10. 善行について―祈りは隠れた所で|山上の垂訓の解説

【善行・祈りについて】 山上の垂訓の解説(9)

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祈りについて マタイ6:5-8

5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

人に見せるために祈らないように

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。

「祈り」が善行の一種である、という感覚は、現代の日本人には理解し辛いかもしれないが、聖書的な価値観に立つならば、神への祈りは立派な善行の一部である。そして前回と同様、ここでもイエスは、パリサイ人たちの「見せるための善行」を戒めており、ここでは「祈り」がテーマになっている。

当時のパリサイ人の中には、「会堂や通りの四つ角に立って祈る」者がいたが、その動機は、善行を人に見せて賞賛を受けるためであった。イエスが語った通り、彼らは自分の報いを全部受け取ってしまっており、神からの報いは何一つ期待できない状態だったのである。

そこでイエスは、施しの時と同様の原則を祈りについても適用し、「祈るときには自分の奥まった部屋にはいり」、隠れた所におられる天の父に祈るように、と勧めている。イエスの勧めの真意は、周りに誰もいない、一人静かになれる場所に行って、そこで祈りなさい、ということである。そうすれば、その人は祈ることに対する神からの報いを期待することができるのである。

異邦人のように言葉を繰り返さないように

祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。・・あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

異邦人とは、聖書の中ではユダヤ人以外の全ての民族を指す言葉である。彼らは祈る際に、「同じ言葉をただ繰り返せば」、神に聞かれると考えていたが、それは全くの誤解であった。どれだけ言葉を繰り返したか?どれだけ長い祈りをしたか?どれだけ言葉巧みに祈ったか?という外面的なことは、神は全く気にしてはいない。それよりも、真に心から出る誠実な祈りを、神は喜ばれる。

さらにイエスは、同じ言葉を何度も繰り返す行為を戒める理由として、「父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」ことを挙げている。神は全知全能であり、私たちの心の意向を含め、全てのことを知っている。だから、繰り返せば聞かれる、という外面的な考えを捨てて、ただ心から出る誠実な願いを、打ち明けるべきである。

なお、イエスのこの忠告は、言葉の繰り返しそのものを戒めているわけではない。実際にイエスも、捕縛される直前のゲッセマネの園の祈りの中で、繰り返し同じ言葉で神に語りかけている。(マルコ14:32-29)大事なのは、祈る時の心の状態や動機なのである。

最後に補足しておきたい点として、世界には様々な宗教があるが、キリスト教以外のほとんどの宗教には、自発的な祈りが無い。仏教には定式化された「お経」があり、イスラムでも自発的な祈りはなく、パリサイ主義の影響を受けたユダヤ教でも、「祈祷書」という決められた形式があるため、自発的な祈りは無い。

聖書は、神が私たちと同じような人格を持った生きている存在であり、愛情深い方であると教えている。私たちが、周りの人とコミュニケーションを取る際に、ただ決められた言葉を繰り返すだけならば、それはロボットのようなものであり、関係を育むことは決してできない。心から出る自発的なコミュニケーションこそ、生ける神との関係を深める唯一の方法である。

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