6. 誓いについて―はいは、はい。いいえは、いいえ|山上の垂訓の解説
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誓いをしてはいけない(マタイ5:33-37)
33 さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。35 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。36 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
37 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
誓いに関するモーセの律法と口伝律法の違い
昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。34 しかし、・・天をさして・・地をさして・・エルサレムをさして・・あなたの頭をさして誓ってもいけません。
本来モーセの律法における、誓いに関する基本的な教えには、三つの点がある。(1)人は誓うべきではない。語った言葉がそのまま信用されるものでなければならない。(2)例外的に誓いをする必要が生じた場合は、その誓いは真実でなければならない。(3)誓ったことは実行しなければならない。(レビ19:12、申命記23:21,23)
要約すれば、「誓いをするな、万が一誓ったら必ず果たせ」というのがモーセの律法の基本精神だったが、一方で口伝律法においては、一度誓った後に、何か都合の悪いことが起こると、様々な理由をつけて、合法的に誓いを破棄することができると教えられていた。
当時のパリサイ人は、天にかけたり、地にかけたり、エルサレムにかけたり、頭にかけて誓ったりしていたが、合法的に破棄できる以上、それらは全く虚しいものとなっていたのである。
「はい」は「はい」。「いいえ」は「いいえ」
このような背景の中でイエスは、「あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。」と命令した。その意味は、「はい」と答えたものは実行し、できないものに対しては「いいえ」と答える、ということである。つまりイエスは、いちいち誓ったりすることなく、日常の生活において、語った言葉がそのまま信用される人間になるように、と教えたのである。
日本でも「男に二言はない」という言葉があるほど、イエスのこの教えは、普遍的に重要な教訓ではないだろうか?語った言葉を必ず実行する人は、どの時代、どの民族でも変わらず信用に値する人間と見做され、社会に良い影響をもたらすことができる。
しかし、自分が語った言葉に、いつでも責任を持つことは、決して容易なことではない。私たちの周りには、誓いを破らせようとする様々な誘惑が常に存在する。既婚者の多くは浮気をし、多く政治家は賄賂や汚職に関わり、平気で公約を破る。
また私たちは、時に誓いの言葉を果たすために、大きな試練を乗り越えなければならないかもしれない。では、自分の言葉に責任を持つことに対する動機や信念を、私たちはどこから得ることができるだろうか?
必ず約束を果たす神を知る
聖書の真の筆者である神は、自身の言葉を必ず果たす信頼に値する神である。実際に神は、聖書を通して、これまでに多くの約束を人間に対して果たしてきたが、例を挙げれば、人類に救い主を与えるという約束を、イエスによるメシア預言の成就によってことごとく果たしてきた。またイスラエルに関する多くの預言も、これまで見事に果たされてきている。
神が人間に対して果たした約束の中でも最たる者は、キリストの十字架だと言える。なぜなら、そのために父である神と、その御子であるキリストは、多大な苦しみを通らねばならなかったからだ。
もし私たちが、神がどんな時でも約束を果たしてくれる方だと知るならば、その神のために、語る言葉に責任を持って生きるよう努力する、強い動機を得るようになるだろう。
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