7. イエス・キリストのメシア性~教え・人格|聖書の教え
現在の世界のクリスチャン人口は約23億人、70億の世界人口のおよそ32%であり、イエス・キリストは世界で最も多くの人から崇められている。
聖書は、その頒布数、翻訳言語数、影響力などの点で、圧倒的な地位を持つ書籍だが、その聖書の中心テーマはイエス・キリストである。
今年は西暦2016年だが、これはイエスが誕生してから2016年後、という意味である。このように、少し考えただけでも、イエス・キリストが世界に与えている影響は、他のいかなる偉人とも比べものにならないことがわかる。
今回からの一連の記事を通して、イエスが旧約聖書で預言されていたメシアであることを確認していくが、まずはその前に、イエスのプロフィールを紹介する。
イエス・キリストの紹介
本名は「イエス」、英語では「Jesus」、原語のヘブル語では「ヨシュア(エホシュア)」と呼び、「神は救い」という意味が、その名に込められている。
「キリスト」とは、実は彼の名前ではなくタイトル(称号)であり、その意味は「救い主」である。世界中のどこを探しても、このようなタイトルで誰からも認知されている人物は、イエス以外には存在しない。
イエスが誕生した年は、実際には紀元前4~7年頃だと言われているが、正確な年はわからない。
誕生した場所は、ユダヤのベツレヘムという町であり、マリヤという女性によって、家畜の小屋で出産された。
イエスはキリスト教徒だったと誤解されることが多いが、彼は生涯中、完全にユダヤ教徒として生活したユダヤ人だった。
イエスはおよそ三十歳頃から、公の伝道活動を開始するが、それまでの職業は大工であった。以上が、イエスの簡単なプロフィールである。
イエス・キリストの自己認識「わたしは道である」
ここからいよいよ、イエスが旧約聖書で預言されていたメシアなのかを、様々な角度から検証していく。まずは、イエス自身が、どのような自己認識を持っていたのかを、聖書から確認していこう。
道であり、真理であり、命である。
「わたしが道であり、真理であり、命なのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
この宣言によって、イエスは、自分が「救いのための唯一の道」であると語った。イエスは救い主としての自分の権威を、絶対化する発言をしたのである。。
永遠性を持つ神
「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、わたしはある。」59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」(ヨハネ8:58-59、新共同訳)
「わたしはある」というイエスの宣言は、ユダヤ的視点で捉えると、聖書の唯一神・ヤハウェの神名を意味する神性宣言である。ユダヤ人たちは、イエスのこの言葉を聞いた上で、彼に石を投げようとした。なぜなら、彼らがイエスの言葉を神性宣言と捉え、イエスが冒涜の罪を犯したと考えたからである。
裁き主
「父はだれをも裁かず、裁きは一切、子に任せておられる。」(ヨハネ5:22、新共同訳)
「子」という表現は、イエスが「神の子」としてのアイデンティティ(自己認識)を持っていたことを明らかにしている。加えてイエスは、全人類の裁き主である神が、その全ての裁きを、自分に委ねている、という大胆な宣言をした。
これらの言葉により、イエスは、自分が神の子として、神と同等の権威を持っていると主張したのである。
イエスの自己認識から推測される3つの可能性
まとめると、イエスの自己認識とは、「唯一の道・真理・命」、「神」、「裁き主」、「神の子」、というものである。このようなイエスの自己認識から、イエスに実像について考えられる、三つの可能性がある。
一つ目の可能性:気狂いである
二つ目の可能性:詐欺師である
もし自分の周りに、このような大胆な発言を行う人間が居たら、あなたはどういう態度を取るだろうか?きっと、よほど気が狂っているか、あるいは人を騙して利用しようとする狡猾な詐欺師だと考え、警戒することだろう。
三つ目の可能性:本物の神の子である。
イエスについて、最後に考えられる可能性は、彼の自己認識の通り、「本物の神の子」だという結論である。
イエスのことを、単に偉大な宗教指導者や、道徳的に優れていた素晴らしい人物だと評価する人がいるが、イエスの大胆な自己認識の発言からは、そのような中途半端な評価を下す余地は残されていない。
もし彼が本当は「神の子」でないのだとすれば、彼は人類史上最悪の気狂いか、詐欺師である。しかし、そうでないのなら、本物の神の子・救い主である。
この重要な問いに対する答えを出すために、これからの一連の記事で、イエスのメシア性を「教え」「人格」「奇跡」「預言の成就」の四つ観点で、順を追って検証していく。これらの検証を経た上で、最終的に私たちは、イエスが誰なのかについて、どちらかの判断を下す必要があるだろう。
イエス・キリストの教え
山上の垂訓
イエスの教えの中でも特に有名なのが、「山上の垂訓」と呼ばれる一連のメッセージであり、その垂訓の優れた価値は、世界中で広く認められている。例えば、インド独立の父であるガンジーは、山上の垂訓の価値を、インド駐留の英国総督に、次のように語った。
