17. 人を裁くな|山上の説教(垂訓)の解説
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人をさばいてはいけません(マタイ7:1-5)
1 さばいてはいけません。さばかれないためです。 2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちり(塵)に目をつけるが、自分の目の中の梁(丸太)には気がつかないのですか。4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
5 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
イエスはどんな意味で「裁くな」と言ったのか?
神の義の基準で人を裁くことを禁じたわけではない
「裁く」とは、相手の態度・行動の善悪を判断する行為だが、イエスは、どんな状況においても、自分の兄弟を裁いてはならない、と教えたのだろうか? (兄弟とは、彼らにとって親族だけではなく、同胞のユダヤ人全体のこと。私たちへの適用としては、周りにいる人々全体を指す)
モーセの律法では、律法の基準に基づいて罪を犯す人がいる場合は、祭司や裁き司たちによって、公平な裁きが行われるべきだった。
またイエスは、マタイ福音書の別の箇所において、自分の兄弟が罪を犯した場合に、行ってその罪を明らかにした上で、関係を修復するようにと教えている。
「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」(マタイ18:15)
したがって、イエスが語った「裁くな」の意図は、モーセの律法で示された神の義の基準に基づいて、公平に兄弟をさばくことを否定した教えではない。
口伝律法(人間の基準)で厳しく人を裁くな
1 さばいてはいけません。さばかれないためです。 2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
ここで、山上の垂訓の文脈を再度確認しよう。イエスによる山上での一連の説教の目的は、口伝律法の誤りを指摘し、モーセの律法の本来の精神を正しく説くことにあった。つまり、イエスが否定したのは、口伝律法で表された人間の誤った教えにもとづいて、人を裁くことを否定するものだった。
口伝律法には数万の細則があったが、当時のパリサイ人たちは、それらの細則にもとづいて、人々を厳しく批判する傾向があったのだ。
厳しく人を裁くのをやめるべきなのは、「自分が裁かれないため」だ。ルカの福音書の並行箇所では、イエスは次のようにも、語っている。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカ6:37-38)
私たちが、周りの人からどんな目で見られ、どんな態度を取られるかは、自分が相手にどのような態度を持つかによって変わってくる。自分が相手に対して行ったことは、いづれ返ってくるのだ。
もしも、隣人を厳しく裁くのなら、自分もその隣人から厳しく裁かれることになる。しかし、もしも自分の隣人に憐れみ深く接するならば、自分もその隣人から憐れみ深く扱われるのだ。
そして、究極的には、周りの人々に憐れみ深く接する人は、神からの憐れみをも受けることになる。
兄弟の目の中のちり(塵)と自分目の中の梁(丸太)
3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちり(塵)に目をつけるが、自分の目の中の梁(丸太)には気がつかないのですか。4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
「ちり」(塵)とは、新共同訳では「おが屑」とも訳されており、小さく目の細かいものを表す。一方、「梁」とは、新共同訳で「丸太」とも訳されており、太い木の柱を意味する。
つまりイエスの言葉は、兄弟の小さな欠点を裁く一方で、自分の中に遥かに大きな欠点があることに気付かない偽善的な傾向への戒めとなっているのだ。
では、パリサイ人たちが持っていた大きな欠点「丸太」とは何だったのだろうか?
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」(マタイ23:23)
彼らは、口伝律法で定められた外面的なルールに細かく拘るあまり、律法の本来の精神である「憐れみや誠実」をおろそかにするようになっていたのだ。
兄弟の目から塵を除く方法―まず梁を除く
5 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
だからイエスは、他人の欠点に注目する前に、自分の欠点を知り、それを悔い改めるようにと警告した。自分の欠点を知り、日頃から神の前で悔い改めることができる人は、その結果として、自然と周りの人々にも寛大に接することができるようになるだろう。なぜなら、自分自身にも欠点があり、常に神から赦しを必要としていることを理解するからだ。
そして、続けて語られた「そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」という言葉も、そのような意味として理解することができるだろう。なぜなら、イエスのこの教えの本質は「裁くべきではない」という点にあるからだ。
日本では、「自分のことを棚に上げる」という表現がある。自分の欠点を隠しながら、他人の欠点を指摘する、という意味だが、イエスの今回の教えの内容を、そっくり表現した言葉だ。
古今東西、罪を持つ私たち人間は、誰でもこのような傾向を持っている。私たち一人一人が、自分が罪人であることを認め、憐れみ深く赦しを与えてくれる神に感謝しつつ、周りの人々にも思いやりをもって接していくことができますように。
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