イエス・キリストの復活―偉大な奇跡は歴史的事実か?その真実を明らかにする
人間にとっての究極的な問題とはなんだろう?病気、貧困、人間関係など色々あるが、もっとも重要な問題は「死」ではないだろうか?
誰も、自分がいつ死ぬのかを知ることはできない。遅かれ早かれ、死は全ての人の人生に、必ず訪れる。そして、誰もが避けて通れないこの問題と真剣に向き合う時、私たちは、自分の人生の意味を問いたださなくてはならないだろう。
ところで、現在の世界最大の宗教は、キリスト教であり、その規模は実に世界人口の30%にも上るが、彼らは何を持って、「クリスチャン」と呼ばれるのだろうか?それは、「キリストの復活」に対する信仰だと言える。つまり、イエス・キリストは、十字架上で処刑されて死んだが、三日目に肉体的な復活を遂げた、そして彼を信じて従う人も同じように、やがて終わりの日に復活をする、という信仰なのだ。
これだけ科学が進んでいる時代に、全世界の3割もの人間が、一度死んだ人間が復活するなんてことを、なぜ信じているのだろうか?ところが、この問題は「おとぎ話」として一蹴できるような性質のものではない。
キリストの復活の事実を巡って、既に歴史的に多くの議論が交わされてきたが、数え切れないほど多くの人間が、キリストの復活の事実を示す圧倒的な証拠を前に、彼の復活を認めざるを得なくなったのだ。
さらにその中には、科学者、裁判官、ジャーナリストなど、理知的に物事を判断するのに長けた人間も多く含まれる。例えば、万有引力の法則の発見で有名なアイザック・ニュートンをはじめ、ガリレイ、ケプラー、コペルニクスも皆、復活に対する信仰を持ったクリスチャンであった。
もし、キリストの復活が事実なのであれば、私たちは「死」という究極的な問題に対する答えを見出したことになる。つまり、イエスの復活を信じ彼に従う人は、かつてイエスが復活したのと同じように、やがて復活して死に勝利する、ということだ。
そこで今回の記事では、キリストの復活に関する証拠を十分に検証しつつ、彼の復活が何を意味するのかについても、その真相に迫っていきたい。多少長くなるが、極めて重要なテーマなので、最後までお付き合い頂ければ幸いだ。
キリスト復活を考える上での基礎知識
キリスト復活の経緯
イエス・キリストは、紀元一世紀に実在した人物だ。彼は、ユダヤのベツレヘムという町で生まれたユダヤ人で、その生涯を完全にユダヤ教徒として生きた。現代私たちは、西暦を用いて年代を表すが、それはキリストの誕生を基準に計算した年代となっている。この事実だけを踏まえても、彼が人類史において、いかに偉大な功績を残したかがわかる。
ユダヤ教の正典である旧約聖書の中には、古代から救い主に関する預言が多く書かれており、救い主が、どこで、いつ、誰の家系から生まれ、どんな生涯を送るのか、などが、詳細に預言されていた。(その預言には復活も含まれていた)
そして、それら全ての預言を、その生涯において成就したのが、イエス・キリストだった。彼は、およそ30歳から、約三年半に渡って、イスラエル中を回って神の国の教えを説きながら、あらゆる病気の癒やし、悪霊の追い出し、その他あらゆる奇跡を行って、自身が旧約聖書の預言を成就するメシア(救い主)であることを証明していった。
ところが、宗教的な偽善をイエスに糾弾された当時のユダヤ教の指導者たちは、イエスを憎み、逮捕して、十字架にかけて殺した。しかし、イエスが予め弟子たちに、「自分は十字架にかけられ殺されるが、三日目によみがえる」と繰り返し語っていたとおり、イエスは三日後に復活し、合わせて500人以上もの弟子たちに現れた。以上が、キリストの復活までの、簡単な要約だ。
キリスト教・聖書の教えにおける復活の重要性
イエスの弟子たちは、キリストが処刑された時、最初は恐れて家に閉じこもっていた。ところがその後、彼らの前に復活したキリストが現れたことによって、弟子たちは復活のイエスに対する固い信仰を持つようになった。
そして、キリストから与えられた世界宣教の使命に沿って、世界中で伝道を展開するようになっていった。そして、時代を経て、イエスを救い主と信じるキリスト教は、世界最大の宗教となっていったのだ。
キリスト教の展開の、この歴史的経緯を考えれば、その原点は、紛れもなく、「イエス・キリストの肉体的な復活の事実」にあると言える。なぜなら、弟子たちが勇気を持って世界宣教に繰り出した動機は、聖書によれば、「キリストの復活を目撃したことを通して、彼を救い主として信頼した」という点に集約されるからだ。
以上の背景から、キリストの復活は、キリスト教の信仰を根本から支える、極めて重要な事実だということがわかる。
復活の史実性を確認する上での三つのポイント
では、復活からおよそ二千年が経過した現代に生きる私たちが、キリストの復活が実話だったと信じるためには、どんな点を確認していけば良いのだろうか?これから、以下の三つの重要な点に焦点を当てて、キリストの復活の事実を確認していく。
- 復活に関する聖書の記録は信頼できるのか?
