血の契約② 新しい契約がもたらすキリストとの一体化~偉大な祝福を解き明かす
前回の記事では、古代世界において、血の契約がその契約の当事者同士にどのような一体化の関係をもたらしたのかを説明した。また、その契約の概念を踏まえ、契約的な側面から、三位一体の神―父・子・聖霊の三者がどのような意味で一体となっているのかも説明した。
続く今回の記事では、同様の契約的側面から、新しい契約で結ばれたキリストと信者との一体性について明らかにしていくが、筆者自身、記事の準備とこの学びを通して、自分が主イエスと一体化した神の子供であることに大きな感動を覚えた。なぜなら、この記事で明らかにする教えは、全てのクリスチャンの信仰とアイデンティティに素晴らしい変化を与えるものであり、信じる者たちに与えられた神の恵みと約束がいかに偉大なものであるかを確証させるからだ。
本記事を通し、読者の方々の信仰が大いに成長し、神の約束に対する揺るがぬ希望を持つことができますように。
※前回の記事をまだ読まれていない方は、先にそちらを読むことをお勧めします。
※聖句の引用は、新改訳2017です。
キリストの血による新しい契約
新約聖書の「新約」とは、「新しい契約」を意味しているが、この世界が創造されて以来、神が人と交わした契約の中で最も尊く重要な契約―それが「新しい契約」である。なぜなら、この契約を締結するために、神は自ら人間となり、その血を流した(命を捧げた)からだ。
「食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。』」(ルカ22:20)
新しい契約は、第一義的には、古い契約(モーセ契約)に代わり、神がイスラエル人と新たに結ばれた契約である。しかしその契約は、古い契約を完成させ、イスラエル人と異邦人*[1]との壁を取り除くものであったため、キリストを信じる全ての人にも適用されるものとなった。
「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。」(エレミヤ31:31)
「・・キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、・・十字架によって神と和解させ・・ました。」(エペソ2:14~16)
そのため、「新しい契約」は、キリストの血の犠牲によって、彼を信じる全ての人に、完全な罪の赦しを与え、神との平和な関係を回復させることを可能にした。
「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)
また、聖書によれば、その契約は、全ての信者をキリストと一体化させることによって、神の子供としての新たな誕生をもたらし、永遠の命を与えるものである。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
「26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテア3:26~28)
以上が、「新しい契約」の内容と、その契約が信者にもたらす祝福について、抑えておくべき基本的な要点となる。そしてここからは、血の契約がもたらす一体性という側面から、次の三つの視点に沿って、この契約の祝福をさらに深く掘り下げていきたい。
1:一つの生命(同質の命)を持つ複数の者
2:お互いの財産を共有する
3:お互いの名前を共有する
一つの生命を持つ複数の者
「父と子」と同じような一体性が与えられる
前回の記事で確認した通り、古代世界においては、「血の契約」を結ぶ当事者同士は、互いの血を交換して一体化することにより、「一つの生命(同質の命)を共有する複数の者」となった。
「このように、血の契約を結んだ者同士は、その契約によって生命の共有が行われ、新しい一つの生命を持つ者同士となったのである。だから、もはや契約者同士は、互いに別々に存在するとしても、新しい一人の人となっているのだ。
たとえば、AさんとBさんが契約を結んだのなら、契約以降は、ABさんと、BAさんという、同じ生命と名前を共有する、二人の人物が誕生することになる。Aさんの中には、Bさんの命が宿り、Bさんの中にもAさんの命が宿っている。」―『血の契約がもたらす一体化①、契約が意味するもの』
そして、キリストの血による新しい契約においても、その契約の当事者であるキリストと信者は「一つになる」「新しい人となる」と言われている。
「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:5)
「様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、」(エペソ2:15)
では、新しい契約において、クリスチャンがキリストと「一つになる」、というのは、具体的に、どのような意味においてなのだろうか?この点を理解する上で、極めて重要となってくるのが、次の聖句である。
「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」(ヨハネ14:11)
「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」(ヨハネ14:20)
前回の記事でも取り上げたように、父なる神と主イエスとの間にある一体性とは、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」というものであり、互いの内に、互いの命が内在している状態を意味する。
そしてイエスは、続く20節において「わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいる」と言うことにより、この互いの内に互いの命が内在する一体性を、キリストと信者との一体性にも適用しているのだ。つまり、父と子が「一つの生命を持つ複数の者」となっているのと同じように、キリストを信じる全てのクリスチャンは、主との関係において、同じように「一つの生命を持つ複数の者」とされているのだ。
したがって、かつてイエスが、「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と語ったのと同じように、イエス・キリストを信じ、新しい人とされた全てのクリスチャンは、「わたしと主イエスとは一つです!」と告白することができるのだ*[2]。