「あなたの国とわたしの国が,この山上の垂訓の中でキリストが述べた教えについて意見の一致を見るならば,わたしたちの二国の問題のみならず全世界の問題をも解決することになるでしょう」(マハトマ・ガンジー)
他にも、精神科医のジェームズ・T・フィッシャーは、現代の精神医学とイエスの教えを比較した結果、次のように語っている。
「最高の資格を持つ心理学者と精神病医がこれまでに書いた,精神衛生に関する権威ある論文すべてを集め,それを組み合わせて洗練し・・たとしても,それは,山上の垂訓の不器用で不完全な要約でしかないであろう。」
山上の垂訓の優れた価値と内容の解説は、当サイトの「山上の垂訓シリーズ」でも取り上げているが、ここで全ての教えを取り上げることは不可能なので、二つだけ抜粋をして以下に紹介をする。
人間関係における黄金律
「何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」(マタイ7:12)
イエスのこの教えは、人間関係における黄金律とも言われる有名なものであり、あらゆる人間関係においえて、普遍的に適用ができる。試しに、この教えを生活のあらゆる分野で適用しようとすれば、いかに私たちが自己中心的な生き方をしているかが、よくわかるだろう。良い人間関係を保つための最も重要な原則を、イエスは簡潔に要約したのである。
復讐(仕返し)をするべきではない
・「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38)
この教えは、復讐することを戒める教えである。暴力に対して暴力で返すことは、憎しみを増幅させる行為であり、根本的な解決策とはならない。かつてガンジーが、非暴力によってインド独立を勝ち取った背景には、この教えの影響があった。彼は、非暴力・無抵抗に関するイエスの教えを体現し、その言葉の力の真実さを証明したのである。
その他の教え
他にもイエスは多くの素晴らしい教えを語ったが、有名なものを幾つか抜粋して紹介する。
・放蕩息子の例え話(ルカ15:11-32)
・善きサマリア人のたとえ(ルカ10:25-30)
・山上の垂訓 本文 (マタイ5章、6章、7章)
結論
イエスは、多くの例えや表現を用いて、神の深い愛情や憐れみを、聴衆が身近に感じることができるよう、とてもわかりやすく教えた。このような教えの内容は、当時のユダヤにおいて画期的だったばかりでなく、イエスほど、神の愛を余すところなく伝えた人間も、歴史的に存在しない。
またイエスの教えは、現代の最先端の精神医学の知識にも全く劣らず、人間の心を熟知した知恵が反映されていたことが伺える。
したがって、イエスはその教えにおいて、メシアとしての資格を十分に備えた人物であったことがわかる。
イエスの人格
世の中には、どんなに良い言葉を語っていても、言行不一致で人格的に問題のある人間も多い。確かに、イエスの教えは素晴らしいものだったが、彼の人格と実生活はどのようなものだったのだろうか?
イエスの一番弟子・ペテロの証言
一般的に人間同士は、関係が近くなればなるほど、お互いの嫌な部分が見えてくるものである。イエスの弟子のリーダー格であったシモン・ペテロは、イエスと三年以上もの間、寝食を共にした。そのペテロが、イエスについて、以下のように語っていることは注目に値する。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(第ニペテロ2:22-23)
彼は三年以上もの間、ずっとイエスと一緒に行動をしていたが、彼の内に何の罪も見出すことができなかった。まさにイエスは、理想的な人格を備えた、言行一致の人間だったのである。
試練の中で見える本当の人格
誰でも厳しい試練に遭った時に、その内にある本当の人格を見せるものである。イエスが処刑に際して経験した苦しみは、その厳しさの点において最たるものだった。[i]
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
これは、イエスが十字架に架けられる際に、神への祈りで語った言葉である。自分に激しい痛みを加えている処刑人たちの罪が赦されるようにと、イエスは天の神に祈ったのである。このような慈悲深い祈りを、普通の人間ができるだろうか?
イエスが十字架に架けられた時、両脇に二人の犯罪人が共に処刑にされた。片方の犯罪人は、最初はイエスを罵っていたが、十字架の苦しみに静かに耐えるイエスの姿に心を動かされ、死の間際に、イエスに対する信仰を告白した。(ルカ23:42-43)
結論
イエスは、自身の教えに見合った高潔な人格を持ち、その行動に罪が見出されることは無かった。死に至る程の厳しい試練の中でも、その柔和な態度がぶれることはなく、敵対者に対する憐れみを神に願った。イエスの人格は、メシアとしてふさわしいものだった。
イエスのメシア性の検証の残る観点は、「奇跡」「預言の成就」である。これらについては、次回の記事以降、順を追って確認していく。
⇒ 本記事のシリーズでは、30日間のメール配信プランもご用意しています
脚注
[i] イエスは、ローマのムチで激しく打たれた後、十字架刑に処せられた。ローマのムチは、それだけで死ぬ人がいたほど、身体に深刻な損傷を与える激しいものだった。また十字架刑は、犯罪人の苦しみをできるだけ大きくするために考案された、残酷な処刑法である。イエスが死に際して経験した苦しみは、まさにこの世の苦しみの中で、最たるものだった。
【最近のコメント】