- イエス・キリストは、本当に十字架で死んだのか?
- イエス・キリストは、本当に復活したのか?
復活に関する聖書の記録は信頼できるのか?
キリスト復活を示す最古の伝承
始めに考えたいのが、キリストの復活を含む、イエスの生涯が記録されている聖書の信頼性だ。結局のところ、聖書の記録の信頼性が認められていなければ、復活の事実を確認していくことはできない。そこでまずは、以下の引用聖句をお読みいただきたい。
「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(第一コリント15:3-8)
引用した聖句は、「キリストが死んで、葬られ、復活し、五百人以上の弟子たちに同時に現れた」ことが明確に証言されている。
実はこの記録は、初代のキリスト教徒たちが共有していた最も古い信条として、広く聖書学者たちから認められているものであり、イエス・キリストの復活を検証する上で、とても重要な意味を持っている。
伝承の成立時期から見る記録の信頼性
聖書学者たちの見解によれば、この最古の伝承が成立したのは、遅くてもキリストの死から20年以内であり、死後数年で成立した伝承と見る学者もいる。また、この信条が記録されている第一コリントの書簡自体も、キリストの死後30年以内に書かれたことは、どの立場の学者から見ても明白な点となっている。
これらの伝承・記録の成立年代は、復活の史実性を検証する上で、大きな意味を持っている。なぜなら、キリストの死後20~30年という期間であれば、イエスの死や復活を目撃した証人たちや、反対者たちがまだ多く生存していた年代であり、嘘の伝承を流布させることは不可能だったはずだからだ。
パウロは「五百人以上の兄弟たちに同時に現れた」と語っているが、この手紙を読んで、復活の事実を疑った人は、いくらでも証人たちを探し出し、証言の確認をすることが可能だった。パウロは、書簡に書いた伝承の信憑性に、絶対的な自信を持っていたのだ。
以上に挙げた観点や、他の事実から、ドイツの歴史家のハンス・フォン・ハウゼンは、パウロが記録した復活の伝承について、以下のようなコメントを残している。
「パウロの記述は、歴史的資料が、その信頼性を認められるのに必要な、全ての事実を有している」
また、復活に関する目撃証言や伝承が記録された、新約聖書の他の書簡についても、その成立時期は、イエスの死後30年~50年以内のものがほとんどであり、その記録の高い信頼性が、広く認められている。
結論として、新約聖書の記録全体は、キリストの復活を裏付ける有力な証拠となるのだ。
イエス・キリストは、本当に十字架で死んだのか?
