映画『沈黙―サイレンス』の感想

大分遅くなったが、先日友人と「沈黙―サイレンス―」を見てきた。今の時期は、既に上映している映画館が限られていたが、小さめのシアタールームはほぼ満席だった。

私は原作を読んではいないのだが、映画を通して、江戸時代に行われたキリシタンに対する迫害がどのようなものだったのか、そこで直面したキリシタンの苦悩がどれほどのものだったのか、よく理解することができた。

今回の記事では、「沈黙」を見た感想を、何点かのテーマに沿って書いていく。多少ネタバレの要素も含んでしまうので、まだ映画をご覧になっていない方は、その点をご了承いただきたい。

最も過酷な迫害とは

映画を通して、最も過酷な迫害がどんなものであるのかを教えられた。確かに、自分自身が拷問や命の危険にさらされることは過酷な試だが、自分が棄教しないことによって、周りの人々が拷問や死刑に直面すること、これが最も厳しい試練だと痛感した。

このような試練に実際に遭ったクリスチャンが、キリストを否定する、という選択をするとしても、その苦しみには大いに同情すべきものがあるだろう。

しかし、この問題について、誤解してはならない点もある。この状況において、迫害者はキリシタンに対して「お前が棄教しないから、周りの人たちが苦しむんだ」と迫るのだが、それは巧妙な責任転換だ。周りの人々が苦しんで殺される基本的な責任は、卑怯な手口によって迫害をする側にあるのであって、信仰を守るキリシタン側にあるのでは無い。

よく誘拐犯が、人質をとって、家族や国に身代金を請求し、支払がなされないと、「お前が払わないからこの人質は死ぬのだ」と言ってくるが、この場合も、人質を取って殺す方が悪いのであって、払わない側に責任があるわけではない。

このような論理のすり替えによって、人に無用な罪悪感を背負わることは、悪魔の常套手段だと言える。私たちは、敵の戦略によく注意をし、相手の言葉に乗せられないように、慎重に判断をしなければならない。

8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。(第一ペテロ5:8-9)

何度もキリストを裏切るキチジローの懺悔は、神から赦されるのか?

イエスは、自分の兄弟が罪を犯して赦しを求めてきたら何度でも赦せ、と教えた(マタイ18:22)。この教えは、人の罪を惜しみなく赦す神の寛大さに基づいているが、現実的に、何度も同じ過ちを繰り返す人がいるとしたら、その人の「悔い改め」が真実であるかどうかが、疑わしくなってくる。

そして「何度も赦すように」という教えは、私たちの側が持つべき態度であって、「罪を犯した人が実際に神から赦されるかどうか」という問題とは、厳密には分けて考える必要がある。

確かに神は、惜しみなく赦す海のような広い心を持つお方だが、赦しの基本的な前提は、罪人の「悔い改め」となる。たとえキリストが十字架にかかっても、その贖いが有効となるためには、贖われる人の悔い改めが必要となってくるのだ。

聖書の教えによれば、悔い改めは真実でなければならない。悔い改めたと口では言いながら、同じ罪を繰り返す人がいれば、その人の悔い改めは真実で無かったことになるだろう。例えば去年、清原が覚せい剤で逮捕されたが、もしも執行猶予中の彼が、再び同じ罪を犯すとすれば、清原の反省は真実でなかったことになる。

これと同じように、キチジローのように、同じ大罪を何度も犯す人が実際にいるとしたら、その人の懺悔は口先だけだと判断されるだろう。このような口先の懺悔は、どれだけ繰り返しても、神の赦しを得ることにはならない。神は、人の心の動機を全て把握しておられ、決して侮られるような方ではないからだ。

真の悔い改めをする多くの人は、それ以降同じ罪を犯さなくなる。一方、悔い改めた後でも、後々同じ罪を犯してしまう人もいるが、本人が再び「心から」悔い改めるなら、神は赦されるだろう。キチジローの懺悔が、真の悔い改めを意味するものだったのか?神だけが、全てをご存知なのだ。

内面で信仰を保てば、表面的には棄教しても良いのか?

