16. 明日のことまで思い悩むな―神の国とその義を第一に|山上の説教の解説
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「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:25-34)
マタイ6章全体の教えの中心は、「神を第一に信頼して生きること」ことだ。それは、自己を中心とせず、神を中心とする生き方を表している。そして、今回取り上げる「思い悩むこと」を警告した25~34節は、6章で語られた教えの総仕上げとなることが語られている。
前回の「神の奴隷と富の奴隷」では、私たちが神と富との両方に奴隷として仕えることができないことが明らかにされ、富ではなく神に仕えるように勧められた。
続けてイエスは、「~だから、わたしはあなた方に言います」という言葉で、次の教えを語り始めた。それは、思い煩いに関するこの教えが、前回の教えの内容をベースに、神の奴隷として生きる人々に語られたものであることを示している。
イエスが用いたラビ的教授法―大と小の対比
「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」
イエスはこの教えの中で、当時のユダヤ教の教師たちがよく用いていたラビ的教授法を用いている(ラビとは、ユダヤ教の教師の呼称)。それは、大と小を対比して、大に関して真理だと言えるなら、小に関しても同じことが言える、という論法だ。(小が真理なら、大もまた真理、という逆の論法も用いられる)
ここで引用した節では、「大」とは、人間の命や体のことを意味し、「小」とは食べ物、飲み物、着るものを意味している。
食べ物や飲み物で心配するな
「26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」
鳥は人間とは違い、種蒔きも刈入れもしないが、自然界の恵みを通して、神に養われている。しかし、神を信頼して生きる人間は、空の鳥に比べて、神にとって遥かに価値の高い存在だ。なぜなら、人は被造世界の中で最高の神の作品であり、人間だけが「神の似姿」に造られているからだ。(創世記1:27)
だから、神が鳥(小)のような小さな存在にさえ、日々の食べ物を供給しているなら、ましてそれよりも遥かに尊い存在(大)である人間に、日々の糧が与えられないことはずはない。
私たちが日々の糧のことを心配するのは愚かなことなのだ。なぜなら、たとえ心配しても、自分の命を少しでも延ばすことさえできないからだ。
なお、鳥が種蒔きも刈入れもしないからといって、食物を得るために何もしていないわけではない。鳥たちでさえ、食料となる物や獲物を自分の目で見つけ、それを得るためにある程度働いている。しかし、彼らが日ごとにそのような糧を得て、自然界の恵みに与れるよう導いているのは神なのだ。
だから、神を信頼して生きる人々も、神が生活の糧を顧みてくれることを信じつつも、自分が果たすべき仕事は、責任を持って日々果たしていく必要がある。「人間にできることは人間に行わせ、神にしかできないことは神が果たす」これが、神が信仰者を導く時の大原則だ。
着物のことで心配するな
「28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
ここでは、ユリ(小)が、人の体(大)と対比されている。野のユリは、季節を過ぎれば簡単に散って、炉に投げ込まれてしまうような儚い存在だ。しかし、そのような植物でさえ、働くこともなく、神から美しい装いを与えられている。
そうであれば、それらのユリよりも遥かに尊く、永遠に神の栄光を表すことのできる人の体に、神が着るものを与えてくれないわけがない。
さらに、イスラエル史上、最も栄華を極め偉大な者となったソロモンでさえ、野のユリほどにも装ってはいなかったのに、それよりも小さい者である私たちが、着るもののことで思い煩うのは、なんと愚かなことだろう。
天の父は、私たちの必要物を知っている
「31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」
聖書における異邦人とは、ユダヤ人以外の全ての民族を指す。この時代、まだ多くの異邦人は、人の必要を顧みることのできる天の神を知らなかったので、「何を食べ、飲み、着るか?」ということで思い悩むことが多かった。
しかし、神は知るユダヤ人は、そうであってはならなかった。なぜなら、彼らが信頼する神は、人が生活で必要とするものを知っているからだ。
今日、聖書の教えが世界中に広まったおかげで、天の父を信頼して生きる異邦人の数は、当時よりも大きく増えた。とはいえ、依然としてこの世界の大多数の人々は「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」ということに思いを奪われている。私たちの生活の不安を根本的に取り除いてくれる、神の存在を知る人々がもっと増えるようにと祈りたい。
神の国とその義とをまず第一に求めなさい
「33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:33-34)
イエスのこの言葉をわかりやすく要約すると、「神への信頼を第一にした生き方をすれば、神に正しいと認められるだけでなく、生活の必要物も備えられる。だから、明日の心配は不要だ」ということになる。そして、この教えは、マタイ6章全体の教えの結論となっており、極めて重要な意味を持っている。
イエスはここで、神を中心にした生き方のことを、「神の国」と「その国の義」を求めることと表現している。神の国とは、神が王として支配する国・領域を意味する。
当時のユダヤ人にとって、「神の国」の第一義的な意味とは、メシア(キリスト)が王として地上を治める千年王国を指している。ユダヤ人がキリストを退けたことで、その到来は延期されたが、今はまさに、その王国の到来が現実的に近い時代となっている。
人類の歴史は、最終的に天と地で完全に実現する神の国に向かって進んでおり、教会や個々の信者は、その計画の進展に沿って、常に地上で働き続けている。このように、神の御心に沿って生きることを生活の第一にすることが、神の国を求めることなのだ。
「神の国の義を第一にする」とは、神への信頼から、神の教えに沿って生きることを第一とすることを意味する。イエスの時代以降、全ての人間にとって最も重要な神の義とは、「イエス・キリストを救い主として信じる」ことであり、その信頼から、キリストが与えた愛の律法に沿って生きることである。
このように、天の鳥や野のユリを養っている神が、それよりも遥かに優れた、神の御心に沿って生きる人たちを、日ごとの糧によって養わないはずはない。だから、明日の生活の心配をすることは無用だ。日ごとに神を信頼し、自分に与えられた仕事を果たすことに思いを集中しよう。他に必要なことは、天の父ご自身が、あなたに備えてくれるだろう。
当サイト管理人の経験―会社の理念
当サイトの管理人は、職場において、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」というイエスのこの教えを、会社の理念としている。
会社の事業は、輸入品の販売を行う物販事業だが、ビジネスを進めるにあたり、特に挑戦を受けることが多いのが、「神の義を第一に」の部分だろう。
多くの同業者が、より多くの利益を出すために、違法な方法やルール違反となることに手を出している状況の中で、誘惑や圧力に負けず、正直に行動し続けるためには、神に対する本物の信仰が求められてくる。
しかし、今のビジネスを始めてから既に5年以上が経つが、幸いにもこれまで、毎年安定した売上を継続させることができてきている。
また、神の義に従っているという自覚によって、生活の心配から解放され、平安を得ているという点も忘れることはできない。
確かに天の父は、神を信頼して生きる人々を祝福される方なのだ。
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