イエスは本当に死んだのか?実は、歴史的に「イエスは実際に死んではいなかった」と批判する説も少なからず出てきており、今日でもイスラム教は、「イエスは十字架の上で死んでいない」と主張している。しかし、聖書の証言は明確に、イエスの十字架上での死について語っている。どちらの説が、確かな証拠に基づいているのかを、以下の要点から考えていこう。
鞭打ち刑による大量出血
イエスは十字架に架けられる前に、むち打ち刑に遭っている。刑を担当したローマ兵が当時用いたムチには、鉄玉や尖った骨が埋め込まれており、打たれる度に大きな肉体の損傷が伴った。実際、この刑だけで死ぬ人もいた程だ。仮にイエスが十字架に架けられなかったとしても、既に彼はこの刑によって重体だったのであり、遅かれ早かれ出血多量で死んでいた可能性の方が高いと言える。
十字架上で脇腹を槍で刺される
イエスは十字架の上で、ローマ兵から槍で脇腹を刺されている。その時の様子を聖書は「血と水が出てきた」と描写している。このような致命的な損傷を受けて、生き続けることができる人間は居ない。イエスは回復の見込みが全く無い程の、深刻な物理的な損傷を負ったのだ。
処刑のプロであったローマの兵士
イエスの処刑を担当したローマ兵は、訓練を受けた処刑のプロであった。さらに当時のローマ法においては、処刑担当の兵士が受刑者を誤って生かしておいた場合、担当の兵士が責任を追求され、死刑に処せられた。このような歴史的背景からは、彼らがイエスの死をしっかりと確認しなかったとは、到底考えられない。
キリストは、本当に肉体的な復活を遂げたのか?
キリストは確かに復活したのか?
イエスは、十字架刑で確かに処刑された後、墓に埋葬された。その後、墓の周りには兵士たちが置かれ、死体が盗まれたりしないよう、厳重に警備された。ところが、三日後の日曜日の朝、イエスの弟子の女たちが墓に行って見ると、墓からは遺体が消えていた。
イエスの遺体はなぜ消えたのだろうか?
実は、イエスが十字架上で死を遂げ、墓に葬られ、その後墓から遺体が消えたところまでは、歴史的に議論の決着が付いており、現在はどの立場の人間も明確に認めている。したがって、復活に関する論点は、「なぜ遺体が墓から消えたのか?」という点に集約されるのだ。
なぜイエスの遺体は墓から消えたのか?
墓から遺体が消えた理由については、歴史的に様々な説が提唱されてきたが、論理的に考えれば、二つの理由に大別される。それは「誰かが墓から遺体を盗んだ」か、「事実、復活した」というものだ。
説1:弟子たちや泥棒が、遺体を盗んだのか?
「そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。・・そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。」(マタイ28:12-15)
ユダヤ人の指導者たちは、イエスの遺体が消えたとの報告を兵士たちから受けた時、「弟子たちが遺体を盗んでいった」という説明し、その説をユダヤ人の間に広めていった。
興味深いことに、21世紀の今日においても、多くのユダヤ人は、未だにこの説を信じているが、果たしてこの説は、どれだけ信頼に値するのだろうか?
番兵の人数と大きな責任
祭司長たちが警備のために配置した兵士たちは、数人体制で見張りをした。いずれも訓練された兵士だっただろう。
現代では考えられないかもしれないが、当時に見張りの兵士の仕事は命がけだった。もしも眠りに陥って敵の侵入を許すようなことがあれば、担当の兵士が死刑に処せられるほどだったのだ。さらに、墓の警備をしていた兵士は一人や二人ではなかったので、交代で眠り、常時数人体制で見張りをすることが可能だったはずだ。
以上の背景を考えれば、兵士たちが眠っている間に、弟子たちが遺体を盗んだ、という説は、極めて不自然な説であることがわかる。
盗人が「弟子たち」だと、なぜわかったのか?
番兵たちが本当に眠っていたのだったら、遺体を盗んだのが誰だったのかは、わからなかったはずだ。その場合、「弟子たちが」ではなく、「誰かが」となったはずなのだ。つまり、「眠っている間に弟子たちが盗んだ」という証言は、初めから論理的な矛盾を含んでいることがわかるだろう。
泥棒が盗んだのか?