映画「沈黙」のストーリーの全体において、この問題をどう考えるかは、とても重要なテーマとなっている。かつて、ローマ帝国で大規模な迫害が生じた時も「表面的にも妥協すべきでない」とするグループと、「表面的には妥協しても構わない」とするグループに意見が分かれた。結果、迫害が収束した後は、表面的に妥協して苦しみを逃れたグループは、そうでないグループから非難されたわけだが。。

聖書の教えは、この点を曖昧にはしていない。つまり、クリスチャンは内面だけでなく表面的にも妥協すべきではないのだ。

「32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10章)

もしも表面的に妥協するのが神に許されるのであれば、イエスを三度否認したペテロの行為も、罪とはならなかったはずだ。しかしペテロは、三度の否認の後、自分の行為を後悔し、激しく泣いた。「捕まらないために、口先を合わせただけだ」という言い訳は、神の前でも、自分の心にも通用しなかったのだ。

74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26:74-75)

さらに、将来に地上で生じる大患難時代においては、表面的にも信仰を妥協しないことは、一層重要な問題となる。その時、世界を独裁支配することになる反キリスト(獣)と呼ばれる人物は、世界中の人間に自分を崇拝するよう強制し、獣の刻印を拒む人を、容赦なく迫害していくことになるからだ。

しかし、このような過酷な試練の中でも、キリストへの信仰を守り、刻印を拒否して殉教する人々には、永遠の命という輝かしい未来が待っている。一方、信仰を妥協し、獣の刻印を受けてしまう人々は、救いに関する回帰不能点を越え、大患難時代の後半に向けて、永遠の裁きへと旅立つことになる。

「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。12 神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」(黙示録14:9-13)

つまり、外面の行いにおいても、信仰の告白を妥協しないこと、これが聖書の教えであり、神の御心だと言えるのだ。では、江戸時代の迫害のさなか、表面的には棄教をしつつ、内面の信仰を持ち続けた人々は、死後どうなったのだろうか?

先程引用したマタイ10章のイエスの言葉を適用すれば、人の前でキリストとも結びつきを否定した者は、救われないことになるだろう。

「しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」

ただし、死の前の状態がどのようなものであったかは、人間が知り得ることではない。迫害の最中、内面の信仰を保ち続けた人が、最終的に救われたのかどうかは、神のみぞ知ることだ。

神は沈黙をしていたのか?

「沈黙」は歴史小説であるため、全てが実話ではないが、ある程度の実際の出来事を下敷きとして、話が組み立てられている。したがって、信徒を人質に取られて棄教を要求されるような試練の中で、「仲間を苦しみから救いたい」という動機で、自らの信仰を公に否定した神父や信徒も、実際に存在したのだろう。

一方、同映画の中では、信仰を妥協せず苦しみに耐えながら殉教していった多くの信者の姿もしっかりと描かれている。ある者は、四日間の水攻めに遭いながら、神を賛美しながら死んでいった。試練の真っ只中において、賛美を続けた殉教者の中に、私は神の恵みをはっきりと感じた。

クリスチャンが厳しい試練に遭う時、それは決して「神の沈黙」を意味するわけではない。神は、彼らが試練に遭うことを許されるからだ。神が信者の苦しみを許されるのは、信者が試練を通じて霊的な成長を遂げるためであり、苦しみの中において現される恵みを通じて、彼らの信仰が純化されるように導いているのだ。

実際に、厳しい迫害を経験した多くの真のクリスチャンたちは、口を揃えて言う。その時に、試練に耐えるための力が神から与えられ、平安を保つことができた、と。

同じ試練に遭ったら信仰を保てるのか

映画を見ながら、多くの人々―とりわけクリスチャンは、「もしも同じような試練に遭ったとしたら、果たして自分は信仰を守り抜くことはできるだろうか?」と考えることだろう。この疑問について、私自身はこのように考えている。

私は、自分自身に過酷な試練に耐える力があるとは信じていない。
しかし、神がその時に、試練に耐える力を与えてくれると信じている。

「8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。 11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」(第一ペテロ5:8-11)

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