3. 律法と預言者―旧約聖書を成就するキリスト|山上の垂訓の解説

ユダヤ教のトーラー、律法と預言者

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律法と預言者(マタイ5:17-20)

5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

ここでのイエスの言葉を理解するためには、当時の背景を理解しておく必要がある。まず、「律法と預言者」とは、旧約聖書全体を指している。

旧約聖書には、「モーセの律法」という法律が含まれており、その律法は、合わせて613の掟から成り立っている。この内365が禁止令、248が積極的命令である。当時のユダヤ教の宗教指導者(主にパリサイ派の教師たち)は、モーセの律法に加えて、その律法の精神を歪めて解釈した口伝律法を民衆に教えていた。そこでイエスは、この山上の垂訓の中で、モーセの律法の正しい解釈を弟子たちに教えるために、口伝律法を否定する多くの言葉を語った。

また旧約聖書には、たくさんの「預言書」が含まれている。預言書とは、旧約聖書が書かれた時代に、神ヤハウェからのメッセージを預かった預言者たちが、神の言葉を書き留めた書物の一群を指している。数多くの預言の中でも、ユダヤ人にとっても最も重要だった預言が、メシア(救い主)に関する預言だった。

紀元一世紀のユダヤでは、メシア待望の気運が高まっていた。彼らはメシアが到来したら、すぐに自分たちの民族を政治的に救ってくれると期待していたが、それは預言解釈の誤解だった。その結果、多くのユダヤ人は、イエスがそのメシアであることを見分けることができなかったのである。

パリサイ人の口伝律法を否定し、民衆の期待とは異なった生き方を貫いたイエスの姿は、当時のユダヤ人にとって、あたかも「律法や預言者を破棄するために来た者」として映ることもあっただろう。このような背景を考えれば、イエスがここで、「成就するために来た」と名言した、深い理由が伝わってくる。

天地が滅びうせない限り・・全部が成就されます。

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

旧約聖書は、主にヘブライ語で書かれた。ヘブライ語には、文字に点が含まれるかどうか、または、文字の端の形が丸いか角ばっているかでどうかだけで、言葉の意味が全く変わってくる場合がある。

このような言語的背景を考慮すると、イエスがいかに、旧約聖書の預言の権威を認めていたかがよくわかる。イエスは「天地が滅びうせない限り」、それらの預言は、文字の一点一角の細部に至るまでも、完全に成就する、と宣言した。預言が成就しないよりは、その前に天地・つまり万物が滅びる方が先だと名言したのだ。

聖書は二千ページ以上から成る分厚い本だが、その内のおおよそ四分の一は、預言で構成されている。そして、聖書預言の中で、要となるテーマは、メシア(救い主)に関する預言である。

メシア預言は、最初の到来(初臨)と、二回目の到来(再臨)の内容に分かれている。イエスは、自らの宣言通り、初臨に関するメシア預言を、その生涯において全て成就した。そうであれば、再臨に関する残りのメシア預言も、将来に全て成就すると、信じることができるだろう。

当サイトでは、メシア預言をクローズアップした記事を載せている。是非時間をとって、一度読んで見る事をお勧めする。

掟を破る人と守る人の違い

「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」

イエスは旧約聖書の権威を完全に肯定した。したがって、モーセの律法は、神によってユダヤ人に与えられた正統な掟であるために、それを従順に守るかどうかが、神が彼らを裁く際の絶対的な基準となる。神は公平な方であり、各人はその業に応じた報いを受けるのである。

ただし、神の側から見たモーセの律法の有効期間は、イエスの死までであり、それ以降の世界の人々(ユダヤ人を含む)には、キリストの律法が、裁きの根拠となってくる。

キリストの律法の内、最も重要なものは、神への愛と隣人への愛である。このような愛によって生きる人は、やがて神の支配する天の御国において、大きな報いを受けて、偉大な者と呼ばれることになるのである。

パリサイ人に勝る義

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」

おそらく、当時のユダヤ教の律法学者やパリサイ人たちほど、宗教的な掟を徹底的に守っていた人たちはいないかもしれない。戒律を守り行うことに関していえば、彼らは極めて徹底していたのである。

したがって、イエスが「あなた方の義が、パリサイ人に勝らなければ、天の御国には入れない」と明言した意図は、パリサイ人よりも更に徹底して律法を守らなければ、天国に入れない、という意味ではない。では、「パリサイ人に勝る義」とは何だろうか?それは、「信仰による義」のことを表している。つまり、外面的な行いの積み重ねではなく、神に対する心からの信頼が、人を救いへと導くのである。

当時のパリサイ人たちの多くは、口伝律法の掟を守り行うことに熱心ではあっても、いざメシアが到来した時に、自分たちの偽善が暴かれることに気を悪くし、傲慢になって彼を拒否する結果となった。(※全てのパリサイ人がそうだったわけではない)

一方で、社会的に蔑まれていたり、罪深い生活をしていた収税人や娼婦たちが、かえってイエスがメシアであることを信じ、先に神の御国に入っていったのである。(マタイ21:31-32)また、神を真に信頼していた人々も、同じようにメシアを受け入れることができた。イエスが云わんとしていることは、まさにこのことだったのである。

山上の垂訓全体で適用される原則は、神は外面の行為ではなく、心をご覧になる、ということである。私たちは、外面の行為ではなく、まず心の状態を清めなければならない。そして、決して傲慢な心を持って、頑固になってはいけないのである。謙遜な心を持っていれば、イエスの言葉を受け入れることができるだろう。

イエスを信じた犯罪人

イエスが十字架に架けられた時、両脇にも二人の犯罪人が同じ十字架刑で処刑されていた。その内の一人は、十字架上で、イエスに対してこのように語った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

この犯罪人は、十字架刑に値する大罪を犯した罪人であった。彼の生涯は、残すところ、十字架上で苦しむことくらいだった。それでも彼は、死の直前で、イエスに対する信仰を表し、救いに与るものとなった。つまり、この犯罪人の義は、パリサイ人の義に勝ったのである。

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