万が一泥棒が盗んだとしたら、一体何のために盗んだのだろうか?罪人として処刑されたイエスの遺体を盗んだところで、金銭的な値打ちは無かったはずだ。しかも、聖書の記録によれば、イエスの遺体が消えた墓には、泥棒が最も盗みそうな、上等の亜麻布だけが残っていたのだ。
「そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。・・そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見た」(ヨハネ20:3-5)
説2:聖書の記録通り、イエスは復活した。
墓から遺体が消えた理由として、論理的に考えられる妥当な説は、「盗まれた」か、「復活」のどちらかだ。しかし、これまで考えてきた通り、兵士たちの責任の重さや警備に当たった人数、ユダヤ人の伝承の矛盾や、残されていた亜麻布などの証拠を考えれば、遺体の窃盗説は、極めて不自然だ。
そうであれば、墓から遺体が消えた理由として、最も考えられるのは、「事実、イエスが肉体的に復活した」というものだ。実際に、古代文書としてその信頼性を高く評価されている新約聖書は、繰り返し復活に関する具体的な証言を記録しているのだ。
復活を証言するために殉教していったイエスの弟子たち
キリストの復活の証言は命がけだった。
弟子たちは、イエスの処刑後、最初は次に逮捕されることを恐れて、悲嘆して家に閉じこもっていた。ところが、復活のイエスを繰り返し目の当たりにしてからは、恐れから解放され、大胆にキリストの復活を証言するようになった。
当時のユダヤ社会では、イエスを信じて生きることには、時に大きなリスクが伴った。共同体から追い出されたり、仕事を失ったり、最悪の場合は殉教することもあった。そのような状況にも関わらず、ユダを除く十二使徒たちは、その生涯を、イエスの復活を証言することに捧げていった。
伝承によれば、ヨハネを除く全ての使徒たちは、厳しい迫害に耐えつつ、殉教の死を遂げていった。
もしも、イエスの復活が弟子たちによるでっち上げだったとすれば、実際には彼らは、次の三つの事実を知っていたことになる。
「イエスは復活しなかった」
「復活を予告していたイエスの言葉が偽りであった」
「イエスを信じても、死後の復活の希望はない」
もしもあなただったら、このような嘘で塗り固めたキリストの復活の幻想を証言するために、命をかけることができるだろうか?この質問に「そんなことはできない」と考えるなら、あなたは、復活の証言のために命をかけた弟子たちが、事実キリストの復活を目撃したということを、認めることになるだろう。
人は真実のためなら死ねるが、嘘のために死ぬことはできない。イエスの復活を確かに目撃したからこそ、弟子たちは復活を信じ、命がけで生涯をイエスに捧げることができたのではないだろうか?
ウォーターゲート事件の共謀者と、弟子たちとの対比
最後に、キリストの復活に関連して、人間の本性を明らかにする、ある興味深い話を紹介したい。
リチャード・ニクソン米大統領の側近であったチャック・コルソンは、ウォーターゲート事件への関与で有罪となりました。その後彼は、獄中で回心してクリスチャンとなりました。以下、彼の証言です。
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イエス・キリストの復活は事実かと問われると、私は「弟子たちと500人の証人たちは、自分たちが目撃した通りの事実を書いているのだ」と答えます。すると、「どうしてそれが事実だとわかるのですか」という質問が返ってきます。そこで私は、「ウォーターゲート事件」を例に取って、説明します。その事件は、大統領に忠誠を誓った側近たちが共謀して起こした事件でした。しかし、側近の一人であったジョン・ディーンは、当局の調査が始まってからわずかニ週間で、自分の身を守るためにニクソンに不利な証言をしました。たったの2週間で、この事件の隠蔽工作は失敗に終わったのです。すると、彼に続いて、だれも彼もが罪を軽くしてもらうために証言を始めたのです。
大統領の側近たちが直面していたのは、死のリスクではなく投獄のリスクでした。しかし、イエスの弟子たちは死の危険性に直面していたのです。それにもかかわらず、あの無力な十二人の男たちは、最後まで、「イエスは肉体的に復活した」という証言を曲げることはありませんでした。もしそれが陰謀だったのであれば、殺される前に、その中の一人くらいは事実を白状していたと思わないでしょうか。人は真実のためには命を捨てても、嘘のために命を捨てることはできません。ウォーターゲート事件の隠蔽工作失敗の事例は、人間の本性を明らかにしているのです。
イエスの弟子たちは、イエスの復活を否定することができませんでした。復活のイエスを、顔と顔を合わせて目の当たりにしたからです。二千年たった今でも、イエスが復活し、今も生きておられるという事実が変わることはありません。その事実が、世界中のクリスチャンを励ますのです。たとえ刑務所の中にいても、また拷問や死の恐怖に直面していても、「イエスが神である」という事実は変わりません。その事実の上に、私たちは自分の人生を建て上げるのです。
Charles Colson, BreakPoint Online Commentaries
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キリストの復活は何を証明したのか?