「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(ヨハネ17:21)
※クリスチャンはキリストと一体化することにより、満ち満ちた神性を宿すようになる(コロサイ2:19)が、それは信者が一体化を通して神ご自身になる、という意味ではない。神ご自身の特質(永遠、自立自存、全知全能、等)は、永遠に父・子・聖霊だけのものである。しかし、神の満ち満ちたご性質は、キリストと一体化した信者を通して、世に対して現わされるのだ。
キリストが私の内に生きている
キリストの十字架以前の時代、まだ罪の赦しが完全になされない時代においては、このような一体化は不可能だった。なぜなら、罪の無い神の子と、罪のある人間とが一体化することは不可能だったからである。
しかし、キリストが私たちの罪のために死に、完全な赦しが与えられることによって、イエスを信じる全ての人が、復活したキリストと一体化した「新しい人」とされるようになり、「神の子供」として新たに誕生することが可能となったのである。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5:17)
「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。」(コロサイ2:12)
そして、もはや、古い自分が生きているのではなく、新しく造られることによって、自分の内に、キリストが生きるようになっているのだ。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:20)
「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)
そして、この点が理解できると、以下の聖句において、イエスがなぜそのように語ったのかが、はっきりとわかるようになる。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」(マタイ10:40)
「34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、・・てくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
・・すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』(マタイ25:34~40)
イエスは、ご自分の弟子たち(兄弟たち)に対してしたことは、「わたしにしたこと」だと語られたが、その意味は、「わたしにしたと見做す」、という以上に「わたしにした」というそのままの意味なのだ。なぜなら、全てのキリストの兄弟は、その内側にキリストの命が宿っているがゆえに、キリスト自身ともなっているからだ。
聖霊の宮(神殿)となっている
ここで、キリストと信者との一体性を示す別の重要な視点を明らかにしたい。聖書によれば、人として生まれたイエス・キリストの肉体は、神の臨在(栄光)の宿る場所となった。つまり、かつて神殿の至聖所において現れた神の臨在は、キリストの肉体の内に宿るようになったのだ*[3]。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)
そして次に、新しい契約によって神の子供とされた全てのクリスチャンは「聖霊の宿る宮(神殿)」となっていることが、次の聖句で明らかにされている。
「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(第一コリント3:16)
「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」(第一コリント6:19)
つまり、かつて人として来られたキリストの体が、神の臨在の宿る神殿となっていたのと同じように、キリストと一体化されたクリスチャンの体もまた、神の臨在の宿る神殿となっているのだ。
古い契約の時代は、まだ罪が清められていなかったため、神の臨在に近づくことは、年に一回、大祭司が許されただけだった。しかし新しい契約の時代には、自由に近づくことが許されるようになっただけでなく、いつでも信者の内側に、その臨在が宿るようになったのである。だから、使徒パウロは、次のように語ることができたのだ。
「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1:23)
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。10 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロサイ2:9~10)
主イエスを信じる者に与えられた権威
かつてイエスは、内在する父なる神の霊によって、力ある数々の業を行った。そして今度は、キリストの弟子たちが、キリストと一つとされることにより、内在するキリストの霊(聖霊)によって、かつてのキリストと同じように歩むことができるようにされているのだ。
「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。*[4]」(ヨハネ14:10~12)
さらに、復活したキリストは、天と地の一切の権威を父なる神から与えられ、天に挙げられ、神の右の座についた。だから、復活のキリストと一つにされたクリスチャンもまた、霊において、既に天上に座らされているのだ*[5]。
「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。」(エペソ2:6~7)
だから、全てのクリスチャンは、天に座すキリストと一つにされることにより、キリストの福音を宣べ伝え、イエスの名によって悪霊を追い出し、病を癒やすことができるようにされているのだ*[6]。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、18 その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」(マルコ16:17~18)
お互いの財産を共有する
キリストと共同の相続人
