アッラーを探し イエスに出会う

ナビール・クレシは、イスラムの宣教師が多い家柄もあり、熱心なイスラム教徒として、米国で育てられた。彼はただムスリムとして生きるだけでなく、キリスト教の信仰に挑戦するようにも親から教えられてきた。

しかし、ある時彼は、デービッドというクリスチャンの友人ができ、彼と親しくなったことを通して、考えが変わっていった。彼は、デービットにキリスト教の信仰に対する様々な疑問を投げかけてみたが、デービッドは全ての質問に誠実に答えていった。

そしてナビールは、次第に聖書が間違っているのではなく、イスラム教の信仰とコーランの方に誤りがあることに気付いていった。

例えばコーランでは、「イエスは神ではない」、「イエスは十字架では死んでいない」とか書かれている。そして彼は親から、聖書の記述には歴史的に誤りが多く含まれてきたので、信用することはできない、と教え込まれてきた。

ところが、いざ証拠を調べていくと、聖書の本文の内容は、原本が書かれた当初からほとんど変わってはおらず、またイエスが十字架で死んだことや、イエスが神として描かれていることについては、明白な証拠があった。それに比べて、コーランに書かれている内容は、裏付ける証拠に乏しかった。

またナビールは、ヨハネ福音書が、イエスの死後60年後に書かれてものであることを追求し、時間が経ちすぎているから信用に欠けると批判したが、全く同じ議論をイスラム教に持ってくると、ムハンマドの生涯の記録は、彼の死後150年以上も後に書かれたものであることがわかり、イスラム教の信仰の基盤の方が、聖書のそれよりも遥かに弱いことに気が付いた。

また彼は、モハメドの言行録であるハディスや、彼の伝記であるシーダやコーランには、イスラムの兵士は戦争で捕虜になった女性を性的快楽のために利用してよい、と書いてあることに気が付いたが、「神が作った宗教なら、こんな酷いことは教えないはずだ」と疑念を抱くようになった。

イスラム教徒には、神の導きを求める際に、夢を通して啓示してくれるよう、神に祈り求める習慣がある。ナビールはその習慣に従って、この件について、神に夢を下さるよう祈り求めた。

そこで彼が見た二つの夢とは?
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