神の言葉・聖書の預言が真実であること
「17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17-18)
「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する」(ルカ24:7)
聖書全体は、神からの預言の書であり、そこには時代を越えて成就することになる多くの予言(未来に関わる事柄)が含まれている。そして聖書は、キリストが誕生する数千~数百年前から、罪によって堕落した世界を救う神の計画と、その計画の中心人物となる「救い主」の到来を予告してきた。
そして、その救い主の最初の到来に関わる預言のクライマックスは、「十字架の死」と「復活」だったのだ。イエス・キリストは、死んで三日目に復活することによって、救い主に関する聖書の全ての預言を、文字通り、完璧に成就した。それによって、神の預言の言葉の真実性と、人類を救う神の計画が確かなものであることが、議論の余地なく証明されたのだ。
キリストが救い主・神の子であること
「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」(ローマ1:3-4)
キリストの復活は、神の言葉が真実であることを明らかにしたと同時に、彼自身が、聖書で預言されていた「メシア」(ヘブル語で救い主の意味)であることを証明した。なぜなら、旧約聖書には、メシアの最初の到来に関する約100もの預言があるが、それら全てが、キリストの復活をクライマックスとして、完全に成就したからだ。
イエスが神の子である、ということは、彼は天地創造の前から存在していた神であり、万物を創造した創造者である、ということを意味する。そして、彼自身が証言した通り、キリストは私たちの命の与え主だということが明らかになるのだ。(コロサイ1:15-16、ヨハネ11:25)
最初の到来の預言が文字通り成就したということは、再来に関わる預言の内容も、将来文字通りに成就する、と私たちは信じることができる。聖書によれば、キリストが再臨(再来の意味)する時、彼は栄光ある王の姿で到来し、地上に永遠の平和と正義をもたらすと預言されている。彼に信頼を置く人は、この世界の未来に、確かな希望を見ることができるのだ。(イザヤ9:6-7)
キリストの十字架の死は、確かに人類の罪の身代わりとなった
「彼(救い主)が自分を、とがの供え物(罪の身代わり)となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える」(イザヤ53:10)
イエスが誕生する700年以上前に記されたこのイザヤ書の預言によれば、救い主が、自分を罪の身代わりとして捧げる時に、「その命を長くする」とある。つまり、イエスの十字架の死が、人類の罪の贖い(罪の身代わりのこと)として成功することが、彼が復活をするための前提条件だったのだ。
キリストは、信じる人々の罪の赦しが与えられるために、罪の無い神の子羊として、ユダヤの過ぎ越しの祭の時に、「木にかけられる」という呪われた方法で死ぬ必要があったのだ。それは、私たちが持っている罪の呪いを、身代わりとして受けるためだった。(ヨハネ1:29、ガラテア3:13)
そして、彼は聖書で預言されている通りの方法で死に、葬られ、三日後に復活を遂げることによって、その死が私たちの罪を取り去る贖いとなったことを公に証明したのだ。今、彼を信じる全ての人々には、罪の赦しと永遠の命が与えられている。
キリストは今も生きていて、私たちと共にいる。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
この言葉は、復活後のイエスが、弟子たちに向けて語った言葉だ。イエスが死んだ後、朽ちることのない体で復活したということは、今も生きているということを意味する。それは、今も私たちと共にいて、私たちを助けることができる、ということだ。
歴史上の他のどんな偉大な指導者も、この言葉を真実をもって語ることはできなかった。ユダヤ教の創始者モーセも、仏教の釈迦も、イスラム教のムハンマドも、他のどんな偉人も、未だに墓に眠ったままであり、生きていて私たちと共にいることはできない。しかし、イエスは復活し、その墓は空であり、私たちと共にいるのだ。