前回の記事で確認したように、血の契約で結ばれた者同士は、互いに一つの生命を持つ者とされているため、必然的に、お互いの財産をも共有する親密な関係に入る。そして、聖書によれば、主イエスを信じる全ての信者も、新しい契約に基づき「キリストとの共同の相続人」と呼ばれ、イエスが人として持つようになったあらゆる財産を共有する存在とされているのだ。
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)
では、具体的に、「キリストとの共同の相続人」とされているという事実は、クリスチャンの信仰にどんな影響を与えるのだろうか?最初の記事で説明した通り、AさんとBさんとの間で血の契約が結ばれている場合、Aさんは、自分が経済的に困っている時に、Bさんの元へ行き、自由にお金を引き出す権利を持つようになる。
「だから、必然的に、AさんとBさんは、命だけでなく、互いの財産を共有することにもなったのだ。もしもAさんが経済的に困窮することがあれば、AさんはBさんの家に行き、足りない分を、Bさんの財産から自由に引き出すことができた。・・このように、血の契約を結ぶ者同士は、互いに一つの生命を共有することによって、祝福と義務を負い合う密接な関係になったのである。」―『血の契約がもたらす一体化①、古代世界における血の契約の一般的な流れ』
それと同じように、神の子供とされた全てのクリスチャンには、地上生活で必要なものや、その他自分が必要とするものあらゆるものを、主イエスに大胆に願い求める権利が与えられている。なぜなら、キリストが私たちと一つとされている以上、私たちにとって必要なことは、そのままキリストにとっても必要なこととなっているからだ。
「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ14:13)
「その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」(ヨハネ16:23)
もっとも、神の約束の大前提は、欲しいものを求めるその願いが、世を追い求めるようなものではなく、神の御心に適うものとなっていることである。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)
また、神の子供たちが、大胆に必要なものを願い求めるためには、信仰の歩みによって、キリストのうちに留まっている必要がある。なぜなら、血の契約で結ばれる当事者同士は、双方に権利と義務を持つようになるからだ*[7]。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15:7)
だから、クリスチャンが、神の御心に留まって生きているのなら、天にある全ての霊的祝福を、いつでも大胆に願い求めることができるのだ。
「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1:3)
王・祭司~神の御国の相続権
新しい契約によってキリストと一体化された信者には、必然的に、人としてのキリストと同様の地位も与えられる。そしてその地位とは、「王」と「祭司」である。
イエスは、ダビデの家系から誕生することによって、ダビデ王朝の血を引き継ぐ「ダビデの子」として、地上に建てられる神の国の王位に就くことを可能にした。したがって、イエスの王権とは、イエスの人間性に関係しているのである。
「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:7)
また、復活後のイエスは、大祭司としての地位を与えられたが、この「祭司」という職務も、人として生まれなければ就くことが不可能な職務だった。
「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。」(ヘブル5:1)
「11しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、12また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(ヘブル9:11~12)
だから、新しい契約によって、キリストと一体化した「神の子供たち」には、必然的に、彼と共に、王として、そして祭司として、地上を治める特権が与えられるようになった。まさに、全てのクリスチャンは、「王位継承権」を与えられた「神の王家の子どもたち」なのである。
「9彼らは新しい歌を歌った。『あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、10私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。』」(黙示録5:9~10)
「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。」(黙示録20:6)
このように、キリストと一つとされた教会は、キリストと共に王として、祭司として地を治めることにより、神の王国を共同で相続する者とされているのだ。
「またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。」(エペソ1:11)
イエスは、神の子どもたちが相続することになる神の御国の価値を、この世の全財産を遥かに上回る価値を持つ「宝」にたとえられた。
「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」(マタイ13:44)
全てのクリスチャンは、「キリストと共同の相続人」というこの計り知れない富の価値を、信仰によってはっきりと知る必要がある。そうすれば、喜びのあまり、誰に強制されることもなく、自ら全財産をキリストに捧げたいと思うようになるだろう。
お互いの名前を共有する
古代世界において、血の契約によって結ばれた者同士は、多くの場合、相手の名前の一部を取り、自分の名前に加えることによって、互いの名前を共有するようになった。
「お互いに、相手の名前の一部を取り、自分の名前に加える。(名前の共有)
一例として、「山田太郎」と「佐藤一郎」という二人の人物が、血の契約を結んだ場合、以降の二人の名前は、「山田 佐藤 一郎」と、「佐藤 山田 一郎」という風になったと言える。このようにして、契約によって互いが一体となったことを表明したのである。」―『血の契約がもたらす一体化①、古代世界における血の契約の一般的な流れ』
