科学と信仰は矛盾するのか?聖書の奇跡や創造の疑問に答える。

科学と信仰は矛盾するのか?聖書の奇跡や創造の疑問に答える。

1. 宗教に科学を持ち出すべきではないのか?

そもそも宗教とは何なのか?

このような見方の妥当性を考えるにあたり、まずは信仰や宗教とは何なのか?という定義から確認していく必要がある。

学術用語としての宗教の定義は学者の数だけあるといわれ、統一した見解があるわけではない。しかし、この語の一般的な定義とは、次のようなものだ。

神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。古代から現代に至るまで、世界各地にさまざまな形態のものがみられる。」(デジタル大辞泉)

この定義からわかる通り、宗教とは、世界各地に存在する様々な超越的存在との営みの総称であるため、そこで定義される信仰の内容は、各宗教によって変わってくるのだ。

聖書に基づくキリスト教の信仰は、科学の分野も包容している

聖書の記録に基づくキリスト教の信仰の内容は、特定の国や地域や文化に限定される内容ではない。その信仰の内容は、神による万物の創造から始まり、人類史の始まりから、永遠の未来へのゴールまでを含む、大きな世界観なのだ。

聖書の記録や預言は、それらの出来事を実際にあった史実として、また必ず未来に起こる出来事として明確に伝えている。したがって、その教えは、科学だけでなく、他のあらゆる分野を包容する性質のものなのだ。

一方、神道や仏教的の信仰の内容は、あくまで特定の地域や文化だけに関わるものであるため、その信仰の性質は、キリスト教をはじめ、ユダヤ教やイスラムなどの唯一神の信仰とは、全く異なってくる。このような日本的・宗教的背景から、「宗教と科学は関係が無い」と定義してしまっている日本人も多いのだろう。

結論として、それぞれの宗教には、独自の信仰の形態があるため、「宗教とはこうあるべきだ」という定義を安易に作ることは、互いの宗教を理解する上で、隔たりとなるのだ。

2. 聖書にある超自然の奇跡は非科学的なのか?

イエス・キリストの復活は本当に起きたのか?

イエス・キリストの復活は最大の奇跡だった

非科学と未科学の違いを理解する

この手の批判は、大抵の場合、「科学」に対する誤った見方から来ている。

科学というのは常に完全ではなく、発展途上の学問だ。前の時代に証明できなかったことが、後の時代になってから証明され、実用されるケースは山ほどある。

例えば、今はスマホ片手にあらゆる作業ができる時代となったが、もしも2~300年前の時代の人間が、今の世界を目の当たりにしたら、超自然の現象が起きていると考えてもおかしくはない。

では、スマホ技術は、今の時代においては、「科学的」だが、昔の人間にとっては「非科学的」だったのだろうか?そうではない。それは、当時の技術において、まだ解明されていなかっただけであり、「非科学」ではなく、「未科学」の分野だったのだ。

今日でも奇跡は実際に起きている

聖書の記録だけでなく、今日においても、それが良いものであれ、悪いものであれ、奇跡などの霊的な現象は存在する。実際にこの記事を書いている私自身も、たくさんの超自然現象を見聞きした経験がある。

それらの現象は、今の科学では説明ができないが、将来的に解明される可能性もあるはずだ。だから、聖書に記録されている色々な超自然の現象についても、それは非科学的ではなく、「未科学」の分野なのだ。

最後に、聖書的な奇跡の体験を自ら豊富に持つ、Dr.アイコ・ホーマン博士の動画を紹介する。博士は、米国の国防総省で、40年に渡って脳や人口知能研究をしている第一線の科学者だ。科学と奇跡体験に何の矛盾も無いことが、よくわかるだろう。

人口知能の科学者 Dr. アイコ・ホーマン博士が驚いた聖書の奇跡

3. 創世記の人類創造や数百年の長寿などは非科学的か?

進化論 Evolution

聖書の創世記に記録されている内容で、よく非科学的だと批判されるものとして、最初に神が天地や人間を創造したこと、またノアの大洪水までの人間の寿命が数百年に及んでいたことなどが挙げられる。(他にも色々とある)

この手の記録に疑問を持つ方々に共通するのは、「進化論に基づく地球・人類の歴史の説明」が「証明された科学的事実」だと誤解していることだ。

そこで、本題に入る前にまず明らかにしておきたいのは、「進化論はあくまで仮説であって、証明された科学的真実ではない」ということだ。

異なる三つの科学―理論科学、実験科学、歴史科学(観察科学)

一言で科学と言っても、そこには作法の異なる三つの分野があることを、まずは理解する必要がある。そして今回は、「実験科学」と「観察科学(歴史科学)」について説明をしていく。

実験科学:実験を研究の主要な方法とする科学であり、推論を立てて、それを検証するために実験をし、その結果からさらに推論を立てて、再び実験をする、というプロセスを踏む。この方法では、推論と結論が実験で結びつき、憶測が入る余地が無い。人間が飛行機を飛ばしたり、携帯を使ったりすることができるのは、この実験科学による恩恵なのだ。

観察科学(歴史科学):考古学や地質学を含む、過去の歴史を扱う分野だが、実験科学とは異なる点は、再現する実験ができない、という大きな制約にぶつかることだ。つまり、進化は再現できないし、恐竜は生き返らないし、鉱物を何万年もかけて作るわけにもいかないので、必然的に、推論の上に推論を重ね、不確定な要素を積み上げていくことになる。

だから、この分野で行われるのは、実験による証明ではなく、「仮説の生き残り競争なのだ」。

ダーウィンの進化論はあくまで仮説

ダーウィンが考案した進化論とは、まさに歴史科学の分野であり、それは多くの不確実な推論の上に成り立っているのが現実だ。

例えば、有史以来の歴史において、ある種が大進化して、別の高度な種になったことを観察できたことは一度も無い。(大進化とは、ある種が全く別の高度な種へ進化すること)

だから、進化論では、生命の進化には、より膨大な時間がかかると考え、人類の歴史の誕生を、数十万年前に見積もるが、このような年代を算出する際に用いられる年代測定法も、実は確実なものではない。なぜなら、古代の地球環境を再現することができず、今と同じかどうかも、はっきりとわからないからだ。

また、実験科学の分野において明らかなことだが、地球上に存在する最も単純な生命でも、その構造はあまりにも複雑・かつ精密にできているため、宇宙規模においても、偶然にできる可能性は実質ゼロだということがわかっている。この点については、「進化論の限界~生命は創造されたのか?」で、もう少し詳しく解説している。

結論として、進化論は仮説であるため、その理論を元にした地球や人類史もまた仮説に過ぎない。したがって、仮説を基準に、聖書の創世記の記録を非科学的だと断定することは、全く不可能なのだ。

ちなみに、創世記の記録の証明は、歴史科学の分野なので、確実に証明することが基本的には難しい。ただし、それらの記録が非科学的ではなく、考慮に値することを示す科学的事実は、ある程度存在する。

興味のある方は、以下で紹介する動画を、一通りご覧いただくことをお勧めする。

 

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