実際に、イエスは今日でも、夢や幻・臨死体験、目に見える形での顕現などを通し、世界中で展開されるクリスチャンの伝道活動を、先頭に立って導いている。例えば、未伝民族伝道の専門誌「ミッション・フロンティアーズ」(英語)によれば、米フラー神学校の世界宣教学部(現・異文化研究学部)が、イスラム教の背景を持つキリスト教徒600人を対象に大規模なアンケート調査を実施したところ、実に「25パーセント以上」が、夢や幻を見たことで改宗に導かれたと回答したのだ。
アフリカでの伝道に生涯を捧げた偉大な伝道師、ディビッド・リビングストンという人がいる。彼が英国のグラスゴー大学で学生たちを前に講演したとき、その体にはアフリカでの苦闘の跡が、ありありと残っていた。30回近くかかった重い病気のために体はやつれ果て、ライオンによって押し砕かれた左腕は、だらりとたれ下がっていたが、彼が語った言葉は、次のようなものだった。
「土人たちには言葉も通じず、彼らの私に対する態度は不安定で、しばしば敵対的でした。しかし、そういう中にあって過ごした間、ずっと私をささえていたものは何であったか、みなさんはそれをお知りになりたいですか。それは、『見よ。わたし(キリスト)は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます』というみ言葉でした。私はこのみ言葉に、すべてをかけたのです。そして決して裏切られたことがありませんでした」
キリストを信じる者も、彼と同じように復活し永遠の命を得る
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11:25-26)
キリストが本当に復活したのであれば、彼の言葉は真実だったことが証明される。そして、彼が真実なのであれば、彼を見て信じる者も同じように、やがて死者の中から復活し、永遠の命を得ることになるのだ。
キリストの復活は、霊的な復活ではなく、文字通りの肉体的な復活だった。もしも霊的な復活だったのであれば、彼の死んだ肉体は、墓の中にそのまま残っていたことだろう。また、復活したイエスが現れた時、最初弟子たちは、死者の霊を見ていると思ったが、イエスは、自分が肉や骨を持っており、肉体的に復活したのだということを明らかにした。
36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(ルカ24:36-39)
とはいえ、復活した彼の体は以前の体とは異なる。聖書はそれを、「朽ちない、栄光の体」と表現している。そして、キリストがそのような体で復活したということは、彼を信じる者たちも、終わりの日に、それと同じような栄光ある姿で復活することを意味しているのだ。
「42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。」(第一コリント15:42-44)
キリストの復活―あなたの人生の選択
「私にとってこの証拠は決定的である。最高裁の裁判官として、これまで入念に証拠を調べ判決を下してきたが、これほどまでに圧倒的な証拠を今までに見たことが無い。弁護士としても、私は福音書の証拠を文句無しに受け入れることができる。証言者は信用できる人物であり、その人物像からも、証言内容の確かさが立証される」
上記は、英国最高裁の裁判官、エドワード・クラーク氏の証言だ。彼は、裁判官の視点に立ち、キリストの復活に関する証拠を調査した上で、キリストの復活が確かであるとの結論に達した。
あなたはどうだろうか?これまでに読んできた証拠を吟味した上で、キリストの復活の事実について、どんな判決を下すだろうか?もしキリストの復活が事実で無いなら、彼は今も死んで眠っていることになり、彼にあなたを復活させ、永遠の命を与える力は無い。実際彼は、人類史上最大のペテン師だということになるだろう。
しかし、もしもキリストの復活が事実なのであれば、彼は今も生きていて、あなたに復活と永遠の命を与えることができる。それはつまり、イエスに対する信仰が、あなたの永遠の運命を左右する、ということを意味するのだ。
信じるか、信じないか、選ぶのはあなた自身だ。
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聖書を読む方法
キリストの復活に関する本記事の内容をちゃんと理解するためには、実際に聖書を読んでみることが不可欠だ。聖書を読む方法については、「聖書は本当に神の言葉なのか?」にて、案内を載せている。
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