そして、聖書の言葉によれば、これと同様の「名前の共有」が、血の契約で結ばれたキリストと信者との間でも、やがて起こるようになる。まず、以下の聖句では、勝利を得て神の国に入るクリスチャンには、当人の他は誰も知らない「新しい名」が与えられるとされている。
「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。』(黙示録2:17)
そして、以下の聖句では、キリストが「ほかはだれも知らない名」を持つようになるとされており、その「新しい名」は、天国で救いの完成を見る全ての信者の上に書かれる、と言われている。
「その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。」(黙示録19:12)
「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」(黙示録3:12)
このように、新しい契約によって結ばれたキリストと信者は、その一体性を、やがて「新しい名の共有」という形でも表すことになるのだ。
なお、この名前の共有のタイミングが、なぜ地上生涯で救われた時ではなく、天の御国に入る段階で与えられるのか、その深い理由は、筆者には答えることができないが、きっと、それが「救いの完成のタイミング」であることと、関係しているのだろう。
終わりに
イエス・キリストを信じる全ての人に、このような計り知れない恵みが与えられているのは、実に驚くべきことではないだろうか?クリスチャンなら誰でも、神が万物の創造主であり、計り知れない全能の力を持っていることを知っている。しかし、キリストを信じる者を通して働く神の優れた力がどれほど偉大なものであるかについては、過小評価されていることも少なくは無い。
もしも、全てのクリスチャンが、本記事で明らかにした神の偉大な約束を理解し、その約束を心から信じて歩むなら、すぐにでも、大きなリバイバルが起こるのではないだろうか。
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17~19)
そして、次の点を決して忘れてはならない。それは、私達の誰一人として、「キリストと一つになる」というこの驚くばかりの恵みを、自分の知恵や行いによって獲得した者はいない、ということだ。
「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)
私達が、このような豊かな恵みを与えられたのは、自分を誇るためではなく、良い行いによって歩むためであり、世の光としての生き方を通して、世界中の人々が神の栄光をたたえるようになるためなのだ。
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」(エペソ2:10)
「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:15~16)
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(Ⅰペテロ2:9)
脚注
[1] 異邦人とは、聖書の中で、イスラエル人以外の全ての民族を表す言葉。
[2] もしかしたら、「わたしと主イエスとは一つです」とまで言うのは傲慢だ、と感じる方もいるかもしれませんが、実際には、それが、聖書がはっきりと伝えていることなのです。ただし、キリストと信者との間に、父なる神と子なる神が持つのと同じような一体性が生まれるとしても、その一体化の完成の度合いには、大きな違いがあります。三位一体の神の間には、いかなる罪も不完全さも無いため、その一体性は完全に調和して働きますが、クリスチャンの場合は、天国に行くまでは、肉体と魂の領域に残された罪の影響により、キリストの意志と完全に調和できない場合が多々あるからです。しかし、全ての信者は、地上生涯を通して、キリストの身丈に達することができるよう励む必要があります。「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」(エペソ4:13)
[3] ヨハネ1:14の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」の「住まわれた」には、「幕屋を張った」という意味があります。幕屋とはシャカイナグローリー(神の栄光)が宿る場所であり、イスラエルの民の中に神が住んでいることを表すものでした。ソロモンの第一神殿の破壊以降、イスラエルを去っていたシャカイナグローリーは、悠久の時を経て、神のことばであるイエスの内に宿ることによって、再び戻ってきたのです。
[4] ここでイエスは、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行う」ようになる根拠として、「わたしが父のもとに行くから」だと言っています。イエスが父の元へ行くことによって生じたのは、聖霊のバプテスマとそれに伴う信者への聖霊の内住―キリストの内住でした。つまり、聖霊の内住によって、信者には、キリストと同じような業を行う油注ぎが与えられているのです。
[5] 注意点として、クリスチャンは、一切の権威を持つキリストの体であるため、そのキリストの権威や栄光は、クリスチャンを「通して」働くことになります。これは、警察官が国家の権威を用いて犯罪者を逮捕できることと似ています。しかし、警察官が、あくまで国家の権威が働く経路であるのと同じように、クリスチャンもまた、キリストの愛や力が働く「経路」であって、権威そのものではありません。
[6] 本記事では、全てのクリスチャンに病の癒やしができることの根拠の一つとして、マルコ16章17~18節を挙げていますが、病の癒やしやマルコ16章の問題については、当サイトの記事「聖書が教える病の癒やしー イエスの名によって病人を癒やす方法とは」にて詳しく解説しています。また、マルコ16章の問題については、「こうしてマルコ16・9~ 20 は削除された【1】」(別サイト)も参考情報としてお勧めします。
[7] この場合、キリストの側には、「わたしの内に留まりなさい」と大胆に求める権利があり、クリスチャンの側には、その求めに応答する責任があります。一方、クリスチャンの側には、「欲しいものを何でも願い求める権利」があり、キリストの側にはその求めに応答する義務があるのです。
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