムが信仰によって義とされたことを否定していません。なぜなら、ここで引用されている「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という創世記15章4節は、アブラハムが信仰によって義と認められたことを表す箇所だからです。神が、アブラハムの子孫が空の星のように増えると約束した時に、まだ子供のいないアブラハムは、空の星々を見ながらそのことばを信じました。その時、彼は信仰によって神から義と認められたのです。
第二に、ヤコブによれば、信仰によってアブラハムに与えられた義は、その信仰が行いと共に働くことを通して「実現する」必要がありました。それでヤコブは、アブラハムがイサクを捧げた時に、「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現したと述べたのです。つまり、義と認められた時に抱いた「生きた信仰」は、その後の人生を通して保たれ、「行い」という形で現れる必要があったのです。
このように聖書は、神の御前における「義の立場」が完成されていくためには、複数の段階があることを説明しています。またこの段階は、救いのプロセスとも重なり合っています。
一つ目の段階は、神の恵みに対して、生きた信仰を抱くことによって「義と認められる」段階です。これを神学用語では「義認」と言います。この時点で人は、罪の赦しを得て、神から義と認められることによって救いを得ます。
二つ目の段階は、義認を受けた時に抱いた生きた信仰を保ち、その義が実現していく段階です。ヤコブが述べている通り、生きた信仰を保つなら、その歩みには必ず良い行いが伴うようになり、こうしてその人が得た救いが保たれ、「彼はイエスを信じた。それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現していくのです。
最後の段階として、生きた信仰を保って地上生涯を全うした信者は、救いの完成と信仰の完成を見ることになります。聖書はそのような人を「勝利を得る者」と呼んでおり、彼には「いのちの冠」が与えられ、永遠に罪を犯すことなく、神と共に歩むことになるのです。
恵みと信仰と救いと行いの関係
神の恵み
救いにおける神の恵みとは、私たちの罪を清め、救いを得させ、その救いを保たせるためになされる神の全ての働きのことです。その恵みの土台は、イエス・キリストの流された血であり、その血は罪の赦し、解放や癒し、執り成しを含むあらゆる祝福をもたらします。
救いを得る:
この恵みを、心からの信仰(生きた信仰)で受け取る時に、私たちの罪は赦され、義と認められ、救いが与えられました。良い行いによって、この救いを得ることは誰もできません。罪によって堕落した人間が、誰も神の救いの規準に達しえないからこそ、神の恵みであるキリストが天から下ってきたからです。
「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2章8~9節)
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、24神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」ローマ3章23~24節
救いを保つ:
救いを得た後は、地上生涯を通して「生きた信仰」を保ち、救いを保つプロセスに入りますが、これらを保たせる神の側の恵みは十分に注がれ続けます。例えば、私たちが救いを得た時、神はキリストによって私たちを「良い行いができる存在」へと根本的に造り変えて下さいました。また、大祭司であるキリストは、その血によっていつも私たちのために執り成しをしてくれています。
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」(エペソ2章10節)
「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(ヘブル7:25)
このように神の恵みが十分である以上、信仰を保てるかどうか、義認の立場が行いを通して実現していくかどうかは、私たちが生きた信仰によってその恵みに応答し続けるかどうかにかかっています。だからイエスは、「持っているものをしっかりと保ちなさい」と語り、信者の側に信仰と救いを保つことにおける責任があることを示したのです。
神の恵み無しに、肉の努力や働きによって、信仰の道を歩み続けることはできません。しかし、神の恵みに信仰で応答するならば、神が備えられた良い行いが現れます。ですから「良い行い」とは、「神の恵みが生きた信仰を通して外側に現れたもの」なのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」(ヨハネ15章5~6節)
「わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。」(黙示録3:11)
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